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鈴峯紅也『警視庁監察官Q ZERO2』第14回

27


 翌朝、微睡を切り裂くように、いつもの最後の目覚ましが鳴っていた。

 ということは、眠ったようだ。

 感覚としてはそれくらいで、頭は多少重かった。

 観月はゆっくり上体を起こした。

 快晴の朝だった。窓から差し込む陽射しが明るかった。眩しいほどだ。

 ということは――。

「うわ」

 掛け布団を跳ね飛ばし、スリッパを突っ掛けて階下へ走った。

 竹子の鍋底アラートは鳴り響いていたが、この朝ばかりは気にならなかった。

 慌てて起きて食堂へ走るのはいつものことだが、急ぐ目的はそれだけでななかった。

「竹婆。どう?」

 お早うの挨拶でも朝食のトレイを持つでもなく、観月がまず発した言葉はそれだった。

「寮長とお呼び」

 この場では答えず、竹子は鍋を提げて厨房に戻った。

「寮長。それで?」

 観月はカウンターの前に移動し、もう1度竹子に聞いた。

「大丈夫。ぐっすり眠って、今頃あんたと同じように朝飯を食べてる頃さね」

 大容量炊飯器からご飯茶碗に白米を盛り、竹子はこちらに向き直った。

「本当?」

「寮生に噓ついてどうするさね。あたしはあんたらの規範だよ。――ほれ」

 促され、観月はカウンターにトレイを置いた。

 竹子が湯気の立つご飯茶碗をその上に載せる。

「今朝の5時と7時に確認したさね。心配ないよ。あんたはあんたで、ほれ、しっかり食べて、しっかり今日の試験を終わらせる。いいね」

「うす」

 ユウミとルウの無事を確認すると、現金な物で腹の虫が鳴いた。白米の香りが呼び水になったようだ。

 いつもの朝食が、いつも以上に美味だった。お代わりをした。

 いつもなら鍋底アラートの後はたいがいお代わりは無しだが、この日は竹子は黙ってよそってくれた。

 こんなことならこれからも偶にさ、などと誰もいない食堂で軽口を叩き、早く食べて早く行けと厨房の竹子に叱られた。

 そんな朝だった。

 腹ごなしに軽くキャンパスまで走る。

 少し重かった頭も、食事と運動でほぼクリアになった。

 1限と2限の試験を〈完璧〉に終え、観月はその足で〈四海舗〉へ向かった。

 到着は午後1時半近くになった。

 飛び込むように店内へ入る。

 キャッシャー台の内側から、木彫りの置物が睨むようにこちらを見た。

「バタバタと騒がしいね」

「あ、松婆」

 わかっていて錯覚する。勘違いする。

 ある意味、松子の凄い特技だ。鴨下の隠形に匹敵するかもしれない。

「店長とお呼び」

「店長。2人は」

 竹子と同じようにすぐには答えず、松子はキャッシャー台の下から店内の売り場に出てきた。

「今日はいい天気だからね。奥で昼食を摂ってね。今は食後の甘味さね。あんたも」

 条頭とジャスミン茶でいいかい、という言葉を観月は背中で聞いた。

 身体は勝手に、通路から中庭に動いていた。

 古い木製の扉を押し開けると、午後の陽射しが弾けた。

 イートインスペースの中庭の、ど真ん中の円卓にユウミとルウはいた。差し向かいで座っていた。

 西陽がやや強い円卓の上には、条頭がふた皿と湯呑みとポットが載っていた。

 条頭の皿数が極端に少ないのは、たっぷり昼食を摂ったからだろう。それにしても1人ひと皿は少な過ぎる、と観月なら文句を言うところだが。

「あ」

 観月の姿に気付くと、2人は立ち上がって頭を下げた。

「いいから」

 観月は小走りに寄って、ルウの頬に手を当てた。

 前夜に聞いたとおり、まだ少し腫れているようだった。

「大丈夫?」

「うん。有難う」

「大変だったみたいだね」

 ルウは黙って首を横に振った。

 何かが観月の手に散った。

 涙のようだ。

 ルウは下を向き、肩を震わせた。

「頑張ったね」

