上坂あゆ美連載「人には人の呪いと言葉」第1回
さとうさん、こんにちは。
なかなかにハードなお家にお生まれになったんですね。私の家族もほぼ高卒ですし、それ以前に父がギャンブル依存のクズだったためにさまざまな困難がありました。もちろんさとうさんの苦しみと私の苦しみは全く別のものだと思いますが、深く頷きながらご相談を読みました。後天的に育ちが良さそうな人になろうと努力をされたこと、そして実際に育ちが良さそうな人になっていること、本当にすごいです。なかなかできることじゃありません。
私は大学2年ごろ、どうしても受けたい授業があって、東京大学のゼミに外部参加したことがありました。当時の私はさとうさんと同じように生育環境のコンプレックスもありましたし、それの延長線上で、うっすらとした学歴コンプレックスもありました。本当に残酷なことですけど、裕福で育ちが良い人って、実際高学歴なことが多いじゃないですか。だから東大なんていうのは、私にとってコンプレックスを刺激されてやまない場所でした。
コンプレックスって自分自身が生きづらいというのが目立つデメリットですが、それと同時に、自分のコンプレックスを前提にしたフィルターを通して人に接してしまうので、周囲に対して悪影響も及ぼしかねないと思います。例えば自分の容姿にコンプレックスを持つ人がいたら、周囲の人を美人か醜いかという軸で判断してしまいやすくなるでしょうし、さとうさんの場合は育ちが良いか悪いか、金持ちか貧乏かという軸で見てしまいやすくなることがあるかもしれません。
私はそれまで東大生を「東大」というラベルで見ていて、同じ人間として見ていなかったように思います。それは本当に幼稚なことでした。授業で東大に出入りするようになり、実際に人と人として向き合ってみると、素晴らしい人もいれば嫌な人もいて、面白い人もいればつまらない人もいて、東大生だからって完璧なわけではないんですよね。今考えれば当然のことなんですけど、コンプレックスに目が眩んでいたときは、そんな当たり前のことにも気づけなかったのです。
それを踏まえて考えると、さとうさんがご自分のコンプレックスを手放すためには、育ちのいい最悪な人と、育ちの悪い素晴らしい人という“反例”に、たくさん会った方がいいと思います。どちらかというと育ちのいい最悪な人が多い方がいいかもしれませんね。人によって良い人間・悪い人間の判断軸は違いますから、まずさとうさんが思う「良い人間」の定義を決めましょう。私の場合は、良識や思いやりがあるかどうか、面白いか面白くないかというのがかなり大きな軸なので、それに反する人と出会ったことでコンプレックスを覆すことができました。こうなってくると最悪な人の存在に感謝すら湧いてきます。まあここでいう最悪っていうのも、私が思う良い人間の定義に合わなかっただけなので、本当に失礼な話ではあるんですが。
突然ですが、映画『パラサイト 半地下の家族』って観ましたか?
