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同期の紅葉 松嶋智左                              

 友達とも違う。仲間というイメージでもない。戦友などというのはおこがましい。やはり同期は同期というしか、他にたとえようがないのかもしれない。
 
 白堂はくどう市は、住宅地域と農業地域が七対三の割合で広がり、私鉄の普通列車のみ停まる駅がひとつある。県庁や県警本部のある中心部に行くには、途中で快速に乗り換えても四十分はかかった。
 白堂警察署は署員数二百人弱で、県下では中規模署になる。管内に中小企業や商店はそれなりにあって、窃盗事案は多いが政治犯や経済犯罪はほとんどない。唯一、特殊詐欺関連の事件だけは、他と同様、増え続けている。
 そこに今春、樫原かしはら有子ゆうこは三十九歳で刑事課二係の係長として赴任することになった。警部補に昇任しての異動だ。身長一七〇センチ、体重六〇キロ、大学時代はラクロスで鳴らした体育会系の有子は、前任の所轄でも二係として特殊詐欺事件によく携わった。通常、新米係長は地域課に配属されることが多く、刑事課への横滑りというのは珍しい。裏を返せば、それだけ特殊詐欺案件に手を焼いており、少しでも経験者を配置してその対応に当たりたいという県警の苦肉の策といえる。そうとわかっているから有子も期待に応えるべく、改めて意欲を燃やす。
 とはいえ、初めての所轄は慣れるまで緊張もするし、気も遣う。しかもこのたびは、係長という立場になってのことだから余計だ。どんな部下がいるのか、上司として受け入れてもらえるか、考えても仕方のないことだとわかっていても、つい考えてしまう。だからこそ、赴任署に同期がいるのといないのとでは、雲泥の差がある。
 有子の同期である時沢ときざわ唯美ただみ、旧姓田尾たお唯美は白堂署の警務課警務係主任だ。階級は巡査部長で二年前に赴任していた。
 署長室で他の異動者と共に挨拶をすませると、有子はすぐに警務課へ顔を出した。
 白堂署の一階は署の受付窓口で、玄関の自動ドアをくぐるとオープンスペースになっている。カウンターで仕切ったなかに交通規制係、車庫証明係などの島が散らばり、中央に副署長席がぽつんと置かれている。奥の壁にひとつだけ見えるドアは署長室のもので、右端に警務課の島があった。
「今、係長がいないから、食堂に行こうか」
 待ち構えていたかのように唯美が立ち上がった。同僚の男性巡査がそれを見て、「あ、時沢主任、生安の巡査長が係長と約束しているってきていますけど」と呼び止める。唯美が目を向けた先に、背の高い二十代くらいの男性がこちらを見ていた。
「そうなの? でも係長、しばらく戻らないと思う。今日は一日、異動関係で手が取られるから、急ぎでないなら別日にしてもらって」といって歩き出した。
 そんな唯美の後ろ姿を見ながら、いつ振りだろうかと有子は考える。
 警察学校で共に六か月学び、慣れない教練や柔剣道、拳銃実射を経験し、狭い部屋を共有する寮生活を送った。教官や指導先輩、寮監など多くの監視者がいるため、寮の部屋以外で気を抜くことはほとんどできなかった。
 そのため同じ部屋になった唯美とは誰よりも親しくなれたし、強い仲間意識を持って親兄弟や友人とも違う不思議な信頼関係を築くこともできた。
 学校を卒業すると新人巡査は、別々の警察署に配属される。それから数年ごとに異動を繰り返すが、同じ所轄になることはまずない。職場が違っても、有子と唯美は時機を見てカラオケに行ったり、飲みに行ったり変わらぬ付き合いを続けた。それも唯美の結婚を境に減り始め、それぞれ仕事と子育てで忙しくなり、いつしか年賀状のやり取りで近況を知る程度となった。
 今回は有子が警部補で、階級が違っていたからこそ同じ署に勤務できたのだ。
 時沢唯美は身長一五九センチ、体重五五キロ。昔と違って少しぽっちゃりした体型になっているが、丸い顔に丸い目は同じで、子どもがいるのに学校時代と変わらない幼さが漂う。
おごるわ」といって、唯美が食堂の自販機に小銭を入れ、温かい缶コーヒーを有子に差し出す。互いに缶を持ち上げ、「久し振り」「ようこそ白堂へ」と声をかけあった。ひと口ふた口飲んで、軽く息をいた。
「唯美のご家族はみな元気?」
「有子は今も独りだっけ?」
 階級は違うが、同期のあいだで敬語は存在しないし、遠慮もない。人前では係長、主任と呼び合っても、二人だけのときは昔通り呼び捨てだ。
「上は今年小学校に入学した。下は保育園の年少組。みんな元気」と唯美が柔らかく笑う。
「お、二人になったか。しばらく会ってなかったもんねぇ。わたしは相変わらずよ。豊富とよとみ駅前の単身者用マンション」
「ああ、今もそこ? 賃貸でしょ? 分譲は考えないの?」
「うーん。寝に帰るだけの部屋に家賃八万は無駄だと思ってはいるんだけど、いざ買うとなるとさぁ」
「八万もするの、あそこ?」
 唯美が有子のマンションにきたことがあっただろうかと思いつつ、うなずく。
 警察学校を卒業すると、県在住者以外は独身寮に入る。女子寮なので管理人もいるし、掃除当番も回ってくるから、だいたい一、二年もすればみな手ごろな物件を見つけて出てゆく。
「警部補になったって、そう給料は上がらないでしょうに。ああ、刑事課は残業がつくか」
「そんなのしれてるわよ。だいたい今は、なるたけ定時に帰るよういわれているし。そっちは?」
 え、なにが、と目をまばたかせるのに重ねて尋ねた。「家よ。子どもが生まれる前は職員住宅にいたでしょ」
「うん、今も同じ。ちょっと広めの部屋には移ったけどね」
 職員住宅に住んでいるということか。「旦那は今、どこ?」
「・・・・・・栄立えいたつ警察署」更に声が小さくなって、「地域課の主任」といって、缶に顔の方から寄せてゆく。
 栄立署は県の南端の所轄で、ほとんどが駐在所というひなびた署だ。近隣に住む警官か、昇任者か、それかなにかいわくつきの警官が異動させられる、という噂があった。唯美の住む職員住宅は県警本部の北側で栄立署とは相当距離がある。唯美の五つ上と聞いているから、恐らく四十四歳。それで地域課の主任、つまり巡査部長となると、出世コースを走っていないことだけはわかる。
 有子は今後、唯美の夫の話題は避けると決めて、白堂署はどんなところか訊いた。
「忙しくもないけど、暇というのでもない。なににつけ中くらいって感じね」
「そうなの? 特殊詐欺関係が多いのかと思ってた」
「え。ああ、そうか。有子はそれでうちにきたのか。昇任係長なのになんで刑事課のまんまなのかと思ってたけど、そういうことか」といって、腑に落ちた表情をした。「件数が特別多いってわけでもないんだけど、被害の多寡がね」
 警務課には総務と警務の二つの係があって、乱暴ないい方をすれば、署員自身に関わることを扱うのが警務、署全般のことに関するあれこれは総務という感じだ。総務が課ごとの統計を取っているから、同じ島にいる唯美もおよそのことは把握しているのだろう。警務課は署内のあらゆる情報が集約されている部署だ。
「被害者が多いの?」
「ていうか、金額がね。うちの管内、農家さんが多くて、高齢者も多い。タンス預金を今も結構されてたりするわけ。現金が自宅にあるから、コンビニやらATMやらに呼び出す手間もなく、あっさり持って行かれるケースが頻発している」
「ああー」と有子は額に手を当てる。玄関先に現れた受け子に手渡しとなると、警察がどれほど気をつけていても間に合わない。そういう手合いは要注意で、知らない人間が訪ねてきても玄関を開けてはいけないと喚起しているが、身内の偽電話にパニックを起こした状態ではどんな頑丈なロックも役には立たない。
「少し前に一千万がね」
「へえ」
 奪われた金額らしいが、一件分ではないようだ。特殊詐欺のグループの根城を見つけ、刑事課で一斉検挙に至った。その際、うっかり顧客リストを薬品に放り込まれて消去され、手がかりを失うという失態を犯してしまったらしい。根城には現金が一千万近くあって、奪った金には違いないのだろうが、被害者がわからない。自供と詐欺に使ったスマホの履歴から数人は判明したが、全員を見つけ出すにはまだ時間がかかりそうだという。
「じゃあ、まだうちに置いたまま?」
 尋ねると、唯美が肩をすくめ、そういうことだと返事した。
 なかなか厄介そうだな、と有子は制服の上着の裾を引っ張り、ネクタイをゆるめる。このあと私服に着替えて、刑事課で着任の挨拶をすることになっている。その詐欺の件は恐らく今も継続中だろうから、有子も引き継ぎを受けることになる。しくじった案件といういい方はせず、かつ、二度とこのような失態が起きないようにと持っていかなくてはならない。
 そんな有子の思案顔を見た唯美が察したように、「ま、始まったばっかりだし。あんまし気負わずに、リラックス」と笑って送ってくれる。それにこたえるように、「落ち着いたら飲みに行こう。あ、夜は駄目か」といったら、唯美がにんまりと笑った。
「平気よ。旦那が非番のときなら問題なし。昔みたいにカラオケ行こう」
 有子は大きく頷いて先に食堂を出る。振り返ると、まだ飲み足りないのか財布をのぞき込んでいる唯美の背中が見えた。
 
