麻見和史『殺意の輪郭 猟奇殺人捜査ファイル』第16回
タクシーに乗って錦糸町駅に移動した。
錦糸町事件の現場を見ておきたい、と思ったからだ。
車を降りて、尾崎は辺りを見回した。総武線の南側には映画館の入った大きな商業施設がある。
「『楽天地』という名前を聞くと、なんだか昭和の時代を思い出すな」
尾崎は商業ビルを見上げて言った。隣を歩く広瀬が、苦笑いを浮かべた。
「私も尾崎くんも、物心ついたころには昭和は終わっていたじゃない?」
「それでも昭和を感じるんだよ。体験していなくても心動かされることってあるじゃないか。田んぼと畑を見て、ああ懐かしいなあと思ったりするだろう。まったく行ったことのない場所でも」
「ああ、それは私にもわかるような気がする」
JRのガードをくぐって錦糸町駅の北側に出た。こちら側には錦糸公園と繁華街がある。
尾崎たちは北斎通りを渡った。飲食店の多い一画を、さらに北へと歩いていく。
五年前、この繁華街の路地でトラブルが起こった。その結果、ひとりは左脚に重傷を負い、もうひとりは交通事故で死亡してしまったのだ。
目的の店は二軒あった。まず、居酒屋を訪ねてみる。まだ午前中だが、ランチの営業があるため従業員は来ていることを、電話で確認してあった。
「こんにちは」
声をかけてガラス戸を開ける。
カウンター席のほか、フロアにテーブル席が四つあった。壁にはびっしりと手書きのメニューが貼られていて賑やかな印象だ。奥の小上がりにはビール会社のポスターが貼ってあり、水着のキャンペーンガールがジョッキを持ってにっこり微笑んでいた。
これはまた、いかにも昭和っぽい店だな、と尾崎は思った。どちらかというと中高年に人気がありそうな内装だが、実は五年前、郷田裕治がよく飲みに来ていたのだ。
カウンターの向こうに五十歳前後の男性がいた。髪にパーマをかけ、腹には贅肉があって、いかにも飲み屋の大将という感じの人物だ。店に入ってきた尾崎たちを見て、彼は会釈をした。
「ああ、警察の人?」
「お電話を差し上げた深川署の者です」尾崎も軽く頭を下げた。「忙しいときにすみません。ちょっとお話をうかがえますか」
「かまわないよ。五年前のことだっけ」
タオルで手を拭ってから、店主はカウンターの外に出てきた。尾崎は警察手帳を呈示する。店主は牛尾と名乗った。
「郷田裕治さんのことを覚えていますか?」
「うん。ひとりのときはカウンター席に座っていたから、けっこう話をしたね。あの当時、月に二、三回来てくれていたかな。……まあ、名前を知ったのは、事故のあとなんだけどね」
「飲んでいるとき、どんな話をしていたんですか」
「あの人、投資とか資産運用とかに興味があったようで、いろいろ聞かせてもらった。個人投資家なのかと思っていたけど、どうもそうじゃなかったみたいだね。いわゆる反社関係の人なのかなって」
「そのことは誰から?」
「事故のあと、警察の人がやたら暴力団のことを質問してきたんだよ。だから、郷田さんもそうなんじゃないかなと」
牛尾の勘が鋭かったというべきか。それとも聞き込みに来た捜査員が、少し迂闊だったのか。いずれにせよ、牛尾は郷田が反社会的勢力と関わっていることに気づいていたようだ。
「ほかに何か、覚えていることはありませんか」
「そうねえ……。あの人、よく都内の地図を見ていたよ。あちこち付箋を貼ってね。町歩きが好きだったのかな」
「郷田さんと一緒に、手島さんという人は来ていませんでしたか?」
尾崎は顔写真を取り出して、相手に見せた。牛尾はゆっくりとうなずく。
「何度か見たことがあるね。……あれ? ということは、この人も暴力団関係だったの?」
「組員ではありませんが、郷田さんと一緒に組の仕事を手伝っていたようです」
「なるほど。まあ、組員だったら雰囲気とか話の内容とかで、俺でも気がつくからね」
うんうん、と牛尾はひとりうなずいている。
「郷田さんたちが、何か特殊な話をしていたことはありませんでした?」
「特殊な話って?」
「たとえば、犯罪に関わることとか……」
