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朝日新聞出版の文芸書

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書評や文庫解説、インタビューや対談、試し読みなど、朝日新聞出版の文芸書にかかわる記事をすべてまとめています。
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#小説

【祝!初小説集発売記念 試し読み】俳優・長井短『私は元気がありません』表題作を一部公開

「いってきます」で目が覚める。ダウンコートのカサカサが顎を掠めて、吾郎が出張に出かけるんだと思い出した。できるだけ、瞳に光が差さないように気をつけながら「いってらっしゃい」と返事をすると、もう一度カサカサが顔にぶつかって離れる。今何時だろう。二度寝の権利を引き摺り込んで、羽毛布団に深く潜った。次に目が覚めたのは昼過ぎだった。身体は重い。お酒を飲んだのは一昨日なのに、まだ体内にアルコールが残っている感じがする。「三十越えるとマジどっと来るよ」って言ってたのは三茶のどの店の人だっ

【今年も開催!朝日文庫の秋の時代小説フェア】ラインナップを一挙公開!

■朝井まかて『グッドバイ』  長崎の油商・大浦屋の女あるじ、お希以──のちの大浦慶。黒船来航騒ぎで世情が揺れる中、無鉄砲にも異国との茶葉交易に乗り出し、一度は巨富を築くが、その先に大きな陥穽が待ち受けていた──。実在の商人・大浦慶の生涯を円熟の名手が描いた、傑作歴史小説。 ■伊東潤『江戸を造った男』  明暦の大火の折に材木占買で財を成した商人・七兵衛(河村瑞賢)は、海運航路整備・治水・潅漑・鉱山採掘などの幕府事業を手がけ、その知恵と胆力で難題を解決していく。新井白石をし

「『悪逆』は面白い。文句なしに面白い。絶対のお薦めだ」文芸評論家・池上冬樹さんが太鼓判を押す、本年度最注目のクライム・サスペンス!【黒川博行著『悪逆』書評】

カタルシス vs.ピカレスクの魅力  黒川博行の小説は読みとばせない。軽妙ですいすい読めるのに、台詞の一つひとつに味があり、笑いがあり、キャラクター描写の冴えがある。相変わらず語りの巧さは天下一品で、大胆で不埒なストーリー、賑々しいキャラクターの妙、リズミカルで生き生きとした会話が素晴らしく、笑いながら頁を繰っていく。退屈に思えるところなど微塵もない。さすがは「浪速の読物キング」(伊集院静)だ。  物語はまず、殺し屋が広告代理店元社長大迫を殺す場面から始まる。綿密に計画を

呉座勇一氏が読んだ火坂雅志・伊東潤著『北条五代 上・下』/文庫解説を特別公開!

 戦国時代関東における武田・上杉・北条の三つ巴の戦いは、俗に「戦国関東三国志」などと呼ばれる。だが、川中島の戦いで知られる武田信玄・上杉謙信のライバル関係に比して、北条氏(鎌倉時代の北条氏と区別するため、学界では後北条氏・小田原北条氏と呼ぶことが多い)の存在感は必ずしも大きくない。北条氏を主人公としたNHK大河ドラマはいまだに制作されていない。  戦国時代屈指の有力大名でありながら、北条氏はいささか地味な存在である。けれども親子兄弟骨肉の争いで弱体化したり、優れた後継者に恵

【インタビュー】塩田武士が見た、松本清張の背中 話題作『存在のすべてを』で挑んだ「壁」

「作家には定期的に必ず越えるべき壁が出てくると言いますが、私にとってはそれが『罪の声』でした。以前、作家の湊かなえさんのラジオに出演した時に、湊さんがこれから塩田さんは『罪の声』と闘うことになる、私が『告白』と闘ったように、と言われたことがあるんです。重たいなと思いました」  塩田武士さんが2016年に発表した『罪の声』は、「グリコ・森永事件」をモチーフにしたサスペンス小説だ。週刊文春ミステリーベスト10(国内部門第1位)、第7回山田風太郎賞を受賞するなど一世を風靡し、20

「生きている」重みと「生きてきた」凄み/塩田武士著『存在のすべてを』池上冬樹氏による書評を特別公開!

 塩田武士といえば、グリコ・森永事件を題材にした『罪の声』(2016年)だろう。迷宮入りした事件を、脅迫状のテープに使われた少年の声の主を主人公にして、犯罪に巻き込まれた家族と、未解決事件を追及する新聞記者の活躍を描いて、厚みのある社会派サスペンスに仕立てた。週刊文春ミステリーベスト10で第1位に輝き、第7回山田風太郎賞を受賞したのも当然だった。 『罪の声』から6年、新作『存在のすべてを』は、『罪の声』を超える塩田武士の代表作で、いちだんと成熟して読み応えがある。物語はまず

描きたかったのは、“何もなさなかった人物”/『ラウリ・クースクを探して』刊行記念!宮内悠介さんインタビュー

 テーブルに並ぶ硬いパン、風の匂い、どこか灰色の街並み。宮内悠介さん(44)の新刊『ラウリ・クースクを探して』のページをめくるたび、土地の空気に誘われ、その世界を生きているかのような感覚になった。  舞台はエストニア。1977年から、物語は始まる。  幼い頃から数字に魅せられていたラウリは、ある日コンピュータと出合い、そのなかに自分だけの世界を見いだし、やがてソ連のサイバネティクス研究所で働くことを夢見るようになる。仲間たちと儚くも濃い人間関係を築きながら、前へと進み続け

