北尾トロ『佐伯泰英山脈登頂記』第16回
第7峰『秘剣』其の弐
ヒロインさえも止められない
一松の明日はどっちだ⁉
本音がどこにあるかわからない。佐伯時代小説のヒロイン像
第1巻の後半に、物語の行方を左右する出来事が起きる。江戸に舞い戻った一松は、千住宿で一夜を共にした飯盛り女やえをひょんなことから身請けし、尼寺にかくまった後、やえの郷里へ一緒に行くのだ。やえの家族も登場し、一松の荒ぶる魂も落ち着く気配。悪ガキだった偽侍が、江戸で一泡吹かせた薩摩藩の追手やまだ見ぬ強豪と闘いながら、味わったことのなかった〝家族愛”に目覚めていくのかと思いきや……。
物語を追う前に、いったん話題を変え、佐伯時代小説における女たちについて考えてみたい。
店の従業員や料亭の女将といった端役や敵方に属する女たちを除き、ふたつのタイプがある。ひとつ目は許婚や恋人、妻などのヒロインたち。ふたつ目は忍びの者や女剣士など主人公をサポートするビジネスウーマン。多くの佐伯作品にはこの2タイプが共存して主人公を盛り立てている。
ヒロインは主人公を支える役として出番も多く、男くさくなりがちな作品に華やいだ雰囲気と潤いを与えてくれる存在。人が振り返るほどの美貌の持ち主で、主人公や家族をこよなく愛し、芯が強く、知性も豊かな〝理想の女〟として描かれるのが定番だ。
忍びや女剣士は、パワーで劣るために小刀などを使うことはあっても、男に負けない戦闘能力を持ち、華奢な外見で敵を油断させて情報を取ったり、使用人になりすますこともできる有能な人材。さばさばした性格で主人公からの信頼も厚い。
アクション満載の小説は、ともすれば殺伐とした印象を与えかねないところ、会話ひとつとっても女言葉が入ることで温かみが生まれる。主人公の日常が描かれる場面では特にそうで、妻はもちろん、面倒見のいい長屋の奥さんや、働き者の飯屋のおかみさんまで、いきいきとした庶民の生活を伝えるためにいい味を出す。
しかし、いくつものシリーズを読むうちに、気がついたことがある。女たちは、重要な役割を担っているにしてはつかみどころがなく、どんな人なのかがわからなくなってくるのだ。
女忍びはまだいい。男の忍びと同様に、主人公を陰で支えるという役割がはっきりしていて、やるべきことを全うするため筋の通った行動を常にとる彼女たちはプロの仕事人だ。主人公とは信頼関係で結ばれており、それ以上の情を通わせる必要もない。
問題は、登場頻度が高く、読者の注目度も高いヒロインたち。読んでいる間はきわめて魅力的なのだが、読み終える頃にはつかみどころがなくなるという謎の現象が起きるのである。
典型的な〝わからない人”に、『酔いどれ小籐次』シリーズで、小籐次の憧れ人から妻となり母となるおりょうがいる。教養があり、自立心も強く、武家奉公を終えると俳人としての活動を開始して私塾を開き大人気となる絶世の美女だ。高嶺の花だった才媛が、よりによって貧乏なブ男の小籐次と結ばれる展開に、私は意表を突かれながらも快哉を叫んだ。
幾多の事件に巻き込まれても、母となっても、おりょうの美貌に衰えはなく、品の良さもそのまま。目の前で人が斬られても、小籐次の妻であれば当然のこととばかりに、めったなことで冷静さを失わない。ときには思い悩む小籐次を叱咤することさえある。
小籐次と結ばれる前は控えめな存在だったが、家族小説の色合いを濃くする後半になるにつれて出番が増え、ときには主役の小籐次よりカッコいい。家族仲も睦まじく、小籐次や息子を愛する気持ちがひしひしと伝わってくる。
まさに完ぺき。おりょうがそばにいれば小籐次は安泰だと思わせてくれるスーパーレディであり、読者の人気も抜群だろう。
だが、いまひとつわからないのだ。どうして小籐次に惚れたのか。なぜすんなりと、小籐次に敗れて世を去った刺客の息子を育てることを受け入れているのか。しばしば自宅が闘いの場となることに不満はないのか。