 観月はルウの肩に手を置き、ゆっくりと座らせた。

 そのままルウの嗚咽が止むまで、観月は待った。

 松子が中庭に観月の条頭とジャスミン茶を持ってきて、置いて黙って去った。

「リーダー。あのさ」

 ユウミが小声で呼び、観月の脇を突いた。

「これって、リーダーの?」

「そうだよ」

「ふわぁ」

 円卓に追加した条頭が、ほんの15皿載っているだけなのに、ユウミは何を驚いているのだろう。

 ルウが顔を上げ、円卓の上を見た。

――ふふっ。

 涙の吐息、いや、理屈としては知っている。

 泣き笑いというやつか。

 よくはわからないが、笑えるならそれでいい。

「落ち着いた?」

 ルウは頷いた。

「話せる?」

 話します、ときっぱりとした声で言った。

 観月はルウの右隣に座り、松子が運んできた追加の条頭を口に入れた。

 苦しい話は急かすことなく聞くべきで、急かすかのように見るべきではない。

 これは会話のセオリーだ。

 条頭の甘さが体内に染み込み、観月の脳を活性化させる。

 ジュリ、平松、八坂、デーモン、JET企画。

 それがキーワードだった。

 聞けば簡単な話だ。

 簡単に嵌る話。

 だからこそ、簡単には逃れられない話だ。

 24の晩、ジュリを指名した客は平松と言った。その席のヘルプにルウが付いた。

 平松はビル持ちのボンボンで、八坂のJET企画に出資していると言ったようだ。

――僕はね、狂走連合の頃から八坂さんには良くしてもらってね。その後、八坂さんが立ち上げたデーモンって走り屋グループには最初から参加してさ。そっちでも随分、目を掛けてもらったんだ。

 その後、平松は話巧みに、ルウをJET企画に誘ったらしい。

――君くらい綺麗だったら、すぐにグラビアいけるんじゃない? 取り敢えずさ。宣材写真だけでも撮っておけばいい。僕から連絡しておくよ。面接パスの娘、見つけたって。ジュリちゃん。いい目してるよ。

――でしょ。だから私、平松さんに話したんだもん。ねえ、ルウちゃん。悪い話じゃないわよ。私も一緒に行ってあげるから。ふふっ。私も写真撮ってもらっててさ。来月にはグループでだけど、グアムでの撮影に参加だって言われて。宣材写真さえ撮っちゃえば、ルウちゃんもあっという間だよ。

 と、ジュリもずいぶん、後押しをしたようだ。

「それで昨日、ジュリと秋葉原に行ったの」

「秋葉原?」

「うん。JET企画。おっきなビルのワンフロアでさ。そこも平松さんの持ちビルだって。信用しちゃうよね。社長の八坂は留守でって言われたけど、なんか、カメラマン? フォトなんとかって名刺持った人が出てきてさ」

 本当に宣材写真、のような物は撮ったらしい。

 だが、そこまでだった。帰り支度をしてから、なんとなくインタビューのような話をしているうちに、ルウはいつの間にか気を失ったようだ。

 飲み物に睡眠薬が入っていたかもしれない、とルウは言った。

「気が付いたら夜だった。どっかの家だったみたい。モデルハウスみたいな。そこに、大勢の男の人がいた。ジュリもいた。みんなあたしを見てた。ジュリだけが顔を背けてた。そこからは――」

 ルウは身体を震わせた。寒いわけではないだろう。午後の陽射しは温かい。

「ルウちゃん。話したくなければ」

 いいよ、という前にルウは、「大丈夫」と観月の言葉を遮った。

 素人物の本番を撮りたい、とカメラマンは言ったようだ。一応の説明もされたらしい。

――素人物でも人気になれば、グラビアはあるよ。テレビもないわけじゃない。君次第だ。だからさ。いいよね。

 それから、別の男が前に出てきたという。

「最初は頭が茫っとしてよくわからなかったし、よくわからなかったからさ。その人が寄ってきて、いきなり胸に触って。がっついてる感じだった。それでさ。――凄い抵抗したんだと思う。泣き喚いてさ。引っ掻いたかも。そしたら、思いっ切り引っ叩かれた。でもさ。引っ叩いた人も別の人に殴られた」

