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麻見和史『殺意の輪郭 猟奇殺人捜査ファイル』第4回



 勤務記録を受け取り、尾崎たちはクマダ運輸の支店を出た。

 手島恭介という男はいったいどんな人物だったのだろう。尾崎は被害者の姿を頭に思い浮かべた。

 事件現場で確認した顔。そして初動捜査で仲間の刑事が入手した写真の顔。手島は面長で、大きな耳に特徴があった。福耳と言えそうだが、現実には福に恵まれなかったようだ。彼は拷問とも言える仕打ちを受けて死亡してしまった。

 髪型や服装からは、どこにでもいる中年男性というふうに見えた。個人事業主ということだったが、仕事の中身はフリーアルバイターに近かったのだろう。クマダ運輸に縛られることはなく、自分で働く時間帯を選ぶことができた。もちろん仕事をする上で責任はあるが、気分的には楽だったのではないか。

 こうした個人事業主に仕事を任せることで、企業は経費を大幅に減らせるようになったわけだ。何かあっても自己責任ということで、いざその人物が働けないような状態になれば契約を解除すればいい。きわめて合理的なシステムだ。

 だが、それでいいのかという気持ちが尾崎にはある。

 父が早くに亡くなったから、自分は地方公務員──警察官になった。よほどのことがない限り、解雇されたりしない職業だ。おかげで生活は安定している。

 手島はどんな境遇に育ってきたのか、ということに興味があった。

 自由気ままに生きられるのは楽だったかもしれない。だが、歳をとったらどうするつもりだったのだろう。すでに亡くなってしまった人物のことではあるが、そういう部分が気になった。

「手島さんの部屋を調べてみたい」

 尾崎がそう言うと、広瀬は不思議そうな顔をした。

「私たちの担当は鑑取りですよね。関係者から情報を引き出すのが仕事なのでは?」

「そのとおりだ」

「手島さんの家に行って、近所の人から話を聞くのはありだと思います。しかし部屋を調べるというのは、明らかに越権行為ではありませんか?」

 真剣な顔で広瀬は尋ねてくる。生真面目というか、堅いというか、とにかく決められたルールに忠実なのだろう。

「不満なのか?」

「いえ、不満ではありませんが、理由を教えていただけますか」

「理由か。……そうだな、俺の勘だ」

「え?」広瀬はまばたきをした。長いまつげが大きく動く。「それはちょっと……。説得力に欠ける気がします」

 まあそうだろうな、と尾崎は苦笑いを浮かべた。おそらく彼女には、行動するための明確な理由が必要なのだ。

「クマダ運輸ではパートの仕事しかしていなかった」尾崎は言った。「しかし手島さんは車を買えたし、仲間と飲みに行くこともできた。考えられることは何だ?」

「……何かほかに収入源があったんでしょうか。あるいは、もともと多額の貯金があったとか?」

「あとは、養ってくれる女性がいたのかもしれないよな」

「それはどうかと思いますが……。でも可能性としては排除できませんね」

 うん、と尾崎はうなずいてみせる。

「そういうわけで、俺は彼の生活の様子が知りたいんだ。家を見るのが一番だろう」

「ですが、鑑取りは鑑取りらしく、人から話を聞くのが筋ではありませんか?」

「聞き込みをするにもネタが必要だよ。だからいろいろ知っておくべきなんだ。こちらから水を向ければ、相手はいろいろ思い出すかもしれない。過去の経験から、そう言える」

「経験から、ですか……」

「時間がもったいない。さあ、行くぞ」

 話を切り上げて尾崎は歩きだした。気持ちを切り換えたのか、広瀬もすぐについてきた。
 
 捜査資料を見ながら、住宅街を西へと向かった。

 手島が住んでいた賃貸マンションまでは徒歩で十分ほどだ。尾崎は西葛西を歩くのは初めてだが、きれいな道が多いし、住みやすそうな町だと感じた。賃貸物件の家賃はどれくらいなのだろう。

 七階建てのマンションの前に数台の車が停まっていた。横を通るとき車内をちらりと見ると、無線機器などが積んである。覆面パトカーだとすぐにわかった。

 五階でエレベーターから降りると、男たちの話し声が聞こえてきた。共用廊下の一番奥、五〇一号室の前でスーツ姿の男性ふたりが言葉を交わしている。眼鏡をかけた男性が、こちらに気づいて驚いたという顔をした。