ほかのヒロインたちも、わずかな例外を除いて型にはまり、なかなか本音を語ってくれない。佐伯まみれの読書生活を送る私は、そのことに少し不満を抱くようになった。
わかっている。読みすぎの弊害だ。冷静に考えてみよう。じゃあ、作者がシリーズごとにヒロインの造形に知恵を絞り、きめ細やかな心理描写や揺れ動く女心、複雑な過去などの要素を盛り込んだらどうだったか。これはこれで大変なことになったと思うのだ。
まず、ヒロインをそこまで描写したら主人公の造形にももっと凝らなければいけなくなる、というバランスの問題が出てくる。で、そうしたとしよう。すると、深い人間描写が可能になる代わりに、読者を先へ先へと誘うスピード感やリズムは劣化しかねない。読者が佐伯時代小説に求めるのは、読み始めたら止まらないおもしろさや爽快な読後感。ストーリーを追うだけでも忙しいのに、夫婦や家族内の心理描写まで盛り込まれ、心配の種が増えすぎては物語全体が浮足立ち、気が散って読みづらい。
そこで、会話を駆使して必要最低限の感情表現をするにとどめ、あとは読者の想像力にゆだねる手法を選択。心の奥ではこんなふうに思っているとか、主人公にも打ち明けていない秘密があるなど、ややこしい面を見せることがないので、逆に解釈の自由度が高くなったのではないか。
つぎつぎにエンタメ作品を発表していく「月刊佐伯」にとって、類型化したキャラクターというのは、執筆速度を保つ意味でも、読者の読みやすさや安心感を損なわないためにも必要なことなのだ。私のように短期集中で佐伯山脈を踏破しないかぎり、ヒロインの内面が気になることもないだろう。
この割り切りが良かった。もしも、おじさんの感性で練り上げられたヒロインを連発していたら、ちょっと気持ちの悪いキャラクターになって、女性読者は興ざめしていたかもしれない。
話を本作に戻そう。『秘剣』シリーズのヒロインは、一松に身請けされるやえである。柄にもない善行の理由ははっきりと語られないが、家庭の事情で身体を売る商売に従事し、そこから抜け出す術のないやえに、中間という枠に閉じ込められて武士になりたくてもなれない自分を重ね合わせたようにも読み取れる。
やえと一緒に行動し、追っ手から匿おうとする一松。救出をきっかけに一松の生き方が変わるなら、物語の展開も落ち着くと安堵する読者もいるだろう。事実、そういう流れではあるのだ。一松はやえを実家まで送り届けると自分も腰を落ち着けて新婚夫婦のような生活をし、その後の旅にもやえを連れていく。
道中もトラブルは起きるが、そのたびに「ちぇーすと」を炸裂させて追手を蹴散らす。やえは何を考えているかわからないけれど、素朴な魅力があるのでヒロインらしくなっていきそうだ。やがては一松の子を宿し、剣術小説と家族小説を併せ持つストーリーに仕上がっていくのか。はたまた、異能を認められた一松が武家に召し抱えられて出世を果たす奇跡が起きるのか。
『秘剣』シリーズは全5巻。ぐずぐずしている暇はない。いつもの〝佐伯節”になるのは時間の問題だと考えていたのだが……。
混迷する物語は破綻寸前。ラストはまさかの……。
完全に裏をかかれた。物語は円満な方向に向かうどころか、示現流の本家本元である薩摩藩が亜流の示現流の遣い手である一松を始末すべく、総力を挙げて追いまくる新展開になるのだ。一松とやえの関係が冷えたわけではないが、やえは次第に置き去りにされ、物語は剣術や戦闘に特化して鋭く読者に迫ってくる。
どうするつもりなのだ佐伯泰英は。これでは先述したような、〝偽侍だった一松が腕一本で登用されて本物の武士となって大活躍する”話にはなりようがない。結末を決めずに行き当たりばったりで書いていくのが佐伯流とはいえ、どのようにストーリーを膨らませていくのか。
ここから先は読者によって評価が分かれるところだと思うが、佐伯マニアとしては興味深いものとなった。
やえの出番が減ったことでアクションシーンが増加し、その内容は激しさを増す一方。一松に頼れる味方はおらず、本気の薩摩藩は選りすぐりの遣い手に雇い入れた浪人衆まで加えた大量の刺客を放ってくるので、常に1対複数の闘いであり、ときには数十人を相手にすることもある。
