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偉い人にはそれがわからんのです(よ)(『機動戦士ガンダム』)――川添愛「パンチラインの言語学」第6回

文学、映画、アニメ、漫画……でひときわ印象に残る「名台詞=パンチライン」。この台詞が心に引っかかる背景には、言語学的な理由があるのかもしれない。

ひとつの台詞を引用し、そこに隠れた言語学的魅力を、気鋭の言語学者・川添愛氏が解説する連載。毎月10日に配信予定。

 前回の予告どおり、今回も『機動戦士ガンダム』を取り上げる。前回はニュータイプの話でお茶を濁してしまい、言語学要素がいつにも増して薄めだった自覚はある。できれば今回もアムロとララァの謎会話のことや、ララァに「大佐、どいてください、邪魔です!」と言われてしまった可哀想なシャアの話とかをしたいものだが、そこをぐっとこらえて、もうちょっと言語学寄りに『ガンダム』のセリフを眺めてみたいと思う。

 この作品の特徴の一つとして、一部のキャラのセリフの「芝居がかった感じ」が挙げられる。たとえばシャアの初登場時のセリフは、「私もよくよく運のない男だな。作戦が終わっての帰り道で、あんな獲物に出会うなどとは」。初っ端からこんな帝国劇場っぽいセリフを吐くなんて、さすがシャアさん、復讐のために素顔を隠して演技を続けているだけのことはある。観客席から「よっ、キャスバル兄さん!」と声をかけたいぐらいだ。
 こういったセリフの芝居っぽさを高めている要因の一つとして、倒置法の使用が挙げられる。シャアの「認めたくないものだな、自分自身の若さゆえのあやまちというものを」や、「見せてもらおうか、連邦軍のモビルスーツの性能とやらを」も倒置法。シャア以外にも、ギレンが「圧倒的じゃないか、我が軍は」「あえて言おう、カスであると!」のように、倒置法をよく使っている。
 ちなみに倒置法の多さは私が発見したことではなく、昔からたびたび指摘されていることだ。ネット上ではたまに「『ガンダム』の倒置法を普通の語順に直す遊び」が流行ることがある。つまり「認めたくないものだな、自分自身の若さゆえのあやまちというものを」を「自分自身の若さゆえのあやまちというものを認めたくないものだな」に変えたり、「あえて言おう、カスであると!」を「カスであるとあえて言おう」に変えたりするのだ。普通語順のイマイチさがよく分かり、倒置法の効果が際立つ。

 ちなみに言語学では、倒置法の文には大きく分けて二つのタイプがあることが知られている。一つは、「分かりきったことを後回しにするタイプ」、もう一つは「新しい情報を後ろに持っていくタイプ」だ。たとえばあなたが格闘技のコーチだとして、サンドバッグを思いっきり蹴っていない生徒に対して「これ、思いっきりか? お前の」と言ったとする。このような倒置法は「分かりきったことを後回しにするタイプ」に相当する。というのも、この場合、後回しにされた「お前の」は分かりきった情報だからだ。仮に「お前の」を言わずに「これ、思いっきりか?」とだけ言ったとしても意図は通じる。
 これに対し、『ガンダム』に出てくる倒置法の多くは「新しい情報を後ろに持っていくタイプ」である。実際、「認めたくないものだな」とか「あえて言おう」だけだと意味が分からないので、聞き手はその後に続く言葉に注意を向けざるを得ない。この手の倒置法を演劇やドラマで使うと、観る人の注意を引きつけることができ、流れにメリハリが出る。

 倒置法以外にもこだわりを感じさせるセリフは多いが、今回とくに注目したいのは、第42話に出てくるジオンの名もなき整備士による「偉い人にはそれがわからんのですよ」である。これは、地球連邦軍との最終決戦に臨むシャアが、未完成のモビルスーツ「ジオング」に搭乗する場面に出てくるセリフだ。シャアがジオングを見て「足は付いていない」と言ったのに対し、整備士が「あんなの(=足は)飾りです。偉い人にはそれがわからんのですよ」と返すのだ。名前すらクレジットされていない一介の整備士が、上官の前で臆することなく上層部への不満を口に出すのが印象的だ。
 それはともかく、『ガンダム』好きの読者の皆様の中には、このセリフを「偉い人にはそれがわからんのです」と記憶している方も多いのではないかと思う。実は私もそのように覚えていた。調べてみたところ、最後の「よ」が付いていないバージョンは劇場版『機動戦士ガンダムIII めぐりあい宇宙そら編』に出てきたセリフであり、テレビアニメ版では「よ」が付いている。つまり、テレビ版にあった終助詞「よ」が、劇場版では削除されているのだ。
 個人的に、このセリフから「よ」を削除したのは英断だと思う。「偉い人にはそれがわからんのですよ」よりも、「偉い人にはそれがわからんのです」の方が、明らかに良い気がするからだ。しかし、何がどう良くなったのかをきちんと言葉にするのは難しい。

