麻見和史『殺意の輪郭 猟奇殺人捜査ファイル』第17回
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捜査資料を参照して、尾崎たちは郷田を撥ねた男性を訪ねた。
彼の勤務先や親族、友人、知人を調べたのだが、不審な人間関係は見つからなかった。男性はやはりシロだ。五年前の三月六日、偶然四ツ目通りで郷田裕治を撥ねてしまった。彼にとっては不運以外の何物でもない事故だっただろう。
自販機の缶コーヒーを飲みながら、尾崎は今後の捜査について広瀬と相談した。
「このまま郷田と手島の関係、さらに白根さんのことを調べる? 尾崎くんがそうすると言うなら、私は従います」
「君はどう考えている?」
「……私の意見を言ってもいいの?」
「もちろんだ。聞かせてくれ」
少し考える表情を見せてから、広瀬は再び口を開いた。
「郷田と手島のことをさらに深く調べるのなら、暴力団関係に詳しい協力者を使うのが効率的だと思う。私の協力者なら、そのへんはうまくやってくれるはずよ」
「……もしかして昨日の夜、公園で会っていた男か?」
「そう。優秀な男なの」
「わかった。人選は任せるよ」
「ひとつ問題があるわ。協力者には報酬が必要になる。依頼は私がするけど、報酬は尾崎くんが用意してくれるということでいいかしら」
「ああ。ちゃんと払うから、とにかく仕事を依頼してくれ」
「OK、承知しました」
広瀬はスマホを取り出して、電話をかけ始めた。
協力者は尾崎にも何人かいるが、今すぐ野見川組のことを調べてくれと言っても無理だろう。そうであれば、広瀬の知り合いに頼むほうが早いし、確実だというわけだ。
「……はい、ではそういうことでお願いします。何かわかったら報告してください」
電話を切って、広瀬はこちらを向いた。
「依頼は受けてもらえたけど、急ぎだということで特急料金を請求されそう」
「仕方ない。払うよ」
自分のポケットマネーを使うわけではないから、それほど金額を気にすることはない。だが、加治山班長に経費として認めてもらうには、あとで手間がかかりそうだった。
加治山をどう説得しようかと考えていると、スーツのポケットで電話が鳴った。尾崎はスマホを取り出し、画面を確認する。その加治山班長からの電話だった。
「はい、尾崎です」
「緊急連絡だ」加治山は硬い声で言った。「警視庁にメールが届いた。過去ふたつの事件の犯人からだと思われる。捜査一課が、そう断定した」
えっ、と声が出てしまった。尾崎はスマホを握り直して問いかける。
「いったい、何と言ってきたんですか」
「大田区大森にある廃店舗を調べろというんだ。現場は廃業した飲食店らしい。そこに次の被害者がいると……」
「三件目の事件ってことですか?」
尾崎は眉をひそめた。本当なのだろうか、という疑念が頭をよぎる。一昨日、昨日に続いて今日もまた新しい事件が起こったというのか。
「……それで、廃店舗というのはどこなんです?」
「大森の廃店舗、手がかりはそれだけだ。あとは自分たちで捜せということだろう。まったく、厄介なことになった」
「班長、いたずらだという可能性はないんですか?」
「文面から、一連の事件の犯人であることは間違いないらしい。これまでの経緯を考えると、奴は無駄なことはしないだろう。我々には、第三の事件の発生を否定するだけの根拠がない。捜一の片岡係長も同じ意見だ」
あの犯人が言ってきたのなら、おそらく事実なのだろう、というわけだ。警察が犯罪者の言うことを信じるというおかしな状況になってしまっている。だが、ふたつの事件のあとに届いたメールだ。可能性がある以上、警察は動かないわけにはいかない。それは、尾崎としても同意するところだった。
「どう捜します?」
尾崎が尋ねると、電話の向こうで紙をめくる音がした。
「今、捜索の分担表を作っているところだ」加治山は言った。「地図やネットのレストランガイドを調べて、大森にある飲食店を洗い出している。もちろんすべてというわけにはいかないが、目安にはなるだろう。あとは現地で情報収集してほしい」
「行った先で、廃業した飲食店がないか訊いて回るわけですか?」
はたして、そう簡単に見つかるだろうか、という思いがある。
「……不満なのか?」
「いえ、とんでもない」尾崎は咳払いをした。「足と耳で稼ぐのは捜査の基本です。任せてください」
「よろしく頼む。担当エリアが決まったらメールする」
「わかりました。すぐ大森に向かいます」
電話を切ると、尾崎は今の話を広瀬に伝えた。そばで尾崎の通話を聞いていたから、彼女にはだいたいのことがわかっていたようだ。
「犯人は大森で事件を起こしたのね?」
「飲食店の廃店舗を捜せと言っているらしい」