「尾崎さんじゃないですか。どうしてここに?」

 同じ深川署の刑事課、加治山班に所属する塩谷政人巡査部長だ。歳は三十五で、尾崎や広瀬より二歳若い。

「お疲れさん。ちょっとマル害の部屋を見せてもらおうと思ってね」

 塩谷は眼鏡のフレームを指先で押し上げた。

「でも尾崎さんは鑑取りでしょう。どうして部屋を見に来るんです? ルール上、それはまずいんじゃないですか」

 彼の言葉を聞いて、隣にいた広瀬が顔を輝かせた。

「そうですよね」広瀬は一歩前に出て言った。「塩谷くんの言うとおりです。私たちは鑑取り班ですから、部屋を調べるのは本来おかしいわけで……」

「もう、中は見られるか?」

 広瀬をそのままにしておいて、尾崎は塩谷に尋ねた。

「一通り、調べは終わっていますから大丈夫ですよ。尾崎さん、どうぞ中へ」

「え?」広瀬が眉をひそめた。「でも塩谷くん、今、ルール上まずいんじゃないかって……」

 驚いている彼女に向かって、塩谷はゆっくりとした口調で言った。

「あとで何かあるといけないから、一応話しておいただけですよ」

「塩谷くんは、ルールを守ろうという立場じゃなかったの?」

「俺自身はそう思っていますが、尾崎さんがどうするかは本人の自由ですから」

「そんな……」

 感情的になるわけではなかったが、広瀬は不満そうだった。仲間だと思っていた塩谷に裏切られた、という気持ちがあるのだろう。

 尾崎は白手袋を嵌め、靴を脱いで五〇一号室に入った。塩谷もあとに続く。ひとり渋い表情を浮かべていた広瀬も、仕方ないという様子でパンプスを脱いだ。

 入ってすぐ右手にトイレと脱衣所、ユニットバスがある。左を見ると、そこは台所とリビングダイニングだ。テーブルのそばに立っていた男性がこちらを向いた。もじゃもじゃした髪は天然パーマだと聞いている。太い眉の下に人懐こそうな目があった。ベテラン捜査員の佐藤亮治警部補、四十一歳だ。

「お、来たのか、尾崎」佐藤は口元を緩めた。「おまえ鑑取りだろう?」

「そうなんですよ、佐藤係長」

 と広瀬が言ったが、佐藤はうんうん、とうなずいただけだ。彼女を相手にするつもりはないらしい。

 佐藤は室内をぐるりと見回してから、再び尾崎のほうを向いた。

「間取りは2LDK。ひとり暮らしの住まいとしては充分な広さだな。生活水準は平均以上。高いワインが何本もストックしてあったし、家電も最新式だ」

「財布、手帳、スマホのたぐいはありません」塩谷が口を挟んだ。「デスクトップパソコンがありますが、パスワードがわからないので現在、ログインは不可能。これは鑑識で見てもらう必要があるかと」

「どうかなあ」佐藤が首をかしげた。「彼らの力量じゃ無理かもしれないよ。できるとしたら科学捜査係かサイバー犯罪対策課、ひょっとしたら科捜研かな」

「まあね、そのへんは捜査一課の偉い人が判断してくれるでしょう」塩谷は言った。「所轄は言われたとおりに行動すればいい。よけいな意見は言わなくていい。君たちはそういう立場だと、以前、捜査一課に釘を刺されましたから」

「今日も尖ってるねえ、塩谷は。なんか怒ってる?」

「すみません。俺は佐藤さんみたいに人間が出来ていないので」

「若いなあ。若い若い」

 そんなことを言って佐藤は笑った。

 このふたりは以前から一緒に行動している。人のよさそうな佐藤といつも一言多い塩谷は、班長から「甘辛コンビ」などと呼ばれている。意見が合いそうには見えないのだが、実際には塩谷が先輩を立てることも多いし、佐藤のほうも余裕をもって後輩を見ているようだ。そういう意味では、うまく出来たコンビだと言える。

 テーブルの上に、持ち手の付いた紙バッグが三つ置かれていた。

「取り急ぎ、これだけ捜査本部に持って帰るつもりだ」佐藤がバッグを開いて見せた。「会員カードや病院の診察券、意味があるかどうかわからないメモ類、アルバム、連絡用の名簿、写真……。そういったものだ」

「わかりました。本部で調べてもらって、何か見つかることを祈りましょう」

「おまえも一通りチェックしたいだろう? 見てもらってかまわないよ」

「じゃあ、ちょっと失礼」

 佐藤に会釈してから、尾崎は紙バッグの中身を調べ始めた。広瀬にも手伝ってもらって、大事なメモなどがないか確認する。

 続いて部屋の中を調べることにした。

 流し台の下を開き、茶箪笥をあらため、冷蔵庫の中を確認する。自炊はあまりしていなかったらしく、調理用の食材は入っていない。目につくのは、つまみになりそうな加工食品やビール、ワインなどだ。