 *
 
 刑事課は二階で他に交通指導係の部屋と留置場がある。三階に生活安全課と警備課。四階に地域課、柔剣道場、女性職員用宿直室があった。
 刑事課には一係から三係と組織犯罪対策係がある。横長の部屋の窓際にあるのが課長席で、有子はそこに立って係員の方を向いて挨拶をした。一人一人とはおいおい話せばいいし、人数も全部の係を合わせても三十人程度だ。顔も名前もすぐ覚えられるだろう。
 課長の生方うぶかたは五十になったばかりの警部で、年ごろの娘が三人いるという。刑事課長といえば刑事畑で鳴らした猛者が多いが、生方は温和な容貌に小太りなせいもあってか、私服姿だと保険か不動産の営業員にしか見えない。
 有子の所属する二係には四人の刑事がいて、そのうち巡査部長(主任)が二人。
 課長から今、取り扱っている事件についての話を聞かされるが、詳細については二人の主任からじかに聞く。
 ぐもは三十歳の巡査部長で、ショートカットのヘアにミーアキャットのような黒目がちの眼を持つ。独身らしいが、そういう個人的な話はもっと打ち解けてからにしようと肝に銘じる。津雲は調書類を広げながら要領よく説明する。
 もう一人は、あさてつろうという四十三歳のいかにもベテランという感じの男性巡査部長。津雲の隣に座って、ぽってりした鼻をつまみながら、ふんふんと相槌を打つ。時折、津雲が確認してくるのに、頷いてみせた。
 おおよそのことはわかった。唯美がいった通りの話で、有子は検挙に入った際の不手際を指摘しないよう、どうしてリストを処分されたのか訊いてみた。
 二人の巡査部長は互いに視線を交わし、一拍置いたのち、自分の役目と察した津雲が口を開く。
「前任の係長の指示で三係と組対係に応援を頼み、浅田主任とわたしと三係でまず正面から突入。裏口から逃げ出そうとするところを組対係が裏から飛び込み、確保に動くことになっていました。連中を壁際へ追いやっているあいだに、うちさんとさんがスマホやパソコン、お金や書類関係を押収するはずだったんですが」といって言葉を切った。
 木内そうろうは二係の巡査長で三十五歳のバツイチ。久和野ともは二十七歳の、二係にきて一年目の巡査だ。津雲が口ごもるのを見た浅田が、仕方なさそうに続ける。
「まあ、木内は最近、家庭の事情で本調子じゃないところがありまして。こういったことには慣れているやつなんですが、いうなればうっかりした、というところでしょうか」
「うっかりした?」思わず有子は声を硬くした。
 木内巡査長が、有子が白堂署にくる少し前に離婚したことは聞いている。奥さんは同じ警察官でいわゆる職場結婚だった。結婚経験のない有子でも、離婚が大変なことは察せられる。だからといって仕事に身が入らず、うっかりしたというのでは、刑事としていかがなものか。そんな思いが浅田に通じたのか、慌てて言葉を続ける。
「いや、木内はちゃんと証拠品の確保に動いたんですが、被疑者の一人が逃げ出そうとしたのを見た久和野が、ついそっちを追いかけてしまって。それに気づいた木内が、どうしたわけか、久和野が回収していた金の方に回ってしまい、引き出しから目を離した隙に、なかにあったリストや書類をリーダー格の男が摑んで、机の下にあった薬品のバケツに投げ込んじまった、とまあそんな感じですか。あっと思ったときにはもう」と頭をかく。
 有子は頰杖を突いたまま顔を横に向け、ため息を隠した。
 起きてしまったことを今さらいっても仕方がない。今後、二度とこのようなことを起こさなければいいのだ。だから一応、確認しておく。
「久和野さんは一年目ですよね」
 刑事課には希望して入ってくる者も多い。やる気が先走って、危ないことにも気づかず無茶をすることがある。そうであれば、早めに注意しておいた方がいいと思ったのだ。
 浅田が察して頷く。「刑事に憧れて入ったとかで、熱意もあり、それなりに自信も持っているみたいです。まあ、今どきの若者ですね」と隣の津雲に目をやる。「津雲主任が面倒を見ているのですが」といって口を濁した。津雲の僅かに落ちた肩を見て、有子なりに思案する。
 離婚したことで私生活が乱れ、仕事に影響を及ぼす木内も気になるが、ひとまずは若手に気をつけていた方がいいかと考えた。
 
 次の事件が起きるまでは、二係としては被害者の特定に集中する。被疑者らは自白して調書に押印したものから、順次、検察に送っている。検察としては被害者が確認できないと困るというので、とにかく必死で捜すしかない。そのあいだ、新たな詐欺事件など起きないようにと祈るばかりだ。
 二週間ほどしてようやくがついた。
 おおよその被害者が判明し、金額的にもなんとか検察に認めてもらえそうな差額に収まりそうだ。
「被害者から聞き取った被害金額は合計一千十万円になります」と津雲が報告する。
「押収した金額が一千四万五千八百三十六円だから、差額は五万四千百六十四円ですか。まあ、この金額なら他に被害者がいたとは考えられないわね」といって、有子は安堵と共に椅子の背に深くもたれた。
 津雲や浅田も、疲れた様子ながら笑みを浮かべる。
「じゃあ、押収した金額を念のためもう一度、数えて、被害者リストと共に検察に渡しましょう」
 津雲と久和野が警務課にある金庫に向かう。本来、捜査関係の証拠品は刑事課の奥にある倉庫に保管するのだが、なにせ一千万円という大金だ。万一のことを考え、警務課の金庫に入れていた。会社などで使用するような大型の据え置き型金庫で、鍵は警務課が持っていて、開けるときは警務課員が立ち会う。
 有子から警務係長に連絡を入れ、津雲と久和野が出向くと警務課の人間が鍵を持って待機していることになっている。
 
「ないって、なにが?」
 有子は思わず問い返した。二係だけでなく、課長の生方、一係や三係、組対係の面々までが、津雲の息せき切った様子を見て、何事かと目を向ける。
「お、お金が消えています」
 有子は立ち上がってそばまで行く。課長までもが席を離れて近寄ってきた。
「警務課の金庫を調べたんですが、どこにも押収した一千万円が見当たりません。なくなっています」
 津雲の青い顔を見て、有子は血の気が引くのを感じた。一緒に出向いていた久和野が、隣で首振り人形のようにこくこく頷いている。
 小銭は小袋に入れ、お札だけ百万円ごとにゴムでまとめて別のビニール袋に入れていた。その札束の袋だけ消えているという。
「まさか、盗まれたっていうの?」有子が唾を飛ばしながら訊くと、興奮で頰を赤くした久和野が答える。
「はいっ。今、警務課のある一階は大騒ぎで、副署長や警務課長が署長室に飛び込んで行きました。警務課だけでなく交通規制や車庫証明など、一階にいる署員はみな床をはいつくばってあちこち探し回っています」
 な、と声を上げかけると、後ろから生方の悲鳴に似た叫びが響いた。
「お前らも行けっ、なにしている。早く行って探してこい。ぼさっとするな」
 課長にそういわれて、部屋にいた巡査部長以下の刑事課員がみな、ばたばたと飛び出して行く。有子は胸に手を当て、早まる鼓動を押さえつつ浅田を呼び止めた。
「浅田主任、い、急いで防カメを確認しましょう」
「了解」
「あと、署内の図面みたいなものありますか」
「あるでしょう。確認してみます。それと当直員の勤務表も手に入れてみます」
「お願いします」
 生方が割り込んできて、顔を引きつらせながらいう。
「最後に確認した日時がいるだろう」
「あ、はい。そうでした」有子も相当動揺している。落ち着け、落ち着け、お金はきっとどこかにある筈、と自分自身にいい聞かせる。「浅田主任、最後に確認したのはいつですか」
「たしか」といいながら宙に目をやり、浅田は腕を組む。そして、有子と生方に視線を向けて大きく頷いた。
「昨日です。昨日の夜には確かにありました。被害者の一人が、奪われた金額ははっきりしないが一万円札が聖徳太子の旧札だったというので、津雲主任とそんな札を数えに行ったのが最後ではなかったかと」
 あとで他の連中にも確認はしますが、恐らく、間違いないでしょうといい切った。
「何時だ」課長が怒鳴る。浅田はすぐに、「夜の七時過ぎでした。当直の警務課員に頼んで出してもらったんです」と口を引き結んだ。
 昨日、有子は当直明けで、通常通り仕事をしたが昨今の働き方改革もあって、明けのときはできるだけ残業を控えるようにいわれている。課長が退庁するのを待って、終業時間を少し過ぎるころ引き上げた。六時は回っていたかもしれない。その時点でもまだ二係の係員は全員居残っていたのを覚えている。
「よし、それならだいぶ絞られるな」
「はい、課長」といって有子は腕時計に目をやる。「昨日の夜七時過ぎから今日の午後四時までのあいだに、あの金庫に近づいた人間を全て調べます。それで」と有子は浅田に目を向ける。「そのとき金庫を開けた、警務の当直は誰でした?」
 浅田が有子を見ていう。
「時沢主任ですよ」
 
