【伊東潤著『王になろうとした男』伊東潤氏・高橋英樹氏・本郷和人氏座談会】新しい信長像 そのカリスマと狂気
歴史座談会
新しい信長像 そのカリスマと狂気
俳優 高橋英樹
作家 伊東 潤
東京大学教授 本郷和人
本郷 マンガにテレビドラマに織田信長の人気は衰えを知りません。今回は、俳優、作家、研究者の三者三様の立場から、これまでとは違った新しい信長像に迫っていければと思います。高橋さんはNHK大河ドラマ『国盗り物語』を始め数々の作品で信長を演じてこられました。
高橋 当時、私は29 歳。あの信長は、他では味わうことのできない貴重な体験でした。信長は私のなかで一番演じやすい役柄で、何もしていないのにセリフがバババッと出るときもあったほどです(笑)。
本郷 伊東さんは戦国時代を題材にした作品を多く執筆し、小説家の視点から新しい信長像を提案しています。
伊東 信長と野心をテーマにした作品『王になろうとした男』では、あえて信長本人の視点は設けず、家臣たちの視点から、信長を描きました。信長は、長所と短所が一個の人間の中で共存する一種のカリスマだと思います。彼の強烈な個性に、現代人が引き付けられるのはよくわかります。
高橋 常に考えているのですが、信長の人気は、単に天下を取ったから生まれたものではありませんよね。一般庶民から見るとちょっと上のランクの人が、自分の周りの人を籠絡したり、倒したりして自分の世界を作り上げていくところに憧れるのだと思います。
伊東 確かに信長は、二つに分かれた尾張国の守護代家の家老という家柄で、血統が超一流とは言えません。それに加えて、日本人には信長的な強いリーダーへの憧れがあるのではないでしょうか。現代でも世界を見渡すと、プーチン大統領や習近平国家主席のように強いリーダーがいる。翻って我が国の首相たちは……という部分もある(笑)。
本郷 そこに一言加えたいのは、信長は豊臣秀吉のように老いさらばえた姿をさらさなかったのが大きいと考えます。
緒形拳さんが大河ドラマ『黄金の日日』で演じた秀吉は、晩年に信長を超える専制君主になっていく過程が丁寧に描かれていました。『軍師官兵衛』で竹中直人さんが演じた秀吉も同様です。史料から秀吉を見ても同様で、信長の家臣としてバリバリやっていた頃と天下を統一した後の晩年では、全く違う人間になっていたように思えてなりません。
三人の天下人でいえば徳川家康は、徳川260 年の太平の世を作り、大成功して晩年を迎えてしまう。こうなってしまうと、一般庶民はなんとなく感情移入をすることができません。
教養人だった信長
高橋 早く亡くなるのは人気者の必要条件ですね。「判官贔屓」という言葉もある通りで、日本人は志半ばでなくなった人が大好きです。源義経しかり、坂本龍馬しかり。信長も同じように天寿を全うしていないから、「もし生きていれば」と想像の世界に入っていける。これが私たちのような歴史好きには楽しいのです。
伊東 特に海外政策には想像力を掻き立てられます。織田政権だったら「鎖国政策」もなかった。アジアやヨーロッパ諸国と、どう渡り合っていったかを考えたくもなります。
高橋 アジア地域全体を治めた可能性だってあります。
本郷 同感ですね。それも秀吉の朝鮮出兵のような形ではなく、貿易で世界に開かれた国造りをしたでしょう。
伊東 秀吉のように大陸を面、つまり土地で支配するのではなく、信長は、点すなわち拠点で押さえようとしたのではないでしょうか。たとえば、中国大陸の沿岸にある寧波、厦門、マカオなどの港に城塞都市を築き、海上交易を行って利益を独占しようとしたのではないかと。
当時のヨーロッパの海洋大国であるスペインのフェリペ二世は、セビリアとリスボンという二大貿易港を支配し、交易を独占して大帝国を作っているのです。信長は宣教師と頻繁に会っているわけですから、こうした国際情勢を耳にしていても不思議ではありません。
本郷 面ではなく点の支配というのが面白いですね。
高橋 一般には情報通と思われている秀吉ですが、信長の方が圧倒的ですよね。
本郷 そこには秀吉の出身が影響しているはずです。信長はうつけもののイメージがありますが、若いころから、きちんとした教養を身につけていて、それに裏付けされた知識を持っていた。たとえば、沢彦という禅僧が少年時代の信長の教育係だったことは知られています。出自のよくわからない秀吉と違って、信長は中世型の教養人だったことは間違いないでしょう。