私はあの映画をTOHOシネマズ日比谷の、日本先行上映回みたいなやつで観ました。貧困家庭の家族が、それを隠して資産家の家族に取り入っていくストーリーなのですが、物語の終盤で、お金持ちが貧困層の体臭を指して「切り干し大根みたいな臭いがする」って言うんですよ。貧困家庭の家族は、衣服や言葉遣いにも気をつけて精一杯育ちがいい振りをしていたのに、臭いでわかってしまうのだと。私はそのとき、裕福な家庭で育った人が多い外資系広告代理店で一生懸命働いていた頃で、自分のお金で不自由のない暮らしができるようになっていました。だけど自分には拭い切れない切り干し大根の臭いが染み付いているような気がして、上映が終わった後、自分の身体をこっそり嗅ぎました。切り干し大根の臭いはしませんでしたが、それは生まれたときから私に染み付いているから気づけないのかもしれない、と絶望しました。よりによってTOHOシネマズ日比谷は東京でも有数の豪華な映画館です。お洒落で煌びやかな人たちばかりが目について、とても惨めな気持ちになり、逃げるように家に帰りました。
その後『パラサイト』は瞬く間に大ヒット作となり、カンヌ国際映画祭でパルム・ドールという最高賞を受賞しました。映画評論において「経済格差について考えさせられる」というような言葉が並び、私はその多くが富裕層目線で書かれていると感じてしまい、それってすごくグロテスクだと思いました。カンヌ国際映画祭ではその前年にも『万引き家族』という、貧困を題材にした映画が最高賞を受賞していました。『万引き家族』も『パラサイト』も素晴らしい映画でしたが、このとき、世界では経済格差という題材がちょっとしたトレンドみたいになっていて、高学歴の金持ちたちが、貧困層を客体化し、消費しているように感じられてしまいました。これは僻みっぽい幻想かもしれないし、事実ではないかもしれません。でも私はそのとき、自分が『万引き家族』や『パラサイト』を貧困層目線で共感して、自分の物語だと思って鑑賞できたことが、誇らしく感じられました。私は弱者の気持ちがわかるんだということと同時に、お金持ちはこれだからダメなんだみたいな、変な選民意識を感じている自分がいました。
それからしばらく経って、友人と話をしていたとき。
彼は父親が一代で大きな財を成し、地元でも有名な経営者だったため、幼少期から周囲にずっとお金持ち扱いをされてきたといいます。しかしその父親は家庭内暴力やモラルハラスメントがひどく、彼は父に対する負の感情を今でも抱え、その呪いと向き合いながら生きています。「悩みを相談しても『でもお前んちは金持ちだからな』って言われると、自分の苦しみが透明にされる感じがするんだ」と、乾いた笑いを浮かべながら打ち明けてくれた彼の顔を、ずっと忘れることができません。
私は彼の苦しみを透明にしたくない、本当の意味での理解や共感は難しいかもしれないけど、せめて形あるものとして認識しておきたいと、強く思いました。
つまり、金持ちだから悪とか貧乏だから悪とかそういう話じゃなくて、人の苦しみへの想像力を、どこまで持てるかということなんだと気づきました。想像力みたいな言葉にしてしまうと耳触りがなめらかすぎてあまり好みではないのですが、世界のグロさに加担せずに耐える唯一の策は、結局他人への想像力と思いやり、それしかないのです。
さとうさんのお悩みに話を戻します。
相談文では、たくさんの苦労を経ているのに「お金に困ったことなさそうだよね」「苦労してないでしょ」と言われてしまうことにスポットが当たっていますが、そもそもそういう発言をする相手に問題がありますよね。
私だったらありとあらゆる貧困エピソードをぶち撒けて、絶対にお前より苦労してるぞという苦労話のフリースタイルダンジョンを開催しそうですが、「つきつけて“しまいたくなります”」ということは、さとうさんは多分まだぶち撒けていないのでしょう。心中穏やかでないまま、ぐっと堪えているんですよね。それはもう、家庭環境にかかわらずさとうさんは実際に上品な人だと思いますよ。立派なお嬢様(概念)です。
そしてそういう発言を「軽く受け流せるようになりたいです」とのことですが、これは本当に軽く流していい発言なのでしょうか。
さとうさんのご家庭が実際金持ちか貧乏かは関係なくて、そういうこと言ってくる奴は他人への想像力に欠けています。悔い改めてほしい。片っ端から「人の苦しみを勝手に決めつけるのは良くないと思いますわ〜〜〜!! 人には人の、私には私の地獄がありますわよ〜〜!」と、お嬢様(概念)として高らかに言ってまわりたい気持ちです。これによって彼らがもし考えを改めてくれたら、さとうさんや私の友人のように、傷つく人が一人でも減って、より生きやすい社会になると思うんですよね。私はこういう活動のことを、社会のプリキュアだと思っています。
ここで提案ですが、さとうさんの呪いが解けた暁には、よかったら私と一緒に社会のプリキュアになりませんか? ご連絡お待ちしています。
見出し画像デザイン 高原真吾
▽「人生の呪い」は下記より募集しております。
暗いことでも、明るいことでも、聞いてほしいだけでも、お悩み相談でも、なんでもOKです。
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