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麻見和史『殺意の輪郭 猟奇殺人捜査ファイル』第20回




 聞き込みをする上で、対象者の顔写真はかなり重要だ。

 だが現在、尾崎たちの手元に北野の写真はない。自分たちで見つけることもできていないし、ほかの捜査員たちもまだ入手できていないようだ。

 誰かひとりが北野の写真を発見できれば、そのデータは全員に共有される。そうなれば捜査が大きく前進する。今こそチームで捜査することのメリットを享受したいところだが、事はそう簡単ではないようだった。

 北野康則という男は何者なのか。情報としてはいろいろわかってきている。野見川組の組員たちに信用されるよう、組織の中でうまく立ち回っていたらしい。大勢の捜査員が調べているのにいまだ顔写真が出てこないということは、もしかしたら本人が写真を避けていたのではないだろうか。そうだとすれば、かなり慎重で疑い深い人物だと言える。

 ──殺しをやる人間なら、極力、自分の顔を隠すはずだ。

 今、自分たちが追っている北野は、三つの殺人事件の犯人なのではないか。いよいよ捜査は大詰めなのでは、と思えてくる。

 気がつくと、辺りは暗くなり始めていた。北野の名前が出てからまだ数時間しか経っていない。もっと調べを進めたかったが、日が暮れてしまってはそうもいかなかった。

 尾崎と広瀬は、今日の捜査を終わりにして深川署に戻った。

 捜査本部には普段と違う熱気があった。まだ犯人と決まったわけではないが、北野という具体的な名前が挙がったことで、捜査の目標が定まった。みなが同じほうを向いて仕事をしている、という実感がある。尾崎と同様、ほかの捜査員たちも今が一番大事なときだと感じているに違いない。

 午後八時から捜査会議が開かれた。

 片岡係長はホワイトボードのそばに立ち、資料のページをめくる。それから話しだした。

「夜の会議を始める。……地取り、鑑取り、証拠品捜査という分担はあるが、現在、北野康則について急ぎの捜査をしてもらっていると思う。この北野は重要参考人という扱いだ。あいにく顔写真が入手できていないので、やりにくい部分もあっただろうが、現時点での捜査報告を聞かせてほしい」

 片岡から指名を受けて、捜査員たちは順番に報告を始めた。

 鑑識によると、菊池班長の死亡推定時刻は本日午前二時から四時の間だということだった。

 捜査一課に所属する刑事からは、こんな話が出た。

「野見川組の複数の人間から情報が得られました。北野康則というのは偽名のようです。組に出入りするために、北野という名前を使っていたとのこと。本名は不明です」

 暴力団に出入りするのに偽名を使う、ということの意味を尾崎は考えてみた。

 犯罪に荷担することになるだろうから、別の名を使ったということか。しかしそれは暴力団に対して、礼を失することにはならないのだろうか。組員たちと親しく接し、いろいろな仕事を引き受けていたのが北野という人物だ。それが偽名だと知られたら、俺たちに本名が言えないのかと、腹を立てる組員が出てきそうな気がする。

 片岡はみなを見回して言った。

「北野という男が不審な動きをしていたのは事実だ。奴はもしかしたら、一年かけて菊池警部補の信頼を得たのかもしれない。そうであれば暴力団のスパイという可能性が出てくる。早急に北野から話を聞く必要がある」

 北野を捜していた捜査員たちから報告が続いたが、収穫はなかったようだ。まだ捜査の時間が充分でないというのは、誰の目にも明らかだった。

「一方で、菊池警部補の周辺はどうだったのか。何か情報はあったか?」

 片岡は担当の捜査員を指名した。

 その刑事は、申し訳なさそうな顔をして立ち上がった。

「菊池班長の奥さんに会ってきましたが、情報を得るのは困難でして……」

「奥さんが取り乱していたのか?」

「いえ、しっかりした方で、急な不幸にもかかわらず感情を抑えていました。ですが、菊池班長が誰かに恨まれていた可能性はないか尋ねたところ、具体的にはわからないと……。警察官だから恨みを買うことは多かっただろう、いつかこういうときが来るんじゃないかと恐れていた、と話していました」

