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麻見和史『殺意の輪郭 猟奇殺人捜査ファイル』第15回


「小学生のころ、私の父は病気で亡くなりました。それ以来、母が仕事に出ている間、私は近所に住む豊村義郎という人によく面倒を見てもらっていたんです。家に行って宿題を見てもらったり、おやつを食べさせてもらったり、いろいろ助けてもらいました。……ところが今から二十一年前、私が十六歳のとき、豊村さんがある事件の重要参考人になったらしいんです。下高井戸で起こった強盗殺人事件でした。八十代の夫婦が自宅で殺害され、現金や預金通帳が奪われたというんです。

 豊村さんは警察から何度も呼び出され、事情聴取を受けていました。私と母は豊村さんを訪ねていって、事情を聞こうとしました。あの人が事件を起こすなんて絶対にないと信じていたから、何か少しでも役に立ちたいと思ったんです。でも豊村さんは私たちに会おうとしませんでした。

 事件から三週間経ったころ、豊村さんは行方不明になりました。そして失踪から一週間後、秩父の山の中で遺体となって発見されたんです。高い崖から転落して亡くなったということでした。警察はそれを自殺と断定しました。でも私には信じられなかった。あの人が自殺なんてするはずはないし、そもそも強盗殺人事件なんて起こすはずがないんです。私は母と一緒に泣きました。あんなに泣いたのは、父が亡くなったとき以来だったと思います。……下高井戸で起こった強盗殺人事件の犯人は、今も捕まっていません」

 そこまで話して、広瀬は口を閉ざした。

 尾崎は戸惑っていた。今の話に出てきた広瀬は、感受性豊かな普通の少女というふうに思えた。だが現在の彼女にそういう印象はない。これまでに何かあったのだろうかと、不思議に感じられる。

「私は、迷宮入りになった下高井戸事件を解決したいと思って警察官になったんです」

「なるほど」と尾崎は言った。「立派なことじゃないか」

「いえ、立派ではないかもしれません。なにしろ私は、仕事の合間にこっそり下高井戸事件の資料を調べていたんですから」

「……それで?」

 話が妙な方向へ進んでいくのを感じながら、尾崎は先を促す。

「そのうち私は、おかしなことに気がついたんです」広瀬は続けた。「豊村さんの事情聴取をしたときの記録に、一部書き換えられた形跡があったんですよ。誰かが改竄した可能性があります。……そう考えると、あれこれ疑問が湧いてきました。警察は自殺だと断定しましたが、もしかしたら豊村さんは誰かに突き落とされたんじゃないかと」

 尾崎は身じろぎをした。今までよりも声を低めて、彼女に尋ねる。

「まさか、警察の人間が豊村さんの死に関わっているとでも?」

「そこまでは言いません。ですが、誰かがあの事件について、公表されていない何かを知っている可能性があります」

「どうだろうな。そう単純な話なのかどうか」

 首をかしげながら尾崎はつぶやく。それを見ながら広瀬は何度かうなずき、こう言った。

「ところで尾崎係長、これを聞いたら驚かれると思うんですが、実はその下高井戸事件の捜査に加わっていたメンバーが、今回の深川署の捜査本部にいるんですよ。偶然ではありますが、私にとっては情報収集のチャンスなんです。そういうこともあって、あの協力者にも調査を頼んでいたわけです」

「驚いたな……」

 てっきり今回の三好事件、赤羽事件のために協力者を使っているのだと思った。実は、そうではなかったのだ。

 少し考えてから、尾崎は彼女に話しかけた。

「事情はわかったが、今は目の前の事件に集中してくれないか。こちらは猟奇殺人事件だ。片手間にできる捜査ではないからな」

「もちろんです。下高井戸の情報収集は中断して、この先は三好事件、赤羽事件の捜査に全力を尽くします」

 広瀬ははっきりした声で言った。

 彼女を見て、尾崎は不思議な気分を味わっていた。広瀬から伝わってくる雰囲気が、これまでとは違っているように思えるのだ。捜査で一緒に行動している間、彼女は空気を読まずに思ったままを口に出しているようだった。顔はほとんど無表情で、何かを感じることを拒んでいるような気配があった。

 ところが今、広瀬の目つきは明らかに変わっている。瞳に光があるというべきか。その視線の変化だけでも、従来の彼女とはまったく違って見えた。周囲に注意を払い、物事を観察し、分析しようという意志が伝わってくる。
「どうしたんだ?」尾崎は彼女の表情を窺いながら尋ねた。「なんというか……今までとは別人のようだ」