 そのとき、ルウは口の端を切ったようだ。鼻血もしばらく止まらなかったらしい。

――馬鹿手前ぇ、商品に手ぇ出すんじゃねえっ。腫れたら撮れねえだろうがっ。

 なるほど、そういうことか。

 この日の撮影は延期となり、相当数の男は外に出て行ったようだ。残ったのは下っ端と、ジュリだった。勿論、縛ったら鬱血や跡が残るということで拘束されることこそなかったが、ルウに自由が与えられるわけもなかった。

「あたしはさ。これからどうなっちゃうんだろうって、怖くてさ。リビングでただじっとしてた。そのうちさ。気が付いたらさ」

 多分見張り番の下っ端とジュリが、ダイニングで酒を呑み始めたようだ。
 やけにジュリがハイテンションで、下っ端と楽しげだったらしい。

 2人で長い時間酒を呑んで、下っ端はベロベロに酔っ払って寝込んで、そうしたら――。

 ジュリがルウを逃がしてくれたという。

「ごめんねって言ってさ」

 ジュリこそ、ルウと同じような口車に乗って、すべてを撮られた後だった。

――女ぁ集めるのを手伝ってくれや。そしたら、お前ぇのは売らねえ。かえって給料やるよ。その代わり、逃げようとか垂れ込もうなんてしやがったらよ。

 無修正で流すぜ、と脅されたらしい。

――私みたいな娘が銀座にも六本木にもいるって。いつも見てっからよって。もう駄目だと思ったし、逆らえないって思ったんだけど。でも、ルウちゃんの涙を見たら、やっぱりダメ。私はさ。学校に行くお金が欲しかっただけで、それだけだからさ。

 なんでこんなことになっちゃったんだろ、とジュリは泣いた。泣きながら1万円をくれた、とルウは言った。

「ジュリは大丈夫なのって聞いたんだ。私がいなくなっちゃってさ。そしたら」

――私もこれから酔っ払うから。明日になって、怒られて殴られるのは向こうね。だから、今日は大丈夫。明日も大丈夫かな。その先はわかんないけど。

 それからジュリに急かされて外へ出て、タクシーを拾って、ユウミの家へ向かったようだ。自分の家に帰る気はなかったという。

「最初に履歴書みたいなの書かされて、免許証のコピー、取られてたから」

 ルウの話はここまでだった。また下を向いた。

 観月は腕を組んだ。

 条頭の15皿は食べ終えていた。

 任せて、とは簡単には口に出来ない事態だ。

 さて、どうしたら――。

 そのとき、観月の携帯が振動した。

 反射的に手に取り、通話にした。

――おい。どこで何やってんだよ。

 やけに溌溂とした声の真紀だった。

「えっ」

――えっ、じゃない。来ないなら置いてっちゃうわよ。

「えっと」

 置いてっちゃうわよ、という言葉を脳内記憶野でキーワード検索に掛ける。

 が――。

 普段の生活のちょっとした約束事や興味は、膨大な記憶の中に埋没する。

「なんだっけ?」

――なんだっけじゃない。J様とラストサロンの打ち合わせ。この日のためにあたしは生きてたんだ。行くよっ。

「おお」

 観月は立ち上がり、ルウとユウミを交互に見た。

「私がなんとかする。けど、しばらくは――」

 視線を店への扉の方へ移すと、松子がいた。

 頷いてくれた。

「ここにいて。ここなら大丈夫だから。ね」

 2人は顔を見合わせた。

――うん。

 揃った声を聞き、観月は動き出した。

 携帯を耳に当てる。

「行く。10分、いや、7分待って」

――あんた、なんかさ。前もそんなこと言ってなかったっけ?

