
鈴峯紅也『警視庁監察官Q ZERO2』第6回
11
「上司から話は聞いています。――申し遅れましたが」
観月は井ノ原が差し出す名刺を受け取った。
社名に続き、課長補佐という肩書きが目に入った。あとは本人の名と住所連絡先だ。
「家庭教師に入った日の結果報告だけは、メールで結構ですので、よろしく」
「わかってます。引き受けた以上、カクテルの分は働きますよ」
「カクテル?」
「いえ。ご存じないのなら別に結構です。大事な部分ではありません」
「そうですか」
井ノ原は静かに微笑んだ。なかなか如才ない男のようだ。
「ああ。そうそう。玲ちゃんにはですね――」
私の顧客の関係で現役東大生と知り合った。快く家庭教師を引き受けてくれた。ラストスパート、頑張って。
観月のことは、そんな説明をしてあるという。
「噓はないですから。その辺の話は普通にしてもらっていいんじゃないでしょうか」
「わかりました」
「では、行きましょうか」
井ノ原はロビーに入る自動ドアの、オートロックの前に立った。
「鍵を預かるっていう話もあったんですがね。それは私の方で断りました。若い娘さん一人の場所に踏み込むのはどうも。受験の妨げになるのは本意ではありませんし」
7階の部屋番号を押し、〈呼び出し〉ボタンを井ノ原は押した。
――はい。
待つほどもなく返答があった。
はっきりとした意思が聞こえる声だった。
この日、観月の訪問が3時過ぎになったのは、観月の都合ではない。相手方の塾の冬期講習が、年末年始もなく、朝から2時まで詰まっていたからだ。
正しい受験生の冬休みといえるだろう。
エレベータで7階に上がり、角部屋の壁付けインターホンを押す。
すぐにドアが解錠され、井ノ原を先頭に室内に入った。
部屋は3LDKだと聞いていた。玄関から細長い廊下が続き、その先がリビングだった。
シックな天然木のサイドボードがあって、同じ風合いのテーブルと革張りのソファがあった。
だいぶ年数を感じる調度品の数々は、もしかしたら高木明良の好みだろうか。テレビとテレビ台、マガジンラックとキャスターワゴンは、それらと比較すれば新しかった。
ソファの前に、背を伸ばすようにして立つ女の子がいた。丸眼鏡を掛けたおさげ髪の、少しそばかすが多めの女の子だった。
身長は150センチ台半ばか。年齢を考えればいずれ、もう少し伸びるだろう。
高木明良の娘と言われれば、たしかに目元が父親に似ているように思えた。
とは、知った今なら沖田剛毅に似ているともいえるが、つまりそれは、沖田の血筋が為す特徴なのかもしれない。
「初めまして」
目が合うと、向こうから先に頭を下げた。おさげが振り子のように跳ね上がった。
観月も頭を下げる。
「こちらこそ、初めまして。小田垣観月といいます。玲ちゃん、でいいかな」
「はい」
「私のことは観月でいいわよ。これから、短い期間だけどよろしくね」
玲は大きく頷いた。
「じゃあ、観月先生。早速ですけど質問です。東大なんですって」
聞いてくる丸眼鏡の奥に、きらきらとした目があった。
「そうね」
「現役合格?」
「そうね」
凄ぉい、と言って、玲は胸の前で両手を組んだ。
ふと、懐かしい感じがした。
観月自身が紀ノ川女子学園に通っていた当時、教室やテニスコートの外に溜まっていた女子の感じだ。
「あなた、玲ちゃんはどこを受けるの」
「えっと、滑り止めが都立の**で、第1志望はですね」
玲は、W大学の付属高校の名を口にした。
詳しくはないが、観月の知識の中でもそれは、都内でも難関と言われる中の1校だった。数年前に共学になった高校で、その年から倍率はさらに上がったと聞いた覚えがあった。
「へえ。凄いじゃない。頭いいんだね」
「そんな。東大に現役合格した人に真顔で言われても」
「ああ。ごめん。真顔は直しようがないから」
「えっ」
玲は不思議そうな顔をした。
観月との関係において、時間と会話が足りない人は往々にしてそうなる。
だから、どうとも思わない。観月には馴染みのものだった。
「私についての説明とかは、必要ならおいおいね。とにかく、高校のレベルで比べるなら、私のとこはそこまでじゃなかったわよ」
観月が言うと、井ノ原が咳払いで会話を切った。
