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年森瑛「バッド入っても腹は減る」第6回

パスタを茹でながら、キャベツを煮込みながら、一冊の本をじっくり読む――。いちばん読書がはかどるのはキッチンだ。
いま最注目の新人作家による、おいしい読書エッセイ。
毎月15日更新予定。

撮影 年森瑛

 食事が苦手だ。
 理由はいくつかあって、まず基本的に胃が弱い。冷たい牛乳を飲めばたちまち吐き気を催し、ケンタッキーを食べれば下痢をする。ややこしいことにコンディションがまちまちなので、おかわりできる日もあれば半分以上残す日もある。
 偏食でもあるため「食べ物みのあるもの」を食べられない時期が定期的に訪れる。「食べ物みのあるもの」とは米・肉魚・野菜のような一般的な食卓に出されるすべてを指す。先週はパルムのロイヤルミルクティー味だけ食べていた。そして腹を下した。当然である。その後2日間をポカリだけで過ごしていたらやや復調したが、明日には会食が控えていた。ポカリ生活からいきなり油やら小麦やらをぶち込むのは恐ろしい。なにか胃腸に良さそうなものを食べなければ。ちょうど今月末に消費期限が切れるからと職場で災害用備蓄品のおかゆ缶をもらったので、これを鍋で温める。その隣で小さいフライパンに水を張って火にかけ、沸騰するまでのあいだに買ったばかりの文庫本を手に取った。

 野崎まどの『タイタン』は約200年後の未来が舞台の小説だ。AI技術の発展によって、人類は労働から解放された生活を送っていた。人間よりも勤勉で優秀なAIのはたらきで、人類は働かなくても食べていける、どころか働かないほうが食べていけるようになったのだ。仕事という概念は過去のものとなり、ごくわずかな「就労者」を除いて人間の行いはすべて趣味の世界になった、そんな平穏な時代はある日突如として危機を迎える。主軸となって人間社会を支えていた12機の巨大AI「タイタン」のうちの一つ・コイオスが原因不明の機能低下を起こしたのだ。この非常事態に「就労者」たちは考えた。高度な知性をもつタイタンすら自己修復できない問題を人間だけで解決できるはずがない。ならば、タイタンのことはタイタン本人に聞けばいい、と。心理学を趣味で研究していた主人公・内匠ないしょう成果せいかは騙し討ちのような形でタイタンの機能修復チームに巻き込まれ、生まれて初めての仕事——働けなくなったAIのカウンセリングに挑むことになる。
 人類のために働くことを宿命づけられた存在であるコイオスと、働くことを概念でしか知らなかった内匠は対話を重ねていく。仕事とはいったい何なのか。身体を動かすことが仕事なのか。役に立たないものを作るのは仕事なのか。人類にとって、タイタンにとっての仕事とは? 本作は仕事を無批判に称揚するでも、悪だと断ずるのでもなく、仕事がもつ様々な側面をフラットに提示する。コロナ禍を通じて「働く」ということを改めて考えるようになった人々にベストなタイミングで発表された作品だ。

 とっくにフライパンのお湯が沸いていたので、ここで塩鮭の切り身をでる。焼くよりも油と塩が落ちるので胃にやさしいはずだ。そのあいだに長ネギを薄く輪切りにして、おかゆと混ぜて弱火にかける。長ネギの色が薄くなってきたら、塩とほんだしを入れて味を調える。茹で上がった鮭を載せれば、いかにも健康的な食事の出来上がりである。
 本作の世界観では、煙草が麻薬レベルの品物として扱われ、エナドリも1日の規定量までしか供給されない。人類の健康を阻害するものとしてタイタンが認識しているからだ。
 とすると、私の食生活もタイタンに矯正されるんだろうか。偏食というのは単なる好き嫌いではなく、つわりに苦しむ妊婦がマックポテトだけ食べられる現象のような、それ以外に身体が受け付けるものが本当にない状態なのだ。これを疾病しっぺいと捉えるのなら治さなくてはならないのかもしれないが、そもそも私は偏食で困ったことがない。会食はそこそこ気合が必要な時もあるが、一人の食事には不自由しないし、どころか、実家で親にせっつかれて仕方なく食べ物みのあるものを食べていた時よりも好き勝手にできる今のほうが精神衛生上は快適である。
 本作には一人、いわゆる仕事中毒の人間が登場していた。生活のために働く必要もない社会だというのに仕事に没頭して家庭崩壊してしまった彼にタイタンが下した診断は、とてもやさしかった。タイタンが想定する個人の幸福が、硬直した社会規範の遵守ではないのなら、私もまたタイタンに許しを与えられるのかもしれない。