高橋 逆に秀吉の行動を見ていると、教養人へのコンプレックスを感じさせるところがありますね。
伊東 内政面を考えると、信長と秀吉の差は歴然としてきます。秀吉は、権力欲や自己顕示欲がとにかく強い。一方で信長は、合理的で実利を重んじます。「御茶湯御政道」は、その最たるものです。功を上げた家臣に分け与える土地がなくなってきたときに、信長は茶道具に虚構の価値を与えます。織田家中では、茶道具が絶対的な価値を持ち、そろって名品を求めるようになる。それまで、命がけで手に入れようとしていた土地ではなく、茶道具を欲しがる武将も出てくる。重臣の一人である滝川一益は、上野国一国よりも茶道具が欲しいとすら言っています。
本郷 名品「珠光小茄子」のエピソードですね。価値を創造してしまうのは、信長の大きな特徴です。
伊東 信長は価値の創造のために、商人の今井宗久と天才的目利きである千利休という二人をブレーンにしています。一方の秀吉は、信長から受け継いだ「御茶湯御政道」を上手く使いこなせません。利休を切腹に追い込み、最終的には、土地を求めて朝鮮出兵を行うことになります。
ベンチャー企業家の側面
高橋 価値創造でいうと信長には、ベンチャー企業家の側面があるのではないでしょうか。先祖伝来の土地を安堵されているだけで、あぐらをかいている人間に用はないとバッサリ切り捨てる。一方で、その辺をうろついている氏素性の定かではない人間でも、優秀であれば抜擢していく。秀吉や明智光秀がいい例です。信長には最初から良い家臣がいたわけではなく、自分で人材を見つけてきては次々に登用し、自分好みの実力派集団を作り上げる。
本郷 明智光秀は美濃国の明智城主と長らく言われていましたが、実は、学問的な裏付けは一つもありません。本当のところは何者かよくわからない。
伊東 そういった意味で、本当の実力主義を貫いたのが信長軍団です。その裏返しですが、今どきの言葉でいうと、ブラック企業のような組織だったことも事実でしょう。
高橋 林通勝や佐久間信盛のように十数年も仕えた重臣でもあっさりと追放してしまいますね。
本郷 実力主義は、貫徹するのにこれほど難しいものはありません。下剋上の時代ではありますが、戦国の世は抜擢が少ないのです。家老の家に生まれたら最初から家老だし、足軽なら足軽のままです。
戦国時代の隣国はいまでいうと外国のようなものです。越前の朝倉家の「朝倉敏景十七箇条」には、「さのみ事闕候はずば、他国の浪人などに右筆させらるまじき事」つまり、よほどのことでなければ、ほかの国の人間を信用して側近に取り立てるな、と書かれているほどです。そういった価値観の時代に能力さえあれば出身を問わずに使うのは実は常識外の発想です。他に戦国大名でこういった人材登用ができたのは、武田信玄と上杉謙信くらいでしょう。
ただし信玄でも、才能によって若い人間を簡単に抜擢できてはいません。名門の家の養子にすることで、やっと可能になったのです。馬場信房、内藤昌豊、山県昌景、高坂昌信と名だたる武田の名将は名家を継いだ若者たちです。
伊東 信玄が失敗したのは、その後ですね。土着の家臣から支配権を奪えず、功を上げた家臣にも所領の統治権を与えてしまうから、家臣たちの独立志向が強くなった。部下たちが、それぞれの領地で子会社化して、力を持ってしまったので、勝頼の代になると、言うことを聞かなくなるのです。勝頼は家臣の内藤昌豊に対して、公正に扱うと誓う血判起請文まで書いています。
本郷 中央に権力を集める努力をしていないから、そうなったのでしょう。毛利元就も事情は同じです。兄弟三人が仲良くすれば毛利家は安泰だとした「三本の矢」の逸話がありますが、裏を返せば家臣は信用できないから、せめて兄弟たちだけは仲良くしなさいということ。それだけ家臣の独立心を抑えるのは難しいことだった。
高橋 戦国最強の呼び声高い武田軍団や中国地方の覇者毛利家にして、鎌倉時代の統治の仕方をそのまま受け継いでいる風ですね。
伊東 信長の優秀性は、家臣に対する管理統制面にも表れています。信長が死に、誰が後継者になろうとも、そのシステムに乗っかっていれば、ある程度は、同じように動く体制を作り上げていたわけです。