「では、私は他に仕事があるので、これで失礼します。玲ちゃん、後は君の方でよろしくね」
「はい。有難うございました」
井ノ原が去ると、玲が観月にお茶を用意しようとしてくれたが、それは断った。
観月は家庭訪問に来た教師ではなく、家庭教師に来たのだ。
「時間が惜しいわね」
「わかりました」
すぐに納得してくれた玲に、勉強部屋を見せてもらう。
パイプベッドと勉強机と本棚と、木製のしっかりしたポールハンガーに、右手の奥にクローゼット。
8畳の洋室はそれだけで、割とすっきりしていた。ただ女の子らしく、至る所にピンクが配色され、シナモロールがいた。ベッドの上にはジンベエザメやダンボを始めとした数々のぬいぐるみ。観月の部屋にはこれまでもこれからも、絶対にないものだ。
だから少し、興味深かった。
「へえ」
思わず声が漏れた。
「何か?」
玲がまた不思議そうな顔をした。
「何も。じゃ、始めよっか。自宅学習のときの教材は?」
聞けば、塾からのプリントがあるという。
「今日はまず、それを進めてもらおうかな。合間合間で私も質問したりするけど。何かあったら玲ちゃんからも聞いて」
「わかりました」
「それと、成績表ってある? 塾でも学校でもいいけど。ああ。学校なら試験の用紙がいいな」
ショルダーバッグを脇に置き、それから、玲が用意した成績表を観月なりに精査する。
W大学の付属高校受験に必要な科目は英語と国語と数学だ。都立高校の受験にはその他に社会と理科が加わるが、現状、どれをとっても悪くなかった。
この分ならよほどのミスがない限り、第1志望の合格は射程圏内だろう。
沖田剛毅の、祖父もどきの心配は杞憂に終わる可能性が高い。
それならそれで――。
〈長江〉でのカクテル分の仕事を、何も考えず全うするだけだ。
玲がプリントをこなしている間、質問があれば答えることを繰り返しつつ、本棚の参考書や問題集を手に取った。
観月にとって懐かしい物もあれば、目新しい物もある。どれも裏表紙の下方に、〇に玲を入れた彼女のサインがあった。やはりピンクが好きなようで、蛍光のピンクで書かれていた。
それらにざっと目を通し、押さえるべき項目と、それが記載された本とページを、自分が持ってきたバインダーのルーズリーフに書き出す。
作成するのは、設問集にも似たものだ。
参考書や問題集の別はない。必要事項が過不足なく示され、すんなり頭に入るものをチョイスする。
国数を主にして、この日の家庭教師を終えるまでにざっと200項目になった。
「じゃあ、年が明けたら本格的に始めるから」
「はい」
「それまでに、これ」
バインダーからルーズリーフを外し、机に置く。
「宿題ですか」
「そんなものね。塾で忙しいと思うけど、この辺りを徹底的に頭に叩き込んでおくのよ」
「わかりました」
玲は胸を張り、愛らしい敬礼の真似事をした。
短時間ではあったが、観月の合間合間の質問や回答に一目も二目も置いてくれた感じだ。
だがそれだけでなく、
「で、観月先生は明日から帰省でしたっけ?」
「そう。チケットも取っちゃったしね」
質問や回答に付随する会話を通して、だいぶ打ち解けてもくれたようだ。
かえって、観月の人となりが玲に拠って引き出された感があった。
まだ中学生でも、玲の社交性は観月より遥かに高いようだった。少なくとも真っ直ぐで〈普通〉な感じは、そこいらに転がっている東大生とは段違いだ。
最後に、観月は今後のスケジュールを確認した。
まず試験勉強の中心となる塾の冬期講習は、1月6日の木曜日まであるということだった。
観月の授業やバイトの関係もあって、家庭教師の始動は5日からということに決めた。
初日の5日は、観月の授業がないので3時から6時で、6日は3限まで授業がある関係で4時から6時に時間設定した。7日は玲の中学校で3学期の始業式ということで、家庭教師は休みだ。
以降は、土曜を含む祝休日の午後2時から6時が、基本的に観月の出番だった。
土日及び祝日が毎週定期的に2時からになったのは、玲が毎週末必ず、大井町総合病院の面会時間に、母・愛子の見舞いに行くことが決まっていたからだ。
午後イチで入って、30分ほどを病室で一緒に過ごすという。それで家庭教師の時間は、その後の4時間を充てることで決定した。
