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吉川英梨『新人女警』第10回
新人女性警官が未解決の一家惨殺事件に挑む! 二転三転する容疑者、背後で暗躍する指定暴力団、巧妙に張り巡らされた伏線――。ラストに待ち受ける驚愕の真犯人とは!? 警察小説の新たな傑作誕生!!
深夜の甲州街道の静けさの中、十人乗りのハイエースの車内はにぎやかだった。Rは無言でハンドルを握る。エミは助手席に座らされた。バッグの中に、神山の唾液がついたグラスが入っている。これで飛鳥のDNAと親子鑑定するのだ。違法捜査だとわかっているが、ここまでしないと、アザレア事件は先に進まない。バレやしないかと心拍は早くなっている。
後部には七人の外国人ホステスが乗っている。タガログ語をしゃべる女性が多いが、中国語も聞こえた。ポルトガル語をしゃべるオリビアはまだ長電話をしている。誰よりもうるさかった。エミを警察官と知っているのに、誰一人同じクルマに乗るのを嫌がる人はいなかった。オーバーステイの人はいないのだろう。ひとり別世界に沈んでいるかのように無口なRに、エミは話しかけた。
「Rさんはタガログ語を話せるんですか。リンさんから、ハーフだと聞きました」
「ええ、まあ」
返事の仕方は日本人そのものだった。
「ところで本名は? なんだかRさんて呼ぶのも変な感じがします」
真後ろにいたフィリピーナが鼻の孔を膨らませて、会話に入ってきた。リンと違い肌は浅黒いが、胸や尻が大きくて迫力のある女性だ。ジャスミンと名乗った。
「Rっていうのはね、ロイヤルの略なんだよ」
エミはRとジャスミンの二人を見比べながら聞き返す。
「ロイヤルということは、皇族とか貴族とか……?」
「それをお母さんが願ったの。日本でもフィリピンでも貧しい生活、でも敬虔なキリスト教徒ね、彼女のお母さんマリアさん」
Rは他人の話でも聞いているような顔だ。
「真面目に働いて、週末は教会で祈る。毎日、感謝する。そうすればいつか必ず奇跡が起こると信じてた」
Rは母親がフィリピンパブで働いていたとき、日本人客との間に生まれた子供らしかった。店をクビになってひどく困窮し、浅川の草を食べていたという話まで出てきたから、父親に認知してもらえなかったのだろう。ついにはお乳も出なくなり、『息子が日本のロイヤルにもらわれ金持ちになる』という奇跡を夢見るようになった。
「なぜいきなり皇室なんですか」
「その時の女の子の寮が、長房町にあったのよ」
八王子市西部にあるその町には、大正天皇と昭和天皇の墓がある。マリアは夜泣きがひどかったRを背負い、昭和天皇の墓がある武蔵野陵をよく散歩していたそうだ。
「マリアは奇跡を願って、武蔵野陵にRを捨てた。それで彼のあだ名は、Rになったの」
大変な生い立ちだが、相変わらずRは無言を貫いている。
「警備の人が、大変だ赤ちゃんいるーッて、警察に連絡してね。あとはどうしたんだっけ?」
拾われた後のことはどうでもよさそうで、ジャスミンはタガログ語のおしゃべりに戻っていった。Rが説明してくれる。
「そのまま児相行きです。身元不明児ということで、生年月日は発見された日になり、当時の八王子市長が名前をつけてくれました」
高尾陵というのが、戸籍名らしい。
「いかにも八王子っていう感じの名前ですね」
Rはその氏名を気に入っていないのか、クスリとも笑わなかった。
「それからずっと施設で育ったんですか」
「三か月後に母が名乗り出たので、その後は一緒に暮らしましたよ」
「そう。ならよかった」
「いや、四歳のときに結局、死別しましたけど」
エミはそれ以上、なにも訊けなくなってしまった。
