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吉川英梨『新人女警』第9回
新人女性警官が未解決の一家惨殺事件に挑む! 二転三転する容疑者、背後で暗躍する指定暴力団、巧妙に張り巡らされた伏線――。ラストに待ち受ける驚愕の真犯人とは!? 警察小説の新たな傑作誕生!!
夕方、市川と共に捜査車両に乗って到着したのは、JR八王子駅の西側、線路沿いに立つマンションだった。駐車場を降りてすぐ目の前の古い雑居ビルが目に入ったが、エミは見ないようにした。三階建てのビルには、どのフロアにも看板が出ていない。入り口の壁には穴が開いていて、カメラのレンズが光る。
岬八粋会の本部だ。すぐ脇の駐車場には黒いアルファードとBMWのXMが停車している。アルファードは渕野のドライブレコーダーに映っていたものとナンバーは同じだが、エミは違和感を持った。月命日の夜のアルファードとなにかが違う……。
思わず立ち止まったエミを、市川が慌てた様子で引っ張る。
「気を付けて。レンズに映っちゃう」
岬八粋会本部が入るビルには、通行人に向けて二台も監視カメラを稼働させている。警察だけでなく、敵対する勢力からのカチコミを警戒しているのだろう。
八王子駅北口交番に配属されたばかりのころ、源田からここに指定暴力団の事務所があることは教えてもらっている。巡回でこの道を通るとき、じろじろ見たり、覗きこんだりしないよう注意されていた。神山は「眠れる獅子を起こしたくない」と言っていたが、それは警察も同じだ。
市川もそ知らぬふりで暴力団の監視カメラの前を通り過ぎ、向かいの七階建てオートロックマンションの306号室に入った。
「おつかれさまでーす」
2LDKの部屋のつきあたりに、リビングが見える。掃き出し窓の近くに、あぐらをかいた東丸がいた。
「いらっしゃい。八王子ワンダーランドへようこそ」
「ただの監視拠点でしょう」
エミはツッコミを入れた。掃き出し窓は遮光カーテンがかかっているが、隙間にカメラの望遠レンズが伸びる。カメラがとらえた映像が、東丸が座るテーブル上のモニターに映し出されていた。岬八粋会の本部がある雑居ビルの一階入り口だ。
ここは監視のために借り上げられた部屋だそうだ。八王子署のマル暴が、代々借りているらしい。ヤクザの事務所を二十四時間監視し、人の出入りを確認しつつ、抗争の火種がないか目を光らせている。
「エミちゃん、これ見てごらん」
テーブルの脇に手招きされ、コーヒーのシミがある座布団の上に正座した。監視モニターとは別に、東丸はノートパソコンを開き、一本の動画を再生した。
「二〇一二年五月二十三日のもの」
アザレア事件があった日だ。昼の十二時過ぎ、メルセデス・ベンツのEクラスセダンが駐車場に入る。事務所から組員が次々と出てくる。運転手がメルセデスの扉を開ける。Tシャツにジーンズ姿の反崎連一が出てきた。当時は四十九歳、代紋入りの和服とか、ダブルの白いスーツなどを着て街を闊歩する派手なイメージがあるヤクザだが、現代は目立つと警察に目をつけられるので、あまり着飾らないらしい。反崎は背が高くてガタイがよい。鼻筋が通り、唇の形がきれいな男だった。子分たちが頭を下げて出迎える花道を抜け、ビルの中に入っていった。
「この日、組員の出入りはパラパラとあったが、その回数やメンツは通常と変わらない。反崎は二十一時にビルを出ている」
「アリバイは完璧、ということですか」
「窓から出入りしない限りはな。会長という立場的にも、やつが実行犯である可能性は限りなく低いが、指示役にはそもそもアリバイは必要ない」
岬八粋会は東南アジア系ホステスの斡旋や、八王子市内の飲食店のみかじめ料、風俗店の経営などを主な収入源としている。
「特にデリヘル系風俗店のみかじめ料が大きい。八王子市内で岬八粋会に話を通さずにデリヘル進出した関西系の業者は、売上金を殆ど叩かれた上に男性スタッフをボコされて、一日で撤退していった」
「確かこのときは、その関西系業者のケツ持ちだった関西最大の暴力団がカチコミに来て、抗争になっちゃいましたからね」