 真紀の声は無視し、観月は〈四海舗〉を後にした。

28


 待ち合わせ場所の赤門の前には、腕組みで仁王立ちの真紀の他に、〈打ち合わせ枠〉の8人がいた。

 今回は4年生と3年生がそれぞれ4人ずつで、観月と真紀以外の2年生と、唯一の1年生の杉下穂乃果はいない。

 これが、今回のラッキーメンバーの総勢だった。

「来たね。じゃ、行くよ」

 観月の到着と同時に休む間もなく、一行は真紀の号令で動き始めた。

 目的地は、東京メトロ大江戸線の本郷3丁目駅近くの〈おしゃれ〉なカフェだ。

 観月などは滅多に使わないが、近付けばすぐにわかった。

 カフェの正面に開けたオープンテラスに、ゆったりと足を組んで小日向純也が存在した。

 それだけでカフェの看板より目立つから、さすがと言えばさすがだ。

 さすがの王子様だ。

「やあ」

 観月たち一行を見つけた純也が片手を挙げ、笑顔を向けた。

 それだけでこちらの何人かの口からは、生温い感嘆さえ漏れた。

 席を得てからの打ち合わせは、いつものことだが日時の擦り合わせが主で、難しいことはなかった。主に話をするのは観月で、他のメンバーはあまり口を挟まない。真紀でさえもが口数が少なくなる。

 純也とファン倶楽部女子の多くとの関係は、それが常態だ。

〈Jファン倶楽部〉の主な活動は月イチの呑み会を別にすれば年に2回のサロンだが、サロンの目的はと言えば、〈愛でる〉ことに等しい。

 J本人に近付けば近付くほど、ほとんどの会員が心ここに有らずになる。とても乙女だ。

 ただし、今回ばかりはいつもと少し勝手が違った。

 話の端緒だけはほぼ定型文句で、観月が条件反射のように口を開いたが、その後が続かなかった。

 別の意味で観月も心ここに有らずで、そうなると責任感の強い真紀の使命感が頭をもたげるようだ。

 打ち合わせの主導は真紀になった。

(どうすれば。どうすれば)

――うん。

――うん。

 何かを聞いて、何かを答えた気はするが、聞いて答えた何かはすべて観月の中に留まらなかった。

「ちょっと。返事くらいちゃんとしてくれない? 普段から表情じゃあんまり読めないんだからさ。わかりづらいにもほどがあるよ。聞いてんの? 聞いてないの?」

 真紀に咎められ、我に返る。

「えっと。――ごめん」

「はは。いいね。滅多にない珍しいものを見た感じだ」

 観月の真向かいの席で、純也が笑った。

「お前が深刻な、かどうかはわからないけど、集中出来ないってことは、また何か問題ごとに首を突っ込んでいるのかな?」

「それが、ですね。――はい」

 認めるしかなかった。

 一学生として観月に出来ることは、自他共に広範囲にして高いレベルにあると認めるところだが、逆に言えばたかだか一学生に出来ることなどはたとえ極大であっても、つまりは有限だ。