ホステスたちは家賃をできるだけ安くするためか、八王子の中心地から離れた北東部の集合住宅に住んでいる人が多かった。最後のひとりが長電話のオリビアだった。彼女はすでに所帯を持っていて戸建てに住んでいた。夫はネパール人で日本の中古車を輸出販売しているという。彼女が降りたあと、エミは想像を膨らませた。
「南米のノリのオリビアさんとネパール人の旦那さんって、面白いですね。ネパールってヒマラヤ山地のおひざ元でしょう? ものすごく我慢強くて無口なイメージです」
「あの人の夫は彼女以上によくしゃべるうるさい男ですよ」
エミは笑ってしまった。Rも少し口角が上がっただろうか。目つきが柔らかくなっている気がした。すでに東の空から太陽が昇り始めている。そろそろRもガードを緩めただろうか。月命日のことを訊く前に、エミは関取のような巨体の男について話を振ってみた。
「お相撲さんみたいな人がいたけど、彼はビジネスの相手なんですか」
「ええ、まあそうです」
「元力士とか」
「そうかもしれませんね。家、どこですか」
急に心を閉ざされた気がした。関取のことは聞かれたくないのだろうか。エミはそれ以上、つっこむことはやめた。まだまだ聞きたいことがあるのだ。
「普段は待機寮に帰るけど、今日は実家にしとくわ。風俗店の送迎車で署に戻ったら、寮長から叱られるもの。梅坪団地はわかる? 新滝山街道の――」
「わかります。新京亭の近く」
「あの中華料理屋、二十四時間営業だものね。Rさんも仕事上がりによく食べに行く?」
「そこまでは行かないです。女の子も住んでないし」
「女の子たちを送ったら、あなたも帰るの?」
「いえ。店の掃除がまだ終わってません。レジ閉めや帳簿付けもやらないと」
カラオケ店の店長もやっており、九時には開店準備に行くそうだ。いくらなんでも働きすぎだろう。彼は襟の周りがよれよれになったTシャツに、擦り切れたジーンズをはいていた。痩せているし、困窮しているように見えてしまう。
「あの……神山さんにずいぶんこき使われているように見えるけど、大丈夫?」
Rは黙っていた。エミは切り出す。
「アザレア事件は知っているでしょう? 月命日の日に、反崎会長や神山さんを乗せて、あなたも現場に行きましたよね」
Rに反応がない。信号が青になる。エミは正直に切り出す。
「私はまだ新人女警だけれど、アザレア事件の捜査を手伝っているの」
「新人の交番のお巡りさんが、どうして未解決事件を追っているんですか」
Rの言い方には少しとげがあった。
「あなたは二〇一二年の五月二十三日、何歳だった?」
Rは十四歳だとよどみなく答えた。
「その日の夜十九時ごろ、どこでなにをしていたか、覚えている?」
「アリバイ確認ですか」
「違うわ。ただ聞いているだけ。十四歳なら中学校二年生? 部活をやってたとか、塾で授業を受けていた時間だとか――」
「塾どころか、学校も行っていませんよ。養護施設を逃げ出して路頭に迷い、浅川の土手で草を食べていたころかな」
エミは返事に窮した。Rが訊き返す。
「あなたは?」
国道166号を抜けて中央道の高架下をくぐり、新滝山街道に入った。
「アザレアおおるり台の201号室にいた」
Rは冗談と思ったのか、取り合う様子がない。梅坪団地の前に到着した。
「送ってくれてありがとうございました」
エミはハイエースを降りた。集合ポストの前に来たが、ハイエースが走り去る音がしない。エミは振り返った。Rがじっとエミを見ていた。目が合うと急発進し、消えた。
