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私だけのオアシス――李琴峰「日本語からの祝福、日本語への祝福」第4回

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台湾出身の芥川賞作家・ことさんによる日本語との出会い、その魅力、習得の過程などが綴られるエッセイです。

第4回 私だけのオアシス


 物心ついた時から日本のアニメや漫画、ゲームが身近にあったとはいえ、日本語を勉強してみようという発想は特になかった。それは考えれば当たり前のことで、中華料理が好きな人なら誰でも中国語に興味を抱くわけではないし、オペラをたしなむ人はみなイタリア語を身につけたいと思うわけでもない。第一、観ていたのは日本のアニメだけではなかった。ディズニーの『ガーゴイルズ』や、カートゥーンネットワークの『デクスターズラボ』、MGMの『トムとジェリー』も好んで観ていた。子供時代の私にとって日本もアメリカもテレビの中にしか存在しない幻想の世界であり、日本語もまたアニメやゲームの中でしか使われないファンタジックな言語だった。

 本気で日本語を学び始めたのは中学二年生の時だった。きっかけは特にない。ある日突然、日本語やってみたいかも、と脈絡もなく思ったのだ。そう、単なるまぐれである。

 後になって、私は様々な日本語学習者に会った。教師として日本語を教えたこともあった。多くの学習者は明確な動機と目的意識を持って日本語に取り組んでいた。日本に留学したい人や日系企業に就職したい人、アニメを日本語で観たい人。中にはたまたま日本語学科に入ったから仕方なくやっている人(つまり単位の確保と卒業が目的)もいた。


 私はそうではない。日本語は必修科目でもなければ、高校入試でも役に立たない。留学や就職など遠い未来のことなんて当然考えもしなかった。

 一般的に、明確な学習目的があった方が、到達目標も学習方法も定まりやすい。留学が目的であればレポートや学術論文の書き方を身につけた方がいいだろうし、就職したいのならビジネスシーンでのコミュニケーションに慣れておくに越したことはない。ただ日本語能力試験に合格したいだけなら、過去問を大量にこなして傾向を掴(つか)んでおくのが定石だ。目標が分かれば自ずと適切な教材や時間配分が決まり、効率的な学習計画が立てられる。

 私はなんら目的意識も持っていなかったし、到達目標も学習計画も立てなかった。しかし結果的に、それでよかったと思う。

 目的地がないからこそ、たくさん回り道をして道中の風景を楽しむことができた。到達目標を設定しなかったからこそ、いつまでも現状に満足せず、誰よりも高みを目指そうと思えた。決まった教材がないからこそ、何でも教材になり得た。明確な目的意識を持って語学に取り組む人にとって、「言語は道具に過ぎない」というじょうとう句はしっくり来るだろう。この人たちにとって、日本語は目的(留学、就職、資格取得など)を達成するための手段と道具にしか思えないのかもしれない。
 私は違う。私にとって日本語は道具ではなく、目的そのものなのだ。

 当時、私は台湾の田舎の公立中学校に通っていた。あの中学校は極めて閉鎖的な環境だった。進学至上主義が横行し、スパルタ教育が施され、体罰やどうかつが日常的に行われていた。名門高校に進学する人数を増やすために、学校側はとことん非人道的な方法を採用していた。一年生のうちから朝七時登校、午後五時半下校、二年生からは土曜も授業があり、三年生にもなると日曜も学校に行かされ、平日の夜も学校に残って自習しなければならない。模擬試験から定期考査や小テストなど、ほぼ毎日何かしら試験があり、多い時は週に五十回も点数をつけられる。それらの点数は毎週集計され、最上位から最下位まできっちり順位をつけられ、成績表に記載される。受験に役に立たないとされる科目(音楽、美術、家庭、学活など)はほとんど行われず、その時間は国語や英語、数学、理科に充てられた。

 そんな高圧的な環境に置かれた私は逃げ道を渇望していたに違いない。テストで順位が下がったり点数を落としたり、掌を叩(たた)かれたりする恐怖(痛いのが怖いというより、みんなの前で叩かれるのが屈辱的だった)に怯える日々の中で、日本語は私だけのオアシスだった。私だけが存在を許される世界だった。平仮名と片仮名を書いている時は、自分にしか分からない、誰にもばれることのない暗号を綴っているような気持ちになった。

 実際、日本語ができる人は周りに誰もいなかった。それどころか、田舎なので日本語学校はなく、日本語教師もいなかった。日本語を勉強するには独学しかない。お金はあまりない(親はお小遣いを滅多にくれなかった)ので本を買うのも勿体(もっ たい)ない。幸い、既にインターネットはあった。検索すると「五十音表」なるものが見つかったので、それをWordで形を整えてプリントアウトした。