 尾崎は菊池班長の妻に会ったことはない。だが警察官の妻であれば、誰でもそのように感じるのかもしれない、と思った。尾崎の母親も、息子が警察に入ることを歓迎してはいなかった。母を説得して警視庁に入ったわけだが、いまだに母は尾崎の身を心配しているようなのだ。刑事の家族というのはそういうものなのだろう。

「念のため、脅迫状が届いたりしなかったか奥さんに尋ねましたが……」担当の刑事は続けた。「少なくとも自分は気がつかなかった、ということでした」

「わかった。奥さんにはあとでまた話を聞いてくれ」片岡は担当者を座らせた。「……奥さんの言うように、菊池警部補が誰かの恨みを買っていたことは考えられる。過去、彼が関わった事件については予備班が洗い出しているところだ。もしかしたらその中に、手島や白根の名前が出てくるかもしれない。三人の被害者の繋がりが明らかになれば、犯人の動機も浮かんでくるだろう」

 尾崎たちには焦りがあった。だが、これといった情報が出てこないのがもどかしい。

 捜査員たちの報告をすべて聞き終えてから、片岡はひとり腕組みをした。そのまましばらく思案する様子だったが、やがて彼は腕組みを解いた。

「現役の刑事が殺害されたことは、社会に大きな影響を与えるはずだ。世間が警察を見る目も変わってくるだろう。……しかしこういうときだからこそ、君たちには冷静になってもらいたい。警察の威信をかけて頑張ってほしい、という気持ちはもちろん変わらない。だが熱くなりすぎるな。第二の菊池警部補を出さないためにも慎重に行動するように」

 尾崎は菊池班のメンバーのほうに目を向けた。小田をはじめとして、菊池の指揮下にあった者たちはみな肩を落としていた。彼らの今後の行動には、特に注意を払わなくてはならないだろう。上司の敵討ちだとばかりに、無茶な捜査をしないとも限らない。

 一時間半ほどで、片岡は捜査会議の終了を告げた。
 
 会議のあと、少し気分転換がしたくなった。

 部屋の後方にはいつものようにワゴンが用意されている。自由にインスタントコーヒーが飲めるのはありがたい。尾崎はコーヒーを淹れて、ひとり静かに味わった。スティックシュガーを一本入れたが、甘さが今ひとつだと感じる。疲れているのだろうか。もう一本入れて、ちょうどいい甘さになった。

「俺もコーヒーをもらおうかな」うしろから声が聞こえた。

 この状況には既視感がある。一昨日の夜、コーヒーを飲んでいるとき、尾崎は同僚と立ち話をしたのだ。あのとき声をかけてきたのは小田だった。そこへ菊池班長が加わり、さらには捜一の片岡係長までやってきた。今回の捜査について言葉を交わしたことを覚えている。

 ゆっくりとうしろを振り返ってみた。そこにいたのは小田でも菊池でも片岡でもない。

 もじゃもじゃした天然パーマの髪をいじっている中年の男性。同じ班の先輩、佐藤だった。

「どうした、妙な顔をして」

 佐藤に問われて、尾崎は紙コップをワゴンの上に置いた。

「一昨日、こんなふうに話していたんですよね。菊池さんたちと」

「……ああ、そうだったのか」佐藤は低い声で唸った。「一昨日と今日とじゃ、まったく状況が変わってしまった。正直、俺もまいってるよ。菊池さんが狙われているなんて、思ってもみなかった」