本郷 信長の国家観も当時としては独特でした。日本が一つの国といった考えは戦国時代の人は持っていませんでした。駿河には今川という王様がいて、相模には北条がいる。それがまとまって一つになるとは誰も考えていないのです。現に室町幕府も各地をバラバラにしたまま統治していました。
高橋 現代人の目線から見ると、どの大名も天下を狙って群雄割拠していたように思われています。しかし、大名は今の自分の領土を守れれば良かった。その中で信長は、統一政権を作ろうと言い出した。最初EUを作ろうとした人間が、夢想家扱いされたのとあまり変わらない(笑)。
伊東 宣教師が、信長に統一政権を作らせようと、ヨーロッパの情報を吹き込んでいた可能性はあります。信長に全国を統一させてしまえば、キリスト教を一気に広められると思ったのでしょうね。ただ、一筋縄ではいかないのが信長です。
本郷 信長といえば仏教を弾圧して、キリスト教を保護していたイメージがありますが、そうとも言い切れません。安土宗論と呼ばれる仏教論争では、日蓮宗と浄土宗のお坊さんが、お互いの宗教観の違いから論争になった。これを知った信長は、家臣を派遣するなどして審判役を買って出ている。結局、浄土宗の勝ちという判定を出しています。こういったところからも、伝統的な宗教にも理解のある教養人であり文化人だったことが窺えます。でも、必要であれば比叡山でも焼打ちにする。
高橋 あの時は、自分に敵対しないで中立を守って欲しい、と繰り返し説得しています。
本郷 浅井長政や朝倉義景の軍勢をかくまっていると敵対行為とみなしますよ、と使者を送っています。ですが、比叡山側が拒否をした。やるとなったら徹底的にやるのが、信長の恐ろしさです。伊勢長島で2万人の老若男女を虐殺したとされていますが、人口比にすると今では20万人に相当します。
不思議なことに研究者の間では、「信長はわかりやすい」とされています。合理主義者だから足跡を丹念に追ってゆけば理解できる、というのです。しかし、こういった虐殺行為を見ると決して合理性では考えられるものではありませんし、簡単に理解できるとはとうてい思えません。
高橋 比叡山の話にしても、ある種の「狂気」を感じます。信長を演じるときに一番注意したのは、まさにこの部分です。ハハハッと笑っていたと思ったら突然キュッと怒り出すといった感情の起伏を持つように気を付けました。
信長は人の感情を巧みに読み解いている節があります。怒ったらいい人とおだてたらいい人をしっかり区別している。個性を見抜く目を持っていたのは間違いありません。
戦に勝つ秘訣
伊東 家臣の個性や能力の把握についても、信長は長けていたと思われます。誰しもが出世を目指していたと思われがちな戦国時代、信長は、専門職を育成しようとしていた痕跡があります。桶狭間の合戦で今川義元の首を取った毛利新助は、本能寺の変で信長の長男信忠と共に討死します。彼は死んだとき、桶狭間の頃と変わらず馬廻衆でした。20年経っても出世していないのです。でも信忠に殉じたところからすると、当時の身分に不服を持っていたようには思えません。
高橋 役付きになりたい人間なのかそうでないかを見抜いているんですね。自分の傍にいれば、身分を高くしなくても喜んで働くような人間だとわかっている。そういうタイプだから、息子の近習にした。
本郷 毛利新助の気持ちがよくわかるなあ。私もどっちかというと毛利タイプなんです(笑)。上には誰かいて欲しい。
高橋 それは日本人独特の感性ですよ(笑)。かくいう私も信長の一方で、日露戦争で大活躍した参謀の児玉源太郎が大好きなんです。ナンバーツー志向のところがあります。
伊東 桶狭間の合戦は、奇襲ではなかったという説が有力になってきています。考えてみると、従来の奇襲説はおかしな話で、織田勢が飛び出すと大風が吹いてきて、それに乗じて今川義元の軍勢を敗走させ、義元の首まで取ってしまう。織田勢は、一直線に義元本陣へ突入したという感じです。しかし地元出身者に聞くと、今は宅地が造成されて想像しにくいそうですが、昭和40年代末頃までの桶狭間は、小丘が複雑に入り組んでいて、見通しが悪かったそうです。つまり一直線に義元のいる場所まで進むには、地形を完全に把握していなければなりません。これは、なにかの手引きがないと難しい。