塩田武士『存在のすべてを』刊行記念インタビュー/「虚」の中で「実」と出会う

 情熱を失った新聞記者が再び「書きたい」と奮い立つ題材に出会うという出発点はデビュー作『盤上のアルファ』(2011年)、子供たちの未来を奪う犯罪への憤りという点では代表作として知られる社会派ミステリー『罪の声』(2016年)、フェイクニュースが蔓延し虚実の見極めが難しい現代社会のデッサンという点では吉川英治文学新人賞受賞作『歪んだ波紋』(2018年)、関係者たちの証言によって犯人像が炙り出される構成上の演出は『朱色の化身』(2022年)……。塩田武士の最新作『存在のすべてを』

「こんなにも『好き』を考える小説を私は他に知らない」尾崎世界観さんが、町屋良平さんの最新作『恋の幽霊』を読みときます。

恋のアウトレイジ  幽霊を怖いと感じるのは、見てしまった瞬間より、見てしまうまでの時間だと思っている。実際に見て「うわ、幽霊だ」となるのは、ただの驚きでしかないからだ。 「この辺りに幽霊がいて、今にも出てきそうだな」と思っている時間の方が、実際に見た瞬間よりも遥かに怖い。私はまだ幽霊を見たことがないから、物心ついてからずっと幽霊を怖がっている。でも一度見てしまえば、「見える人」として上書きされてしまうから、「ずっと見えなくて怖い」が正しい幽霊との付き合い方だと思う。  

「この作品は、蘇生と題された喪失の物語だ」俳優・中嶋朋子さんによる、小川洋子著『貴婦人Aの蘇生 新装版』巻末エッセイを特別公開

喪失と再生  20代の後半だったろうか、小川洋子さんの「薬指の標本」「まぶた」といった作品に次々出会い、えもいわれぬやすらかさを覚え喜びに震えた。手渡されたのは、異なるものたちの、ささやかな声に充ちる世界。そこで私は深いやすらぎを得て、初めて呼吸することが叶ったような感覚になった。胸のうち、無意識に抱えていた言語化できない違和感、社会や常識に与えられた物差しでは、どうしてもはかりようのない、心の中の襞。その微細な凹凸を、丁寧に、その襞の在りようのまま、寸分違わぬ正確さで読み

言葉の襞にまで分け入って、他者の言葉に耳を傾ける/小川公代著『世界文学をケアで読み解く』阿部賢一さんによる書評を公開

多様な他者の声に耳を傾ける 「ケア」という言葉が様々な場で口にされるようになって久しい。介護サービスを利用している人であればケアマネージャーと頻繁に会うだろうし、そうではなくてもヤングケアラーという言葉は耳にするだろう。一般的に「ケア」は介護や福祉の文脈で用いられているが、近年、社会学、倫理学でもその射程を広げている。著作『ケアの倫理とエンパワメント』(講談社、2021年)などを通して、ケアと文学研究を連動させる実践をしてきたのが小川公代さんだ。対象を世界文学に広げてその可

【書店員さんからの感想続々!】素晴らしい読後感に出会える小説だった――宮内悠介さん『ラウリ・クースクを探して』感想まとめ

 コンピュータープログラムに魅せられたラウリ。プログラムだけが彼の友達だった。孤独だったラウリに生涯忘れられない時、切っても切れない友情が輝き出す。国の体制に翻弄されながらも心には確かに彼女、彼らとのつながりが存在した。自分の真の気持ちと彼らの気持ちはすれ違い、途中歯がゆさでいっぱいになった。  読み終わり、こんな人とのつながりがあってほしい。こんな友情があってよかったと心から思った。  わたしの正体を知った時、心が震えて、胸がいっぱいになった。 (ジュンク堂書店滋賀草津店 

※終了※【期間限定公開!】塩田武士著『存在のすべてを』 序章 ―誘拐―

 塩田武士さんが『週刊朝日』に一年以上にわたって連載された渾身の作品『存在のすべてを』が遂に2023年9月7日発売されました。 ※期間限定公開は終了しました。たくさんの方にお読み頂き、誠にありがとうございました。 著者渾身の到達点、圧巻の結末に心打たれる最新作。 『罪の声』に並び立つ新たなる代表作の誕生です。  発売を記念して、「二児同時誘拐」からスタートする「序章 ―誘拐―」を、期間限定で先行公開いたします。緊張感溢れる物語のドライブ感を充分に味わってください!

関ヶ原は家康と三成だけの戦いではない! 安部龍太郎著『関ヶ原連判状』末國善己氏による書評を特別公開

 壬申の乱(672年)後、激戦地の近くに作られた不破関は、鈴鹿関、愛発関と共に古代の三関の一つに数えられている。交通の要衝にあった不破関の近郊は、南北朝時代、京を目指す南朝とそれを阻止する室町幕府が戦った青野原の戦い(1338年)、豊臣秀吉の没後、徳川家康(東軍)と石田三成(西軍)が天下の覇権をかけて争った関ヶ原の戦い(1600年)と何度も有名な合戦の舞台になっている。  家康と三成が激突した“天下分け目”の一戦は、9月15日に始まり僅か半日で東軍が勝利した。ただ激戦地にな