 そして、はたと戸惑った。「五十音」というのに、何やら五十個じゃないらしい。数えたら、四十六個しかない。何故か括弧つきになっている「ゐ/ヰ」と「ゑ/ヱ」を勘定に入れても、四十八個。とはいえ、「ヴぁ」行まで足すと五十三になり、逆に多過ぎる。濁音や半濁音を入れるとなおさら収拾がつかない。どうしたって五十にはならない。ひょっとしたら何か抜けているのではないだろうか。実際、五十音表の下の方はところどころ空欄になっている箇所がある。「わ行」の「う段」や、「や行」の「い段」が空欄なのは分かる。「wu」と「yi」は、発音は「u」と「i」と同じだからだろう。しかし「ye」と「e」は音が違うから、「や行」の「え段」は文字が入ってもいいはずだ。覚えるなら全て網羅したい。完璧主義の性分なのでそう考えずにはいられなかった。当然ながら、いくら検索しても出てこなかった。


 数の問題はいいとして、とりあえずあるものから覚えることにした。曲線が多く形も複雑で書きづらそうな平仮名より、直線的な片仮名の方が覚えやすそうなのでこちらから取り掛かった。そしてすぐにとあることに気付いた――ポケモンの名前は、全て片仮名なのだ。

 試しに、有名なポケモンの名前を五十音表を対照しながら発音してみた。「ピ」は「pi」、「カ」は「ka」、「チ」は「chi」、「ユ」は「yu」、「ウ」は「u」――pi、ka、chi、yu、u、繋げて読むと「ピカチュウ」、中国語の名前「皮(ピー)卡(カー)丘(チョウ)」と発音がそっくりだ。それまで意味も読みも分からず、暗号にしか見えなかった異国の文字が初めて具体的な響きと結びつき、私は感動を覚えた。次に、「サ→sa」、「ン→n」、「ダ→da」、「ー→長音」――「sanda-」、これは英語の「thunder」、雷という意味だ! 同じように、「ファイヤー」は「fire」、「フリーザー」は「freezer」、「ミュウツー」は「mewtwo」、「カイリュー」は「クァイロン」――このように、中国語や英語を手がかりに、ポケモンの名前と結び付ける形で片仮名を覚えていった。先生がおらず一人で見よう見まねで練習していたので、「ン」と「ソ」、「シ」と「ツ」の違いが分からず苦労した記憶がある。

 仮名文字をいくつか覚えていくうちに、また新たな発見があった――どうやら同じ文字であれば、どこで現れても発音は同じらしい。
 これは決して当たり前のことではない。英語を考えてみるといい。同じ「o」でも「note /nóut/」と「dot /dát/」は発音が違うし、「ice /a´is/」と「pig /píɡ/」の「i」も異なる。単語の語尾が「e」の場合、直前の母音はアルファベットのまま発音する(例えば「i」は/a´i/)という法則があるかと思えば、「Jesus Christ」の「Christ」は「e」がないのに/kríst/ではなく/kra´ist/と読む。更に、「h-」の発音は「sh-」「ch-」「th-」「gh-」「rh-」とは違うし、「k-」の発音も単独の時と「sk-」の時とは違う。「gh」は「ghost」の時は/ɡóust/と読むのに「laugh」の時は/lǽf/になり、「slaughter」に至ってはそれこそ幽霊ゴーストみたいにすっと消えて発音されなくなる。英語を勉強したことがある人なら、発音の例外の多さに一度は挫折したのではないだろうか。一つの英単語に出合ったとき発音記号を見なければ、その単語を正しく発音できないことが多い。


 中国語でも同じようなことがある。現代中国語ではほとんどの漢字は読みが一種類しかないが、例外もある。「數(数)」という漢字は名詞として使う時(人數、數量)は声調が第四声の「shù」と読むが、「數人頭(人数を数える)」のように動詞として使う場合は第三声の「shǔ」になる。したがって「數數(数を数える)」という語では、一つ目の「數」は動詞で二つ目の「數」は名詞だから、「shǔ shù」になる。副詞の用法もあり、「何度も、頻繁に」という意味だが、この場合は「shù」でも「shǔ」でもなく「shuò」になる。ほかにも、「解」は普通「jiě」と読むが、名字として使う時は「xiè」になる。「龜(亀)」は普通「guī」と読むが、「龜茲(、かつて中央アジアに存在した都市国家)」のような固有名詞では「qiū」になる。


 日本語の仮名文字は例外がほとんどない。学習者にとってそれは大きな朗報である。それはつまり、五十音さえ覚えれば、たとえ意味が分からなくても、(漢字はルビが必要だが)どんな歌も歌えるし、どんな文章も(多少聞き苦しくとも)音読できるということだ。

 もう一つ朗報がある。中国語や英語と比べ、日本語の発音は実に単純だ。母音の数は「あ、い、う、え、お」の、僅か五つしかない。英語のように/i/と/iː/と/ɪ/といった紛らわしい音や、/ʌ/、/ə/、/ɔ/といった捉えどころのない中途半端な音もない。加えて、日本語のほとんどの音は「子音+母音」の組み合わせだ。「こ」は「k+o」、「と」は「t+o」という具合に。英語みたいに舌が絡まりそうな二重子音や三重子音(bring、spring、strength、strict)もない。英語の歌を歌う時は往々にして音節と音節の切れ目が分からず、メロディに歌詞を当てはめる作業に苦労するが、日本語の場合はそんな悩みもなく、歌詞が手元にあって、メロディさえ記憶していれば割とどんな歌でも歌えてしまう。