「いや、それは知らないなあ。もし話していたとしても、俺なんかに聞こえるようにはしないでしょ」
もっともな意見だ。少し考えたあと、尾崎は別の質問をした。
「五年前の三月六日、郷田さんはここで飲んでいたことがわかっています。覚えていますか?」
「うん、当時も訊かれたからね」牛尾は記憶をたどる表情になった。「その日、うちの店に来たのはいつもより遅くて、夜十時半ぐらいだった。ひとりでカウンター席に座ってね。ビールとチューハイを飲んで、さっと食事をして、十一時ごろ帰っていったんだ」
「三十分しかいなかったわけですね」
「そう。仕事のことなのか、何か気にしているようだった。とりあえず腹を満たして、すぐ帰っちゃったんだよ」
尾崎は眉をひそめた。相手の顔をじっと見つめる。
「いったい何が気になっていたんでしょう?」
「いや、俺にはわからないな」
そうですか、と尾崎はつぶやく。
隣にいた広瀬が、バッグの中を見てごそごそやり始めた。やがて彼女は坂本高之の写真を取り出し、牛尾に見せた。
「お店でこの人を見たことはありませんか?」
可能性は低いが、もしかしたら郷田と坂本は知り合いだったのかもしれない。そう考えてのことだろう。
牛尾は写真を見ていたが、じきに首を横に振った。
ここでは得られるものがないようだ。礼を述べて、尾崎と広瀬は居酒屋を出た。
次はスペインバルだ。
角を曲がり、五十メートルほど離れた場所にある店を訪ねた。ドアを開けると、テーブル席はふたつだけだった。メインとなるのはカウンター席だ。雰囲気としてはショットバーに似た感じだが、黒板に書かれた料理は意外と充実している。ここは酒を出すだけでなく、コーヒーや軽食なども提供する店らしい。ランチタイムの営業もあるようで、今は開店準備中だ。
尾崎たちが入っていくと、カウンターを拭いていた男性がこちらを向いた。歳は四十代だろう。痩せてひょろりとした体形の人物だ。
「お電話を差し上げた、深川署の者です」
「お待ちしていました。オーナーの貝塚です」
貝塚は尾崎と広瀬を壁際のテーブル席へ案内し、椅子を勧めてくれた。先ほどの牛尾と比べると、かなり丁寧な物腰の男性だ。
「実は、五年前のことをお訊きしたいと思いまして」
「坂本さんのことですよね。あの方は当時、毎週のように来てくださいましてね」
「名前もご存じだったんですか?」
「そうです。二回目に来店されたときでしょうか、わざわざ名刺をくださったので」
「機械部品メーカーの名刺ですね?」
「いえ、個人で作ったものでした」
「……そこには何と?」
「名前と住所、電話番号が印刷されていました。趣味で骨董品の収集をしていたそうですが、古物商の資格を取って、商品売買の斡旋なども手がけていたようです」
あの、すみません、と広瀬が言った。
「あそこに飾ってあるものも、そうですか?」
彼女が指差しているのは、店の奥にあるガラスケースだった。凝った装飾の施された皿やカップ、スプーンやフォークなどのカトラリーが収められている。それらは、黒を基調とした店の雰囲気とよく合っていた。
「ああ、そうなんです」貝塚はうなずいた。「正直な話、アンティークの価値はよくわからないんですが、坂本さんに勧められて飾ってみたら、なんだか気に入ってしまいましてね。趣味だというだけあって、坂本さんはいいセンスをしていますよ」
貝塚は穏やかな目でガラスケースを見ている。
「五年前の三月六日、事件のあった日ですが、坂本さんはどんな感じでしたか」
「あの件は本当にお気の毒でしたよね。脚に大怪我をしてしまって……」貝塚の顔が曇った。「特にいつもと変わりはありませんでしたよ。常連のお客さんといろいろ話したりして……。五年前にも刑事さんに説明しましたけど、あの日はグラスビールを三杯ぐらい、あとは赤ワインを何杯か飲んでいました」
「だいぶ酔っている感じでしたか?」
「いえ、いつもと同じだったと思います。帰るときも常連さんに冗談を言って、笑わせていましたし……」
広瀬が顔写真をテーブルの上に置いた。そこに写っているのは、坂本を負傷させた郷田裕治だ。
「この男性を知っていますか?」
