麻見和史『殺意の輪郭 猟奇殺人捜査ファイル』第19回
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臨時の会議を終えて、刑事たちは再び捜査活動を開始した。
尾崎と広瀬は木場駅に向かって歩きだす。その途中、彼女はバッグからスマホを取り出した。
「電話を一本かけさせてもらえる? 例の協力者よ」
「ああ、どうぞ」
尾崎は彼女を見守る。じきに相手と繋がったようで、広瀬は話し始めた。
「お疲れさま、広瀬です。……ああ、それはいいんです。調査に時間がかかるのはわかっているので。……電話したのは別件についてです。もうひとつ調べてほしいことができたんですよ。……まあ、そう言わずに。北野康則という男を知っていますか? 野見川組の関係者なんだけど、その男が深川署の刑事と接触していたらしいんです。……刑事の名前は菊池信吾。昨日の夜、ふたりが会う約束をしていたという情報があります。……いえ、残念ながら北野の顔写真は入手できていません」
広瀬はこちらでわかっていることを伝え、北野について調べてくれるよう依頼した。現在その協力者には、郷田と手島のことを調べてもらっている。そこに追加の調査を依頼する形になった。
電話を切って、広瀬はこちらを向いた。
「特急料金を増やしてほしいと言われた。仕方ないわよね?」
「ああ、そうだな。特急料金に加えて、グリーン車の料金も出しておこうか」
「面白いわ。今度、伝えておくから」
まったく面白くなさそうな顔をして、広瀬は言った。
尾崎たちは野見川組の関係者を当たっていった。
菊池が会おうとしていた北野は、野見川組の下働きをしていたことがわかっている。組に所属してはいないようだが、仕事を手伝っていたのであれば、組員たちは北野のことを知っているはずだ。
だが、組員たちの口は堅かった。
尾崎たちは初めて組員に接触するが、彼らにしてみればうんざりというところだろう。三好事件以降、捜査員が繰り返し野見川組へ聞き込みに行っているからだ。
「何度も何度も話してるんですよ。俺たちも暇じゃないんでね、同じことを訊くのはやめてもらえませんか」
顎に傷のある組員は、面倒くさそうに言った。どうやらそれは噓や演技ではなさそうだ。しつこく聞き込みをされて心底迷惑している、という表情だった。
「いや、今回は別の話なんだ」尾崎は相手を宥めるような仕草をした。「前にほかの刑事が訊いたのは、郷田裕治と手島恭介のことだろう? 今回俺たちが訊きたいのは北野康則という男のことだ。組の手伝いをしていたらしいから、手島と同じような立場だったと思うんだが……」
「だからね、北野なんて男のことは知りませんよ」
「じゃあ、菊池という刑事のことはどうだ? 組員と接触していたことはなかったか?」
「そんなこと、俺が知ってるわけないでしょうが」
本当は知っているのかもしれない。だが刑事などには情報を与えたくないという気持ちがあるのではないか。あるいは、組の幹部から口止めされている可能性もある。
いずれにせよ、彼らから情報を引き出すのは簡単ではなさそうだった。
二時間ほど聞き込みを続けたが、これといった情報はつかめない。北野という人間がいるのかいないのか、それさえ疑わしく思えてきた。臨時の捜査会議で報告されたのは、本当にたしかな情報なのだろうか。もし何かの間違いだとしたら尾崎たちだけでなく、ほかの刑事たちも無駄な捜査をすることになってしまう。
だが、そのうちようやく当たりが出た。北野を知っているという男性が現れたのだ。
彼は組員ではなく、野見川組と関係の深い人材派遣会社の人間だった。フロント企業というわけではないが、おそらく裏で金の流れはあるだろう。そういう立場の人間が組の情報を漏らすというのは、普通では考えにくいことだった。にもかかわらず、その男性は聞き込みに応じてくれたのだ。おそらく野見川組に対して何か思うところがあるのだろう。ずっと金を吸い上げられているから、不満を持っているのかもしれない。