「対象となる店舗がどれぐらいあるかわからない。時間がかかりそうね」
「そのとおりだ。簡単な仕事ではないだろう。だが、やるしかない。いいな?」
「ええ、もちろん」広瀬は真剣な表情でうなずいた。「行きましょう、大森へ」
今度はいったいどんな現場状況になっているのだろう。犯人はまた猟奇的な細工をしていったのか。嫌な予感が膨らんできた。
尾崎たちは電車で移動することにした。
JR大森駅を出たところで、加治山班長からメールが届いた。尾崎たちの担当エリアは、大森南だという。
今回の捜索対象地区は大森北、大森東、大森本町、大森中、大森西、大森南となる。これらが犯人の指定した「大森」なのだが、大森駅の周りにはほかに南大井や山王などの町もある。念のため大森周辺の地域も調べることになったようだ。
「大森南はというと……駅から三キロも離れているじゃないか」尾崎は腕時計を見た。「時間がもったいない。タクシーで行こう」
大森駅東口のタクシー乗り場から車に乗った。ほんの数分ではあるが、今は時間が惜しい。
代金を払って車を降りる。メールに書かれていた飲食店の情報をもとに、ふたりで歩きだした。
「飲食店のリストを参考にする」尾崎はスマホを見ながら言った。「もし廃業している店があったら、中を調べてみる。その繰り返しになるだろう」
「ええ、了解です」
広瀬はこくりとうなずいた。
大森南はほとんどが住宅街だが、病院や図書館といった施設、会社の事務所や倉庫などもあるらしい。捜索範囲は決して狭くはなかった。ただ、飲食店の数は限られているようで、その点では捜索しやすいと言える。
リストを見て、通りを一本ずつ調べていくことにした。広瀬は地図帳を手にしている。ここへ来る途中、コンビニエンスストアで買ったものだ。
「あそこにカフェがあるわね。営業しているから問題なさそう」
「その斜め向かいに蕎麦屋がある。あれも営業中だ」
「次は三十メートルほど先、中華料理店」
商業地域なら、各フロアに飲食店が入った雑居ビルなどもあるだろう。だがこの辺りだと、あちらの建物に一軒、こちらに一軒というふうに店は散らばっている。これなら見落とすことはなさそうだ。
しばらく行くと、明らかに廃屋だと思える二階家があった。壁にひび割れが目立ち、かなり古い建物だとわかる。道路沿いに窓がふたつあって、中にショーケースなどが見えた。
「ケーキ屋さんだったみたいね」
「飲食店ではないから、対象外ってことか」
尾崎は歩きだそうとした。だが、すぐにうしろから呼び止められた。
「待って、尾崎くん」広瀬はガラス越しに店内を覗き込んでいた。「狭いけどテーブル席がある。ケーキやお茶を出していたんじゃない?」
「だったら確認する必要があるな」
出入り口は建物の右側、道路から二メートルほど入ったところにあった。店内が混んでいるとき客に使わせていたのだろう、木製のベンチがひとつ置かれている。
白手袋を嵌めて建物のドアに手をかけると、施錠されていないことがわかった。尾崎はそっとドアを開け、中の様子を窺う。店内にあるショーケースが割られ、床にガラスが散乱していた。床にはゲーム雑誌やスナック菓子の袋が落ちている。
店が無人になったあと、何者かが侵入したのではないか。
「誰かいますか?」尾崎は中に声をかけた。「荒らされているようですが、大丈夫ですか?」
奥から応答はなかった。広瀬をちらりと見てから、尾崎はドアを大きく開けて店内に入った。
「警察です。中を確認させてください」
ガラスを踏まないよう注意しながら、売り場を進んでいった。ショーケースはふたつ並んでいたが、いずれもガラスを叩き割られている。床の雑誌などから、ここに入ったのは若者ではないかと思われた。
広瀬が言ったとおり、売り場の隅にちょっとした喫茶コーナーがあった。二人掛けのテーブルと四人掛けのテーブルが用意されている。
ここまでのところ、特に問題はないようだ。尾崎は喫茶コーナーを出て厨房に向かおうとした。
そのときだ。ショーケースの裏側、店員がケーキを取り出したり箱詰めしたりするスペースに、何かが見えた。
黒っぽい服を着た誰かが、床に倒れている。そう思えた。
尾崎は息を詰めて身構える。それに気づいて、広瀬もショーケースの裏に目を向けた。
ゆっくりと腰を屈めて、尾崎はその物体に近づいた。だが、調べてみれば何のことはない、黒っぽいレインコートが脱ぎ捨てられていただけだった。たまたま人が倒れているような形に見えたのだ。
気を取り直して厨房を調べてみる。また、居住スペースである二階にも上がってみたが、どこにも異状はなかった。
「若い連中が忍び込んだんだろうな」尾崎は広瀬のほうを振り返った。「金目のものは何もないとわかって、じきに出て行ったんじゃないか?」
