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【桐野夏生著『砂に埋もれる犬』文庫解説】
虐待と貧困の連鎖から逃れた少年の感情と心理と向き合い、社会に蔓延するバイアスを圧倒的リアリズムで打ち砕いた傑作長編、桐野夏生さんによる『砂に埋もれる犬』が文庫化されました。子供の虐待死はなぜ起こるのか? 私たちは彼らの苦しみとどのように出会えばよいのか? 『ルポ 虐待』『児童虐待から考える』の著者で、ルポライターの杉山春さんによる文庫解説を特別掲載します。
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解説
二〇一〇年前後、家を持たないシングルマザーが子どもを連れて男性の元を転々とした挙句、子どもを亡くすという事件が続発した。リーマンショック後のこの時期、シングルマザーと子どもの貧困が表面化。国と行政は、居所不明の子どもを探すよう通達を出し、死後数年経って子どもが見つかり、親が逮捕されるといったことも起きた。
拙著『ルポ 虐待』(ちくま新書)もまた、こうした事件の一つを扱った。二〇一〇年に大阪市西区の風俗店の寮のマンションで三歳の女児と一歳の男児が亡くなった。二十三歳の母親は離婚後、公的支援を受けず、元夫からの養育費の支払いも受けないまま、男性の元を転々として、五十日間にわたって子どもたちを放置した。その間、彼女はSNSで友人たちに向けて、自分には素敵な恋人がいて、楽しい日常を送っているとアピールを続けた。メディアはその内容を信じ、この女性を激しく責めた。一方、弁護士側は彼女が解離性障害に罹患していたと主張。解離性障害は非常に苦しい精神的体験で発症する。この女性のように、幼い時にネグレクトや虐待を受けた者は、自分の身を守れず、成長の過程で繰り返し暴力を受け続ける。この女性は、中学時代には非常に重い性暴力を体験した。彼女は中学時代から解離性障害の症状を見せていたが治療を受けていなかったのだ。この母親は最高裁まで争い、いま三十年の刑に服している。
本書の亜紀の姿は、大阪事件の母親と重なる。
亜紀は一年半ほど前、子育てに疑問をもった児童相談所による行政指導から逃げるため、北斗のアパートに転がり込んだ。彼女は児童相談所に従って支援を受け、生活保護を受給し、保育制度を使い、穏やかに子育てをすることもできたはずだ。だが、公的な支援を拒み、自分(と子どもたち)を受け入れる男性に付き従って生きることを選んだ。それはなぜか。
大阪市西区の事件の母親も、亜紀も、公的支援に頼ることができない。なぜならそれは、自分がダメな母親だと認めることになるからだ。それは恥辱につながる。自分が所属する社会や共同体からぎりぎり落ちこぼれそうになっている者は、しばしば自分の窮状を認めることができない。虐待にしろ、DVにしろ、加害者は社会から落ちこぼれることを過度に恐れている。そこには、自分は実はこの社会の評価には適合しない、ダメな存在だという思いが根幹にある。だからこそ他人に弱みを見せられない。
ぎりぎりの状況にあるものは、逆に少しでも劣った存在を見つけると、侮蔑することで自分を安心させる。他者を評価することで、一瞬でも自身が上位に立てるからだ。例えば亜紀は、北斗がラウンドワンで話をしていた女性たちが風俗嬢であることを「どんなに金に困っても、(自分は:引用者注)風俗嬢はしていない」と馬鹿にする。いまネット上で、他者への糾弾が横行するのも、そんなメカニズムが背景にはありそうだ。DV家庭の中には、他者への侮蔑的評価が渦巻いている。
現代社会における貧困とは、自前の価値規範をもちにくいということだ。常に他者から眼差され、評価される。他者から一方的に評価を受けるということは、暴力に曝され続けるということに等しい。
さらに、他者からの公的評価を得るため、あるいは、自分がいかに正当であるかを示すために、メジャーな価値規範に合うように現実を捻じ曲げ、あるべき状況を作り出そうとする。自分の支配下にいる者を思い通りに動かそうとすればDVや児童虐待という暴力になる。不都合な記憶を自分とは切り離し思い出さないように封じ込めれば解離性障害に至る。