第3巻のタイトルは『秘剣乱舞』。佐伯作品は数あれど、単身でここまで斬りまくるのは他に例がないだろう。人質に取られたやえを救うためという名目はあるが、鬼気迫る闘いぶりを読むと、真意はこの男をとことん戦わせてみたいという一点にあると思えてならない。それは剣術アクションを描き切りたいという作者の、欲望に忠実な行為でもある。
読者を楽しませることを最優先してきた佐伯作品群にあって、『秘剣』シリーズが異色なのはこの部分だと思うのだ。
それがどんな結果を招くのかは読んでのお楽しみだが、一読者としての感想を記しておきたい。私の気持ちをざわつかせたのは、第4巻『秘剣孤座』の後半だった。精鋭部隊を一松に倒された薩摩藩は以前ほどの脅威ではなくなり、やえを取り戻した一松は、やえとその家族に囲まれて平穏なひとときを過ごしている。しかし、一松はそれを、いつまでも続くはずのない時間だと察知し、やえを残して再び旅立つ。
〈最後の一夜をやえと一緒に過ごした一松は、翌朝七つに安積覚兵衛とともに白子を出立した。
「いつお戻りですか」
とやえは訊かなかった。やえもまた一松の用が自らの意思で決められないことを承知していた。ただ、
「ご無事でいてください」
と送り出した。〉(第4巻260ページより)
気丈にふるまうやえの心情を知りつつ、一松は「必ず戻ってくる」とも言わず、やえと別れを惜しむこともなく新たな旅に向かう。やえは、どの佐伯作品のヒロインにも似ていない独特な存在として登場し、ここで出番を終えることになった。
残り1巻。全体を貫くテーマがないのに、師匠を失い、難敵の薩摩剣士たちを葬り去り、やえとも別れた一松は、どこで誰と闘えばいいのか。結末はどうなるのか。読者に心配させないのがモットー(?)の佐伯泰英なのに、もしかすると一松が命を落とすことになるのでは、と不安になるほど先が読めない。
ドキドキしながら最終巻を読み始めた。ひとりぼっちになった一松は武士になる当てもなく、師匠の墓をなんとなく目指して歩いている。執筆当時、これで最終巻とどの段階で決めたかは定かでないが、破綻寸前の物語を立て直すためには宿敵となり得る剣豪を登場させるしかないような状態。それができたとしても、薩摩を相手に何十人も斬りまくるような見せ場が再び作れるとは考えにくい。
このように、大ピンチを迎えた最終巻なのだが、個人的にはこの巻がもっともおもしろかったのである。やけくそ気味に一松を妖術の世界に引き込む展開は、これまで積み上げてきた物語は何だったのかと呆れるほどわけがわからないのだが、ページをめくる手が止まらなくなるのだ。そして、その闘いが終わったとき、ほとんど紙幅は残されていない。
そう、佐伯泰英は予想もしない結末を用意した。さんざん暴れまわったあげく、最後の行に〈完〉の文字もないまま「なんとなく幕を閉じる」のである。終わったとも受け取れるし、時を経て、素知らぬ顔で続編が出てもおかしくない不思議なラストなのだ。発表された当時、愛読者たちは「え、これで終わるの?」と、さぞかしモヤモヤしたに違いない。
時を経てこの作品に触れた私は、第6巻が出なかったことを知っている。だが、それは剣術をメインとする小説への意欲を作者が失ったからではない。とうとう武士になることはできなかったが、一松ができることはやり尽くした、ここが潮時と決めたのだろうと想像する。
が、どこか不完全燃焼だったとも感じていた作者が、一松がこの世でただひとつ夢中になった剣術というものを、より純粋に追求する作品を書くチャンスを狙っていたのだとしたらどうだろう。後年手掛けることになる『空也十番勝負』シリーズには、一松の無念を晴らす意味合いもほんの少し含まれている……というのは、私の考え過ぎだろうか。
※ 次回は、8/31(土)更新予定です。
見出し画像デザイン 高原真吾(TAAP)