貝塚は写真に目を落とす。数秒見つめていたが、顔を上げて彼は言った。
「この人、坂本さんを刺した犯人ですよね? 刑事さんから写真を見せられた覚えがあります」
「お店に来たことは?」
「ありません。この犯人は、近くの居酒屋で飲んでいたそうですね。坂本さんが帰っていったのは夜十一時ごろです。そのへんの道でいざこざになったんでしょう? なんというんですかね、タイミングが悪かったとしか……」
「それは言えますね」尾崎はうなずく。
「あと少し早いか遅いか、時間をずらしていたら事件は起こらなかったはずです。ちょっと会計が遅れたとか、トイレに寄っていたとか、そういうことがあれば……」
坂本自身も、あと一分違っていたら、と悔しがっていた。ほんのわずかでも店を出る時間が違えば、坂本が郷田とトラブルになることはなかったのだ。
「そう考えますとね、ちょっと責任を感じてしまうんですよ。……誰のせいでもないのはわかっています。でも、あのときもう少し雑談を続けていたら、坂本さんは大怪我をせずに済んだんじゃないかと」
貝塚は深いため息をついた。その表情は、強い痛みをこらえている病人のようにも見えた。
スペインバルを出て、尾崎と広瀬は飲食店の並ぶ道を歩き始めた。
広瀬が資料を見ながら言う。
「その日の二十三時過ぎ、郷田と坂本さんはそれぞれ飲んでいた店を出た。……私たちが今歩いているのは、坂本さんがたどった経路ね。こうして歩いていって、ここで左へ曲がる」
坂本は錦糸町駅のほうへ行こうとして、角を曲がったのだろう。そのまま進んでいくと、じきに先ほど聞き込みをした居酒屋が見えてきた。
「この居酒屋の前を通って、坂本さんは駅へ行こうとしていた。そこに郷田がいた。酔っていることもあって、ふたりはぶつかってしまった」
「まあ、暗かったせいもあるだろうな」
「尾崎くん、そこから歩いてきてくれる?」
広瀬はそう言うと、自分は居酒屋の出入り口まで走っていった。郷田を演じようとしているのだろう。
言われたとおり、尾崎は居酒屋のほうへと近づいていく。その店の前を通って駅へ向かうという、坂本の行動をなぞっているわけだ。
尾崎が居酒屋の前に差し掛かったところで、出入り口の前にいた広瀬が勢いよくぶつかってきた。
「痛いな、と言って」
「……こうか? 痛いな!」
「てめえ、ふざけるな……という具合に郷田は怒った。暴力団とも関わりがあるし、普段から声も大きかったんじゃないかと思う」
「それで坂本さんはたじろいだわけだ。郷田は体が大きいから、これはまずいと」
「郷田のほうはカッとなって、ナイフを取り出した。そのまま坂本さんに襲いかかる」
広瀬は右手を尾崎のほうへ突き出す。
「尾崎くん、何をしてるの。もっと抵抗して」
「ああ、そうか」
相手がナイフを持っているという想定で、尾崎は身をかわそうとする。揉み合いになった。そして広瀬の右手が尾崎の左脚に触れる。
「痛がってよ」
「……ああ、やられた。痛い!」
「ナイフは坂本さんの脚に突き刺さっている。動揺する郷田。そこへ騒ぎを聞きつけて警察官がやってきた。目撃者が騒いだとか、そういうことでしょうね。郷田は逃げ出す」
「さすがの郷田も慌てたわけだ」
もし現場に駆けつけた警察官がひとりだけだったら、郷田は逃げおおせていたかもしれない。だが警察官はふたりいた。ひとりは坂本を助け、もうひとりは郷田を追跡したのだ。
居酒屋を離れて、尾崎たちは郷田の逃走経路をたどっていった。しばらく行くと、片側二車線の広い道路に出た。四ツ目通りだ。これを無理に横断しようとして、郷田は車に撥ねられてしまった。
「ここを渡ろうとした人間を、故意に轢くということは可能かな」
道路の左右を見ながら、尾崎はつぶやく。
「車は普通の自家用車ということだったけど……」
「調べてみるか」尾崎は言った。「郷田を轢いた人間はもちろんわかっている。その人物の身辺をチェックしてみよう」
広瀬を促して、尾崎は錦糸町駅のほうへ向かった。
※ 次回は、4/30(火)更新予定です。
見出し画像デザイン 高原真吾(TAAP)