「北野康則さんですよね。知ってますよ。直接会ったことはありませんけどね。たしか二年ぐらい前から、組の下働きをしているはずです」
痩せて青白い顔をしたその男性は、声のトーンを落として言った。内容が内容だから、周囲を気にしているようだ。
「もともと北野さんは、そっち関係の人間だったんですかね」
尾崎が訊くと、男性は素早く首を横に振った。
「いや、前は堅気だったようですよ。詳しいことは知りませんが」
「そういう人がどうして組と関わったんでしょう」
「わかりません。まあ、でも世の中ってそういうもんでしょう。私だって、まさか自分がこんな立場になるとは思いもしなかった。……刑事さん、頼みますよ。組と繋がっている会社だからって、あとで私までしょっ引かないでください。こうして捜査に協力しているんだから」
「もちろんです。我々を信じてください」
尾崎は力強くうなずいてみせた。ここで信頼関係を作っておかないと、相手の口は閉ざされてしまうに違いない。
「北野さんは組とどんなふうに関わっていたんですか」
「私が聞いた限りでは、けっこう深い関係だったみたいですね。基本的に仕事は断らなかったから、かなり信用されていたとか。便利に使われていたようです」
「北野さんが刑事と会っていた可能性はありますかね」
ネタ元だったという情報は伏せて、尾崎は相手に尋ねた。男性は首をかしげる。
「……もしかしたら組員からの頼みで、刑事に接触したことがあったかもしれませんね。金を握らせて、捜査の情報をもらうとか」
「刑事からの情報が野見川組に流れていた、と?」
「まあ、そう考えることもできますよね」
尾崎は腕組みをして考え込んだ。
頭の中に菊池の姿が浮かんでくる。人のよさそうな顔をして、受けない冗談を飛ばす、憎めない人物だった。彼はネタ元に会うため、昨夜捜査本部を出ていったと考えられる。しかしこの男性の言うように、裏で野見川組に協力するようなこともあったのだろうか。
それはない、と信じたかった。
はたして事実はどうだったのか、それを突き止めるのが先決だ。北野は協力者として、菊池にどんな情報を提供しようとしていたのか。
「ところでその北野さんは、郷田裕治や手島恭介と知り合いではなかったでしょうか」
「郷田裕治……」男性は眉をひそめた。「その人は知りませんね。手島さんの名前は聞いたことがあります。組の依頼を受けて、運び屋なんかをしていた人ですよね。何日か前に殺されたって聞きましたけど」
「そうです。我々は今、その事件を調べているんです」
「え……。手島さんが殺された事件に、北野さんが関わっているってことですか? もしかして手島さんのことを……」
「いや、それはわかりません。今は情報を集めている段階なので」
尾崎は口元を緩めてごまかしたが、相手は何か悟ったという顔をしている。この話の流れであれば、勘のいい人間なら気づくだろう。
「北野さんが今どこにいるか、知りませんか」尾崎は尋ねた。
「知りませんね。会ったこともない人ですから」
ほかにも質問を重ねてみたが、それ以上の情報は得られなかった。
礼を述べて、尾崎たちはその男性と別れた。
昼食をとっていなかったことに気づいて、尾崎は広瀬に話しかけた。
「軽く何か食べておこう。この先も忙しいだろうからな」
「そうね。また事件が起こるかもしれないし」
その言葉を聞いて、尾崎は顔をしかめた。
「嫌なことを言わないでくれよ。心配になってくる」
「尾崎くん、意外と気にする質なのね」
「こういう仕事をしていると、縁起を担ぐことが多くなる。これ以上、悪いことは起こってほしくないからな。……君はそうじゃないのか?」
「もちろん、悪いことは起こってほしくない。でも、あらかじめ心の準備をしておくことは大事でしょう」
「そのとおりなんだが、できれば口に出してほしくないな」
「わかった。以後、注意します」
立ち食い蕎麦屋に入って、急いで食事をした。尾崎は蕎麦とミニ天丼のセット、広瀬は天ぷら蕎麦だ。
「蕎麦屋にしてしまってすまないな」
「え? どうして」広瀬は不思議そうに尋ねてくる。
