見出し画像

桜井美奈『復讐の準備が整いました』第7回

『シリウス学園』のドアの前に立ったリリは、見慣れた張り紙に笑いが零れた。

『18歳未満の方の夜八時以降の入店はお断りいたします』と書かれているからだ。

「噓ばっかり」

 客の多くは10代の、それも明らかに中学生や高校生とわかる女子たちだ。リリは早めに帰るが、それでも夜十時までいたことはある。最初に身分証明書の提示はしているから、アルコールを自分で飲むための注文はできないが、キャストに贈る形なら話は別だ。それが結局、自分の口に入ったとしても誰も止めない。

 ドアを開けると、今日はあまり客の姿はなかった。

「今大丈夫ですか?」

 見知った顔がリリに近づいてくる。シュウだ。

「何、遠慮してるの。久しぶりに来てくれて嬉しい。待ってたよ」

「本当に?」

「うん、別の人のところへ行っているかと思って、不安だったんだ」

 来なかったことを咎められることはない。そればかりか、来てくれて嬉しいと言ってくれる。

 それがセールストークだということはわかっていても、リリはホッとした。

「私のことなんか、忘れているかと思った」

「俺が? まさかあ。連絡だってしてたでしょ」

 それは、リリがメッセージを送っていたからだ。店に通い詰めて、高額なドリンクを入れて、どうにか相手にしてもらっているが、いつ応答がなくなるのかと思いながら、毎日祈るように連絡していた。

 ただ、リリの足が店から遠のくと、返信は遅くなっていき、最近では3日後くらいに、そっけないメッセージが送られてくるだけだった。

 それを読むと、もう店に来るのはやめようと思っていても、しばらくするとまた足が向かってしまう。

 リリがメンコン――メンズコンセプトカフェに来ることになったきっかけは、1年くらい前に同級生に誘われたからだった。

 ホストクラブと違い、リリと同世代の女の子が出入りしていることもあってか、ハードルは低かった。が、実態はホストクラブとさほど違わない。店によって異なるが、年齢制限のない場所もあり『シリウス学園』と名付けられた店もまた、10代の少女たちが多く出入りしていた。

 最初に店に訪れた前夜、リリは母親と喧嘩した。いや、喧嘩というには一方的で、高校受験もあるのに、リリが学校を休みがちなことに、母親がキレた。リリは中学受験を失敗している。今通っているところは、志望校の中で1番偏差値の低い学校だった。当然母親は、次は高校受験とばかりに、中学1年のころからリリを学習塾に通わせた。やる気のないリリにいくら鞭を打ったところで、親が期待するほど走れるわけではない。どう考えても無謀だろうと思うレベルの学校を志望校に据えられ、常に勉強しろと口うるさく言うようになっていた。父親も同じ考えだと言うが、そもそも単身赴任であまり顔を合わせることがないから、実際のところどうなのかはよくわからない。ただ、暴走する母親のストッパーになる存在ではなく、リリの息苦しさは変わらなかった。

 そのうち嫌気がさして、学校もさぼりがちになった。母親が仕事へ行っている間は、家に居場所があったからだ。やがて休みがちになった学校の代わりに足が向いたのがメンコンだったというわけだ。

 もっとも、一緒に行った同級生は思ったほどはまれなかったのか、2回目はしぶしぶで、3回目にはもう、リリ1人で行くようになった。怖さよりも楽しさが勝った。

「奥の席に座って待ってて。いつものでいい?」

 シュウの問いに、リリはうなずいて指定された席へ行く。

 注文するドリンクはいつも同じだ。初めて店を訪れたときから、最初に頼むドリンクは同じで、ガムシロップもミルクも入れない、ストレートティーだ。でも本当は、特別アイスティーが好きなわけではない。メニューの中で1番好きなのはリンゴジュースだし、その次に好きなのはオレンジジュースだ。

 だけどジュースは子どもっぽいような気がして、最初にアイスティーを頼んだら、ずっとそれが出てくるようになった。コーヒーは苦くて、ミルクと砂糖を山のように入れないと飲めないから、頼まなかった。それでは大人っぽくないと思っていた。

「お待たせしました」

『学園』をコンセプトにしているものの、もともとはバーを経営していた店をそのまま使っているのだろう。入り口の近くにはカウンターがあり、あとはいくつかのテーブル席とソファが置いてあるだけだ。ただ、店の1番奥に『生徒会室』と札がかかったスペースがある。そこだけは衝立で仕切られていて、席は隠れている。個室ではないが、2人きりの空間にいるような気分になれる。