 *
 
 一階を探し尽くしたが、押収金はどこにも見つからなかった。
 すぐにかん口令を敷く。既に知ってしまった一階の署員には口止めをしたが、たちまち署内に知れ渡ったのは間違いない。ただ、表立って口にはしないだけだ。
 各課長が呼ばれ、署長室で会議が開かれることになった。
「樫原係長も出てくれ。担当係だからな」と生方がいう。
「はい」というしかない。消えたのが昨夜から今日にかけてなら、それは有子が赴任したあとになるから責任は免れない。
 執務机に署長が座り、応接セットには各課長、そして戸口近くの長テーブルには有子のほか、警務課の課員が席に着く。
 有子が奥に近い側で、戸口の方には唯美や巡査らが身を硬くして並んでいる。ちらりと視線を向けたが、唯美はうつむいてテーブルを見つめたままだった。
「いったいどういうことだ」
 署長が口火を切り、各課長らがこれまで調査した結果などを口々に報告する。特に警務課長の説明が詳細で、警務係と総務係の二人の係長を側に立たせたまま、昨日から今日に至るまでの署員の在署状況や警務課周辺の様子などを話した。署長や副署長が都度都度、質問を挟み、それに両係長とひそひそ相談した上で、課長が額に汗しながら答える。まるで国会答弁のようだ。ここでは質問者が一番偉いのだが。
「昨夜、押収した金が丸々あったのは間違いないんだな」
 副署長の問いに、生方はさっと有子に目をやる。きたか、と思いながら有子はその場で起立する。
「昨日の午後七時に確認した浅田、津雲両主任の話によりますと金額までは数えなかったそうです。被害者のいう旧札を選び出し、それだけ数えて、終わったらまとめて元に戻したといっています」
「そうなのか、時沢主任」と警務課長が口を挟む。そのとき当直員だった唯美が、金庫を開けたあと終わるまで側についていて一部始終を見ていた。一斉に長テーブルの端へと目が向き、有子も振り向いたが、唯美はじっと動かない。隣に座る警務係長が肘で突くと、はっと顔を上げて跳ねるように立ち上がった。
「あ、はい。すみません、えっと」とうろたえる様子を見て、係長が小声で質問をささやく。唯美は、顔を赤くして頷くと、「はい。そのときは確かに全てを数えてはおられなかったと承知しています」
 警務課長がむすっとした顔をしているのに気づいたらしく、唯美が小さくすみません、と頭を下げた。そんな警務課長よりもっと顔を歪めているのが生方で、「なんで全部数えなかったんだ」と、今度は有子に矛先を向ける。
 わたしはそこにいなかったのだからと思っても、警部補となって部下を持つ立場になった以上、責任者として答えなくてはならない。改めて昇任して、階級が上がるということの意味を身に沁みて感じる。
「旧札を探して数えるのに手間取り、全てを確認しなかったそうです。その時点で八時に近かったこともあり、手にした感じやこれまで何度か確認したときと変わったところもなかったので、問題ないと判断したといっています」
「手にした感じっていったってなぁ」と副署長が苦笑いする。署長が口をへの字にしているのを見て、すぐに口調をきつくし、「刑事課ではそういう大雑把なことを常からしているのか」とただす。今度は生方が慌てふためき、「決してそんなことはありません。恐らく、終業時刻を大幅に超えていた上に、当直員に立ち会わせていることに気を遣ったのではと思います」と、大幅というところを強調する。
 交番員は別として、本署の当直員に仕事はあまりない。終業後、滅多にこない来庁者の受付や電話応対をするくらいだ。二時間交替で一階のカウンターの内側に座って、ぼうっとしているか、相方の当直員とお喋りしている。だが、その時間だけは必ずそこにいなくてはならない。だから刑事課のために金庫の側についているのは余計な仕事だ。
 当夜の当直員で一階を担当した者と時間割は全て把握している。七時過ぎ、唯美は休憩時間帯で、次は九時からだった。八時を過ぎても問題はなかっただろうが、夜通し務める当直員にしてみれば休憩時間に体を休めることは大事だ。浅田や津雲は気兼ねして、全額数え直すまではせず、刑事課へ戻ったのだ。とはいえ、大雑把だといわれれば返す言葉がない。
 だから有子は、「その時点で、押収したお金が引き抜かれていた可能性は少ないと考えます。翌日にはお札が全て消えているわけですから」と控えめに意見を述べた。何回かに分けて盗むやり方もあるだろうが、昨日、ほとんどあったのが今日になって小銭以外全て消えたのだから、一度に盗んだと考えるのが妥当だ。
 この場にいる者はみな内心ではそう思っていたのだろう。有子の言葉に特に反論することなく、次の段階へと進んだ。
「それで防犯カメラはどうなんだ」
 これには有子の隣に座る警務係長が答える。
「防犯カメラは一階の奥から玄関に向けられているものがほとんどで」
 それはそうだろうと有子は思う。注意すべきは来庁する不審な人物で、よもや警察官を疑ってカメラを内側向きに設置する署はない。そうはいっても、昨今はなにがあるかわからないので、白堂署でも数年前からカメラを増やし、署の周囲、裏口、駐車場に加え、庁舎内でも留置場や一階廊下などには設置されたという。
 警務課はオープンスペースの右端に位置するため、警務課長席の後ろ側に、角を利用してパーティションで二畳ほどのスペースを作り、そこに金庫を置いている。他に書類を入れた段ボール箱や作業机もあって、ちょっとした物置のようになっていた。そんなスペースの側には給湯室の出入口がある。給湯室の並びには署長室へのドアがあるだけで、ほかにはなにもない。
 近くに行かない限り、そこに金庫があることはわからないようになっている。とはいえオープンスペースで、金庫だけパーティションで隠してみたというのは、いかにも不用心だと思われるだろう。しかし、一階のカウンター内は、警察官しか入れない執務エリアで、不審者が入り込めばひと目でわかる。しかも他の課の部屋とは違って、一階だけは警察官が絶えることがない。常に誰かがいるから、ある意味、一番安全な場所なのだ。
 更にいえば、通常、警務課の金庫にあるのは署員の個人資料や署に関する書類がほとんどで、金目のものなどせいぜい柔剣道大会のメダルくらいではないか。捜査費用などは銀行に預けており、必要な際に下ろすようになっているから、現金などあったにしても少額だ。印紙や拾得物などを預かる会計課は、別に鍵のかかる部屋を構えて、金庫を置いている。
「パーティションを捉えるカメラとなると警務課だけでなく署長室のドアまで写すことになり、これまで現金を預かるにしても額もしれていたので、必要ないだろうと設置していませんでした」
 控えめに嘆息する音が聞こえる。署長室を写すことになるといわれたら誰も文句をつけられない。
「それで、一千万以上の押収金が警務課の金庫にあるのを知る者はどれほどいる」
 これには刑事課長も警務課長も、他の課長らもみな黙り込む。その態度を見て、署長は頭を抱えた。
 被害金額が一千万以上だったというのは世間にも知られている。署内にいる人間なら、そういったお金は刑事課か警務課、会計課のどこかだということは容易に想像がつく。おまけに刑事課員が警務課へ幾度となく確認に出向いていた。通いでくる用務員さんでもそこにあると気づいているのではないか。
「とにかく探せ」
 署長は肩を落とし、そう短く指示を出した。課長らが全員、頭を下げて、わかりましたと答える。長テーブルに座る有子らも立ち上がって、室内の敬礼を取った。
 最後に副署長が念を押す。
「盗まれたことはまだ公にはしない。わかっているだろうが、盗んだ人間が署内の人間である可能性が高い以上、なんとしてでもうちで見つける。見つけて全額回収する。それまで本部にも検察にも誰にもいうな」
 全員が黙って頷いた。
 
