
鈴峯紅也「警視庁監察官Q ZERO」第13回
十三
翌週の月曜日になった。二十五日だ。
ついでに言うなら友引になる。松子ではなく、これはこの朝にドミトリーの竹子に言われた。
〈蝶天〉でのアルバイトの日だったが、観月はこの日、やむを得ぬ事情で出勤が少し遅くなった。
通常なら観月は、午後八時オープンの一時間前までに必ず入ることにしていた。
マッシュボブの髪もそのまま、場合に依っては手櫛を掛けるだけで、化粧も申し訳程度に口紅を引くだけなので、実は十分前に入っても開店までに身支度は整う。
にも拘らずその時間に入るというのは、頼まれ事の情報収集というか、きちんとミーティングに参加するというか、進んで開店準備を手伝うというか――。
そんな殊勝な勤勉さもないことはないが、多分にこれは口実で、入るのは当然、日替わりでミーティングに供される、その日の甘味のためだった。
裕樹が〈蝶天〉で振る舞う京風スイーツは、特にその日の出勤人数を反映したものではない。賞味期限のことも製作個数のことも、材料原価のことも、とにかく日々、色々あるのだろう。
そのため、運ばれてくる数には当然限りがあり、しかも日によってランダムだ。余る日もあれば早々になくなる日もある。
出勤日に必ずゲットするには、オープンまで一時間が目安で、残り四十分がデッドラインだと観月は踏んでいた。これが三十分になると、たとえ余っていたとしても店内は完全に開店準備モードに入り、甘味は仕舞われ閉店の時間になるまで出てきはしなかった。
しかも、物と量によっては〈銀座ワン〉のスイーツ店に返品されることも、ないではない。
この日は、第五十五回駒場祭委員会の説明会にブルーラグーン・パーティの部長として参加した関係上、どうしてもいつもより銀座到着が遅くなった。
気持ちは少々前のめりではあった。足も速くなる。
それでもなんとか、本当はそのタイミングなら、ぎりぎり間に合う時間ではあった。
しかし、店に入ろうとすると、
「ちょっと」
と、雑踏の中の誰かに呼び止められた。足はすでに〈銀座スリー〉の敷地に一歩踏み込んでいた。
振り返れば歩道にジュンナと、そのグループの二人が立っていた。
金曜の晩に、キラリを囲んでいた三人のうちの二人だ。
「ねえ。ミズキちゃん。ちょっと付き合ってくれる?」
とは言いながら、ジュンナはこちらの是も否も聞かず背を返して歩き出した。
そこから、取り巻きの二人に前後を挟まれるようにしてカフェに向かった。〈銀座スリー〉からほど近い路面店で、前面が総ガラス張りになっている洒落た店だ。
通りに面した、四人掛けの席に案内された。一方のソファの通り側にジュンナが座り、内側にもう一人が座った。
観月もジュンナと対面の席を指示されたが、通路に立ったままでそれは断った。〈窓側〉は、座ったが最後身動きが取れない席だった。
先にもう一人を座らせ、店内の通路側に座った。
ブレンド四つ、と誰にも聞かずにジュンナが通り掛かった店員に注文した。
店員が去ると、恵子はすぐにテーブルの上に、肩を入れるように身を乗り出した。
「この前はさ、よくも舐めた真似してくれたじゃない」
いろいろ言われるのだろうと覚悟はしていたが、本当に色々と言われた。
――そもそも最初からさ。そのすかした顔が気に入らないのよね。
――あのさ。私たちは身体が資本なのよ。
――あんたさ。壊れてたらどうしてくれるの。私の稼ぎ分、払えるの。
――それからさ。痣が出来てもさ。消えるまでの間、補償してくれんの? 出来んの?