かつて、一億総中流と言われる時代があった。性的役割分業が当たり前で、男性たちは働き、女性たちは子育てと家事を担った。男性で生涯結婚しないものは一から二パーセント。多くの女性は男性に所属することで生きた。国民の福祉は企業が国家とともに担った。だが、社会構造は大きく変わった。非正規就労が当たり前となり、男性の四分の一以上が生涯結婚しない現代において、女たちはもはや男性への所属だけで生き延びることは難しい。
はっきりしていることは、子育てには資源が必要だということだ。英国の都市人類学者サンドラ・ウォルマンは、家庭を「資源システム」と捉えた。資本(お金)と土地(住宅)、労働力(人手・社会サービス)がなければ子育てはできない。さらに、この基本的な資源(構造的資源)を回していくためには、時間、情報、アイデンティティという編成的資源が必要になる。
社会の階層化が進む現代、困窮する人たちは、構造的資源だけでなく、編成的資源もまた乏しい。 亜紀自身も、金が乏しく家がないにもかかわらず、社会的資源(保育園や児童相談所)を使うことができない。それは自分で時間をコントロールすることができず、情報を得る力がないからだ。さらには自分がその資源を使う価値ある存在だという、アイデンティティさえもてないでいる。
男性は仕事があってこそ価値がある。女性は子どもを産んでこそ価値がある。子どもが生まれれば誰でも子育てはできるもの。そんな価値規範はいまなお強固だ。
桐野夏生さんは、ルポルタージュのような詳細な取材と明確な視点を土台に、リアルに現代社会の貧困を描いてきた。本書でも、一時保護所の内部の描写や児童相談所の職員の佇まい、コンビニのバックヤードの様子など、違和感なくその世界に入り込める。同時に、私たちが暮らす社会の歴史的枠組も正確に示される。
『砂に埋もれる犬』は大きく二つの部分に分かれている。前半では、すでに述べたように、三十二歳の母親の亜紀が、十二歳の優真と四歳の篤人という二人の子どもを連れて、男性の元を転々とする姿が描かれる。後半はそのように育った優真が、母親から暴力を振るわれて反撃し、男に殴られ、児童相談所から養護施設を経て、コンビニの店主夫妻の家で養育されることになる。現代の困窮下で育った者が、どのように格差社会と出会うかという物語だ。
一般社会で生き始めた優真は、だが、新しい環境に馴染むことができない。スマホさえ手に入れれば、クラスメイトの仲間に入れると思っていたがそうではなかった。他者との関係の作り方がわからないのだ。なにしろ、クリスマスのケーキも、大晦日や正月に親族が集まり、初詣に出かけることも知らない。階級差は文化資本の差に歴然と現れる。
優真が憧れるクラスメイト、花梨の一族は、たくさんの資源を持つ上位階層に所属する。経済力があり、土地があり、親族同士のつながりがある。その母親は情報を得る力も、子どものために様々な準備をする時間もある。もちろん花梨は、この地域の名士の孫であることに由来するアイデンティティもある。
学校の教室では子どもたちが独自の文化をもっている。優真は同年代の子どもたちと言葉を交わす方法を知らない。一方、同級生たちは、優真が体験してきた痛みを知らない。子ども同士、見知らぬ他者を受け入れる方法を知らない。教師は異なる階層の子どもたち同士を出会わせる方法を知らない。まるで異文化体験だ。
その苦しみについて、本書は丁寧に描く。
成育過程でジェンダー差別を身につけた優真には、女性たちの自由が許し難い。
「花梨がLINEのアドレスを教えるのを断った時、優真は自分でも驚くほど、衝撃を受けていた。/心のどこかで、花梨は自分の思うようになる、と思い込んでいた。/その確信が、どこからくるのかはわからない。でも、ピンクのソックスを盗んだ時から、花梨のことをよく知っているのは自分だけだ、という根拠のない自信が生まれていたのは確かだった」「そのうち、女なんかに舐められたのか、と悔しさが募ってゆく」「花梨にしても、洋子にしても、自分の思うようにならない内面を持つ女がいることが驚きでもあり、不快でもあった」