昼前に実家から八王子警察署に戻り、特捜本部を訪ねた。間中をランチに誘う。南浅川沿いにある定食屋へ行った。北浅川との合流地点も近い緑豊かな場所だ。オーダーの後、エミは怒られるのを承知で、神山が口をつけたグラスを間中に渡した。実家に帰ってすぐポリ袋に入れて、唾液が消失しないように気を使った。事情を話すや、間中は真っ青になった。
「なにやってんだ、押収令状もないのにグラスを勝手に持ち帰ってくるなんて!」
「でも神山のDNA鑑定ができれば、立花親子との関係がはっきりします。月命日の行動の裏付けができるじゃないですか。神山がもし飛鳥の父親で正美の元恋人だったとしたら、人間関係が大きく変わります。神山が事件に関わっている可能性だってあるかもしれません」
「君がやったことは窃盗だ。いますぐ店に返して――」
「返しに行ったらそれはそれで大変なことになりますよ。警察が窃盗したのかと神山に足元をすくわれます」
間中は途方に暮れている。エミは自分が相当にまずい行動を取ったと、自覚した。
「すみませんでした。これくらいの証拠の押収は、父ならやりそうだと思ったんですが」
かつて父の上司が、父が強引な方法で真犯人の指紋を取ってきたと武勇伝のように話していた。令状がなくても真相にたどり着ければ許されると思っていた。
「あのね、エミちゃん。それは昭和の話」
「父が入庁したのは平成に入ってからですけど」
「いまは令和。違法に押収したグラスから判明したDNA鑑定結果が疎明資料にあったら、検察は激怒するよ。裁判で証拠自体が使えなくなってしまう。それによって罪に問えなくなることだってあるんだから」
エミが注文したもり蕎麦がきた。蕎麦のいい香りがしたが、食欲がわかない。間中が注文した天ざるも運ばれてきたが、間中は揚げたての天ぷらを無言でかじっている。
「私、今夜にもバンデランテに飲みに行って、こっそり返してきます」
「そもそも女の子ひとりであそこに行くなんてどうかしている」
「私は女の子じゃない、もう自立した警察官です」
「でも捜査を任命された刑事ではない。交番勤務の新人女警だ」
反論できなかった。
「経験もなく単独で動くひ弱な君を、アングラの連中は利用してやろうとたかりにくるはずだ。グラスを下手に返しに行ったら、泥沼に嵌まるぞ」
間中は厳しい。
「気が付けば情報が欲しくて、山田楓のようになってしまう」
間中は先に店を出てしまった。エミはグラスをバッグにしまい、絶望的な気持ちで署に戻った。こういうときどうするか――。
「おつかれー」
源田が休憩スペースで弁当を食べていた。エミは源田の隣に座り、まずは謝った。
「おそらく、源田さんにもあとからお叱りがあると思います。本当にすみません。話が大きくなる前に、バンデランテにこれを返しに行こうと思うんですが……」
「同期にひとり科捜研に出向になったのがいるから、頼んでみようか」
スマホで電話をかけ始めた源田を見て、エミは呆気に取られた。「交番の仕事に集中しろ」とまた怒られると思っていたのだ。
「間中さんは、これは違法捜査で窃盗だと怒っていたんですが」
「俺から言わせれば、間中さんは気概が足りないね」
「え」
「アザレア事件を絶対に解決する、という気概だよ。捜査本部に入ったときは持っていたんだろうけど、いろんな壁に阻まれてどんどん頭が固くなっている。君みたいに突飛なのが入った方が、膠着状態からは抜け出せるもんだよ。直接犯行と結びつく証拠じゃないんだから、そこまで肩肘張らなくていいと思うよ」
エミはじわりと目頭が熱くなる。
「源田さん――ありがとうございます!」
「というわけで、君は交番に戻りなさい」
「はい。がんばります。鑑定結果はいつごろわかりそうですか」
「君に教えるわけないだろ」
源田が眉を吊り上げた。
「鑑定結果は特捜本部には伝えておくが、そもそも君は特捜本部の人間じゃない。八王子駅北口交番の新人女警!」