 初回から座れる席ではない。何度目かの『お得意様』だけが入れるスペースに案内されたことで、まだ自分が少しは特別なのだと思えた。

 リリの向かいに座ったシュウは、写真と同じ笑顔を見せた。

「忙しかった?」

「んー、まあね。でも、シュウの方が忙しいでしょ」

 暗に連絡の返事が遅いことをにじませると、シュウは「リリの負担を減らしたくてさ」と言った。

「俺が会いたいって言ったら、リリ無理するでしょ。負担になりたくないから」

 シュウは目を細めて、優しいまなざしをリリに向ける。口角の上がり方が、静止画のように完璧に左右対称だ。自分が1番格好よく見える角度を知っていて顔を作っているのだろう。一緒に来た友達は「どうせ、見かけだけじゃない」と言っていたが、シュウは大学もかなり名の知れたところに通っている。ルックスも学歴も、リリよりはるかに上を行くシュウに優しくされると、自分が認められたような気分になった。

「ありがと」

 もっとも、それがどこまでが本当で噓か――いや、この空間にいる間は本当であっても、1歩外へ出れば、なんの保証もない言葉だということは、リリだって知っている。それでもここへ来てしまうのは、心地よさが忘れられないからだ。

 裏のなさそうな笑みを浮かべたシュウが、リリと肩が触れ合うくらいに距離を詰めた。

「俺、先月トップになったんだよ」

「凄い! おめでとう」

「リリが来てくれなかったから、不安だったんだけどね」

 店での売り上げは、客がいくらシュウにお金を使ったかで決まる。一緒に写真を撮るのに1枚1000円。それで売り上げのランクが決まってくる。もちろん、ドリンク――ボトルを入れても、売り上げに直結する。

 初めて推しにしたのは、シュウだった。2度目に来店したときに決めた。

 中性的な顔立ちが多いキャストの中で、少しエラの張った輪郭に切れ長の目元のシュウは、自分の顔にコンプレックスを抱いていたようだった。それでも頭の良さと話術もあって、店内で15名はいたキャストの中で、上位にランクされていて、リリがどっぷりとはまるのに時間はかからなかった。リリの寂しさを見抜いて、うまく手のひらの上で転がしていた――ということは、あとになって気づいた。

 リリは頻繁に店を訪れ、かなりの額をシュウに使った。最初のころは自分の貯金から。比較的裕福な親族が多かったため、お年玉だけでもかなりの金額をもらっていたこともあって、中学生にしては高額な貯金を持っていた。

 だがその金は、恐ろしい速さで消えた。できるだけ会いたい。会ったときには優しくして欲しい。それも、他の人よりももっと、特別に扱って欲しい。その気持ちは、金銭でしか表すことができない場所だからだ。

 金が尽きても、中学生のリリはバイトができなかった。それに、通常の仕事で稼げる金額などたかが知れている。できるだけ短時間で多額の金を手にするには――。

 食事をするだけでお金をくれる人もいる。身体を売れば手っ取り早く高額な金を手にできる。でもリリは、それだけはしたくなかった。それは、同じ場所にいながら、どこかで彼女らを見下していたのかもしれない。自分は違う、と。