人には、もともと価値のある者とない者がいる。そうした認知は、被害者としても加害者としても優真を深く傷つける。だが優真は、パワーでつながる以外の、人とのつながり方を知らない。これは、DV男性たちの感性そのものだ。彼らは「女」というレッテルを貼った対象者にパワーによってつながる。相手は自分の思い通りになるはずだと考える。お互いを上か下かでしか見ることができない。パワーとは所有することだ。彼らは他者の中に自分の知らないストーリーがあることを知らない。
格差のなかに生まれる暴力的価値規範で人を見ているかぎり、一人の人間同士として出会うことができない。
養父になった目加田は、既存の社会規範を優真に伝え、懸命に躾けようとする。例えば風呂の入り方を教える。だが、優真は風呂の入り方を教えてもらっている時、おまえは不潔だと断じられたようで、恥ずかしいと感じている。「正しさ」を教えることは正義に思えるが、相手の背景を知らない正義は時に暴力になる。
当初、優真は目加田の助言に従順に従おうとした。だが、やがて従いきれなくなる。優真が育ってきた環境には、そうした立ち居振る舞いを生み出す文化がない。「主体」がないまま「規範」をなぞるだけでは、やがて息苦しくなる。
こうしたことは、実際の虐待死事件の親たちにも起きている。私は六件の虐待死事件を取材したが、どの親も過剰適応と言えるほど、社会が求める価値規範に従順に精一杯子育てをしていた時期がある。だが、それが破綻した時、そこから虐待死に向かう行動が始まる。困窮する者たち、差別を受ける者たちは、メジャーの文化の中では主体性を獲得できない。過剰に適応し、やがて絶望する。そのことが暴力へとつながっていく。
暴力の本質は、被害者を加害者の価値規範に塗り固めることだと言ってもいい。周囲の者から見れば、不快と感じる当事者の振る舞いには事情がある。だが、メジャーの価値規範を生きる者は、その社会に合わないものの苦痛に理解が及ばない。メジャーの文化を生きる者には、排除され蔑まれる者の痛みはわからない。
ところで、目加田の妻はパワーによるつながり方とは異なる関係性の作り方を知っている者として描かれる。
洋子は、仮死状態で生まれてきて重度脳性麻痺となった娘の恵を育てた。四肢が麻痺して寝たきりで、自発運動は首を左右に振るのみ。一日に二、三回は、全身性の強直発作を起こすが、それでも両親を認識し、近寄れば笑うような仕種をする。恵は二十歳で亡くなった。洋子は意思疎通のままならない娘が気持ちよく、喜びを持って生きるために、当事者をケアする自分たちの側が歩み寄り応答することを知っている。恵との体験を生きた洋子が優真に伝えようとするのは、規範によって命を捻じ曲げるのではなく、そこにある命を肯定する生き方だ。そのことが洋子自身の喜びでもある。
物語の終盤、目加田は児童相談所職員の淵上を自室のベッドに押し倒そうとした優真を殴りつける。優真は思う。
「都合が悪くなると、自分を殴って黙らせる。それは自分がまだ十三歳だから殴れるのだ。自分が二十歳だったら、怖くて殴れないくせに。大人は狡い。卑怯者め」
言葉を奪うこと。それが暴力だ。暴力は暴力を誘発する。優真は殴った目加田をナイフで刺すことを考える。
ホームセンターでナイフを購入しようとする時、優真は浮き浮きする。花梨を刺すことを夢想する時、やはり心が浮き浮きする。それは、自分にはパワーがあることを実感する時間だからだ。パワーを持たなければ優位には立てない。それが彼が学んだ真実だ。
ここに至って、メジャーの価値規範を生きることが苦しみでしかない優真の暴力が発動する。そして、身を挺して暴力を止められるのは、ケアを知る者だ。当事者との応答を知る者ともいえる。
「『優真、そんなことしちゃ駄目だよ』/洋子に抱き締められて、優真は脱力した」
優真のナイフで腕を怪我した洋子の血と優真の涙が混じる。
「『どうしたらいいのか、わからないよ』/ 優真が泣きながら問うと、目加田が首を横に振った。/『ごめん、お父さんもわからない』/ 目加田も泣いている」
父であることを引き受けた目加田は、もはや、規範を語らない。物語はここで止まる。
子どもの虐待死は、社会により弱者にさせられた者による暴力の発露がもたらすものだ。弱者は暴力を振るわなければ生き延びられないところまで追い詰められている。社会と弱者はどのように出会えば良いのか。私たちの社会はまだそれを知らない。