 *
 
 捜査の主導は刑事課が担う。もちろん、刑事課員だって怪しいのだが、そこまで疑っていては調べることができない。ある意味、署にいる人間、全員が容疑者なのだ。
 そして警務課が助力する。金庫の鍵を保管している警務課が一番疑わしいともいえるが、刑事課同様、排除してしまったら捜査は進まない。
 他の課は、課長命令で捜査に協力するという態勢を取る。呼ばれたら、課長であれ誰であれ、なにがあっても刑事課に出向き、聴取に応じるという約束を取りつけた。
 本格的に調査することになって二日後、やっと唯美と話をすることができた。
「バタバタしてて、話もできなかったわね」
 四月に赴任して、すぐに特殊詐欺の案件で忙しくなった。一度だけ、当直明けに待ち合わせて食事をしたが、唯美が子どもの用事があるというのでカラオケには行かず、早めに解散していた。それから今回の事件が発覚するまで、署内で姿を見ることはあっても、互いに声をかけることはなかった。
 昼休憩のとき、唯美が缶コーヒーを手に署の駐車場に出たのを目にして、有子も缶コーヒーを買ってすぐに向かった。
 日差しが降り注ぐような日は署員が体をほぐしていたりするのだが、あいにく今日は朝から曇天で、四月も後半なのに少し肌寒い。そのせいか駐車場は人気がなく、署内から声がかすかに聞こえるだけだ。警ら用自転車を見て歩く唯美に、有子は声をかけた。
「ねえ、例の一千万のこと、どう思う」
 唯美が振り返ることなく、「どう思うって?」と問い返す。有子はこちらを向かない唯美の態度にむっとし、更に訊く。
「警務課なりに思うところはあるんじゃないの」
「なによ。思うところって」
「だって警務課なら職員の身上、経歴、家族構成、警察信組の住宅ローンなど、ある程度の生活実態は把握しているでしょう?」
 唯美がいきなり振り返る。
「ちょっと、お金に困っている職員を名指ししろっていうの?」
 有子は唯美の吊り上がった目を見て、慌てて弁解する。
「そうはいってない。でも、警務課が保持している情報はできるだけ知りたいのよ」
「その件は課長レベルで話し合って決着ついたでしょ」と疲れたように唯美が長い息を吐いた。
 確かに、職員の個人情報については、刑事課においてある程度絞り込みができた時点で開示するという約束になっている。関係のない署員の個人情報を刑事課が知ることになれば、事件が解決したあと、色々問題が起きかねない。だが、一番の動機と考えられる金銭的問題のあるなしを知ることができれば、捜査が大いに進展するのも事実だ。刑事課としてはかっそうようの感があるところだった。
「わかってるわよ。ただ、うちとしても、どうしてもそこが気になる。だから同期のよしみで、なんとかならないかなぁって」
「もう、有子ったら。自分の係のことだから焦る気持ちはわかるけど、あなた一人でどうにかなる話じゃないでしょう。こういうのうちだって気を遣うのよ」
「だって赴任して、いきなりこんな事件よ。正直、参ってるのよ」
 有子の本音を聞いたからか、唯美の表情がようやく普段のものに戻る。
「それは確かに気の毒だと思う。とはいえ、うちの課ですら疑心暗鬼なのよ。ヘタなことをいって署員同士がぎくしゃくするようなことになっても困る」
「警務課内でもそうなっているか」
「うん。ちょっとしたやり取りにも深読みしたり、お金の話なんかうっかりしようものなら疑われるんじゃないかって焦ったり。ねえ、そっちこそどうなの」
「どうって?」
「捜査、進んでいるの? 少しは絞り込めたの?」
 再会したときは唯美を見て、警察学校時代と変わらないと思ったが、見慣れてくるほどにそれなりの年月はつのだなと思うようになった。ふと見かけたときの歩き方や後ろ姿に、両手に荷物を抱えているような張りのなさを見たりする。今も、目尻だけでなく唇にも細かな皺があって、白髪も数本見える。互いに知らないことは多くあるだろうし、会っていなかったあいだの全てを知っているわけではない。それでも同期だという気持ちがあるから、捜査のことも唯美になら話せる。
「事件発覚の前夜、当直した者全員を聴取したけど、みな金庫の側には近づいていないというし。発覚した日の昼間の時間帯となると、一階に席のある署員に、用事があってやってきた人間までいれると相当な数になる」
「そうだろうねぇ」
「ただ金庫の鍵に触れる可能性のある者となると限定される」
「うん」
「まず警務課員」
 それは仕方がない、という風に唯美も頷く。
「あと当直員」
 そうだろうと、これも唯美は小さく何度も頷いてみせた。昼間は金庫の側には警務課員がいるから、他の部署の人間が妙なことをすれば目につく。
 だから当直員が怪しくなるのだが、ただ一階受付は一人では就かない。最低でも二人。オープンスペースに席を置く警務課や交通規制係の当直員は、だいたい宿直室か別室にいるので一階は受付担当だけとなり、二時間ごとに入れ替わる。
 ちなみに金庫はダイヤル錠と鍵の二段階で施錠するようになっているが、番号を忘れてしまうからとダイヤルは開いた状態で固定し、鍵だけで開けるようにしていた。その鍵は、警務係長の鍵のかかる引き出しに入ってはいるものの、就業時間中はその引き出しに鍵はかけていない。警務課の人間なら勝手に開けて、使っていいようになっている。
 引き出しに鍵がかけられるのは終業後で、その鍵はなんと係長の机の上のプラスチックでできた文具ケースに入れられている。鍵をかけている意味がほとんどない。しかもそのことを知る者は意外と多かった。有子は知らなかったが、同じ二係の浅田も津雲も、久和野ですら知っていた。
 あまりにもさんな取り扱いに、有子は頭を抱えた。警察署内で窃盗などあり得ないと思い込んでいるから、仕方ないのかもしれない。新聞やテレビでも時折、警察官の不祥事が話題となるが、所詮、他所よその署のことで、たまたまおかしな警官を抱えていた不運を気の毒に思う程度なのだ。
 警務課長からしっせきを受けた警務係長は、引き出しの鍵を肌身離さず持ち歩くようになった。お陰で課員は仕事をするのに手間がかかって仕方がないとぼやくことになる。
「当直員を詳細に調べている」と有子はいった。
 一階の受付は、同じ部署の人間同士では組まない。課が違うから、当直員同士が必ずしも仲良くお喋りするとは限らない。カウンター内にいても離れて座って、自分の用事に集中していたら、こっそり警務係長の引き出しから鍵を抜いて、金庫に近づくこともできるのではないか。
「そう考えて、当直員同士の関係性を洗っているんだけど」
 有子は思わず言葉尻を弱くする。ついさっき浅田から聞かされた話を思い出したのだ。
 盗まれたと思われる夜、当直をしたのは二係の木内だった。その木内が一階受付を共に担当したのは、生活安全課防犯係の音川おとかわ係長だ。浅田がいうには、二人は犬猿の仲らしい。一期違いだが、片方は警部補で木内は巡査長だ。そういう階級差に加えて、木内の別れた奥さんは以前、音川と付き合っていたことがあったという。そのことは木内も知っていて、同じ署になってから二人は口を利くことがなかった。
 そんな人間をペアにして仕事をさせるとは、いったいどういうつもりなのか。だが、浅田は、そんな内々の事情を知る者は少ないし、あくまでも私情だからと肩をすくめた。
 できるなら自分の部下を行動確認するような真似だけはしたくない。気がりそうで有子は無理に笑顔を張りつける。
「ねえ、終わったら、大いに飲んで食べて、カラオケ行こう。どんな結果になっても愉快なことにはならないしさ」
 唯美が困ったように眉尻を下げる。
「そうね、考えとく」
 
 *
 
 唯美とそんな話をした夕方、有子はもう一度、津雲を連れて現場に出向いた。つまり、一階警務課の後ろにあるパーティションの内側だ。
 壁際に大型金庫があり、その左側に書類の入った段ボール箱が積んである。
「この作業机でお札を確認したのよね」
「そうです」と津雲が答える。
 鍵を借りてきて金庫の扉を開け閉めする。特に大きな音はしないから、こっそり開けても一階の誰かに気づかれることはないだろう。有子は思い立って、金庫からものを取り出し、机の上に置いて作業する振りをしてみた。津雲が不思議そうに見ている。
 あの日、浅田と津雲が二人でせっせと旧札を探した。そのあいだ、唯美はパーティションの際に立って様子を見ていた。そんな唯美の後ろ姿は、一階にいた当直員の目にも入っていたらしく、おかしな様子はなかったと証言した。
 金庫の扉を閉め、鍵をかける。有子はそのまま考えるようにして金庫の上に腕を乗せた。すぐ側に段ボール箱がある。積み上げられていて、ほぼ金庫と同じ高さになっていた。
「津雲主任」
「はい?」
「お金を金庫に戻したあと鍵をかけたのは誰?」
「え。それはもちろん時沢主任です」
 鍵はずっと唯美が持っていて、金庫を開けるのも閉めるのも彼女に任せたという。
「それ、ずっと見ていたの?」
「それはどういう意味でしょう?」
「時沢主任が鍵をかけている様子をずっと見ていたのかなと思ったのよ」
「いえいえ、まさか。あとはお願いしますといって、浅田主任と一緒にさっさと戻りました。少しでも早く仕事片づけたかったですし」
「そうよね」
 有子は、金庫の横の段ボール箱に手を伸ばす。使い古したものらしくテープを貼ったあとはあったが、封はされていなかった。指で持ち上げると簡単に開いた。なかを覗くと古い書類の束が見えたが、箱いっぱいでもなくまだ隙間がある。一千万円の札束が入るくらいの余裕は充分あった。
 