「それで腹を立てて、ショーケースを割っていったのね」
「よし、この建物はOKだ。次へ行こう」
店の外に出ると、広瀬は地図帳を開いてマークを付けた。
このように、廃業した飲食店をひとつずつ確認していこうというわけだ。地味な捜査だが、丁寧に進めていく必要があった。
ラーメン店、焼き鳥店、インド料理店など、営業している店の場所を地図でチェックした。しばらくして、リストに載っていないドーナツ店が見つかった。開店セールというポスターが貼り出されている。どの町でも飲食店の入れ替わりは多い。それだけ競争の激しい業界なのだろう。
「仮に飲食店がつぶれたとしても、すぐに次の店が入るものね」
広瀬が話しかけてきた。尾崎はうなずく。
「立地がよければそうだろうな。でも住宅街で個人がやっていた店がつぶれたら、そのままになってしまうかもしれない」
「廃屋として放置されるということ?」
「たとえば……店主が亡くなって親族が相続したけれど、建物を取り壊す金がなくて放置されてしまうとか」
「たしかに最近は、都内でも空き家が増えているわよね。倒壊の危険があったり、犯罪に使われる可能性があったり、いいことはないでしょうね」
「……あれなんか、どうだ?」
尾崎は前方の建物を指差した。
駐車場と美容院に挟まれた土地に、青い屋根の家があった。一階に広いガラス戸の入口があり、《めし 酒 大衆食堂 こじま屋》という看板が出ている。だが看板も壁もすっかり汚れてしまって、今は営業していないことがわかった。
尾崎はあらためて白手袋を両手に嵌めた。建物の正面に近づいて、ガラス戸に手をかける。がたがたと動かしてみたが、施錠されていて開かなかった。
尾崎は建物の裏に回った。広瀬もあとからついてくる。
雑草を踏み締めて進んでいくと、勝手口が見つかった。手袋を嵌めた手でノブに触れてみる。たいした抵抗もなく、ノブは回った。施錠されてはいないようだ。
ノブをつかんだまま、そっと手前に引いていった。軋んだ音を立てながら、ドアはゆっくりと開いていく。少し隙間が出来たところで、尾崎は中を覗き込んだ。
屋内は薄暗いが、窓から明かりが射しているため、ライトは必要なさそうだ。
そこは台所だった。板敷きの床にはあちこち、黒いカビのような汚れがついている。埃っぽいにおいがした。
腕時計を確認する。まもなく午後零時二十分になるところだ。
広瀬のほうを向いて、尾崎は軽くうなずいてみせた。中に入るぞ、という意志表示だ。広瀬も黙ったままうなずき返してきた。
尾崎は建物に進入した。床は埃だらけだから、土足で上がらせてもらうことにする。
「こんにちは、警察です」奥に向かって尾崎は声をかけた。「誰かいますか? 鍵が開いていたので入らせてもらいました。中にいたら返事をしてください」
耳を澄ましてみたが、屋内から応答はない。
今いる台所は一般家庭のものと同じくらいの広さだ。おそらくここは住居部分で、商売をするための厨房は別にあるのだと思われる。尾崎は台所の奥にあるドアを開けて、廊下に進んだ。
脱衣所には古いタオルが何枚か落ちていた。浴室を確認すると、浴槽の底は埃や汚れで黒くなっている。
廊下に面した場所に畳敷きの部屋がふたつあった。一方は寝室だったのだろう、布団が畳んで置かれていた。他方は物置代わりに使われていたのか、段ボール箱や衣装ケースが放置されている。壁のカレンダーは三年前の日付のままだ。
廊下の突き当たりにまたドアが一枚あった。静かにノブをひねる。
きー、と音がして、ドアはゆっくりと開いていった。
姿勢を低くして、尾崎は奥の部屋を覗いた。厨房だ。左手の壁沿いにガスコンロと広い流しが設置されている。調理台の上に、錆びた包丁がひとつ置いてあるのが気になった。刃物をそのままにして店の人間は出ていったのだろうか。それとも、あとから忍び込んだ何者かが刃物を置いたのか。
厨房の右手はカウンターだ。
注意を払いながらカウンターの外に出てみた。そこは飲食スペースになっている。カウンター席は七つほど、テーブル席は三つある。こぢんまりした造りだ。
壁に貼られたメニューは、埃で汚れて読みづらくなっていた。かろうじて読み取れるメニューを見ると、定食類が充実していたようだ。また、ランチだけでなく、夜の営業にも力を入れていたことがわかった。ビールや日本酒、チューハイなどを用意し、旨いつまみを提供していたのだろう。
窓が少ないから辺りは薄暗かった。尾崎は広瀬とともに、テーブル席の下などを調べていく。
これまでのところ、特に異状はなかった。この建物も外れだったのだろうか。
※ 次回は、5/3(金)更新予定です。
見出し画像デザイン 高原真吾(TAAP)