その後の、11日以降の平日に関してはその都度、玲の都合を聞いて週2日から3日、時間もそのときに決めることになった。
玲にとってもハードだろうが、観月にとっても結構ハードだ。
「大学の方はいいんですか」
と、玲に逆に心配されたが、実際、1月初旬に数日は残りの授業があるが、すぐに補講の期間となり、間を空けず試験期間に突入する。
といって、観月には必須の補講はなく、その後に続く試験についても、教科書や必要論文のすべてはすでにというか、一読で頭の中に納まっている。なんなら先輩からもらった教科書の落書きの位置すら覚えているわけで、全体に遺漏などあろうはずもない。
すでに観月にとって大学の2年次は、ほぼ終わったようなものだった。
やや問題があるとすれば銀座のバイトのシフトだが、それはなんとでもなる。
いや、なんとでもする。
どうしても、と店長や副店長や物好きな予約指名客に泣きつかれた日でも、大井町から銀座までなら30分程度だ。玲のマンションから〈蝶天〉まででも、45分あれば着く。
いや、なんとしてでも到着する。力ずくで到着する。
7時からの〈蝶天〉のミーティングに、〈ぎをん屋〉の創作京風スイーツが饗される限り。
思わず拳を握る観月を、玲がまた不思議そうに見上げていた。
「大丈夫。オールクリア」
観月は慌てて拳から親指を立て、サムズアップで心配要らないことを示した。
ポーズに笑顔がつけばさらに安心感は出るだろうが、出来ないものは仕方がない。
真顔でサムズアップ。
「あ、大丈夫ならいいんですけど。よかった」
それでも玲はわかってくれたようだ。
いい娘だ。
そんないい娘だから、いいと言ったが外まで見送ってくれた。
マンションの風除室から外には、もう夜が広がっていた。
ふと植え込みから区道に目を向ければ、大手宅配業者のバントラックが通り、バイクが通ってタクシーが通った。
植え込みの手前には、明るいうちは気にしなかったが、スタンド灰皿を備え付けたベンチが1脚だけあった。
そのすぐ近くに、両腕を抱えて寒そうにしながら煙草を吸う男性が2人いた。
吸う煙草の火のかすかな光に浮かぶ顔を見る限り、若い男性のようだ。
近年、禁煙化の波に押され、喫煙場所は狭められている。家の中でも家族に嫌煙権を主張され、ベランダや、そこも追い出されて外で喫煙する人も増えているという。
それでも吸いたいという欲求が観月にはわからない以上、大変ですねという気にはなれないが。
「じゃあ」
「有難うございました」
「次は年明けね。5日にくるわ」
「はい」
「期待しておいて」
「何をですか」
「いい物を持ってきてあげる」
「和歌山から?」
「そう。じゃあ、良いお年を」
そう言って手を上げ、観月は〈和進レジデンス1番館〉を後にした。
12
予定通り、31日に観月は和歌山に帰省した。
実家への到着は午後の3時過ぎになった。
「ただいまぁ」
「はい、お帰り」
出迎えてくれたのは母の明子だった。
父の義春はこの日も仕事のようだ。
義春は、日本屈指の高炉メーカーであるKOBIX鉄鋼和歌山製鉄所の所長とも言うべき、総炉長を務めていた。
高炉は鉄溶鉱炉とも呼ばれ、鉄鉱石から銑鉄を取り出すための設備だ。1度火を入れたら、基本的には止めることはない。
――炉に火が入ってる以上、責任者の私に休みは、あってないようなものなんだ。
済まないね、と総炉長に就任した夜、観月は義春にそんなことを言われた。
幼い頃の話だが、寂しいと思った記憶だけは今も鮮明だった。
かくて義春は、この2004年の大晦日も出勤のようだった。
母と話し、買い出しに付き合い、スーパーで出会った昔馴染みと立ち話をし――。
5、6人、その程度、両手で足りるほど。
けれど、そのくらいがちょうどいい。
バイアスの掛かる前の、お転婆で明るい12歳までの自分を知る者たちばかりの土地は、観月には多少空気が重かった。
嫌いというわけではない。ただ、顔を上げようとする意識の分だけでも、ほんの少し普段より力が必要だった。
母と家に帰って、おせちの支度を手伝い、年越し蕎麦の準備をする。
義春が帰ってきたのは、午後6時を回った頃だった。観月の感覚からすれば驚くほど早かった。
やはり大晦日、ということなのだろう。
