
鈴峯紅也『警視庁監察官Q ZERO2』第2回
3
西陽が作る影が少し、先ほどより長く中庭に伸びてきた。
それだけで感覚的に寒さが募る気が、楓にはした。
「で、年末年始は? 帰省かい?」
冷めたジャスミン茶を飲みながら聞いてみた。
「一応、そのつもりですけど」
観月は強く頷いた。
「でも、31日から3泊ですね。世の中はもっと長いみたいですけど、3日にはこっちに帰ってきます」
「バタバタだね」
「ええ。でも、去年もそうでしたし。バタバタでも帰りますよ。そうしないと、もう後何回、帰省らしい帰省が出来るかわからないですから」
「そんな寂しいことを」
「だって私、先輩に自分の未来を見てますんで」
「私?」
楓はまた腕を組んだ。
「帰省。休暇。休日出勤。残業。サービス残業」
言葉にして呟く。
「ほほう」
納得だった。
観月はそんな楓の様子を気にすることなく、次の条頭を口に運んだ。
「でも先輩。まあ、国立大は官公庁の手下みたいなもんですかね。ご存じのように、4日から授業が始まっちゃいますから。つまりは、すでに将来の慣らし運転、みたいなもんですかね」
「かもね。いや、確実にそうだな」
「それに、銀座の現実は現実で、厳しいんですよ」
「そうかい? ああ。正月にはそっちの都合もあるんだ」
「そうなんですよ」
聞けば観月は頷いた。
「お店の年内営業は、御用納めの後でしかも仏滅になっちゃうんですけど、29日の水曜まで粘って、年始は官公庁に合わせて御用始めから営業するらしいんです。だから4日は、なんとしてもよろしくって店長に拝み倒されちゃいましたから。学校も銀座のアルバイトも結局、どっちも御用始めからです」
「へえ。意外、というか驚きだ。お前さん、そんなに人気なんかい。――なんか、銀座も大したことないね」
「いえいえ」
観月は、ショートボブの髪を左右に揺らした。
「やっぱり、銀座は大したことありますよ。ただ、大したことある銀座の女性は、そんな時期からあくせくと出勤して来ないみたいですよ。実際、お店側でも本稼働は7日の金曜日からで、4日から6日はあくまで官公庁とその眷属のような会社狙いって思ってるみたいだし。ということで暇そうな、あるいは四日から授業が始まっちゃうような学生に、白羽の矢がブスッと立つと」
「なるほど」
「それでしかも、2割増しで出すって言われたら、生活費の掛かる下宿生は速攻で手を上げますよね」
「そうね。上げるわな」
それはそれで、また納得だ。
が――。
「けど観月。ご両親には絶対に、口が裂けてもバラしちゃ駄目だぞ」
「どっちをですか」
バイトは大いに結構だが、勤め先が銀座のクラブだということ。
4日から授業なのは仕方ないが、それが省庁に勤務すると、年末年始さえ名ばかりで吹っ飛ぶということ。
答えは考えるまでもない。
「どっちもだ」
「ですよね。わかってます」
「わかってるなら聞くな。ああ、いや。聞いてこい。特に銀座の話は」
さて、ここからが観月を探して楓が本郷まで来た、本題の2になる。
観月が本当に銀座に出没する噂の女、だとわかった以上、どちらかといえば、ラストサロンの件も話題としては大きいが、こちらの方がそれ以上により重要だ。
楓自身のことではない。
これは、愛すべき後輩に関わる問題なのだから。
言わなかったが、銀座における少しキナ臭い話も楓は聞いていた。
教えてくれたのはさらに別の、在学時代に可愛がってやった男だった。
その男は現在、警察庁にキャリアとして勤めていた。
情報の漏洩、と断じてしまえばそれまでだが、持ちつ持たれつという関係は、表にされない限りどこにも存在する。
楓が勤務する厚労省医薬食品局安全対策課は医薬品及び医薬部外品や化粧品、輸入品を含む食品や医療機器の安全対策だけでなく、麻薬・覚醒剤対策などの政策も所管する。マトリに限りなく近い関係で、安全対策という仕事の内包するダークな部分で警察庁とは相容れない分、つまり、〈大いに重なる作業区分〉を持つ。
そこからの、ダークな部分の情報だ。
「特に銀座の話は、ですか?」
観月は小首を傾げた。
「何か」
自他の感情に鈍感だということに関係なく、こういうときの勘は鋭い。