 刑事課に戻るとなぜか人がいなかった。
 二係だけでなく、一係も三係もいない。課長もおらず、事件でもあったのかと有子は津雲と共にきょろきょろ首を回した。一番離れたところにある組対係の島に人の姿が見え、思わず声をかけた。刑事が振り返って、「ああ、ちょっと前に連絡が入って、木内さんと生安課の音川係長が、裏の駐車場で取っ組み合いをしているとか。それでみんな――」
 最後まで聞かずに、有子と津雲は部屋を飛び出す。廊下を曲がったところで、階段を上ってくる一団と出くわした。
 まず生方が、口をヘの字にしたまま有子をいちべつすることなく通り過ぎ、刑事課の部屋に向かう。そのあとに一係と三係の係長、そして浅田が続く。更に後ろを久和野や三係の刑事に両腕を摑まれた木内が上がってくるのが見えた。有子を見た浅田がなんともいえない顔をし、木内はうなれるようにして顔を伏せる。目尻と唇の端が赤くなっているのがちらりと見えた。まるで被疑者が連行されているようで、有子は思わず声を荒らげる。
「もう大人しくしているじゃない。いい加減、腕を離してあげなさい」
 はっと顔を上げる木内。久和野と三係の刑事がバツの悪そうな表情で手を離す。
「浅田主任、音川係長は?」と尋ねた。
「先に戻っていると思いますよ。生安の若いのがきて、連れて行きました」
 それを聞いて有子も三階に上がる。
 生活安全課には、防犯係と少年係の二つの島があって、刑事課よりは狭いが部屋は綺麗に片付いている。開いたままのドアの手前で声をかけ、有子はなかに入った。
 椅子に座る音川に歩み寄って有子は頭を下げる。生安課長が腕を組んだまま立っているので、こちらにも深く低頭する。少年係の面々はみな、ちらちら様子を窺いながら仕事を続けていた。
「音川係長、怪我の具合はいかがですか」
 音川は左の頰に当てていた手をどけて、「こんな感じですよ」とくされたようにいう。まともに拳が当たったらしく赤く腫れている。既に内出血のせいで青く色を変え始めている箇所もある。鼻血が出たのか、乾いた血がこびりついていた。
「申し訳ありません」ともう一度、頭を下げる。
 喧嘩両成敗であっても、音川は木内よりも階級が上だ。いずれ課長同士で話をつけることになるが、万一、木内が先に手を出したのであれば、音川が本部監察課に訴えることもあり得る。そうならないためにも、なるべく早い段階で和解のげんを取っておきたい。直属の上司である有子が下手に出ることで、音川の気持ちをなだめられないかと考えた。
「戻りました」
 後ろから声がして、二十代後半くらいの上背のある生安課員が入ってきた。たしか、くすといったか、音川と同じ防犯係の巡査長だ。独身で自宅通勤ということもあってか、久和野と違っていつも遅くまで仕事をしていると聞く。その楠田の手に、消毒液や絆創膏があるのを見て、保健師の先生のところに行ってきたのだと知る。
「ご苦労さま。薬を取りに行ってくれ――」といいかけたところに、音川の怒鳴り声がかぶさった。
「楠田、遅いんだよ、なにちんたらしてんだ」
「すみません。保健師の先生がすぐに見つからなくて」と顔を引きつらせながら答えるのに、音川がいきなり書類ファイルを投げつける。
「言い訳してないで、さっさと手当てしろよ。血が出ているのがわかんないのか」
 楠田が駆け寄り、慌てて脱脂綿に消毒液を含ませる。有子はそんな様子を見ながら、音川が木内のことをあしざまにいうのを黙って聞いた。そしてお互いのため穏便にすませた方が良いのではと、お願いする形で話を持って行くと、生安課長もあと押ししてくれる。
「今のところ署長にも副署長にも知られていないようだし。刑事課長とはあとで話をするが、あまりおおにするのもな、音川」
「課長、大袈裟もなにも、こんな怪我を負わされたんですよ、黙ってられませんよ。あ、いてっ」
 音川が急に動いたせいで、顔を拭っていた消毒用の脱脂綿が目に入ったらしい。いきなり足で楠田の膝を蹴りつけ、「くそ、なにやってんだ。こんなことも満足にできないのか、お前は」と声を荒らげる。楠田は暗い目を向けたが、なにもいわず頭を下げた。
 なおも音川が、「今どきの若いのは、なにやらせても中途半端だ。そんなんじゃいずれ栄立署行きだぞ」というのに、課長が有子の目を気にしたのか、「音川」と遮った。
「ここんとこ忙しかったから、いらいらするのもわかるが、楠田に当たってもしようがないだろう」とかばうようにいう。大きなため息を吐いた音川は、自分でやるといって楠田から脱脂綿を取り上げた。課長が楠田の肩をいたわるように叩くと、ぺこりと頭を下げて音川が投げた書類ファイルを拾って自席に戻った。
 
 今はそんなことよりも署内では解決すべき大きな案件があるということで、喧嘩のことはひとまず棚上げとなった。話し合いの時間を引き延ばし、うやむやにする腹づもりだと生方はこっそり有子に教えてくれる。もちろん、有子が同行して、木内に頭を下げさせたというのも良かったのだろう。
 木内から喧嘩の詳細を聞いた。やはり消えた一千万円が争いの発端だという。駐車場で偶然顔を合わせたとき、音川がいいがかりをつけた。木内の離婚は知っていたから慰藉料に金がいると決めつけ、暗に盗んだのではないかと疑いを向けたらしい。
 木内が顔を歪めるのを見て、有子は他にもなにかいわれたのかと水を向けた。
「あの野郎、りようが、あ、俺の別れた妻ですが。涼子が不幸な結婚する羽目になったのは、『俺が振っちゃったからな。スタイルが悪いのを我慢して結婚してやれば良かったなぁ』なんていいやがるから」と、そのときの怒りが蘇るのか唇を嚙む。元妻の涼子は女性警官だが、ぼっちゃりした体つきらしい。音川はその後、紹介で一般女性と結婚し子どももいる。
「涼子は、音川のことなんかはなから相手にしてなかったんですよ。そりゃ、ちょっとは付き合ったらしいが、すぐにその性根の悪さに嫌気が差したっていってましたし」といい募る。わかりました、といって有子は笑みを浮かべた。
「それじゃあ円満離婚だったのね」
「ええまあ。涼子も仕事を続けていますし」
「お子さんもいないし、慰藉料もそんなにはいわれなかった?」
 木内は項垂れるように頷く。「まあ、どっちが悪いという話でもなかったですから。俺がマンションを出て行くということで話がつきました」
「そう。木内さんは、今は独身寮?」
「そうです。いずれどこかに部屋を借りるつもりです、が」
「が?」
「・・・・・・どこに住んだって、俺には居場所がないんです」
「はい?」
「涼子のいる場所が俺の居場所で。だから、電気もいていない家に帰ったって、お帰りといってくれる人もいなくて、仕事はどうって訊いてくれる人もいないんなら、俺はもうどこにいたって同じなんですよ」
 目に涙を浮かべて、はなすする。有子は、大丈夫、大丈夫、そのうち慣れるからと、独身の自分に慰められても嬉しくないだろうなぁと思いつつ、言葉をかける。こういった場合、やはり仕事帰りに飲みに誘うべきなのだろうか。警部補になったことをまた有子は改めて自覚する。浅田に相談してみて一緒に行ってもらおうか。きっと津雲は断るだろうな、久和野はかえって余計なことをいいそうだとあれこれ思案し、木内に見えないように吐息を吐いた。
 改めて、当直時間帯のことを尋ねる。
 木内の証言があいまいだった理由はわかった。嫌いな人間とペアだったから、木内はほとんど、いや全く音川の姿を視野に入れておらず、ひと言も口を利かなかったのだ。一階の受け持ちは二時間で、時折、かかってくる電話の応対はしただろうが、さぞかし窮屈な時間だったと思う。
 有子がそういうと、木内は涙を拭いながら、昇任試験のテキストを読んでいたのでと白状した。妻が愛想を尽かしたのも、一向に試験勉強をしようせず、巡査長のままで満足しているのががゆかったかららしい。
「そう。それなら音川係長がなにしていたのかわからなかったでしょう」
 木内は軽く首を左右に振った。「いや、そうでもないです」
「どういうこと?」
「あいつ、自分のとこのもう一人の当直員を一階に呼びつけていましたから。たしか、楠田といったかな。その日の仕事振りについて意見したり、資料を作らせたりしていたんで。当直のときはたいがいそうするんですよ。だから楠田に気づかれないで金庫の鍵を盗むのは難しいでしょう」と答えた。
 そうかもしれないと有子も思う。警務係長の机の上の文具ケースから引き出しの鍵を取り、それで引き出しを開けてようやく金庫の鍵を手にするのだから、手間がかかる。
 楠田の真面目そうな顔を思い出す。聴取は浅田か津雲がしている筈だから、念のため、あとで確認してみようと考える。
 それにしても、と有子は赤い目をした木内を眺める。
 音川のことは、階級差をわきまえず殴りつけるほど嫌っているのに、だからといってあらぬ疑いをかけたり、おとしめたりするようなはしないのだ。むしろ、その可能性は低いと律儀に付け加える。刑事だから証言がどれほど大事かわかっているのだろう。私情で事実を歪めることを戒めている。その律儀さが木内のいいところかもしれないと、有子は思った。少しずつだが、自分の部下のことを知ることができている気がする。
「楠田さんがいたのなら、あなたも妙なことはできなかったわね」
 有子がそういうと、木内はようやく、にこっと笑ってくれた。
 