 それを考えるには終助詞「よ」の機能について知る必要があるが、「よ」についての研究は豊富にあり、どの分析も似ているようで細かく違う。正直言って、すべてを分かりやすくまとめる自信はない。しかしそれだと話が進まないので、この世に大勢いる「よ」の専門家からフルボッコにされる覚悟であえて言うと、「よ」の機能というのは、話し手が (1)この情報(あるいは意見)を聞き手に向けて話していることを明確に示し、(2)この情報(あるいは意見)は自分だけのものであり、聞き手はそれを知らない(あるいは違う意見を持っている)という想定があることを明らかにする、という感じだ。
 実際は、(1)と(2)の両方がつねに満たされるわけではなく、片方しか当てはまらないケースや、どちらとも言えないようなケースもある。言語学の分析としてはそこが厄介なところなのだが、『ガンダム』の有名なセリフに出てくる「よ」は、おおよそ(1)(2)の両方にあてはまるものが多いように思う。
 たとえば、テレビ版の第10話でシャアが友人ガルマ・ザビを裏切るときに言う「君はいい友人であったが、君の父上がいけないのだよ」というセリフは、上の(1)(2)に沿って考えれば、最後の「よ」によって「君の父上がいけない」ということをガルマに向けて言っていることを明らかにし、なおかつ「君はそのことを知らなかっただろうけどね」という想定を表に出していることになる。実際、「よ」を取り除いて「君の父上がいけないのだ」にすると、発言が急に独り言っぽくなるし、「相手が想定していなかったことを言って、精神的に優位に立とうとしている感じ」が弱まってしまう。

 また、ジオンの軍人ランバ・ラルが、量産型モビルスーツ「ザク」の改良型「グフ」でアムロを攻撃する際に「ザクとは違うのだよ、ザクとは!」と言うが、これも同じような例だ。ここでも「よ」を取り除いて「ザクとは違うのだ、ザクとは!」にすると、発言の方向性がなんとなく「内向き」になってしまい、迫力が半減する。「君の父上がいけないのだよ」にしても「ザクとは違うのだよ」にしても、情報の面で優位に立っていることを敵に見せつけたい場面で「よ」が効果的に使われていると思う。
 では、「偉い人にはそれがわからんのです(よ)」はどうなのか。私の考えでは、劇場版で「よ」が削除されたのは、シチュエーションから見て「よ」が余計だった、と思われたからではないかと思う。整備士が上官の前で「偉い人にはそれがわからない」と口に出すという状況そのものが、先の(1)と(2)の両方、つまり「このことはあなたに向けて言っているんですよ。あなたは知らないでしょうけど」という思いを十二分に表現してしまっているため、「ここにさらに『よ』を付けるなど蛇足である!」(CV 銀河万丈)と判断されたように思うのだ。
 また、「偉い人にはそれがわからんのですよ」だと、いかにも「整備士が何のためらいもなく現場の不満をシャアに伝えている」という感じがするが、「偉い人にはそれがわからんのです」の方は少しだけ言葉が「内向き」になるので、「本来は上官の前で言うべきことではないけれど、不満が強すぎるために口に出さざるを得ない」という心情が表現されているようにも感じられる。

 ちなみに、「偉い人にはそれがわからんのです(よ)」とは逆に、テレビ版になかった「よ」が劇場版で出現した例もある。テレビ版第41話で「なぜあなたはこうも戦えるの? あなたには守るべき人も守るべきものもないというのに」「あなたの中には家族もふるさともないというのに」と何気にひどいことを言ってくるララァに対して、アムロが言い返す「だ…だから、どうだって言うんだ」というセリフだ。これが劇場版では、「だから、だからって、どうだって言うんだよ!」に変わっている。こちらもどういう思惑で変更されたのか謎だが、「よ」が付いたことで、テレビ版のアムロよりも劇場版のアムロの方が普通の少年っぽいというか、アムロ特有の内向的な性格が少し薄まっているような気がする。
 いずれにしても、「よ」という終助詞をつけるかつけないかでセリフの印象は大きく変わる。『ガンダム』に名言が多いのも、こういったこだわりのたまものなのかもしれない。

川添 愛 (かわぞえ・あい)
言語学者、作家。九州大学文学部、同大学院ほかで理論言語学を専攻し博士号を取得。2008年、津田塾大学女性研究者支援センター特任准教授、12年から16年まで国立情報学研究所社会共有知研究センター特任准教授。著書に、『白と黒のとびら』『働きたくないイタチと言葉がわかるロボット』『ふだん使いの言語学』『言語学バーリ・トゥード』『世にもあいまいなことばの秘密』など多数。

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