〈Bar グレイト・リヴァー〉の突然の閉店。
それだけを楓は口にした。
「ああ。グレイト・リヴァーですか」
「ああってことは、その店も閉店のことも知ってるのかい?」
「はい。何度か行ったことがありますから」
観月は真っ直ぐに答えた。
「グレイト・リヴァーの閉店と先輩に銀座の話を聞くことに、何か?」
観月は質問を重ねた。
「いや。そう厳然と、何かって聞かれても困るんだけどさ」
警察庁やマトリの情報網を以てしても噂の域を出ない。
だが、日本のヤクザや上海マフィアの〈商談〉の場所として、〈Bar グレイト・リヴァー〉はたしかに、常に挙がるチェックポイントだった。
噂の域を出ないのは、店にはおそらく闇社会の、つかみどころのないヴェールのような結界が張られていて、これまでのところ証拠収集も潜入も一切が出来なかったからだという。
その〈Bar グレイト・リヴァー〉が閉店した。
しかも閉店直後、一時的には、たった一人の〈テニスのコーチ〉やら〈ただの学生〉に潰されたというまことしやかな噂も駆け巡った。
楓の周辺では誰もが、そんな馬鹿なと笑ったが、楓は笑わなかった。
楓にだけは心当たりがあったからだ。
資生堂パーラーを食い尽くし、半グレ相手に大立ち回りを演じ、〈アイス・ドール〉と呼ばれるホステスがもし観月なら、観月が銀座にいるなら、まことしやかな噂も頷ける。心当たりは100パーセントの確信に変わろうというものだ。
いみじくも先ほど楓が自分自身で言ったように、そんな女は観月以外考えられず、そんな女は観月1人で十分だ。
「危なっかしいんだよ。お前は」
楓は言って、ジャスミン茶のポットを傾けた。
もう空だった。
観月が、自分のポットからプーアル茶を注いでくれた。
「おっ」
手刀を切って礼に代え、楓は茶器に口を付けた。
ジャスミン茶より、だいぶ苦かった。
だから嫌いだ。
「危なっかしいんだよ。お前は」
もう一度繰り返した。
「危なっかしい奴ほど、本気で気を付けるんだ。あたしなんかはさ、なんだかんだ言って、きっと自分で思ってる以上にやっぱりか弱い。けど、お前は違う。お前だけは特別なんだ。それはその、なんていうか、天与だからさ。わかるか」
次第に自分の言葉が強くなっていくのがわかった。
表情も感情も関係ない。
これは、相手に届けと思うただその一心の表れだ。
「気を付けても寄ってくる。そんなこともあるだろう。もしかしたらそれも、試練という名の天与かもしれないけどさ。でも、いや、だからこそ、気を付けることだ。本当に、それしか言えないけど。本当に、聞かれたことにしか答えられないけど。せめてお前の、転ばぬ先の杖になれればってな。思うんだ」
そこで少しの間が空いた。
楓はプーアル茶を飲み干した。
観月がまた、注いでくれた。
ポットを置き、有難うございます、と言って観月は頭を下げた。
無表情を少しは割れたか。
その奥に言葉は届いたか。
「わかるか」
わかります、と観月は言った。
「感謝の気持ちまでに、条頭を、そうですね。20皿進呈しましょうか」
「要らないっ」
自分の声は、自身でも驚くほど今までで1番強くなった。
これも相手に、頼むからどうにか届いてくれよと思う、その一心の表れなのは間違いないが。
「はて」
観月はわかったんだかわからないんだかわからない顔で目を細め、ただ小首を傾げた。
4
この日は日本中にクリスマスのイベントが溢れる、クリスマス・イブだった。各地の商店街や繁華街には陽気なメロディーと鈴の音が響き、多くの人が浮かれ気分になる1日だ。
観月はといえば、昼間はそんな浮かれ気分などどこへやら、東大駒場キャンパスで通常の授業を受けた。
この年の東大は、週明け火曜の28日まで通常授業があった。年始も4日から通常授業が始まる。
この4日が土曜日だったりすると課業日程は後ろ倒しで、6日の月曜からになったりする。
そうなると、帰省する学生は気持ちや動きが楽になったりするのだが、贅沢は言えない。
毎年変わらず、大学入試センター試験の会場にキャンパスを明け渡す時期があり、東大そのものの入試があり、始動が遅くなってもそのスケジュールが動くわけもなく、結局現役生の授業や補講がタイトになり、そのまま学年末試験に突入するという羽目になる。