などなど。
まあ、よく聞くパターンの、一方的な言い分だ。
身体が資本というのも、壊れたら、痣が出来たらというのも、ジュンナが手を振り上げた相手にも同じことが言える。
観月に対するクレームとして、身体が資本だということにはまあごもっともと言ってもいいが、壊れたら、痣が出来たらというのは愚問だ。
壊れない方向に、痣など出来ない力加減で投げたのだから。
――議員さんのお気に入りだからってさ。いい気になってんじゃないわよ。
――ふふっ。教えちゃおっかなア。ドレスは詰め物ですって。議員さんのお熱も冷めちゃうんじゃない。
いい気にはなっていない。そもそも知らないオジサンだ。
お熱も冷める、というのは実は、願ったり叶ったりだったりする。
それよりも――。
全体としてこの場のシチュエーションに、観月はなんとはない懐かしさを感じてもいた。
純也に公衆の面前で告白して以来、暫時〈Jファン俱楽部〉を名乗る女たちの陰湿な攻撃にさらされた時期があった。その頃のことが思い返された。
現在のシチュエーションの引き写しのような場面も、観月は駒場キャンパスで、幾度となく経験済みだった。
だから、ただ――。
受け流せばよかったのかもしれないが、頼んだコーヒーが出てきたところでもう、〈蝶天〉の開店まで四十五分しかなかった。
「あのう。茶番はもういいですか」
「――えっ」
わからないといった顔で、ジュンナの動きが止まった。
「時間が勿体ないので」
言いながら、観月は総ガラスの窓の外を見た。
少し離れたところに、たぶんハンディカムを構える女がいた。キラリを囲んでいた取り巻きの、残る一人だ。
最初から離れたところにいることは、観月に向けられた刺すような気配でわかっていた。
観月を怒らせ、切れさせ、手を出させ、それを動画に撮って、さてどうするか。
店に提出して観月を辞めさせるよう店長に談判するか、どこかの医者に大げさな診断書を書かせ、慰謝料や賠償金でも要求するか、その両方か。
繰り返しになるが、〈一時間前入店〉に気持ちは前のめりだった。こういう言い方は火に油を注ぐ結果になると、理解は出来ても止まらなかった。
それに、ジュンナの様子がいつもと少し違うことにも、このときは同様の理由で深慮が及ばなかった。
後で思えば、前週の金曜より、少し痩せていたかもしれない。もう一度投げ飛ばしてみればわかったのだが、これは言っても詮無いことだ。
「馬鹿馬鹿しいことはよしましょうよ。私は何もしませんよ」
「――何よ、それ。何よっ」
恵子の顔が引き攣り、肩が小刻みに震え始めた。
怒りが吹き上がる予兆。
そのことはわかった。止められないこともだ。
「お金を一生懸命稼ごうとして、何がいけないのよ! あんたに何がわかるのよっ」
怒声がジュンナの喉を衝き、動き出した手が水の入ったグラスに伸びた。
掛けられるのを黙って待つ義理はない。だが、そのまま避けては斜めに座る観月から背後の通路、延いてはその奥の席にいるお客に迷惑が掛かるかもしれなかった。
対処しなければならないと思う余裕も手段も、観月にはあった。
隣の取り巻きの襟首をつかんで引き寄せる。
拍子が合えば重心を崩すのは簡単で、それを引き寄せるのは造作もない。
「きゃっ」
そうするとジュンナの隣、観月の真正面に座る一人もコップを持った。
「舐めるんじゃないわよっ」
その水は簡単だった。
立ち上がって通路に避ければよかった。
「おわっ」
背後の席に座っていた男性が後頭部から水を受けたが、どうでもよかった。
なぜなら――。
「自業自得、ってやつですよね」
背後の席に回り込んで、上から冷ややかに見降ろした。
〈蝶天〉のホールスタッフの一人が水を滴らせつつ、ばつの悪そうな顔をしていた。
「お、俺は、ただ見てるだけで」
「金曜もそうでした。フロアマネージャーのすぐ後ろで」
「あ、――いや」
「敬君。ゴメン」
図らずも水を掛けてしまった本人が慌てて近付き、ハンカチを取り出して甲斐甲斐しく拭き回る。
そういう関係、というのは観月にもわかった。
一連の出来事に理解が及ばず、固まったままのジュンナに目を向ける。
「頼んでも飲んでもいないんで、支払いはそちらでお願いします」
それ以上、些事にかまけてる場合ではなかった。店を出てすぐ時間を確認する。
「おわっ」
デッドエンドまで、あと三分だった。
(南無)
エレベータさえ、三基あるうちの一基が一階にあればギリギリ間に合う。
観月は並木通りを、増え始めた人の往来を縫うようにして走った。
エレベータは幸いなことに一階に二基あった。
「おっ。珍しく遅かったじゃないか」
もう馴染んできた副店長の田沢が、店に上がった観月にそんな声を掛けてきた。
「お、お早うございます」
挨拶もそこそこに、バーカウンターに向かった。
「ちょ、ちょっと待ったぁ」
思わず声が大きくなった。
京香がカウンター上の、おそらく〈和栗〉のモンブランを、今まさに片付けようとするところだった。
奪うように受け皿を取り、フォークももどかしく口に入れる。
「ふわっ」
言葉通り、糸のような栗のペーストは絹の滑らかさで、肌理の細かいスポンジもラム酒が香るクリームも甘く上品だ。
極上の逸品、ということで間違いはなかった。
つい数分前まで苦さばかりが残る一件に関わっていた後だけに、この甘さは染みるものだった。
頬張りながら素早く、京香が手に持った分と、カウンター上の〈在庫〉を一瞥する。
このすぐ後で、ジュンナと二人の取り巻きは、何事もなかった顔で〈蝶天〉に出勤してきた。
観月に燃えるような目を向けはするが、それ以上のことは何もない。
ただ、敬君と呼ばれたホールスタッフ、伊橋敬一と、水を掛けたキャスト、〈キミカ〉こと横井深雪の姿を、店内で見掛けることは最後までなかった。
閉店後に確認したが、どちらもこの日は、無断欠勤という扱いになっていた。
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