
鈴峯紅也「警視庁監察官Q ZERO」第12回
十二
同じ日の、夜だった。八日目の月が西の空にあった。
この夜、観月はさすがに〈蝶天〉に出勤する気はなかった。月曜から四日間を出勤するという話になっていたし、サロンの打ち合わせがあったからだ。
別にその後に真紀や穂乃果を始めとする九人とどこかで吞むとか、そういう約束があったわけではない。
それぞれが各自、〈生J〉との触れ合いを一人で噛み締める。堪能する。反芻する。
これが実は、サロンの打ち合わせの後の暗黙の了解だった。
裕樹から掛かってきた電話が、無情にも観月のそれを破った。
ドミトリーに帰るべく、笹塚の駅に着いた直後だった。
角田が来るという。
小日向純也と、角田幸三。
月とスッポン、いや、もっと現実的で生々しいか。
白馬と駄馬。
そう思うと、少しむかついた。
「ああ。そうですか。来させればいいじゃないですか」
冷たく邪険に言い放った。
――ああ。電話だとよくわかるね。そうあからさまに冷たく邪険にされると悲しいが。それにしても、ご指名でね。
「何がです」
――角田先生が。
「何をです」
――君をだ。
「わかりませんね」
――僕もわからない。
「失礼ですね」
――自分で言ったんじゃないか。とにかくご指名だ。助けてくれると有り難い。
黙っていると、裕樹の口から数字が出た。純也を想えば現実的で生々しいが、三度違った金額が告げられたところで、イマジネーションは現実に追い越された。
「仕方ありませんね」
〈角田オンリー〉という約束で承諾した。結局これで今回も金曜から木曜まで、出勤予定はフルのワンクールになった。
ささやかな抵抗のつもりで少し遅れ気味に、十時を回って入店したが、角田の来店の方がさらに遅かった。
十一時を回った頃、VIPルームに向かった。この日はどこかでしこたま吞んできたものか、角田は前回に来たときよりはるかに赤ら顔だった。
「あれから、クールな女もなかなかいいと思い返してな。いや、金を使ったんだから楽しかったんだと思い込もうとか、そういう下衆のみみっちい根性ではない。私は内閣府特命担当大臣防災担当兼国家公安委員長だ。だから、一度金を使った女をそのままにしてはおかないということだ」
「よくわかりませんけど、どこかで大分吞んできました?」
〈高級ブランデーの水割り〉を作りながら聞いてみた。
「当たり前だろう。素面でこんな店に来られるものか」
「ああ。――それで、何時から吞んでるんです?」
「そうだな。今日は四時くらいからだ」
なるほど、吞み始めて調子がよくなり、それで吞まなければ来られない〈蝶天〉に連絡を入れてきたものか。
「四時って、じゃあ、もう七時間以上も吞んでる計算じゃないですか。二日酔いにでもなったら、会期中の臨時会に差し支えが出るのでは」
「ふん。東大女は物知りで困る。ま、国会などは大したことはない。俺の仕事は選挙で勝つことだけだ。後は寝て暮らす。それが政治家だ」
「なるほど。いかにもなお言葉ですね。それを聞いて安心しました」
「何がだ」
いえ、と言いつつも観月は作り掛けの水割りの濃度を上げた。
それからはまた、前回の繰り返しだ。が、Jのことを口にしたからか、触らせろとは言ってこなかった。
そのかわりとにかく、隙あらば触ってこようという気配は前回より満々だった。しかも大いに吞んできた分、大いにしつこい感じはしたが、吞んできた分、逆に観月には随分と楽だった。
楽に躱しつつ吞ませつつ、緩急のうちに観月は角田を巻き込んだ。
それで閉店の案内より少し前に、角田は音を上げた。ブランデーの水割りは、この時点で酒と水で半々の濃さになっていた。二日酔いになったところでどうでもいい。大したことはないと言ったのは本人だ。
お時間ですが、とVIPルームの外から裕樹の声が掛かった。
「くそ。今日はこのくらいにしておいてやるか。またしてもしぶとい女め。いつかそのすかした表情を、崩してやる」
フラフラしながら捨て台詞を忘れず、角田は席を立った。
「受けて立ちます。と言いたいところですけど、どこかで吞み始めてからではなく、とにかく予約はお早めにお願いします」
ブルーのフットライトだけの通路を、また裕樹に先導されて角田が去る。
姿が見えなくなって初めて、疲労感が全身を巡った。気疲れというやつだ。
「ふぃぃ」
「ふふ」
観月の溜息に、かすかな笑い声が重なった。
パーテーションの一部が開き、フットライトだけの通路に光が溢れた。
それだけで癒されるというものだ。
店の者たちには悪いが、観月には光は有ればあるだけいい。
主に陽光の下で生きてきた。
光は軽く、暗さは重いものだと知る。
夜の蝶には、どう転んでもなれそうにない。
「お疲れみたいね」
言いながら、光を割るように京香が顔を出した。
「そうですね。体力には自信有りますが、精神力はその限りではありません」
「じゃあ、作ってあげようか」
「え、何をです」
カクテル、と京香は言った。
「私のオリジナル。頑張ってる人にさ、ときどき作ってあげるの。割りと元気が出るって評判なのよ」
「へえ」
「座って」
促されてスツールに座る。
VIPルームからは一番近く、ホールからは一番遠い席。
観月は決まってそこに座った。
「ああ。京香さん」