「あるべき姿ですよね。警察官としての」

 たしかにそうだ、と尾崎は思う。今の広瀬には隙がない。犯罪者をひとりたりとも見逃さない、という気概が感じられる。

「……もしかして、今までの言動は演技だったのか?」

「演技というほどじゃありませんが、まあ、装ってはいましたね。気が利かなくて、ずけずけものを言ってしまう人間のふりをしていました」

「どうしてそんなことを」

「遠慮をしなければすぐ核心に迫れるし、話が早いじゃないですか。それに、相手に警戒されなくて済みます。ああ、こいつは気が利かない奴なんだ、と思われるだけなので」

「そのために、わざわざあんな振る舞いをしていたのか……」

 尾崎は腕組みをして唸った。そうだとすると、彼女の扱いに戸惑ったり、ストレスを感じたりしたことがすべて無駄に思えてくる。

「最初からその調子でやってくれればよかったのに」

 咎める口調で尾崎が言うと、広瀬はわざとらしく首をすくめた。

「私がこういう姿を見せるのは尾崎係長だけですよ。あなたは特別なんです。だって、もう身の上話をしてしまったし」

「まあ、口外はしないと約束するけど……」

「信じていますよ、係長」

 彼女は丁寧に頭を下げた。その姿を見ているうち、尾崎はどうも居心地が悪くなってきた。

「なあ、他人行儀な呼び方はやめにしないか? ずっと気になっていたんだ。君は俺の一年先輩なんだから」

「でも現在、階級は逆転しています」

「もう、いいじゃないか。元は同い年なんだし、固いことは抜きにしないか」

 尾崎が提案すると、広瀬はしばらく思案する表情になった。少し迷う様子だったが、やがて彼女はうなずきながら言った。

「わかった。じゃあ、尾崎くんと呼ばせてもらおうかしら」

「ああ、そうしてくれ。そのほうがやりやすい」

「それでは尾崎くん、明日からもよろしく」

 広瀬は口元を緩めた。滅多に見られない、彼女の本物の微笑だった。

 スマホで時間を確認したあと、広瀬は公園を出て三ツ目通りを歩きだす。

 ショートカットにした髪に、すらりとした手足。靴音を響かせて歩くさまは、颯爽とランウェイを進むファッションモデルのように見える。強い意志と自信を持って、彼女は歩いていく。

 しばらくその姿を見つめてから、尾崎は彼女のあとを追った。
 
第三章 異物の味



 一口に捜査本部と言っても、構成人員によって雰囲気が変わるものだ。

 指揮を執るのは捜査一課であり、尾崎たち所轄の人間はその指示に従うことになる。だから捜査本部の色を決めるのは所轄ではなく、警視庁本部からやってきた捜一のメンバーだ。

 今回の捜査を担当しているのは捜査一課五係で、そのリーダーは片岡係長だった。彼は尾崎が知っている係長の中でも、特に穏やかで紳士的な人物だ。会議のときなど部下ひとりひとりに声をかけてくれる。その結果、今回の捜査本部にギスギスした空気はなく、みな自由に、前向きに捜査をしているように感じられた。もちろん、大きなミスや手抜きの仕事には厳しい叱責があるだろう。だが片岡のやり方は、基本的には褒めて伸ばす方法なのだと思われる。

 捜査本部全体にそういう特色が出るのと同じように、ふたり一組のコンビにもそれぞれのカラーが出るものだった。

 基本的には階級が上の人間が捜査のイニシアチブを取ることになる。このコンビで言えば尾崎は警部補、広瀬は巡査部長だから、何も迷うことはないはずだった。

 だが昨夜のことがあって、尾崎はもやもやした気分を感じている。

 過去二日間の捜査で、尾崎は広瀬に対して「マイペースで気配りに欠ける人間」というレッテルを貼っていた。普通の捜査員とはだいぶ違って、扱いにくい部分があると感じていたのだ。ところが広瀬によると、あれは一種の演技だという。空気を読まず、ずけずけものを言えるほうが、何かと話が早いらしい。だから気の利かない人間のふりをしていた、ということらしいのだ。