 どうにかと思いながら、思考は堂々巡りをするだけだった。

 手詰まり感は否めない。

「いいね。珍しく素直だ」

 純也は両手を広げた。

「じゃあご褒美に、僕が後で話を聞いてあげよう」

「えっ」

「その代わり、今はこっちの話を進めよう。明日も試験がある人もいるだろ。ほら、早川君なんか、もう目が吊り上がり掛かってるし」

 見ればたしかに、肩で息もしている。

「観月、進めるよ。あたしは、今日だってまだ5限に試験が残ってんだ。小日向先輩のお顔と香りの記憶を頭に叩き込んだら、駒場に帰るんだ」

「りょ、了解」

 それで少し、身が入った。真紀の語気に当てられてというより、純也のひと言が効いたようだ。

 聞いてくれるという言葉は、聞くという行為に留まらない。純也が聞いてくれるなら、何かの潮目が変わる気がした。

 観月がいつもの仕切りに回るが、それまでに真紀が進めてくれた話でほぼ打ち合わせは済んでいた。確認だけだ。

 ラストサロンの日時は、純也の希望で3月3日に決まった。一択だという。

「僕の知り合いのおじさんにね、ようやく子宝に恵まれそうな人がいてさ。生まれてくるのはもう少し先だけど、どうやら女の子と決めて、この桃の節句には、奥さんとお腹の赤ちゃんと一緒に雛祭りの祝いをするとか。この日、僕は是が非にも平穏無事にいなければならないんだ。だからスケジュールが空いていた。お前たちの宴会に付き合うくらいなら、向こうの雛祭りの妨げにはならないだろう」