つまり、自分の首が絞まるだけというわけだ。
そう考えれば年末も年始も通常通りに終わって始まるこういう年が、結局は穏やかでスムーズで、1番いいということになる。
そんな暮れも近いクリスマス・イブの日、観月の授業は5限まであった。
5限の終了は6時35分で、観月が授業の行われた11号館を出たころには、もうすっかりと夜だった。
「さて、急げ急げ」
観月はこの日、夜は楓に言った通り、〈蝶天〉でのアルバイトが入っていた。そんな日は観月の入店は、特別な事情がない限り午後7時だ。これは絶対だと自分で決めていた。
〈蝶天〉ではバーカウンター周りで、オープン1時間前の7時から開店前ミーティングが行われるのが恒例だった。その夜の出勤キャストの総人数と、同伴やら兼業やらで変わる、1人1人のキャストのタイムスケジュールの確認があり、1番重要な、日ごとに設定される売り上げ目標の発表があった。
だから大事、とはアルバイトの観月は考えない。それでも出勤日のミーティングを絶対と考えるのは、〈ぎをん屋〉の京風スイーツが饗されるからだ。
――そうそう。僕は、うちの〈銀座ワン〉の1階の角で、京風スイーツの店もやっていてね。割りと評判で行列も出来るんだ。毎日、その日のお勧めを〈蝶天〉では開店前ミーティングに参加した娘に振る舞うのが恒例でね。
〈蝶天〉のオーナーでもある宝生裕樹のこのひと言が、実は観月が夜の銀座に足を踏み入れることとなった大きな切っ掛けでもあった。
だからというわけではないが、観月の〈蝶天〉でのアルバイトスケジュールは、基本的にはこの開店前ミーティングに間に合う日、ということを基準に設定していた。
だからこの夜のように、絶対に間に合わないとわかっているのに出勤するのは、観月にとってはかなり特別だった。
そういう意味では、さすがに世の中が浮かれるクリスマス・イブ、と言えなくもない。
「うん。ぎりぎりセーフかな」
観月が〈蝶天〉に駆け込んだのは、午後7時25分を回った頃だった。
まずキャスト部屋に入って用意されたコスプレ用の衣装に手早く着替え、VIPルーム手前のバーカウンターに向かった。
ちょうど、ミーティングボードを手にした副店長の田沢がこの日の目標額を発表し、説明しているところだった。これは、いつもなら店長の児玉の仕事だが、この夜はちょうど新規のキャストの面接が重なったようだった。裕樹がいれば面接は裕樹の役回りでもあるが、宝生エステートの忘年会と重なり、この日は店にはいないようだ。
「遅れました」
田沢は観月を見て軽く頷き、目でバーカウンターの中を示した。
観月は片手を挙げて反応し、そのままカウンターの中に入った。
田沢の目での合図は、この日の観月の分の京風スイーツが、カウンター下の冷蔵庫に入っていることを教えていた。
というか、出るつもりのない日に出てくれと頼まれたこちらの強みで、取り置きを頼んだのだからあるのはまあ、当然ではある。
この日のスイーツは、若緑色が散る麩饅頭だった。
〈ぎをん屋〉自慢の逸品だ。一番人気の品らしい。
ミーティングの邪魔をしないよう、しゃがんだままで菓子楊枝に刺した。
口にした途端、大納言小豆の甘さと生麩に混ぜ込んだ青海苔の香りが口中に広がった。
間違いのない味だった。
「皆さん。今日はクリスマス・イブ。お店にとっても一大イベントの日です。いつも以上に明るく楽しく、そして優しく、張り切って働きましょう」
――はい。
キャストたちの声に合わせ、観月もカウンターの中に立ち上がる。
「では、よろしくお願いします」
――よろしくお願いしまぁす。
田沢の掛け声に続き、観月もキャストのみんなと一緒に頭を下げた。
角のある頭を――。
キャストたちが思い思いに、店側が用意したどれも可愛らしい〈サンタ嬢〉に変身する中、観月に支給されたコスプレ用の衣装は、実に角の大きなトナカイだった。
この夜はキャストでもありながら、観月には他のキャストにはない役が振られていた。その証が他嬢と一線を画す、角の大きなトナカイということだったろう。
11月17日以来、京香が去ったカウンターバーは、その後10日経っても閉まったままだった。次のバーテンダーがなかなか見つからなかったかららしい。