高橋 信長の側室の生駒の方の家は諜報活動をやっていたような話もありますね。
伊東 他にも、簗田政綱が合戦の後に功第一とされたことから、義元の居場所を把握していたとする説もありますが、これも推測の域は出ません。私があえて提唱したいのは、当時、今川家中だった徳川家康の内通説です。家康は今川軍の先方として大高城に入っているので、義元のいる場所はわかっていたと思われます。家康は義元から信頼される一方で、西三河の統治を任されないことに不満があり、このまま今川家の一家臣として終わるよりも、独立を選んだのではないでしょうか。
本郷 ただ、兵力に関しては一言申し上げたいと思います。今川義元は駿河、遠江、三河三国の太守と言われますが、実際の石高を足すと、太閤検地の後の数字で70万石です。一方の尾張は非常に豊かで、一国で57万石もあるのです。
高橋 一国でそれだけありますか。
本郷 そうなんです。兵力は石高に比例しますから、実際の桶狭間の合戦は相当拮抗した兵数で戦っていた可能性があります。巷で言われるような25000人対2500人ではなかったのではないでしょうか。信長の研究者やファンの間では、『信長公記』をきちんと読むべきだと言われていますが、こと桶狭間に関しては記述が信用できない。そもそも合戦自体が1560年ではなく、1552年に起こったことにされているのです。さらに今川勢は45000人と書かれていますが、これは軍記物のお約束。『平家物語』や『吾妻鏡』の時代から兵数は嘘をついていいことになっている(笑)。
伊東 『太平記』も、兵力に関しては、めちゃくちゃな人数です。
本郷 20万人の大軍などと書かれていますからね。その後の信長の戦いを見てみると、自軍の兵力が多い時以外は絶対に戦わないのです。彼は兵力が多い方が勝つという原理原則で動いています。『信長公記』では、話を盛り上げるために信長の兵力を実際より少なく記したのかもしれません。
高橋 合戦の描写を見ていくと信長の女性的な繊細さを感じます。「髪の毛が伸びたら雨が降る」とよく言われますが、信長はそういった感覚を重要視していたのではないでしょうか。それに子供の頃から仲間とウロウロ歩いているからその土地の雲の流れを見て、「二日後は雨だな」とか予測することもできたかもしれない。
本郷 作家の新田次郎さんは信長を「梅雨将軍」と評しましたが、確かに天候を味方にする部分があります。
伊東 長篠の合戦でも、いざ戦端が切られるときには、計ったように雨が止みました。風雨考法に長じていること、つまり天候を読めることも、戦に強い秘訣だったのですね。
高橋 桶狭間で勝利した信長は美濃へ侵攻します。私は、役作りのため美濃に信長が築いた岐阜城に登った時、鮮烈な体験をしました。たまたま夕方だったのですが、山のてっぺんの城から、西の方を見ると長良川の先の養老山地から京都の方が黄金色に輝いているのです。これを見たときに、「あっ、信長はこれを見たから絶対に京に上ると決意を固めたな」と思えた。
本郷 それは良い光景を見ましたね。その天守閣を最初に発想したのが信長です。それを全国に普及させたのが秀吉。天守閣は大きくて誰でも見ることができるのが非常に重要なポイントです。天守閣は誰にでも見えなければいけない。
高橋 つまり権力の象徴ですよね。自分はこれだけの金と力を持っていると見せつけることができる。
本郷 信長のすごいところは、「見せる」ことの意味を分かっていたところです。源頼朝も足利尊氏もそういった形で象徴を作らなかったし、足利義満の金閣寺は誰にも見られないように建てられています。
高橋 天守閣は城下町から見上げたところにドンとあるわけですからね。
本郷 その一方で、信長は機動性を重視するから本拠地をどんどん変えている。那古野城に始まり、清須、小牧、岐阜、安土と目的に応じて移動する。この発想は、ほかの大名にはないものですね。毛利家は山奥にある吉田郡山城から動こうとしないし、武田家も甲斐を動かなかった。
高橋 最終的には大坂を本拠地にしようとした、という説もあります。
本能寺の変の謎
本郷 さて、信長の生涯最大のミステリーである本能寺の変に話を進めましょう。最近では、四国の長宗我部氏の征伐をめぐるやりとりの中に、謀反の原因があるとする説も出ています。