エミが生まれる前の話だが、八王子アンダーグラウンドの歴史を語るうえで欠かせないのが、九〇年代に勃発した『ミサキ抗争』だ。関西最大の暴力団『美崎組』が岬八粋会の事務所にダンプカーで突っ込み、当時の会長の自宅へも銃弾を撃ち込んだ。岬八粋会は美崎組の組員が滞在する市内のホテルに乗り込んで襲撃、一般人も巻き込んでの殺戮沙汰になった。サウナに追い詰められた美崎組八名は、扉を塞がれ閉じ込められた。脱水症状でバタバタと倒れていく美崎組のヤクザを、岬八粋会の連中は嵌め殺しの窓越しに笑いながら眺め、撮影までしていたという。
「この時の襲撃メンバー五名のうちのひとりが、朴健宇と言われている」
事件直後に海外逃亡していて、警察は朴健宇を逮捕できなかった。岬八粋会は組長以下、十八名が実刑判決を受け、実行犯のひとりは死刑を食らってすでに執行された。残りの十七名は全員刑期を終え、誰一人足を洗うことなく、八王子に戻ってきている。
「岬八粋会は武闘派ってことですね」
「ああ。眠れる獅子を起こしたくないと周囲が言うのもわかる」
このミサキ抗争以降、全国のどこの組も、八王子には手を出さずにいる。岬八粋会は以降の二十年は大人しくしていて、せいぜい傷害事件か嫌がらせくらいしかやっていなかった。そんな中でアザレア事件が起こった。ミサキ抗争を知る者は、口をそろえて「アザレア事件は岬八粋会の仕業だ」という。正美が芸妓をしていた料亭『赤屏風』が岬八粋会ともめていた上、手口が荒っぽくて少女が二人も射殺されていれば、誰でも暴力団の仕業と思うものだ。
渕野のドライブレコーダーがとらえた反崎と神山の姿がパソコン上に表示される。
「昨夜のアザレアおおるり台では、もうひとり登場人物がいたよ」
東丸がアルファードの右サイドミラーを切り取り、拡大、鮮明化していく。運転席に若い男性が映っていた。
「これ、Rというバンデランテの従業員です。神山の小間使いをやっていました」
東丸が、岬八粋会の基礎資料を捲る。
「Rなる人物の本名はわかる?」
「いえ、わかりません」
「変だな、反崎の運転手は若頭補佐をやってる坂東って男なんだ。どこへ行くにも必ず、坂東が付き添って運転するんだが」
ヤクザは移動中が最も狙われやすいし、プライベートを知られてしまうので、相当に気心が知れた相手ではないと、運転手には指名しない。
「このRとかいうのはそもそも組員じゃない。神山もなんだ」
東丸が首を傾げた。市川があっさり言う。
「Rが神山の小間使いだとしたら、この場の運転手を務めるのは変ではないですね」
「このアルファードは反崎の所有だ。神山のクルマならまだしも、反崎が自分のクルマを、盃を交わしていないやつに運転させるとは思えない」
「盃ってそんなに大事なんすか」
市川が純粋に問うた。東丸は眉をひそめる。
「市川ちゃーん、もうちょっとマル暴捜査の勉強をしようよー。ヤクザとヤクザのつながりは、盃が全てなの。親子盃、兄弟盃、いろいろあるけどね、同じ盃を回し飲みすることで血の交わりとする。血縁、家族として一心同体の絆を深めていくんだ。こんな真夜中に、反崎が単独で、盃を交わしていない連中と行動していた――ヤクザの道理からいうとものすごく変だ」
市川はあまりピンと来ていない様子だ。
「ヤクザの道理と言いますけど、もうそんな時代じゃないでしょう。令和のこの時代、暴力団は抗争がなくても生きるか死ぬかの瀬戸際なんじゃないんですか」
「盃を交わしていない連中とも、共に行動することはありえるということですか」
エミは尋ねた。東丸がユーレイ組員について教えてくれた。
「一般的にヤクザの人数が激減していると言われるけど、この数字にはからくりがある。そもそもヤクザの定義は?」
「親分と盃を交わしている――」
そうじゃないと東丸が断言した。
「だって盃を交わしたことは公表されない。誰が誰と盃を交わしたかなんて、本人やその場に参加していた人たちしか知らないことだ」
『ヤクザ』という名札をつけて歩くでもなし、警察に届け出るわけでもない。つまり、警察庁の統計にある『暴力団員』の人数は、所詮、警察が認定した数に過ぎないということだ。
「警察が把握していない組員が相当数いるということですか?」
東丸は大きく頷いた。