 桃の節句は、観月たちも候補に考えていた中の第1希望だ。文句のあろうはずもない。

 他には会場選定もあったが、これは今回決まった日時に対して、OGの彼氏連中の資金力と大島楓の集金力に依って決まる、ということだけ確認して、決定は後日に譲る。

「では先輩。当日はよろしくお願いしますっ」

 すべてを終えると男前に頭を下げ、脱兎となって真紀が去った。

 同時に、数人かと思ったら観月以外の全員が去った。

 試験がそこまで大変なのか、と改めて思う。

「好都合かな。さて。じゃあ聞こうか。手短にね」

 純也にはそう言われたが、ひと言話せば十言になった。その後は止まらなかった。

 ジュリのこと、ルウのこと。姿の見えない玲のこと。

「ふうん。聞くだけでお腹一杯だけど、まずは喫緊の対処をしよう」

 純也は冷めたコーヒーを飲み、足を組み替えた。

「今日、僕に会えたことはお前の運だ。強運、幸運。さて、なんていうのかな」

「大安だから、ですかね」

「面白いね。――それはさておき、紹介しよう」

 純也は右手を上げ、遠くに向けて手招きするように振った。

 その指をそのまま鳴らし、店員を呼んでブレンドコーヒーを注文する。

 よくわからなかったが、しばらくするとコートを羽織ったスーツ姿の男性が現れた。

 背が高い男、というのが第一印象だった。純也よりも少し高いだろう。横幅もコートにみっしりとあって、全体的に穏やかに見えたが、目付きは普段市中に見ないほど鋭かった。

「なんでしょう。まだ顎で使われるのは早い気もしますが」

「そんなつもりはないですよ。ただ、ちょっと頼みたいことが出来たもので」

「頼み事ですか」

「闇に引き込まれそうな瀬戸際で、踏ん張ってる人がいる」

「ほう」

「聞いてくれます?」

「そうですね。それが本業ですから」

「だと思った」

 店員が来て、注文したコーヒーをテーブルに置く。

「このコーヒーは奢りです。いえ、報酬ってとこでどうです?」

「どっちにしろ贈賄になりますが。まあ、細かいことはいいとしましょうか」

 オーケー、と言って純也は観月に目を向けた。

「小田垣。紹介しよう。犬塚さんだ。警視庁公安部に所属している」

「えっ。警視庁の人ですか」

 意外だった。

 と思うが、考えればそうでもないかもしれない。純也の就職先は警察庁だ。

「そう。僕の身の回りの担当。いや、ガードかな。お供なんて言う人もいるけど。とにかく、信用出来る人だよ。それに優秀だ」

「お褒めに与り」

 犬塚と呼ばれた男性はおそらく、苦笑した。

「犬塚さん。こっちは小田垣観月。僕の可愛い後輩でして」

 純也の紹介を聞き、犬塚は観月に向けて丁寧に腰を折った。

「警視庁の犬塚です。よろしく」

 観月も慌てて立ち上がり、頭を下げる。

 座って、と立ったままの2人を促し、代わりに純也が立ち上がった。

「小田垣。僕は行くけど、さっきのジュリって娘のこと、この人に相談するといい。きっといいようにしてくれる」

「この、犬塚さんにですか。警視庁の」

「そうだ」

 ちょっと待ってください、と犬塚が右手を上げた。

「あなたは行くんですか」

「そう。僕は行きます。でも、犬塚さんは問題ないでしょ」

 純也は腕の時計を示した。

「もうすぐ交代の時間だから、僕は可愛い後輩のために、自ら鳥居さんの元に赴くと」

 純也はかすかに、はにかんだような笑みを見せた。

「まったく、敵わないなあ」

 犬塚は肩を竦め、純也とは別の笑みを見せつつ椅子に座った。

 純也は頷き、観月の肩に手を置いた。

 温かい掌の感触があった。

「さっきのお前の話を聞く限り、本人たちに自覚があるのかないのかは知らないけど、そのJET企画の連中がやってることは間違いなく犯罪だ。犯罪の処理は、プロに任せればいい。しかも犬塚さんはプロ中のプロだ」

「わかりました」

「もう1つの家庭教師の方は、事件性がない以上、僕には何もしようがない。お前がしたいようにすればいい。ただ、それでも困った事態になるなら、言ってくれれば手を貸すよ」

「いいんですか」

「今の内なら、学生の内ならね」

 純也はまた、かすかに笑ったようだった。

「自由という名の拘束時間は残り少ない。もうすぐ、籠の中で戦う時間が始まる。可愛い後輩の中でもお前は特に、僕が東京大学という場所に生きた証だ」

 じゃあ、と言って純也は席を離れた。

 犬塚の肩越しに去ってゆく純也がいた。

 やがて、犬塚と似たようなコート姿の、もう少し年配の男が純也に肩を並べた。

 頭1つ分低かった。

 さて、と犬塚は軽く手を叩いた。

「小田垣さん、でしたね」

「はい」

「改めて話を聞かせてください」

 水をひと口飲み、観月は口を開いた。2回目だ。要約し且つ大井町の件を省略した話は、純也に聞かせたものより時間にして半分になった。

「なるほど」

 面白い、と犬塚は呟いた。

「面白い、ですか」

 観月は聞き咎めた。

「ああ。失礼。お話し頂いた件が面白かったわけではなくて、ちょっとした縁を感じたものですから」

「はあ」

 観月は水のコップを取り上げた。

 アイス・ドール、と犬塚は口にした。

 水を含んだところで、観月は吹いた。

「うわうわうわ」

 テーブルをお手拭きで拭った。

 犬塚はそれを、目を細めて見ていた。

「なんでその呼称を」

「いえね。私の知り合いが、〈蝶天〉に通ってましてね。だから知ってたんです。あなたのことを。もっとも、今目の前にいるあなたとは知りませんでしたが。資生堂パーラーのメニューを何周もする、飛び抜けて変わった娘がいると」

 観月は肩をすぼめて小さくなった。

 表情は常に硬いが、表現は出来る。恥ずかしさがないわけではない。

 了解しました、と犬塚は力強く言った。

「私は知り合いをスジと言っているんですが。そのスジから攻めてみます。その連中は半グレなのでしょうが、もう餓鬼の遊びからは逸脱している。世の中は、思っているより不自由なものだと教えてやりましょうか」

 何をするんですか、と自然に聞いていた。

 犬塚は、深く笑った。

「あなたは知らなくていいです。いえ、知らない方がいいです。まあ、それでも知りたいというのであれば、小日向さんと同じように、警察庁キャリアになればいい。いやでも知ることになりますから」

 犬塚は立ち上がった。

「では、その〈四海舗〉というお店に案内してください。匿われているお2人の保護も、こちらでお引き受けしましょう」

 聞くなり、すぐに犬塚は動きを見せた。

 なるほど、初見ながら純也が推薦した犬塚は、観月から見ても任せるに足る〈大人〉の男だった。

※ 次回は、2/22(土)更新予定です。

見出し画像デザイン 高原真吾(TAAP)