「いや、立ち食いのこんな店でさ」
「……こんな店というのは、お店にちょっと失礼かなという気もするけど」
「ああ、そうか。たしかに君の言うとおりだ」
うなずいて、尾崎は残りの蕎麦をすすった。
そのとき、店の奥から口論する声が聞こえてきた。どうやら客と店長との間でトラブルが起こったらしい。何が原因かはわからないが、客を客とも思わないような態度で店長は怒鳴り散らしている。捨て台詞を残して客は出ていった。店長は乱暴な調子で器を洗い始めた。
しばらくその様子を見ていたが、やがて広瀬はこちらを向いた。
「驚いたわ。尾崎くんの言うとおり『こんな店』だったわね」
「俺も驚いている。客商売であれはないよな」
「トラブルか……」広瀬はつぶやくように言った。「男の人って、カッとなるとすぐ手が出るものなの?」
どうやら、五年前に起こった郷田と坂本のトラブルを思い出したらしい。
「そういうところはあるかもな。酔っていたとすればなおさらだ」
「でもナイフを出すのは、かなりまずいことよね」
「普段から持ち歩いていたのなら、出すかもしれない」
「郷田はナイフを使い慣れていたのかしら」
「そうかもな」尾崎はうなずく。
広瀬は何か考える様子だったが、じきにコップの水を飲み干して食事を終えた。
店を出て、尾崎たちは捜査に戻った。
北野康則について、さらに調べていく。先ほどの男性とはまた別に、北野を知っているという人物が現れた。
通称「アキト」という十九歳の少年で、半グレグループの一員として野見川組と関係があったらしい。今はグループを抜けて、建築会社で働いているそうだ。
「ああ、北野さんなら、何度か会ったことがあるよ」アキトは言った。「一緒に食事に行ったときも、卓球とかの話で盛り上がったんだ。けっこう話しやすい人でさ。俺なんかにも気をつかってくれた」
「北野さんはどういう人なのかな。何か聞かなかったかい」
アキトは記憶をたどる表情になった。
「目的があって闇社会に入ったって言ってたよ。苦労したけど、いろいろ覚えて勉強になったって。ヤバい仕事もどんどん引き受けていたらしい。さすがに殺しはやらなかったみたいだけどね」
「組でも評価されていたのかな」
「そのうち組員になるんじゃないかって噂もあった」
これは予想外の情報だった。北野のことを推測するのに役立ちそうだ。
アキトと別れてから、尾崎は広瀬に話しかけた。
「組で信頼されていた北野が、一年前に菊池さんのネタ元になった。気にならないか?」
「大いに気になるわね」広瀬は言った。「もしかして、北野という男は二重スパイだったのかしら」
「俺もそう思った。実は暴力団から、警察の動きを探るよう命令されていたんじゃないだろうか」
「その北野に会いに行った夜、菊池班長は殺害された……。北野の仕業だったという可能性は高いわよね」
そう思うのが普通だろう。尾崎は考えを巡らしてから、広瀬に言った。
「ちょっと強引な推測かもしれないが、もし北野が菊池さんをやったのだとしたら、手島と白根さんを殺害したのも北野じゃないだろうか」
「動機は?」
「暴力団幹部の命令だ」
「……そういう話になると、北野という男が殺し屋みたいになってしまうわね。さっきの聞き込みでは、北野は殺しはやらないということだったけど」
「まあ、そこはこれから調べないとな」
もちろん、しっかり裏を取る必要がある。推測するのは自由だが、根拠のないまま突っ走るわけにはいかない。
「とにかく、手がかりはつかめた。北野を捜さなくては」
「そうね。急がないと」
いずれ彼の写真を入手しなければならない。そのためには、ほかの捜査員たちの力を借りる必要がある。
今、北野はどこにいるのだろう。一刻も早く彼を見つけなければ、と尾崎は思った。その結果、彼が殺人犯だと判明するのか、それともまた別の情報が出てくるのか。
顔のわからない北野の姿を想像しながら、尾崎は次の捜査について考え始めた。
※ 次回は、5/10(金)更新予定です。
見出し画像デザイン 高原真吾(TAAP)