結局、怒られた。
エミは悶々と心の中で間中や源田に反論しながら、交番のデスクに座っていた。相川心愛という女性から話を聞いている。インプレッサで暴走した渕野大毅が、事故を起こす直前まで一緒にいた女性だ。源田が探し出し、当日の行動を教えてくれるように、電話をしていた。彼女は警察に呼び出されたと勘違いしたのか、わざわざ八王子までやってきた。今日は源田が非番なので、エミが対応していた。
若い女性警察官を相手に、心愛はすっかり心を許していた。渕野の悪口ばかり言う。
「あちらは大学四年生、私は一年生の十八歳だけど、普通に酒も飲んでるし煙草も吸えるしー」
「十八歳は成人ですが、お酒や煙草はダメですよ」
心愛は上目遣いにエミを見る。現行犯でもないので、エミは注意にとどめた。
「そうだけど、しょぼい男からのウブな処女扱いはやっぱむかつくでしょー」
間中もそうなのかな、と考える。殺人の現場から救出した女の子は永遠の被害者であり、永遠の弱者と思っている節がある。
エミは事件から距離を置いていた中学時代、捜査で父がほとんど家に帰らなかったこともあり、彼氏の家に入り浸っていた。中学校の先輩で、いわゆる八王子のヤンキーだった。彼の両親も髪の色が派手で、子供部屋に友人が泊まって飲酒や喫煙をしようが、「元気にやってるな」くらいにしか考えていなさそうだった。彼と寝ると事件を忘れられた。お互いに初めてだったから、最初のころこそ痛い、くすぐったいのじゃれ合いだったが、中三になるころにはかなり淫らに重なり合っていた記憶がある。
父はそのころアザレア事件の第四期捜査本部に入っていた。関係者を自殺未遂にまで追い込むという大きな失敗をした。辞表を出したのは、エミが中学校三年生の秋ごろのことだった。以降はエミは淫らな生活とは縁を切って高校受験の勉強に励んだ。父も間中も、エミのこういう部分を知らない。エミが最も辛かったときを支えてくれたのが、地元のヤンキー中学生との無邪気な性愛だったということも想像すらしないだろう。
彼はいま二十一歳、建築会社で働き子供もいる。十九のときにできちゃった結婚をしたそうだ。エミは中学時代の同級生から聞く彼にまつわる噂話に、もしかしたら自分にあったかもしれないもう一つの人生を重ねてしまう。事件現場に居合わせたという壮絶な経験も「それは辛かったね。で、今日は何色の下着つけてるの?」と性欲にすり替えてしまう人だった。彼といるとラクだった。別れない方が幸せだったのだろうか。
「お巡りさん、聞いてます?」
心愛がエミを睨んでいた。エミは慌ててメモにペンを走らせた。
「八王子城跡を出たのが深夜二時過ぎかな。自宅まで渕野さんに送ってもらって、四時ごろには家の前で別れました」
「渕野さんは、八王子城跡の駐車場で首のない白装束の女が追いかけてきたと――」
「ないない」
「ない、ですよねえ」
なんてくだらない捜査をしているんだろう。アザレアおおるり台での反崎や神山、Rの様子も心愛に訊いたが、ドライブレコーダーに映っていた以上のことはわからなかった。彼女は渕野のことをくそみそに言っている。
「なんかダサいのに頑張ってる感が若干あって。圏央道に乗った瞬間に、誰にアピールしたいのか知らないけど、サングラスとかかけ始めてたし。しかも変な錠剤飲んでたし」
ピルケースに入っていた白い錠剤で、何の薬かは訊かなかったらしい。
「薬物検査は一応したんですが、違法薬物は検出されませんでした」
「じゃ、ラムネだ~。ほんとダサい」
駅前の大型ビジョンからいつもの音声が流れてくる。
『二〇一二年五月二十三日、八王子市おおるり台で女性三人が殺害される事件が起こりました――』