 *
 
 栄立署が悪くいわれるのはなぜなのかと、有子は思う。
 県内でももっともへんだといわれる所にあるが、それは仕方のないことだ。駐在所がほとんどで署員数も一番少ない。住民のほとんどが第一次産業従事者だから、事件があったとしても盗犯関係くらい。特殊詐欺のたぐいは、時折あるらしいが、それでも他のどこの所轄に比べても少なく、平和でのんびりしていると聞く。
 有子が警官になったときには既に、問題ある警察官の配流される署で、栄立でほとぼりを冷まして復帰させるか、飼い殺しにしていずれ退職願を書かせるか、そういう所轄であるという噂があった。
 一千万円が消えて四日が経った。
 いい加減、本部に報告しなくてはならない。いつまでも隠していては、かえって傷口を深くし、白堂署自体があらぬ疑いをかけられかねない。これまでにも色々、隠蔽していたのではないか、などと。署長室では頻繁に課長会議が行われ、そのたび、どうしようかという相談がなされているようだ。そんな矢先、有子は妙な話を聞いた。
 盗む機会が少しでもある署員は順次、聴取を行っている。そのなかの一人が、時沢主任のご主人のことご存じですか、といい出したのだ。どうやら有子と唯美が同期であるのを知らないらしい。
「時沢主任のご主人がなんですか?」と有子はなにげない風に尋ねる。
「栄立署にいるんですよ」と地域課の係長がいう。この係長は盗まれたと思われる夜、本署の当直に当たっていた。地域課は四階だが、夜中に何度か一階まで下りて、カウンターの内側で受付担当と話をしていることから聴取することになったのだ。疑われたことに不満を感じていたのだろう、身を乗り出すようにして、「なんで栄立に行くことになったのか、地域課の知り合いから聞いたことがあるんですよ」と笑みすら浮かべる。
 有子とは同じ警部補だが、期は少し下だ。階級差以外にも、先輩後輩という上下関係も厳格に残っているから、有子には敬語を使う。
「どんな?」と有子は訊いた。
「時沢主任のご主人、金でしくじったようですよ。それもギャンブル。結構な金額だったらしくまちきんに借りていたことが本部監察課に知られ、あわや処分かというとき、奥さんの時沢主任が用立てて一括返済したそうです。まだ小さいお子さんもおられるし、今回に限っては穏便にすませようと、栄立署の地域課へ異動することで収まったとか。というのは表向きで、恐らく飼い殺しにして、退職届を書かせるつもりだという話ですよ。もしそうなったら生活に困るじゃないですか、だから」
「だから時沢主任がお金を盗んだのだろうっていうの?」
 有子の表情が硬くなるのを見て、地域課の係長はげんな目を向ける。
「貴重な情報、ありがとうございました」
 そういって有子は手元の書類を引き寄せた。
 
 あり得ない、と思う。そんなことは決してないと思うが、唯美の態度や表情のなかに、以前にはなかったささくれたものがあるのは気づいていた。子ども二人を抱えて仕事をし、同じ警察官に囲まれる職員住宅で暮らすのだから、多少はそうなって当たり前と納得させていた。
 だが、唯美の夫の話を聞いて、それだけでなかったのかと、有子の胸の内はざわつく。
『奥さんの時沢主任が用立てて一括返済したそうです』
 唯美はどうやってそんな金を工面したのだろう。両親に借りたのだろうか。夫婦共に警察官として働いて、安い家賃で住める職員住宅にいれば、貯金もできるかもしれない。きっとそうだろう、と思いながらも有子は胸に小さなしこりができるのを感じた。
 金庫の横にあった書類箱が頭をよぎる。もし、金庫を閉める振りをして、一千万円をあの箱のなかに隠したとしたら。浅田と津雲は背を向けて離れようとしていた。誰も見ていないからそれほど難しいことではないだろう。
 そしてあとになって仕事に必要な書類を取り出す振りをして、札束を袋か鞄に詰め込むこともできたのではないか。
 そこまで想像して有子は首を振った。時沢唯美、いや田尾唯美は同期だ。警察学校で同じ時間を過ごし、寝食を共にした。警察官になるという同じ夢を抱いて入校し、同じ部屋になったことでたちまち親しくなった。制服に身を包んだときの高揚感、授業や訓練のつらさを励まし合って乗り切った嬉しさ、卒業して別れ別れに赴任するときの不安と寂しさ、どれもこれも昨日のことのように思い出せる。唯美は同期なのだ。
 
 *
 
 二係だけで、捜査会議を開く。
 これまで聴取した署員の証言を照らし合わせ、盗まれたと思われる期間、不審な行動をとった者、疑わしい言動のある者をリストアップしてゆく。それを持って警務課に個人情報を開示するよう求めるのだ。
 やはり怪しいのは当直員だ。一階の受付を担当したペアで、木内と音川ほど仲の悪い者は見当たらなかった。ずっとお喋りしているほど親しくなくとも、近くにいて互いを視野に入れていたとほとんどが証言している。
 現段階で特定するのは難しいが、動機らしいものが浮かんだなら、追及の手を強められる。とにかく自白させるしかない。
「警察官なんですから、ちゃんと説得すれば正直に話してくれますよ」
 津雲は同じ署の仲間意識からか、期待を抱いている。浅田はすかさず、「俺らが日ごろ相手にしている被疑者と同じに考えた方がいい」と身も蓋もないことをいった。
「やはり動機でしょう。金に困っている者さえわかれば簡単な話だと思います」と木内は、自身の疑いは晴れたかのように力を込める。
「金とも限らないんじゃないですかぁ。案外、恨みとかだったりして」と、久和野は常から数のうちに入れてもらえていないというねた感情を持っているようで、適当なことをいう。津雲に訊いたところ、今回の発端となった一斉検挙の際、突入班でなく証拠確保の担当に振られたことが不満だったらしい。それで逃走する犯人を見て思わず飛び出したのだろうが、お陰で証拠の一部が消去されたことへの罪悪感はあまりないようだ。
「恨みってどういうことよ」と津雲が厳しい声で突っ込む。
「それはまあ、なんというか。まだまだいるじゃないですか。仕事じゃないことまで命令したり、感情的になって怒鳴ったり。今どき、そういうのヤバいでしょう」
 津雲が頰をこわらせる。自分のことをいわれていると思ったのだろうか。
 そういえば、と有子は一人の若い巡査長を思い浮かべた。
「音川係長、ずい分とパワハラまがいの言動があるみたいだけど」
 浅田が、ああ、楠田のことですか、といって頭をかく。
「音川さんは若手や部下に厳しいんで有名ですよ。昔、自分がされた声も手も出るといった指導が当たり前と思っている節があるから厄介でね」
 久和野が、げぇ、という風に顔を歪め、津雲と木内も軽く眉根を寄せる。音川係長の署内での評判は良くないようだ。本人も当然、気づいているだろうから、それがかえってパワハラめいた言動をさせるのかもしれない。
「生安課長が注意してはいるようですが、なにせ音川係長は実績もあるから強くはいえないんでしょう」と浅田は付け足した。
 当直のとき楠田が音川に呼びつけられたことを尋ねると、聴取した津雲が頷く。
「いつものように音川係長に一階に呼びつけられ、お茶をれさせられて、一時間半ほど説教をされたそうです。そのあいだ警務課の島には誰も近づかなかったと――」
 津雲の言葉尻が僅かに揺らいだ気がした。有子が問うと、津雲は軽く肩をすくめる。
「ただ、ポットのお湯が沸くまでずっと給湯室に入っていたから、そのあいだなら警務課の机に誰かが近づいても気づかなかっただろう、とはいいましたけど」
「音川係長なら、金庫の鍵を盗めたということ?」
「そういうことになりますね。ただ、金庫自体は給湯室のすぐ側ですから、人がくればすぐわかります。楠田さんがいたあいだ、金庫に近づいた人は皆無と断言しています」
「そう。楠田さんがいたあいだは、ね」
 有子の言葉に津雲も頷く。受付の担当時間は二時間だから、楠田が戻ったあと半時間ほど音川は誰にも見られていなかった。有子はリストにある音川の名前に視線を落としたあと、ひとまず、といって顔を上げた。
「動機について、一度、原点に戻りましょう」
 金を奪うのはなんのためか。
「借金」「生活苦」「女(男)に貢ぐため」「飲み食い」「ギャンブルとか?」
 口々にいうのを聞いて、有子は久和野に目を向けた。「あと恨み?」
 久和野が軽く肩をすくめる。「アリだと思いますけど」
「バカバカしい」と津雲が唇を歪めた。「掃除をいいつけられたからとか、怒鳴られたからってくらいで自分の一生を棒に振るの? 見つかったら警察を辞めなきゃいけなくなるのよ。そこんとこわかっていってる?」
 久和野が口をすぼめながら思案顔をし、すぐに、あ、という風に口を開けた。
「それなら警察への恨みとか」
「は?」
「なかなか昇任試験に合格できない悔しさからとか。変なところに異動させられた腹いせに、とか」
「警察組織自体への恨みってこと?」と有子はいいながら、唯美を脳裏に浮かべる。すぐに振り払い、「どうかな」と首をかしげてみせた。津雲がまた、バカバカしいと久和野をにらむ。さすがの久和野も、自信がないのか押し黙った。ふいに木内が顔を上げる。
「でも、一千万は多くないですか」
「どういうこと?」と有子は問い返す。
「さっき羅列した理由で盗むにしても一千万は多過ぎる気がします。遊びやギャンブルなら全部盗らなくてもいい。少しずつなら発覚も遅れただろうし。金額によっては送致するまで気づかれない可能性もあった。なんで丸々奪ったのでしょう」
 それを聞いて浅田が、鼻を何度もつまむ。
「どうも最初っから考え直した方がいいかもしれませんね」
 有子もゆっくり頷いた。
 