「警察に認定されないようにこっそり盃を交わしているユーレイ組員がいるということ。暴力団員認定されちゃうと、銀行口座も開けないしローンも組めない。入店禁止の店もどんどん増えている。事件を起こしたら刑期は一・五倍、しかも組長の共同正犯が問えるようになったから、下手をしたら親分と一緒に収監。人数が少ないところだとそれだけで組の存続の危機だからね」
「そんな状況になったらヤクザであることを隠した方が賢明ですよね」
それを暴力団のマフィア化というのだ、と東丸は嘆いた。
「つまり東丸さんは、神山作やRとかいう人物は、岬八粋会のユーレイ組員じゃないかと読んでいるんですね」
先日、神山は「暴力団とつるんでもなにもいいことない」というような発言をしていたが、ユーレイ組員だから敢えて否定したということか。
「この三人がなぜアザレアおおるり台にいたんでしょう。しかも人知れず深夜にやってきている。それなのに反崎は正装しています」
通常はラフな恰好をしている反崎が、わざわざ代紋入りの和服を着ていたのだ。
「月命日ですし、被害者を悼みにきたとしか思えません」
エミは八王子署に戻った。待機寮のある最上階のボタンを押したが、エレベーターが上昇している間に、思い切って特捜本部が入る四階のボタンを押した。間中と口論して以来、特捜本部からは足が遠のいていた。
特捜本部の中を覗く。二十一時過ぎ、間中は祭壇の水や供え物を片付けていた。
「――手伝います」
エミは茶が入っていた湯呑を給湯室で洗った。間中は手持無沙汰な様子でデスクに座り、おさがりのお菓子の袋をあけていた。
「食べる?」
エミはチョコレートをひとかけら、もらった。
「今朝、インプレッサが暴走した事故のことを知っていますか」
「聞いてる。東丸さんがドラレコ映像を持ってきてくれたよ。反崎と神山が月命日にアザレアおおるり台を訪れていた。運転手はR」
間中の口が重くなるかもしれないが、エミは思い切って切り出した。
「事件の何年かあと、週刊誌が一誌だけ報じていましたね。立花飛鳥の父親は、反崎ではないかと」
かつて反崎が赤屏風に通い詰めていたのは、飛鳥が生まれる前のことだった。出生後は毎月金を渡していたという証言も界隈からは聞こえていたそうだ。続報を出すマスコミは皆無だった。テレビのニュースはどこも報道していない。
「そりゃ報道しない。誤報だからね」
間中はキャビネットのカギを開けて、極秘の資料を見せてくれた。反崎と立花飛鳥のDNA親子鑑定の結果が記されている。
「赤屏風の芸妓だけでなく、岬八粋会の関係先からも、反崎と正美がデキていて、飛鳥はその娘だという噂が飛び交っていたからね。DNA鑑定を行った」
結果、親子である確率はゼロだった。
「血縁ではなかったが、正美と反崎に金銭トラブルがあった可能性は消えない」
反崎が飛鳥の出生後から毎月それなりの額を振り込んでいた痕跡があったらしい。反崎本人は、芸妓やホステスにばらまいた金など覚えていない、と供述している。
「それじゃ、父親は神山作でしょうか」
間中は飲みかけた缶コーヒーを噴き出していた。
「何て突飛なことを言うんだ。そんな証言はどこからも出ていないよ」
「ただの消去法です。あの月命日の日、神山も黒っぽい服装でした。あれは喪服ではないですか。まるで遺族のような佇まいだったから……」
間中は神山の生年月日を確認し、計算する。
「飛鳥が生まれたとき、神山は十九歳か……。まあ、なくはないが」
「芸妓ですから、相手は座敷遊びしそうな年配男性だとイメージしますが、当時の正美は二十歳ですから、同年代と恋に落ちるのは当然ではないですか? 神山作を調べてみましょう」
七月上旬の非番の日、開店と同時にエミは多国籍パブ『バンデランテ』を訪れた。楓の情報と引き換えに「もう来るな」と強い調子で神山から言われている。間中は慎重で、バンデランテには行かず別の方向から調べるつもりらしい。
だからエミはひとりで来た。新人女警だからと甘く見られている分、さほど警戒されないはずだ。
ホステスも黒服も、また来たのかと呆れたような表情だが、追い返すことはなかった。神山に会いたいと告げたが、お酒を持ってきてくれたホステスの女の子は受け流す。色白で目が大きい美女で、リンと名乗った。エミが二十歳だと知るや、大笑いした。