伊東 本能寺の変は、家康を殺すために信長が仕掛けたトラップだったと、私は思っています。
本郷 それは大胆な説だ(笑)。
伊東 家康が信長に呼ばれて、安土に伺候し、それから京、大坂、堺をめぐっているのですが、非常におかしなスケジュールです。家康は5月15日に安土入りして、17日饗応を受けています。21日には京に入り、28日に大坂に行き、翌29日に堺に到着した。そして、6月2日まで滞在し、安土から京に着いた信長の招きに応じて堺を発っています。この時の家康は少人数でしたから、信長は、野盗か野伏を装った自軍に襲撃させようと思っていたのではないでしょうか。ところが、家康は用心深い。そこで信長は馬廻衆を安土に置いたまま京都に現れた。自分を囮にしようとしたのです。
高橋 SPである馬廻衆を連れて行かないことで、家康を誘い出そうとしたわけですか。
伊東 そうでないと、馬廻衆を連れて上京しなかった理由が説明できません。家康には、茶屋四郎次郎という諜報機関がありますから、信長が少人数で本能寺に入ったと知っています。それで安心して堺から京に向かったわけです。ところが光秀も、こうした状況を把握していた。
高橋 わざわざ自分を囮にしてまで、家康をどうしても殺したかったわけですね。
伊東 そう思いますね。武田家を滅ぼした時点で、信長にとって家康は用済みになっています。関東の北条氏も信長に臣従していますから、家康を楯にする必要はない。すでに信長は、家康嫡男の信康を切腹させていますから、あとは本人を亡き者にするだけの段階に来ていたわけです。
高橋 常に疑問だったのは明智光秀の準備不足です。あれだけの戦略家が何故か、信長を殺してしまった後のビジョンを一切持っていないことが不思議でなりません。
伊東 確かに光秀は、謀反にあたって根回しをしていません。少なくとも娘をとつがせている細川家や、仲の良かった大和の筒井家などには、前もって工作しておくべきだった。
高橋 光秀を動かすための勢力、たとえば公家関連の人物がいたように考えていますが、よくはわかりません。しかし、あれだけ用心深い信長が、本能寺の変の一瞬だけ周りに誰も置かなかったのも変ですね。むしろ中国大返しをした秀吉の方が、準備万端に見えてしまうのですが。
本郷 大返しについては、一つ笑い話程度の説を持っています。秀吉はいつも煙草のキセルを手放しませんでした。実はそれで吸っていたのは煙草ではなくて、大麻とかアヘンのようなハイテンションになるような薬物だったのではないかと(笑)。
伊東 本郷さんこそ、すごい大胆ですよ(笑)。
本郷 だから歳をとった時に衰えが早かったともとれる。
伊東 冗談にしても面白いですよ。小説のネタにはできます。
本郷 もしよかったら、使ってください。
高橋 本能寺の変は謎が多いですが、一つだけ確信を持っていえることがあります。光秀の軍勢が本能寺に行ったのは、信長に呼ばれたからなのは間違いありません。あれだけの軍勢を率いて京都に入っていったら、信長が気付かないはずがない。映画やドラマの撮影の時に十騎の騎馬武者を走らせただけでも強烈な音が周囲に響き渡ります。鎧兜に身を包んだ万単位の人間が、静かに本能寺を囲むなんてできるわけがないのです。
伊東 その通りですね。私も鎧を着て武者行列に参加しますから音の大きさについてはよくわかります。
高橋 だから、光秀の行軍には信長の意向があったけれど、なにがしかの理由で豹変して信長自身を襲うことになったと考えたいですね。実は今一番演じてみたいのがその光秀なんですよ(笑)。
本郷 ええっ!
高橋 何故、信長に仕えたか、というところから始まってあれだけの人物が主君を裏切る過程をやってみたい。史料を読む限り、本能寺の変の直前でも光秀は信長に精神的にも抑えつけられている。ですから何らかの手助けや教唆がないと謀反は起こさないと思います。「敵は本能寺にあり」と宣言するまでの光秀の心の動きをいつか表現したいと思っているのです。
伊東 光秀像を変えることになるかもしれませんね。
本郷 それにしても、信長のイメージが強い高橋さんが、光秀役ですか……。その作品で信長役を演じる役者さんを見つけるのが大変そうですね。