「お帰り」
「ただいま」
ただいまと言って帰ってきた観月が、お帰りと出迎える。実家とは不思議なものだ。離れて住んでも、帰れば普通の暮らしがすぐに始まる。すぐに馴染む。
元日も、特に変わったことのない〈毎年〉の元旦からスタートだ。
家族揃って若宮八幡神社に詣で、家に帰って真菜と金時人参と丸餅の和歌山らしい雑煮を食べる。
屠蘇の入った義春は、普段以上に機嫌よく饒舌だった。
「金はあるか。このところエスオーエスがないが。無理することはないんだぞ」
そんなことを聞かれたりした。
「大丈夫。割のいいアルバイトが見つかったから」
「ほう。どんな」
まさか夜の蝶、とは言えない。楓にも、
――けど観月。ご両親には絶対に、口が裂けてもバラしちゃ駄目だぞ。
と忠告されている。先輩の言い付けは、割り合い守る方だ。
「えっとさ。テニスのコーチ、かな。個人レッスン」
「なるほど、個人レッスン。そうか。まあ、我が子ながら、お前はインターハイ3連覇の猛者だものな。なるほど」
義春は嬉しそうだった。
その笑顔に釣られて、観月の口も軽くなった。
「あ、あとさ、家庭教師」
W大の付属を受ける女の子で、優秀でさ――。
娘の話を、黙って聞く温かな父の目、そして、母の微笑み。
「良かったな」
「良かったわね」
うん、と言って雑煮の椀に顔を埋める。
ただ、赤ら顔の父に、
――そうだ。今度、レッスン風景の動画でも送ってくれ。
そう言われたときには、思わず小豆を吹きそうになったが。
元日はその後、各自で年始回りで出たり入ったりを繰り返した。2日も適当に顔出しはしたが、それが終われば、特にしなければならないことは何もなかった。だから正月だ、とも言える。
暇に飽かせ、東京に戻ったら玲に渡すつもりの設問集を作る。設問と、答えが記載された本とページを箇条書きにしてルーズリーフに書き出す作業だ。
観月の頭には、玲の部屋にあった参考書や問題集の中身はすべて入っていた。
帰る日、3日の朝を迎えるまでに500項目を超え、A4のルーズリーフで40枚に近くなった。
そうして東京に帰る朝、両親が揃って駅まで送ってくれた。
「じゃあな」
言葉は前に立つ義春だ。
「うん」
「授業が四日からじゃあな。成人式は残念だが、国立大とはそういうものなんだろうな。ま、それはそれで誇らしい、と思わなくちゃいけないんだろうな」
そうだね、というほかはない。
ただ、心苦しくはあった。
年明けの授業開始が早い東大では、20歳になる学生が帰郷してまで成人式に参加するかどうかは微妙だ。その時間と金銭は馬鹿に出来ない。
それで義春は、1人娘の成人式への不参加を納得してくれているようだが、観月の思いは少し違った。
振袖を着ても仲間と並んでも、カメラに向かって笑ってと言われても、小学校の卒業式以来、いつのときも観月は1人だけ写真の中で浮いていた。
節目と記念に、観月にはいい思い出はない。
だから、どうでもいいというのが、偽らざる思いだ。
最後は少し伏し目勝ちになり、観月は和歌山を後にした。
ドミトリーへの到着は、午後になった。1時を回った。
帰京した寮生はまだそう多くないようで、全体的に在寮生は、居残った者以外さほど増えていないようだった。
こういうとき、ドミトリー・スズキには、国立大である東大生ばかりが住んでいるわけではないことを実感する。
週明けの11日から授業が始まるという大学もあれば、5日からすぐに学年末試験に突入するという大学もある。
(いや、大学だけのことじゃないよね)
たとえ大学が11日からだったとしても、観月の場合には銀座という、キャリアの〈生活圏〉でのバイトのシフトが入っていた。
官公庁の御用始めに合わせ、ドレスを着たり、シェイカーを振ったりして。
去年の残暑の頃まではまったく想像もしていなかったことではある。
まだまだ経験も浅い齢20歳の若輩にしても、だから人生は、
(面白い、かな)
そんなことを思いながら食堂に足を踏み入れる。すると、
「お帰り」
竹子が正月3が日らしくもない、渋い顔を暖簾の向こうから覗かせた。
「あんたさ。去年も言ったような気がするけどね。お土産ってのはさ、手に持って帰ってくるもんさね」
「あ、届いた?」