「年下じゃな~い。敬語使って損したー」
リンは店での飲み方も教えてくれる。
「テーブルについたホステスにも飲み物や食べ物を注文するのよ」
「そうなんだ。なにを飲む?」
「お金は大丈夫? 若いお巡りさんは給料が安いでしょ」
「気にしないで。使う暇も機会もないの。ホステスさんってそんなことまで気にかけなくていいんじゃない? たんまり客に使わせればいい」
リンは安いつまみとビールを注文しただけだった。
「だって、女の子と楽しむために来たんじゃないでしょ」
エミのスマホがメールを着信した。源田からだった。彼は話も長いが、メールも長い。
「彼氏?」
「いえ。上司」
「うざいねー。メッセージを連投してくるなんて」
連投がおさまるころに、エミはいっきにメッセージを読んだ。
『渕野大毅と心霊スポット巡りをしていた少女の素性がわかったよ。相川心愛、十八歳。渕野に頼み彼女と接触を試みているんだが、音沙汰がない。彼女にもまた、八王子城跡の怨霊によるなんらかの霊障が起こっていて、返事ができないだけではなかろうか。直接訪ねて安否を確認しようと思う。しかし上の許可は下りなかった。次の休み、一緒に行かないか?』
「絶対行かない」
エミは思わず口に出した。リンはけらけらと笑っている。楽しそうなので、エミは酒のペースが進んだ。酔いが回り始める。いつもはコップ一杯でやめておくが、三杯、四杯と注がれるがままになり、気が付けばワインをオーダーしていた。
「本当にうるさい上司なんだけどね、ごくまれに、奥の深いことを言うのよ」
「捨てたもんじゃないね」
「厄介なのは、たまーにいいことを言うもんだから、長ったらしいお説教が始まっても、聞き流せない。もしかしたらいいこと言うかもしれないと期待しちゃうから」
「あはは、それ余計に厄介ね」
「ところで、店に入ったときからおかしいなと思っていたんだけど」
リンもほどよく酔っているので、エミは切り出した。タイミングを計っていたのだ。
「バンデランテが消えている」
店の半分近くをしめるようにディスプレイされていたバンデランテが、きれいさっぱり消えていた。まるで何事もなかったかのように、テーブルやソファが増やされていた。
「神山さんが得意の手品で消しちゃったの。あなたもこの間、見たでしょう?」
なかなか食えない女性だ――楽しんでいるふりをして、ちゃんと警戒している。
「そういえば、Rってニックネームの店員さんは?」
「彼は店長よ」
奴隷を扱うような神山の態度や、客引きのあしらう態度から、Rは皿洗いや掃除をするアルバイトだと思っていた。
「じゃあ、あなたの上司にあたる人ね」
「でも雇われ店長だし、偉そうに命令するような人でもないし。あなたの上司みたいにながーいお説教をするような人でもないしー」
「店長ということは、オーナーの神山さんの運転手をしたり、付き人みたいなこともしたりするのかしら」
Rは、アザレアおおるり台を訪れていた反崎や神山の、運転手をしていた。
「彼はなんだってやるわ。私たちの送りもするし」
パブの閉店は深夜で電車もバスもないから、女の子たちはみな店のクルマで家まで送ってもらうそうだ。
「Rの本名を知っている?」
「さあ。知らない。お巡りさんは神山さんが目的なの、それとも本命はRなの?」
女性は恋愛感情でしかこのような店に来ない、と思っているようだ。エミは否定も肯定もせず、あおってみる。
「やっぱり店長やオーナーと恋愛関係になっちゃうホステスさんて、多いんじゃない?」
「Rはフィリピン女子の間では特別な存在かもね。彼のママもフィリピーナなの」
ハーフだったのか。確かに彫りが深いとは思ったが、東南アジア系の人によく見られる肌の色ではなかった。目の前のリンもだが、Rも色が白くて欧米系に見える。
「フィリピンはスペインに統治されていたから、スペイン系フィリピン人がたくさんいるの。そっちの人たちは肌の色が欧米の人に近いわ」
リンがロックをエミに勧めた。エミはやんわりと断る。
「Rと少し話をしたいわ。呼んでくれる?」