 とはいえ、1人になる寂しさにあらがえなかった。

 自分勝手だとわかりつつ、リリは別の方法で金を得ることにした。罪悪感は抱いたが、どちらも犯罪なら、自分が傷つかないほうがいいと思った。

 だけど、何度か危うい思いをしたこともあり、おのずと店から足が遠のいた。

 リリが来ない間に太客が付いたことは聞いていたから驚きはしなかったが、胸がチクチクと痛んだ。自分以外の人間に、シュウが傾いていくのを実感したからだ。

「そっか……良かったね」

 でも、それを嫌がる資格などない。

 それにリリは、ここへ来るのを、もうやめよう、これで最後にしようと思っているから、次への約束はできなかった。

 シュウの指が、リリの毛先に触れた。

「今日も可愛いね」

「いつもと同じだけど」

「だから、いつも可愛いって言ってんの」

「それ、みんなに言ってるでしょ」

「本心だよ」

 否定しないことに、シュウの誠実さが表れているのかもしれない。でも、そうとわかっていても嬉しくなってしまう。

「最近、親とはどう?」

「んー、相変わらず。いつも通り、学校へ行け、勉強しろ、私の顔を見るとそれしか言わない」

 シュウには、最初のころに、親とうまくいっていないことを話していた。

「大変だね」「頑張っているよ」「そのままでいいんだよ」

 リリが欲しい言葉を、シュウはくれる。今となっては、その言葉を得るためにお金を使っていたとわかるが、最初のころは自分のすべてを理解してくれる、となぜか思っていた。

 今はそうでないことを頭で理解しつつも、心が言葉を求めている。それをくれるのが、お金のためだと知っていても。

「リリはきっと、これから自分の夢とか見つかると思うよ。で、それが見つかれば夢中になれるはずだよ」

「そうかなあ……」

「そうそう。あ、画家とかどう? 前に、俺の似顔絵描いてくれたでしょ。あれ、すごく上手だったじゃない」

「あんなの、落書きだよ」

「そんなことないよ。本当に上手だった。俺の部屋に飾ってあるよ」

「まさかあ」

「本当だって」

「じゃあ、今度その飾ってあるところの写真を送って」

「いいよ」

 当然のように了承するが、こういったやり取りをしたとき、シュウが写真を送ってくれたことは1度もなかった。訊ねたら「忘れてた。今、手が離せないからあとでね」とはぐらかされることを知っている。

 シュウが「あっ」と声を漏らした。

「そう言えばさ、この前このお店に、漫画家が取材に来たよ」

「へえ……」

 シュウが口にした漫画家の名前は、聞いたことがなかった。検索すると、すぐに書影が出てきたから、本物らしい。

「お客さんの情報、私に教えて大丈夫なの?」

「構わないよ。ここに来る女の子たちにも取材してて、知っている人は結構いるから。コンカフェを舞台に漫画を描くんだって。俺も登場させてくれないかな」

「そしたら、絶対読むよ。いつ読めるの?」

 リリが前のめりで訊ねると、シュウはもう、その話題には興味を失ったのか、さあ? と軽く肩をすくめた。

「えー、もっと教えてよ」

「何、俺より漫画のことが気になるわけ?」

「そうじゃないけど、プロがシュウを描いたらどんな感じか見たいから」

 リリが描いたのは本当に落書きだ。シュウは褒めてくれたが、その8割はお世辞だということくらいわかっている。

「プロと言っても、似顔絵じゃないから、雰囲気変わるでしょ。漫画のことはわかったら連絡するよ。そんなことよりさ……」

 シュウが衝立の向こうを気にするようにしながらも、リリの肩を抱いた。

「写真撮る?」

 シュウは片手を伸ばして画面に収まるように、スマホの角度を調節している。

「突然どうしたの? スマホはダメでしょ」

「だから、リリだけ」

 インスタント写真は1枚1000円だ。だけど、スマホでの撮影は禁止になっている。最初のころに頼んだことはあったが、何度お願いしても、首を縦には振ってもらえなかった。

「最近、来てくれなくて寂しかったからさ。こうすれば離れている間も見返すことができるから。特別だよ」

「特別」という言葉はどんなスイーツよりも甘く、どんな強いアルコールよりもリリを酔わせてくれる。

 笑顔を作ると、シュウはシャッターを切った。

「送ってくれる?」

「うん、あとでね」

 写真を送ることなど、スマホを少し操作するだけで、すぐに終わる作業だ。でもそれも「あとで」だ。

 ああそうか、とリリは思った。これはもっとシュウにお金を使わないと、送ってくれないということだ。

 さっき薬が売れたから、今は少しだけ懐に余裕がある。だけどシュウを満足させるほどの額ではない。その気になれば、一瞬で消えてしまう。どうしようかと悩んでいると、シュウがメニューを手にした。

「悪いけど、少ししたら席を外すと思うよ」

「え?」

「ごめんね。リリ次第では、またすぐに戻ってくるけど」

「まったくもう」

 リリはシュウの手からメニューを奪った。シュウは高額なドリンクを注文しろと言っているのだ。

「飲もうか」

 メニュー表の中で、1番高いものは払えない。だけど、持っているお金をすべて使えば、頼めるドリンクもある。

「えー、悪いよ。無理しないで」

「でもこれで、もう少し一緒にいられるでしょ?」

「あーもう。リリってば可愛いなあ。大好きだよ」

 手を握られれば、まあいいか、と思ってしまう。噓ばかりの時間を買っているとわかっていても、この瞬間だけは、忘れることができた。

※ 次回は、2/13(木)更新予定です。

見出し画像デザイン 高原真吾(TAAP)