聞いたが竹子は答えず、渋い顔をそのまま食堂の奥に向けた。
壁際に、規格の100から120サイズの段ボール箱が〈山〉と積まれていた。この日に届く物は時間指定便だけで20箱くらいあるはずだった。
その他、間に合えば送ると言われた分もあるとすれば一応、小さな山くらいにはなるか。
「あんたさ。あれは引っ越し荷物の量さね。いいや。あれは、あんたの入居のときの荷物より多いさね」
「そうかな」
「馬鹿みたいに大量の甘い物を送りつけてくるんじゃないよ。しかも今年は、パワーアップしてるじゃない」
「そりゃ年々、私も人付き合いの幅は広がるから」
「いいことだね。ああ、いいことさね」
言葉にあまり気持ちが入っていないような気はしたが、あまり気にしない。3が日だ。
元日、観月は年始回りの傍らで、和歌山名物のお土産を買い求めた。両親にも手伝ってもらった。
寮に住む全員と松子と竹子、それに大学でサークルやクラス、〈Jファン倶楽部〉の面々に配るつもりの分だ。
竹子が言うように量は〈多少〉増えたが、増えた分、みんなの笑顔も増えるはずだった。
誰もが、甘い物を食べると笑顔になる。観月には絶対に出来ない表情だ。
段ボール箱のお土産には、それを見たくて買う、という側面もあった。
観月の我が儘、あるいは無いもの強請りだが、誰しもがみな、甘い物は好きに決まっている。
だから、あまり文句を言われる筋合いはないと思うが――。
しかも、去年は両親におんぶに抱っこだったが、今年はすべて自分で買い求めた。
まあ、自分の財布から気兼ねなく出費する分、ゆるみがあったのは否めないが、そんな〈幾ばくかの増量〉は、日頃のお世話に対する感謝の気持ちのささやかな増量だ。
いずれにしろ、誰に後ろ指差されることもない。
「あ、わかった」
観月は指を鳴らした。
「そうならそうといえばいいのに」
ふと思いつき、段ボール箱の〈山〉に足を向けた。
「ちょっとお待ち。いや、待っておくれ」
何を思ったか、竹子から懇願のような声が飛んだ。
要らないよ、と聞こえた気がした。
「何?」
「箱ごとなんて要らないよ」
意外だった。
「え、要らないの? それで怒ってるんじゃないの?」
「人を化け物みたいに言うもんじゃないさね。ひとつで十分。せめてふたつ。3つ以上は勘弁しておくれ」
観月は腕を組んだ。
「わからないな。それだけじゃあ、今日の3時のお茶請けで終わっちゃうじゃない」
竹子は真っ直ぐに観月を見て、真っ直ぐに溜息をついた。
「悪気の無さがまた、あんたの真骨頂だけどね」
両手を上げた。普通、それは降参のポーズのような気もするが、あまり気にしない。なにしろ3が日だ。
「ねえ。今のとこ、ドミトリーには何人いるの?」
顔を天井に動かし、聞いてみた。
「そうさね。ずっといたのが五人で、今日までに帰ってきたのが、あんたを入れて6人だね」
「じゃあ、10人と竹婆だね」
「寮長」
「寮長を入れて11人分か。〈詰め合わせ〉に出来るかな」
観月は和歌山土産の山に近付き、1番手近な箱を開けた。
「ああ。配るつもりなら、みんなが揃ってからでいいだろうに。その分、手間も省けるってもんだろうに」
「でもさ。邪魔でしょ」
「今さら邪魔もクソもあるかい。もう積んであるだろうに」
「でもさ。明日と明後日にも届くよ」
「すぐおやり。今おやり」
帰ったばかりだというのになぜか急かされ、早々に仕分けに取り掛かった。1時間は優に掛かった。
逆に言えば、それでも2時過ぎだったので、〈四海舗〉へ顔を出すことにした。
正月3日だ。今ならまだ電車も混んでいないだろう。
そう踏んで、段ボール箱を1つ抱えた。
皺くちゃの笑顔見たさの奮発だったが、意に反して〈四海舗〉でも、まず反応は松子の一瞬の沈黙だった。
「ああ。悪い悪い。その箱を見たら悪寒がしてね。挨拶が喉に詰まっちまった」
それから、明けましておめでとう、と松子は言った。
「あんたも今年で3年だね。3年になるのにね」
「そうだけど。何かある?」
「加減って言葉をさね。そろそろ覚えた方がいいさね」
「え。――あ、足りないってこと?」
馬鹿おっしゃい、と松子は、割と強い声で言った。
※ 次回は、2/3(月)更新予定です。
見出し画像デザイン 高原真吾(TAAP)