 にしても、読んでいてとにかく楽しい小説だ。きっと会話劇を中心にしてAIの反乱とか過重労働の弊害について書かれるのだろう、という私の予想は良い意味で裏切られ、悔しいくらいに予想もつかない展開の連続に舌を巻く。ど直球のエンタメを浴びてページをめくる手が止まらない。面白い、興味深いと思う本はあれど、読書をしていて「楽しい」と思える小説は久々に巡り合った気がする。これは小説に対しての誉め言葉として適切なのか分からないが、できれば劇場版アニメになってほしい、そう願わずにいられないくらい、とにかく大きな画面で見たい情景が多すぎる。ライト文芸的な個性豊かなキャラクターたちに、SF、ミステリー、ロードノベルの要素も加わった大スケールのエンタメだ。作家・野崎まどの10年あまりの仕事の集大成として十全に“いい仕事”をしてくれている。圧巻の出来である。私が中学生の頃に衝撃的なデビュー作を引っ提げて登場した作家がこうして今も第一線で面白い小説を書いているのを目の当たりにすると、励まされるというか、襟を正すというか。
 作家としてどのようなペースで仕事に取り組むのがベストなのか、同業者同士で相談することがある。兼業作家の場合、作家としての労働時間を残業時間として捉えると、過労死ラインを超えないようにするには作家の仕事を土日8時間ずつか、平日4時間ずつまでにとどめなければならないようだ。ただし依頼が立て続けにきたり急に売れたりするとそんなスケジュールでは間に合わないので、過労死に向けてひた走ることになる。
 個人事業主の場合、自分の労働環境は自分で整えるしかない。産業医も上司もいないのだから、メンターは自分自身である。しかし、労働にかかるコストの見積もりは実際やってみないと分からないことも多く、分からないまま突っ走って限界を迎えることは新人作家にはよくある話のように思う。ただでさえ特殊な仕事に取り組んでおきながら、出版業界特有の慣習の把握に加えて、会社ごと、どころか編集者ごとに常識とするルールが違ったりするので、疑問を飲み込みながらどうにか仕事のこなし方を摑んでいくしかない。先人たちもそうだったのだろうし、個人事業主には新人研修もマニュアルもないから仕方ない、のか。本当にどうにもできないことなのだろうか。私がこのさき作家として生き残れなかったとしても、そもそも読者として日々楽しませてもらっている人間として未来の作家に何か役立つことができたら、と思いつつ、なんやかんや目先の仕事に気を取られて実行に移せていない。もしかして先人たちもそうだったのか?

 おかゆはあっという間に食べ終わった。当たり前だが私好みの味だった。
 食事は苦手だが、料理は好きなほうだと思う。食材を解体してそれぞれの要素を組み合わせて料理へと再構築する作業そのものも好きだが、なにより自炊すれば自分の好きなタイミングで好きなものを好きな量だけ食べられる。生きるために食事を必ずしなければならないなら、せめて苦しみの少ない時間にしたいものだ。労働に対しても同じようなことを思う。働くのはそんなに好きじゃない。でも、任されたからにはちゃんとやり遂げたいし、任せてくれた人に恩を返せるようなものを作りたい……などと、日づけを勘違いして締切をすっぽかし、担当さんに平身低頭してお送りする原稿の末尾に書いてみるのだった。
 

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見出し画像デザイン/撮影 高原真吾

年森瑛(としもり・あきら)
1994年生まれ。作家。『N/A』で第127回文學界新人賞を受賞し、デビュー。