――店としては、誰でもいいというわけではないのでね。京香さんは実に優秀だった。見様見真似の似非バーテンダーは多いけど、彼女のように、師匠がいるバーテンダーは今や本当に貴重だ。
オーナーである宝生裕樹はそんな言葉とともに溜息をついた。
観月としても、カウンターバーと店内を仕切る、スライディングタイプのパーテーションが閉まったままであることに、多少の負い目を感じないわけではなかった。
実質的な通路の狭さ、照明の暗さ、空間の圧迫度。
バーカウンターの場所は、VIPルームへのただの導線ではない。
そんな空間を管理運営するバーテンダーの不在は、たとえ理由はどうあれ、観月が京香に因果を含めた結果だということに間違いはない。
だから、
――大変ですね。私も大学で、そういうのに興味ありそうな人を探してみます。たしか、カクテルの同好会があったような、なかったような。
と、声を掛けてしまったことも、巡る因果の応報だったような気がしないでもない。
すると、
――ああ。ひとつ閃いたんだがね。
裕樹が観月の前に笑顔で立ったのは、12月に入ってすぐのことだった。
――君の記憶力があれば簡単に出来ると思うんだ。いや、簡単ではないな。そう。簡単にと言ってしまっては、他のプロにも君にも失礼だ。それはわかる。わかるが、他の人間よりは、どう考えてもバーテンダーに必要な知識の習得に掛かる時間がほぼ皆無な分、いけるんじゃないかな。君が普通に、普通に不器用な人の倍以上も不器用でなければ。
話しながら、裕樹の目がキラキラしていた気がする。
やはりどうしても、自慢のカウンターバーを閉めたままにしておきたくないということは観月にもよくわかった。
だからね、と言って、裕樹はわざとらしい咳払いをした。
――君の出勤日の3日に1回でいい。バーカウンターに入ってもらえないだろうか。当然、その日は強いてフロアに出なくてもいい。それでいて時給は1・5倍を保証する、というところでどうだろう。なんとかならないものだろうか。
幸い、観月は不器用な人の倍以上を想像するに、さすがにそこまでは不器用でない自信はあった。
1・5倍ですか、と言葉にすると、簡単な言葉だし自身の無表情はいつものことだったろうが、声のトーンはいつもよりだいぶ高かった気がする。
観月の時給はすでに色々なオプションや歩合がついて、11月20日以降のGLとしての再雇用以降は、大きな声では言えないが小さく5桁に入り込んでいた。
それが1・5倍になると、おそらく普通のアルバイトキャストの2人分に相当するだろう。
やります、と答えるための思考には2秒と掛からなかった。
もちろんカクテルについても、裕樹に提案されたこの翌日には、東大の駒場図書館で調べられる限りのレシピは覚えた。2000を超える数になった。
ただ、シェイカーの振り方、ステアの仕方は、どうだろう。
〈Bar グレイト・リヴァー〉のマスターと弟子の京香の振る舞いは、今も観月の脳裏に鮮やかだが、何度挑戦しても手応えを得ることは出来なかった。
それでも、試飲の段階で裕樹からは最低限の合格は貰った。
――味はいずれ、ついてくる。その前に自信を持っていい。ここにあるリカーの種類では追い付かないくらいのレシピを、瞬時に再現出来るバーテンダーは、日本全国にもそう多くはないよ。まあ、今のところは飽くまで、材料と分量としてのレシピだけだけど。
この裕樹のひと言ひと言は、すべてが納得だった。理として、まったく間違いはなかったろう。
シェイクとステアの回数分、腕前と味は熟成されてゆく。
――いいかい、お嬢。頭だけじゃあ、駄目なんだ。身体だけでもよ。頭を身体に染み込ませる。身体を頭に納得させる。そのために、何度も何度も繰り返す。これは何も、柔術に限ったことじゃあない。何をするにも基本だよ。人生の基本でもあるかな。
若宮八幡神社で、観月に関口流古柔術を教えてくれた、関口のおっちゃんの声が蘇る。
「そうだよね。頑張る」
声に出すと、関口のおっちゃんが脳裏で、大きく頷くようだった。
※ 次回は、1/25(土)更新予定です。
見出し画像デザイン 高原真吾(TAAP)