 ──そんな刑事の話、今まで聞いたことがないぞ。

 正直なところ、厄介な相棒に当たってしまったという気がしてならない。

 刑事がコンビを組む理由はふたつあって、ひとつは捜査の安全性、確実性を高めるため、もうひとつは上司から部下に捜査指導を行うためだ。結局のところ誰かが広瀬と組んで、彼女をリードしていかなくてはならない。その役目は同じ班にいる尾崎に回ってくるのが自然、ということになるのだろう。

 午前七時十五分、尾崎は捜査本部に入っていった。

 すでに半分ほどの捜査員がいて、それぞれ仕事を始めている。机の間を歩いて、尾崎は自分の席に近づいていく。そこで、おや、と思った。尾崎の席の隣に広瀬が座っているのだ。彼女は資料に目を通しているようだった。

「おはよう。どうした? 今日はずいぶん早いじゃないか」

 尾崎は自分の椅子に腰掛けながら言った。昨日は朝八時に来いと言っておいたら、七時五十九分に現れたのだ。その彼女が今日はこれほど早くから仕事をしている。

 広瀬は資料から顔を上げてこちらを向いた。

「おはよう、尾崎くん。今日からしっかり捜査をしようと思って」

 急に「尾崎くん」ときたものだから少し戸惑った。近くの席にいた塩谷と矢部も、驚いてこちらを見ている。だが、そう呼んでくれと昨日話したのは尾崎自身だ。

 資料を取り出しながら、尾崎は尋ねた。

「『今日からしっかり』なんて言われると、昨日まではしっかり捜査をしていなかったように聞こえるんだが……」

「ある意味、そうかも」広瀬は口元に笑みを浮かべた。「今日は捜査が大きく進むと思う。私が本気を出すわけだから」

「たいした自信だな」

「警察官たるもの、常に自信を持っていなければ犯罪とは向き合えないでしょう」

 そう言われて、尾崎は彼女の顔をじっと見た。

 どうも妙な気分だった。話し方だけでなく、表情も今までとはだいぶ違う。昨日までの、つんと澄ました感じが噓のようだ。

「あらためて、よろしくお願いしますね、尾崎くん」

「ああ……いや、こちらこそ」

 尾崎は軽くうなずいてみせる。

 昨日とはまた別のやりにくさがあるように思うが、広瀬とのコンビはずっと続けなくてはならないのだ。できるだけ彼女の力を活かせるような形で、捜査を進めていくべきだろう。

 朝の会議のあと、尾崎たちは捜査に出かけた。

 駅への道を歩きながら、尾崎は広瀬に話しかける。

「郷田は事故死したわけだが、もしかしたら何か事情があったのかもしれない。誰かに嵌められたってことはないかな」

「それは私も考えたけど、無理だろうということになったわ」

「……詳しいことは別として、可能だったと仮定してみよう。……誰かの仕掛けによって郷田は事故死した。それを仕掛けた人間が、郷田の弟分だった手島を今回殺害したんじゃないだろうか」

「まあ、郷田と手島は仲間だったものね。一緒に行動することが多かったから、同じ理由で誰かに恨まれるというのは、たしかに考えられる」

「さらに白根健太郎さんも、実は暴力団と関係があったとしたらどうかな」

「白根さんも?」広瀬は首をかしげた。「さすがに、それは考えにくいんじゃないかな。……まあ白根さんの身辺を調べれば、暴力団と関係あったかどうか、すぐにわかるでしょうけど」

 彼女の言うとおりだ。それに関しては尾崎たち鑑取り班の担当だから、あとで調べることにする。若手刑事に頼んでおいてもいいだろう。

「もし郷田、手島、白根さんの三人が暴力団と関係があったとすると……」
尾崎は考えながら言った。「たとえば野見川組で内部抗争があった場合はどうだろう。郷田と手島の所属するグループがあった。それとは別に白根さんの所属するグループがあった。組の中で諍いが起こって、三人がそれぞれ相手グループから殺害されたというわけだ」

「ただ、郷田の死から五年経っているわよね。なぜそんなに時間が経ってから、手島や白根さんが殺害されたのかがわからない」

「たしかに、そこは疑問が残るところだな」

 尾崎はひとり、低い声を出して唸った。まだ情報が足りていないのだ。仮説の上に仮説を積み上げていくこの推測は、やはり危ういものだと自分でも感じた。

※ 次回は、4/26(金)更新予定です。

見出し画像デザイン 高原真吾(TAAP)