「何か兆候はなかったんでしょうか」

「どうだろうな。部下の小田が、菊池さんの机を調べているみたいだぞ。課長から指示を受けたらしい」

「菊池さんのスマホは見つかっていないんですよね?」

「そう聞いている。見つかれば、きっと手がかりがつかめると思うんだが……」

 犯人もそれを承知していたから、スマホを奪い去ったのだろう。今ごろ菊池のスマホは犯人によって細部まで調べられているのか。それともすでに破壊されてしまったのか。いずれにせよ、一度持ち去られたものが発見される可能性は低いと思われる。

「お疲れさまです」

 もうひとり、同僚がやってきた。佐藤とコンビを組んでいる塩谷だ。彼は眼鏡の位置を直しながら、小さくため息をついた。

「警察官である以上、危険は承知しているつもりでした。でも、実際に仲間が事件に巻き込まれるのはきついですね。特に、知っている人だから、なおさらです」

「塩谷の言うとおりだ。俺たちは油断していたのかもしれない」佐藤が言った。「刑事課が動きだすのは、たいてい事件が起こってしまったあとだ。自分たちに危険が及ぶなんて考えたこともなかった」

「そうですね」尾崎はうなずく。「普段、被害者のことを調べているときも、自分たちとは関係ない出来事というような気がしていました」

「どんな顔をして奥さんに会えばいいんだろうな。辛いよ。辛い辛い……」

 首を横に振りながら佐藤は言う。

 そのまま、三人とも黙り込んでしまった。

 こういう沈黙は今までに経験したことがなかった。やはり自分たちは今まで甘かったのだろう、と尾崎は思う。仕事で被害者の遺族から話を聞いても、どこか他人事というような捉え方をしていなかっただろうか。身近な警察官が殺害されるという事件がなければ、ずっと気づかずにいたのではないか。

 今、尾崎たちははっきりと理解している。この事件の犯人は、平気で警察官を殺害する人間だ。刑事を特別扱いしてはくれない、ということだ。

 佐藤はコーヒーを、塩谷は緑茶を飲んだ。会話は途絶えたままだ。少し迷ったが、尾崎は二杯目のコーヒーを淹れた。窓の外に目を向け、暗闇の底に沈んだ木場公園に目を向ける。

「尾崎さん、ちょっといいですか」

 そう言いながら、こちらにやってくる人物がいた。先ほど話題に出た菊池班の小田だ。

 彼の顔つきはかなり険しい。捜査会議の最中もそうだったが、会議が終わっても、思い詰めたような表情を浮かべている。

「ああ、小田か。何かあったのか?」

 何気ない調子で尾崎は問いかける。だが心中は穏やかでなかった。直属の上司を殺害され、犯人への怒りを募らせているであろう小田を、できるだけ刺激しないように、という思いがある。

「今、課長にも報告してきたんですが……」小田は言った。「会議のあと、菊池班長の所持品のチェックを再開したら、北野のことを書いたメモが見つかったんです」

「メモが?」

「北野とのつきあいは、これまでの情報どおり一年ほど前からだったようです。どうも、北野のほうから接触してきたらしいんですよ」

「やっぱり何か目的があったんだろうか」

「それでですね、そのメモと一緒に、北野と思われる人物の写真が出てきたんです」

「本当か!」

 尾崎だけでなく、一緒にいた佐藤や塩谷も表情を引き締めた。

 小田は一枚の写真を差し出した。尾崎は素早くそれを受け取る。佐藤と塩谷も横から覗き込んできた。

「たぶん、それが北野です」小田は言った。

 尾崎はその写真をじっと見つめて、眉をひそめた。

 ──この男、どこかで見たような気がする……。

 いったい、いつ会ったのだろう。いや、直接話をした記憶はないから、単に見かけただけなのかもしれない。自分はこの人物をどこで目撃したのか。

 しばらく考えるうち、はっとした。そうだ。あのとき、あの場所で見た男ではないか。

 尾崎は写真をもう一度見て、そのときの記憶をたどった。

※ 次回は、5/14(火)更新予定です。

見出し画像デザイン 高原真吾(TAAP)