シェーカーを取り上げようとする京香に、カクテルは要らないと断った。
「あら?」
「その代わり、ミーティング・スイーツの今日の分、残ってませんか。苺クリームの羽二重餅、抹茶塗しだって聞きました」
「え、ああ。二つ残ってるけど。――そう。残念」
京香はシェーカーを仕舞い、代わりにカウンター下の保冷庫から、小皿に載った半生菓子を取り出した。
抹茶の緑も鮮やかで、柔らかなフォルムが上品だった。
「でも、いつでも言ってね。作ってあげるから」
京香はそんなことを言ってくれた、ようだが、あまり耳に入っては来なかった。
抹茶の香りと渋みが苺の酸味とよく合い、羽二重餅とクリームの甘さが全体を包んで格別な味わいだった。
二個しかないのが、なんとも残念だ。
あっという間に平らげ、
「ご馳走様」
と京香に頭を下げると、なにやら閉店後のホールが騒がしかった。
店長と副店長は会計スペースと本社部屋に分かれて売り上げの集計で、若いスタッフは後片付けと掃除、ホールではラストまでいたキャストが、GRやフロアマネージャーとミーティングというのが閉店後の決まりというか、常だった。
ただ、キャストについてはこのルーティンは緩い。アフターで早々に退席の娘もいれば、明日の朝から仕事や学校の娘もいるからだ。
「なんか騒がしいですね」
京香はわかっているようで肩を竦めた。
「苛ついてるみたいねぇ。疲れてるのかな? ああいう人にこそさ、私は私のカクテルを吞ませたくなるのよねえ」
それでなんとなく観月にもわかった。
「なるほど」
やおら、立ち上がってホールに戻る。
GRの一人と取り巻きが、本当に一人のキャストを〈取り巻〉いて、何やら揉めていた。
〈ジュンナ〉という名で店に出ているGRだった。本名は山田恵子というらしい。普通よね、と初日に自嘲と共に言っていたのを覚えている。お酒があまり強くないともこぼしていた。
――だから人より頑張らないとさ。
とは、観月にというより自分に向けた言葉だったような気がする。
それが今は、京香が言うように、ジュンナは少しというか、大分眉が吊り上がっているように見えた。
プライドは間違いなく高く、それがプロの意識と言えば聞こえはいいが、時に驕慢にも見え、それ以上に売り上げには、ジュンナは誰よりもシビアだった。
上手くいかなかった、酒をこぼした、などなど。
アフター無しよ。太客なのにどうしてくれるの、などなど。
こういう文句は、言えば言うほど自分で自分を殴るようなものだ。それで相手に向ける攻撃性が、さらに高まってゆく。
言われているのは、アルバイトのキャストだった。
フロアマネージャーの二人が、近くのソファで別のGR以下を集めて話をしていたが、わからないはずはないだろう。見て見ぬ振りということか。
裕樹はフロアマネージャーがホールの全体を見ると言っていたが、激高したGRに強く出られるような者はいないようだった。
いい営業マンがいい管理職とは限らないという典型だ。このことは、まだ働いて六日間程度だが観月にも見えていた。
場面的に、観月の嫌いなシーンだった。
寄ってたかっても成り行き任せもことなかれも、観月には無縁のワードだ。
「私、そこまでの責任を負う立場じゃないですから」
アルバイトはどこかの女子大生で〈キラリ〉といい、本名も綺里という娘だった。観月より半年ほど早く入店していたが、同い歳らしく気さくに色々教えてくれた。世話好きっぽいが、鼻っ柱の強さはそのときから隠れもなかった。
「なんですってっ。こ、このっ」
ジュンナの手が上がり掛け、キラリが負けじと顎を突き出した。
修羅場の予感がした。
(参ったなア)
ショートボブの髪に右手を差し、観月はヒールを脱いだ。
小さく一つ呼気を吐き、右足を前に進め、髪に差した手をその膝に乗せる。
形より入り、形を修めて形を離れる。関口流古柔術の基本だ。
呼気が小さく巻き、自身の身体を浮揚させるイメージが出来た。
観月はホールの絨毯を蹴り、始動した。
音もなく二人の間に割って入り、ただ風のようにすり抜ける。ただし、本当にただすり抜けたわけではない。
手を取り足を掛け、自然な拍子の間に間で相手の力を利し、以て〈すべて〉を投げ飛ばす。
「きゃっ」
「えっ」
ジュンナとキラリ、それぞれが弾かれたように宙を飛び、真反対にあったソファの上でほぼ同時に跳ねた。
観月にとっては当然のことだった。そんな風に仕掛けたのだ。
しかし、他の誰にも、何が起こったのかはわからなかったはずだ。
それも観月にとっては、よくあることだった。
「ジュンナさん。手を上げたら駄目です。傷害で訴えられたらあなただけじゃなく、店も困りますよ」
「え。え。あ」
「キラリちゃん。あんたもさ、アルバイトだから手を抜いていいってわけじゃないし、悪いことは悪い。間違ったらご免なさい、でしょ」
「あ、うん」
そのまま顔をフロアマネージャーに向け、
「こういう場を管理するのが、フロアマネージャーじゃないんですか。出来ないなら失格。辞めた方がいいと思います」
無表情がこういう場合、良くも悪くも効く。アイス・クイーンの面目躍如たる場面だ。
誰も何も言わなかった。音自体が絶えていた。
観月は一人背を返した。
通路の方で青い光の中、京香が音のしない拍手をしていた。
※毎週木曜日に最新回を掲載予定です。