「唯美」
 呼び止めると背が不安そうに揺れた。だが、振り返るといつもの笑顔があった。
「ちょっと教えて欲しいんだけど」
「いいわよ。なんでもどうぞ」
 そう答える唯美の目には、覚悟を決めたような強さがあった。だから有子も同期でなく、刑事課の刑事として問う。少しでも疑いが出た以上、はっきりさせなくてはいけない。
「ご主人のためにお金を工面したって聞いた」
「うん」
「大金だった?」
「そういうの答えたくないんだけどなぁ。わたし、容疑者?」
「違う」
 有子は間髪を入れずに否定した。唯美がはっとした表情で見返す。
「唯美がそういう人間じゃないと証明できるものはなにもないよ。同期という以外にね。でもそれは有力な根拠なのよ。わたしにとっては」
「有子にとって?」
「うん。誰かが唯美を怪しい、容疑者だといっても、わたしはあなたが自供しない限り、違うといい続けられる」
「なんでよ」
「同期だから」
「・・・・・・そんな」唯美の顔が歪む。なにかをこらえるように唇を嚙み、そして目を伏せて息をゆっくり吐いた。指でちょっと目頭を押さえてから、唯美が顔を上げる。
「夫が、仕事でしくじったの。お酒に溺れるようになって、ギャンブルまで始めた」
 唯美の夫が以前は、大規模署の警務課にいたことを初めて知った。それは出世コースのひとつといっていい。
「なんか希望を失ったみたいでさ。本当ならとっくに警部補になっていたって、いまだにいうのよ。昇任だけが警察官の目的じゃないでしょっていっても、子どもみたいに拗ねちゃって」
「そうだったんだ」
「借金をしていることがわかって、わたし、必死でお金をかき集めた。親にも頭を下げて、親戚中走り回った。そのせいで父親には、恥ずかしい真似をした、二度と実家にはくるなと怒鳴られる始末」
「でもそのお陰で処分は免れた」
「まあね。でもそれが良かったのか、今でも考える」
 いっそ夫が退職して、別の道を探した方がいいのかもしれないと思ったのだろう。
「四十歳過ぎて再就職は難しいと聞くけど」と慰めにもならない言葉を口にした。実際、元警察官はなんの特技もないから、潰しがきかないといわれている。唯美もそう思ったのだ。
「続けている限り、いつか変われる」
 そういうと、唯美が目をこすりながら、うんうんと頷いた。自分自身にいい聞かせているかのように。
 唯美は、警察を恨んではいない。ずっと不安だっただけなのだ。
 
 *
 
 有子は浅田と共に、一階の警務課周辺を歩いて隅々まで見回した。
 警務課員だけでなく、一階にいる署員らは、そんな有子らの様子をちらちら見ながら、仕事に集中している振りをする。気になるだろうし、かといってなにをしているのか訊いて妙な疑いを抱かれても困る。そんな気持ちが透けて見えた。
 副署長ですら自席にいながら、有子らを目で追う。
 警務課の唯美だけがいつも通り忙しそうにしていて、有子をほっとさせた。
 パーティションで囲まれた、金庫スペースの隣にある給湯室の出入口からなかを覗く。電気ポットに湯呑やカップなどが綺麗に洗って置かれていた。
 そして振り返る。
 副署長席が中央にあり、その向こうに課長席、周辺に車庫証明係、交通規制係、警務課の島がある。
「木内さんは、当直のあいだどこに座っていましたか?」
 尋ねると、浅田がカウンターの端を指した。警務課からは一番遠い場所だ。
「そうすると音川係長はこっち側か」
 浅田が、小さく頷く。「ちょっと揺さぶってみますか」
「そうですね」
 目を上げると、唯美がこちらを見ていた。そちらへゆっくり近づいてゆく。そんな有子を副署長は不思議そうに見、気配を感じた警務課長と警務係長が顔を上げた。
 
 このままではらちが明かないから各部署を捜索する。そう警務課長名で指示が出された。
 有子を含めた刑事課員は、家宅捜索のときと同じように手袋をつけ、ルーペや懐中電灯でお金を隠せそうな場所を次々と点検してゆくことになる。鑑識係も道具一式抱えて同行する。
「そんなことしたって、家に持って帰っていたらしようがないだろう」
 そんな意見もあったが、「たとえそうであってもお金があった痕跡は残っているかもしれません。なにせタンスにしまっていたようなお札ばかりでしたから、どんな残滓がないとも限らない」と有子は苦しい言い訳をした。
 各階、順次行い、生活安全課の部屋は明日の朝から始めると、帰る間際に連絡した。その夜、署員が退庁し、当直員だけになるのを待って、有子らはそっと動き出した。
 有子と津雲は三階の女子トイレのなかで待機する。浅田と久和野はトイレの隣にある警備課の部屋に入らせてもらい、ドア越しに廊下を窺う。やがて生安課長、音川、楠田らが順次出て行くのがわかった。当直に当たっている少年係の二人は、そのまま仕事を続けているようだ。
 深夜、受付を担当する時間になったので、当直員の一人が階下に向かった。少ししてもう一人が、休憩を取るため部屋の奥にある宿直室に入る音がした。電気が消され、しんとした空気が広がる。宿直室から派手なくしゃみが聞こえたが、やがて静かになった。
 それから更に半時間。
 足音を立てないように廊下をゆく人の気配がした。有子が津雲と共にトイレから出て窺うと、生安課の部屋にするりと入り込む人影が見えた。警備課の部屋から久和野が飛び出し、駆け出そうとするのを浅田が押さえつけ、そろそろと近づく。有子と津雲も忍び寄り、合流する。
 ゆっくりノブを回し、音もなくドアを開ける。部屋のあかりは点けられていない。だが人影が机の向こうで、ごそごそしているのがわかった。
 それを確認して、浅田が久和野に灯りを点けるよう指示する。久和野が素早く壁のスイッチを押した。
「あ」という声が机の下からした。かがんだまま動こうとしないのを見て、有子は声をかけた。
「隠れても無駄よ。出てきなさい」
 人影がゆっくりと立ち上がる。その姿を見て、有子は目を見開き、浅田が、お、と声を上げた。
「楠田巡査長。あなただったの」
 木内と久和野が回り込み、楠田が暴れた場合に備えた。津雲が楠田の机の下から、ナイロン製のエコバッグを持ち上げ、なかを確認する。
「現金です。一千万円はあるかと思います」といった。
「騙したんだ。そっか、部屋を調べるってのは、僕をおびき出す罠だったってことですか」
 楠田の声は落ち着いていた。冷めた目で、薄い唇を弛ませたのを見て有子は驚きを強くする。笑っているのか?
 津雲がそんな楠田の顔を怪訝そうに見つめ、浅田は険しい目を向けた。
「そうよ。各部屋を調べるというのは口実で、最初から、この部屋だけが目当てだった。正直、音川係長かあなたか迷う気持ちがあった。ただ、どちらにしてもお金を自宅に持ち帰ってはいないと思った」と有子がいうと、楠田は笑みを浮かべたまま不思議そうに問い返した。
「へえ、どうしてそう思いました?」
 楠田から、開き直ったというよりは、なにか面白がっているような、むしろ喜んでいるような気配が漂い出ている気がした。音川に叱責され、暗い目で頭を下げていた姿が脳裏に浮かぶ。あのときは、音川の権幕に萎縮しているだけかと思っていたが違うのか、と有子は眉間に力を入れながら答えた。
「ひとつはあなたにも音川係長にもご家族がいるから。どんなにうまく隠したとしても見つけられる可能性はある。といってコインロッカーなどに預けるのは面倒。毎日、預け替えにいかなくてはいけないし、万一、利用オーバーになったら開けられてしまう。だけど一番の理由は」
 有子は小さく息を呑み込み、ゆっくり吐き出す。
「お金を盗んだのは、使うことが目的ではないだろうと思ったから」
 木内がいったのだ。どうしてまとめて盗んだのだろうか、と。確かに、金が必要なら少しずつ抜けば良かった。
「動機は音川係長への恨み? パワハラなら、上司に訴えても良かったし、監察に通報するという手段もあった。どうしてこんな真似をしたの」
 今度ははっきりと声に出して笑った。肩を揺すり始めたのを見て、津雲がぎょっとする。
「いやいや、訴えるなんて面倒臭いだけじゃないですか。処分ったってどうせ栄立署かどっかに左遷されるだけでしょ。いつかまた顔を合わせるかもしれない。それに音川係長だけじゃないですよ、僕が腹を立てたのは。あんなパワハラ男を庇おうとする生安課長も、僕の話を聞こうとしない警務課も、木内巡査長も、この白堂警察署もみーんな嫌いですから」
「え、なんで? 俺がお前になにかしたか?」木内が、驚いたように目を瞬く。
「だって、あなたが音川係長と仲たがいしているせいで、僕は当直のたび呼び出され、話し相手に付き合わされるんですよ。でもね」と楠田が、子どものように目を輝かせる。
「本当の理由は、これで警察を辞められるかなぁって思ったからなんだ」
 浅田が、「なんだと?」と声を荒らげ、久和野が、きょとんとした表情をした。
 「どういう意味?」有子は目を尖らせながら訊く。
「僕は警察官に向いていないんです。それに気づいてずっと悩んでいた。毎日、署にくるのが嫌で嫌で仕方なかった。だけど自分から辞めたいって、いえなくて。そういうの面倒そうだし、聞いたところによると、課長だけでなく署長とか警務課とかからもあれこれいわれ、引きとめられるそうじゃないですか。ちゃんとした理由がないと、結局、よその署や部署に移されるだけだって。だったら、警察が僕を辞めさせるように仕向けたらいいか、と思ったわけですよ」
 そして口の端を持ち上げて、「ついでに音川係長に嫌疑がかかればいいと考えた。押収金を狙ったのは、木内巡査長が担当していた事件だったからだし。とにかくなんでも良かったんだ。とにかく問題が起きて、そしていずれ僕のしたことだとバレれば」
「なんてこと」といったきり、絶句したのは津雲だ。
 音川には問題があった。生安課長もやり過ぎと注意しながら、音川の立場を考えて擁護するような態度を取った。ただ、時代遅れの上司ではあるが、音川なりに若手を育てたいという気持ちはあったのではないか。
 当直時間に楠田を呼びつけた音川は、『その日の仕事振りについて意見したり、資料を作らせたり』していたと木内は証言している。音川にしてみれば指導の一環だったのではないか。だがそうは受け取られず、単なる嫌がらせとしか思えなかった。いや、もう既に楠田の耳には誰の声も届いていなかったのだ。白堂署のなかで楠田は孤立し、孤独となって、早くここから逃れたいとそれだけを思いつめていたということか。
「あんな杜撰な盗みが、なかなか解決しないから心配しましたよ。当直中のことなんだから容疑者だって限られているのに、なんでこんなに時間がかかるんだろうって」
 やっぱ警察って、頭悪いんだな、と楠田は呟く。なぜか、一番年若い久和野が、「ふざけるなっ」と怒りを露わにした。
 有子は改めて上司と部下の関わりかたの難しさを痛感する。
 木内と音川が一階の受付を担当しているとき、お互いを全く視野に入れていないことは楠田も知っていただろう。そこに呼ばれて、お茶を淹れろといわれる。楠田は給湯室に入り、音川の様子を窺いながら金庫スペースに潜り込んだ。金庫を開けて一千万円を抜き取ると、ひとまず書類の入った段ボール箱に隠したのだ。その後、楠田は本来の受付担当の時間に、昇任試験のテキストなどを入れた紙袋を持って給湯室に入り、段ボール箱から金を出して中身を入れ替えた。
「鍵はどうしたの」
 警務係長の机の上の文具ケースに触れたなら音川も気づいた筈だ。
「合い鍵を作って持っていました」
 特殊詐欺事件が起きて、金庫に押収金が入っていると知ったときから、楠田はもう考えていたのだ。二週間前の当直のときに鍵を盗み出し、その日のうちに署外に出て合い鍵を作って元に戻した。有子らは、金のなくなった日に限定して署員を調べていたから、それ以前の不審な行動までは把握できていなかった。
 当直時間、音川は木内に目を向けることはなかったが、意識はしていた筈だ。嫌っている相手が近くにいれば誰だってそうなる。逆に楠田は、自分の部下で、同じ生安の仲間だから注意しなければならない存在ではなかった。給湯室に入ったあとは、そちらに目を向けることも意識することもなかった。
 楠田は、誰にも気にかけられていなかった。誰も楠田の心の闇に気づけていなかった。
「警察を辞めるためといいながら、こっそりお金を回収しようとしたのはどういうわけ?」 
 有子が問うと、楠田は肩をすくめた。
「その前に、少し贅沢してもいいかなと思ったんです。だって失業したら、収入がなくなるし」
 そういって楠田は、へらっと笑い顔を浮かべた。
 ベテランの浅田はもうなにもいわない。木内も久和野も黙って楠田の腕を引き、戸口へと歩き出した。
 