 脱衣所、浴室にも、これといって気になる品物はなかった。

 リビング部分には大きな液晶テレビと座椅子がある。棚には市販のDVDやブルーレイディスクが並んでいた。そのほか、自分で番組を録画したディスクもあるようだ。

 奥のほうに移動してみた。左の部屋には洋服などの入った四段のチェストと書棚がふたつ、窓際の隅にはパソコンデスクが設置されている。チェストや書棚の引き出しを調べてみたが、古いレシートやダイレクトメールが入っているばかりだった。

 最後は寝室だ。ここには衣装箪笥と広めのクローゼットがあった。どちらもすでに佐藤たちが調べたあとだから、やはりめぼしいものは見つからない。

 確認を終えて、尾崎と広瀬はリビングダイニングに戻った。

「特に気になるものはありませんね」広瀬が言った。「ざっと見ただけなので、何か見落としているかもしれませんが」

「今の時点で何か見つけようってのは難しいだろうさ。なあ、塩谷」

「まあ、その何かを見つけるために、予備班がいるわけですからね。彼らの仕事を奪っちゃ申し訳ないですよ」

「おまえは幹部に向いてるよ」佐藤は苦笑いを浮かべた。「手の空いている人間が出ないよう、しっかり仕事を割り振ろうってわけだな」

 佐藤と塩谷はテーブルに広げたメモなどの借用品を、紙バッグに戻し始めた。

 その間に、尾崎はもう一度部屋の中を見回す。

 食器棚のそばに広瀬が立っていた。彼女は壁に掛けられたカレンダーを見つめている。

「どうした。何か気になるのか?」

 声をかけながら、尾崎は近づいていった。

 広瀬はゆっくりとこちらを振り返った。右手でカレンダーを指し示している。

「メモが残されています。一般に、カレンダーに書かれていることには重要な意味があると思うんですが……」

「手島さんの行動予定じゃないか?」尾崎は佐藤のほうを向いた。「佐藤さん、これ、写真撮りました?」

「ああ、撮影してある。先月までのページは破り取られていて、残っていなかった。そして来月以降には何も書き込みがない。それもあとで予備班に調べてもらうつもりだ」

 尾崎は広瀬とともに、今月のカレンダーをじっと見つめた。

 午後の時間帯に書かれているのは、クマダ運輸の仕事の予定だろう。そのほか週に何回か、夜の時間帯にメモがある。たとえば先週の月曜のところには《19、シンヨウA、ババ》、木曜のところには《20、シンヨウA、ババ》とある。

「月曜は十九時にシンヨウAという場所に行ったんだろうか。たとえば、そこで馬場という人と待ち合わせをした、とか?」

「ちょっと待ってください」

 広瀬がバッグからスマホを取り出した。彼女はネット検索をしていたようだが、やがて顔を上げて報告してくれた。

「いくつか候補がありますが、可能性が高いのは『新陽エージェンシー』という会社だと思います」

「何か理由があるのか?」

「新陽エージェンシーの業務内容には、小口の配達業務があります。それともうひとつ。この会社の所在地は高田馬場です」

 なるほど、と尾崎はうなずいた。「ババ」は高田馬場だったということか。どうやら、広瀬の意見には信憑性がありそうだ。

「ウェブサイトはこれです」

「見せてくれ」

 彼女の横に並んで、一緒に液晶画面を覗き込んだ。新陽エージェンシーはイベントの企画、運営などを行う会社らしい。ほかに小口の配達業務や、人材派遣なども手掛けているらしかった。

「高田馬場のどこだ?」

「それはですね……」広瀬は指先で画面をスクロールする。「地図がありました。駅からすぐです。徒歩五分くらいかと思います」

「たぶん俺たちが一番乗りだな。すぐに行ってみよう」

「わかりました」

 尾崎は鞄を手に取り、玄関に向かった。スマホをしまって広瀬もついてくる。

 靴を履きながら、尾崎は室内に呼びかけた。

「佐藤さん、ありがとうございました。助かりました」

「尾崎、気をつけろよ」佐藤は顔を曇らせて言った。「どう見てもこの事件の犯人はまともな奴じゃない。おまえの行動力は認めるが、今回はいつもの調子で突っ走らないほうがいい」

「了解です。あとでまた連絡します」

 尾崎は素早く五〇一号室を出た。それから、広瀬とともにエレベーターホールへと急いだ。

※ 次回は、3/19(火)更新予定です。

見出し画像デザイン 高原真吾(TAAP)