神山を調べるためには、外堀から埋めた方が早いと思ったのだ。リンが無言でグラスを突き出す。覚悟を問われているようだ。エミはロックを飲み干した。こんな強い酒は飲んだことがない。熱くて怖い。あれ、と目を見開いた。
「やだ。おいしい。とろとろしてると思ったのに、飲んだあとはさらっとしてる」
リンはけらけら笑った。
「待っててね、Rを呼んできてあげる」
膝を叩かれ、エミははたと目が覚めた。ソファから飛び起きる。体にブランケットがかかっていた。バンデランテの店内は閑散としている。カウンターに客はおらず、ボックスシートがひとつ埋まっているだけだった。黒服が売り上げの計算をしている。ホステスたちは何人かがテーブルの片づけをしている。ドレスからジーンズに着替えたブラジル人ホステスのオリビアが化粧をクリームで落としながら、電話でおしゃべりしていた。もう閉店の時間らしかった。
ソファの隣に座っていたのは、神山だった。静かにワイングラスを傾けている。エミはぞっとする。神山の膝枕で寝ていたようだ。記憶がない。神山を探るつもりで来たのに、手のひらで転がされているようだ。彼は口角を上げて笑う。
「まだ二十歳なんだって? 警戒心が強いようなふりして、同性相手だとつい心のハードルを下げちゃう。控えめな女性あるあるですね」
もう来るなと強い調子で言い放ったわりに、神山が怒る様子はない。やはりエミが新人女警だから警戒していないのだろう。愚かで無鉄砲を装い、エミは言う。
「私、リンさんと飲んでたんですが……」
「お二人で上司の悪口を言って相当に盛り上がっていたとか」
「いえ、私はRさんと話をさせてほしいと言ったんです」
「上司の悪口を言っている席に、別の上司が同席しようと思うはずないでしょう」
エミはスマホを出し、時刻を確認した。朝の四時だった。
「お仕事の時間は大丈夫?」
「非番なので、大丈夫ですけど――」
「なら俺の家で飲み直しません?」
キザな様子で神山が誘った。エミは一瞬迷ったが、断った。神山はエミが簡単に落とせる相手ではない。
「聞きたいことがあっただけなんです」
エミは渕野のドライブレコーダーから切り出した画像を見せた。
「アザレアおおるり台、月命日の六月二十三日。神山さんも来ていました。なぜいらっしゃっていたのですか」
「飛鳥さんは反崎さんの娘だ。悼みにいって何が悪いんです」
「いいえ、親子関係はありませんでしたよ」
神山が嬉しそうに眉をあげた。
「マジすか。警察はDNA鑑定していたんですね。これはとんでもないことを聞いた」
エミは慌てて自分の口を塞いだ。神山に乗せられてしゃべってしまった。とんでもない失態だ。自分で自分の口を縫い付けてしまいたい。
「――反崎さんご本人は、飛鳥さんを娘だと思い込んでいた、ということですか」
神山は肩をすくめるのみで、エミの反応を面白そうに見ている。
「反崎さんはいつも若頭補佐の坂東さんと行動を共にしているのに、なぜこの日は組員でもないあなたが付き添ったんですか」
「八王子を愛する一人の人間として、八王子最大の悲劇が起こったあの場所に行って祈りを捧げた。こう見えて、僕は敬虔なキリスト教徒なんです」
十字を切って見せた。
「この時アルファードを運転していたRもそうです。休日は一緒に教会にいきます。僕が愛するこの町で、知人が残忍に殺された。しかもまだ犯人はつかまっていない。御霊に寄り添い、祈った――ただそれだけのことですよ」
エミは店の中央を指した。
「バンデランテはどこへ消えたんですか」
かつてのように手品でも披露すると思っていたが、神山は遮る。
「R!」
店の隅のテーブルに座っていたRが、ひょろりと立ち上がった。関取のような巨体の男と向かい合っていて、完全に姿が隠れていた。仕事相手か、テーブルには書類が広げられている。関取はノートパソコンのキーボードをピアノを弾くように叩いている。
「そろそろセンドの時間だろ。ついでに彼女も送ってあげて」
神山はRに命令し、チェイサーを飲み干す。さっさと立ち去った。Rはエミを一瞥しただけで、巨体の男との打ち合わせに戻った。やかましく電話していたオリビアはこちらに背を向けている。片付けをしていたホステスがバックヤードに入った隙を狙い、エミは神山が口をつけたグラスをハンカチで包み、バッグの中に忍ばせた。