 *
 
 特殊詐欺事件は全て送致し、無事終了した。
 楠田は今も本部監察課の取り調べを受けている。いずれ処分がくだされるだろう。不祥事を起こした場合、依願退職という形で責任を取ることもあるが、楠田の場合はそれも許されない。
「懲免ですか」津雲が自席から向かいの浅田に尋ねる。
「たぶんな。動機はなんであれ、窃盗だからな」
 懲戒免職――警察官にとって逮捕されることと同等の意味を持つ。楠田は刑事訴追をも受けることになるだろう。
「それでも楠田にとって本望だったんでしょうか」有子は呟くようにいった。
 生方が、「警察を辞めたいといえないからって、なんでこんな真似ができるのか、全く理解できん」首を傾げる。
「懲免になってもいい、刑事罰を受けてもいい。恨みを晴らして、警察を辞めようなんて考え方、としの近い俺だって理解できないっすよ。あいつはおかしい」と久和野が真剣な顔でいうのを見て、津雲も頷いた。
 そして浅田がいつにも増して厳しく断じた。
「あれはもう、俺らが相手にする犯罪者と変わりませんよ。とっくに警官じゃなくなっていた」
 音川も監察から呼び出しを受けているらしい。恐らくパワハラ行為で処分を受けることになるだろうとみな噂した。
 後味の悪い結果にはなったが、とにかく終わったのだ。白堂署は本部長注意を受け、署長と副署長は減給処分、刑事課では生方課長が戒告を受けるにとどまった。生活安全課長は、次の異動で栄立署に行くことになるらしい。
「休みも返上してかかりきりになったんだ、事件がないうちに休みを取れよ」
 課長直々の言葉だ。謹んで受けようと、有子はさっそく休みの割り振りをする。久和野が真っ先に、明日いいですかといった。
 終業時刻間近、有子は帰り支度を始める浅田に声をかける。
「浅田主任、ちょっと飲みに行きませんか。事件も落ち着いたことですし、懇親会でもないですが、気になっていることがあるので相談――」
 最後までいわないうちに、浅田がぱっと顔を明るくする。
「俺もお願いしようと思っていたところですよ。うちの係員のことでしょう。飲みながら話を聞いてやりませんか」
「あら、そうでしたか」
 そうか、浅田も木内のことを気にかけてくれていたのか。それなら話が早い。
「じゃあ、木内さんに声かけてきます」
「え、木内?」と浅田が怪訝そうな顔をする。
「え?」と逆に有子が戸惑う。
「ひとまず、係長と俺と津雲主任の三人でどうですか」
「津雲主任? どうかしたんですか」
 浅田がぽってりした鼻を何度もつまむ。
「どうもね。自信を失くしているようなんです。事件以来、久和野のことで」
「久和野さんのこと」なんとなく予想できた。
「ほら、『仕事じゃないことまで命令したり、感情的になって怒鳴ったり』って、いっていたでしょう。今どきそういうのは問題だ、みたいなこと」
 うん、と有子は頷く。
「あれを聞いてから津雲主任が酷く気にしてね。指導するとき、きついいい方をしているのではとか、もしや嫌なことをいいつけたりしていたのかとか、色々、悩んじゃって。夜も眠れないそうですよ」
 有子は、長い息を吐く。確かに、久和野なら関係を改善しようと努力するよりも、楠田のように開き直るか、監察に訴える方を選びそうだ。
「そうですか。じゃ、まずそっちからにしましょうか」
「係長の方はなんだったんです? 木内がどうかしましたか」
「いえ。またそのうち」
「そうですか。じゃ、津雲主任に声かけてきますよ」
「お願いします」
 
 
 間もなくゴールデンウィークを迎える午後、ばったり食堂の前で唯美と会った。
 缶コーヒーを買うのを見て、有子も付き合う。
 プルトップを引いて、裏の駐車場に出た。日差しがたっぷりと降り注ぎ、気持ちがいい。というより、暑いくらいだ。冷たいコーヒーがおいしい季節になった。
「唯美、ここの缶コーヒーよく飲んでるよね」
 気に入っているのかと思っていたが、そうではないという。
「味はイマイチと思う。でも、ここのは署員用で、外の自販機より安いのよ」
「そうか」
「節約しないとね。借金返さないことには実家に帰れないし」
「うん」
「わたしは気にしないんだけど、母親がね。孫に会えないと文句をいうのよ」
「そうか。だったら夫婦で真面目に働け、働け」
 ふふっと唯美がいたずらっぽい目を向ける。なに? と尋ねると、更に笑みを広げた。
「夫にね、今回の押収品消失事件のこと話したの。そうしたら、それ以来、愚痴をいわなくなった。昨日なんか、交番であったことを嬉しそうに話すのよ」
 有子は遠慮なく声を出して笑った。唯美も大きく口を開けて笑う。
 唯美が涙目を拭って、「ねえ、ゴールデンウィークに入る前にカラオケ行かない? オールで」という。
「行こう、行こう」
 唯美が缶を握ったまま、青い空を見上げる。
「うーん、なに歌おうかな。毎度、毎度、浜崎あゆみもなぁ」
 真面目な顔で思案しているのを見て有子は茶化してやろうと口を開く。
「じゃ、『同期の桜』でもどう?」
「は?」
「ほら、昔の歌で、「貴様と俺とぉ~は」、ってやつ」
「知ってるけど、それは違うんじゃない?」
「なにが」
「桜じゃなくて、紅葉でしょ。わたし達なら」

                               (了) 

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見出し画像デザイン/高原真吾