 片仮名をある程度覚えたら、今度は平仮名に取り掛かる。平仮名はインターネットから好きなアニメソングの動画をダウンロードし、歌いながら覚えた。
 当時はまだWindows XPの時代で、パソコンは今みたいに多言語対応ではなく、中国語版のオペレーション・システムのユーザーは日本語のウェブサイトを閲覧することができなかった(文字化けか欠字になる)。日本語のサイトを閲覧するためには、「Unicode補完計画」というソフトをインストールする必要があった。

 閲覧はできるようになったものの、文字を入力することができない。そこで「桜花入力システム」という入力システムをインストールした。これは台湾人が作った日本語の入力システムで、外字を作成する要領で平仮名と片仮名をパソコンに追加し、キーボードから入力できるようにするものだ。入力できるようになったはいいが、効率が悪い。桜花入力システムは今のMicrosoft IMEほど便利なものではなく、入力する文字を一文字ずつ選択しなければならない。そして漢字変換機能もない。

 例えば「五つ数えれば三日月が」という文字列を入力しようとする時は、まず中国語の入力システムで漢字「五數三日月(日本語の漢字に変換できないので全て繁体字になる)」を入力しておく。そして「桜花」に切り替え、「t+s+u」と打って、スペースキーを押し、出てきた「つ/っ/ツ/ッ」の選択肢の中から「つ」を選ぶ。そして「e」と打って、スペースキーを押し、「え/エ」から「え」を選ぶ――という具合に、日本語を入力するのは大変面倒くさい作業だった。

 平仮名を覚えるために、私はアニメソングの動画の下に表示される日本語の歌詞を見て、それを一文字一文字、五十音表を参照しながらWordに入力していった。仮名を覚えるのが目的なので全部仮名打ちにし、漢字があるところはその下の行に漢字を付記する。そして三行目にローマ字表記も添える。全部入力し終わったらそれをプリントアウトし、何度も繰り返し歌った。

 日本語の曲を歌うのがすぐに癖になった。仮名文字の響きをメロディに乗せて歌う行為は、得も言われぬ快感と満足感をもたらした。一音一音が一つの漢字に結び付き、何らかの具体的な意味を表している中国語の音の重さとは異なり、日本語の音は実に軽やかで、ぴょこぴょこ跳ねているように感じられた。歌っている時は甘酸っぱい飴玉を舌の上で転がしているようでとても心地よく、ちょっとした舌の運動になった。まだ単語や文法の知識がなく、文節や文の区切りも分からず、アクセントやイントネーションのつけ方も習得していなかったので文章を正しく音読するのは難しいが、歌の場合、そんなことは考えなくてもよかった。五十音さえ発音できれば、メロディに乗せるとそれなりに様になった。何より、かつてはアニメの中でしか耳にできなかったファンタジックな言語を、自分が確かに操っているという手応え、それはもんに満ちた現実とは異なる、夢の世界への扉のように感じられた。日本語の歌を口ずさむと、無味乾燥な数式や地理学用語、そしてきょうべんを振り回している教師から一時的に離れ、色鮮やかな異世界へ逃げ込むことができる。その世界には魔法があり、青空にかかる虹があり、胸が躍る冒険の旅があり、きらめく都会のネオンの群れがあり、雄大な自然があった。何曲も学習用の歌詞を作り、繰り返し歌っているうちに、五十音はごく自然と頭に入った。

 多くの日本語学習者にとって、五十音は最初に立ちはだかる難関だろう。もちろん五十音を身につけたところでそれは入門に過ぎず、その後も動詞の活用や敬語など、待ち受けている難関はいくらでもある。しかし五十音を覚えなければ何も始まらない。そして、どうしても五十音を覚えられず、初っぱなからくじけてしまう学習者も数多く見てきた。それもそのはず、新しい文字を百個近くも覚えなければならないのだから、決して簡単なことではない。「れ/わ/ね」「め/ぬ」「る/ろ」「あ/お」など、紛らわしい文字もいくつかある。「ふ」は「ふ」というふうに真ん中を繋げて書くのが正しいか、それとも「ふ」のように二つの点に分けるのが正しいか。「そ」は「そ」と書くべきか、それとも「そ【一画目を点にする書き方】」と書くべきか――日本語母語話者なら「どちらでもいい」と即答するような事柄でも、学習者にとっては困惑の種だ。


 私の場合、好きなアニメソングを歌いながら覚えたので、時間はだいぶかかったものの(五十音を覚えるだけで数か月)、大して苦痛もなくこの最初の関門を潜り抜けた。当時手入力で作成した学習用の歌詞を改めて読んでみると、もちろん間違いも多かった。平仮名の「り」と片仮名の「リ」を間違えたり(「り」はフォントによっては本当に「リ」に似ているから)、濁音と半濁音を混同したり(動画の画質が粗く、歌詞のルビがよく見えなかったから)する箇所がいくつもあった。しかしあの時、私は本当に心から楽しんでいた。

 学校や職場での必要性に迫られ無理やり日本語をやらされ、「二週間以内に五十音を暗記」「一年以内にN4合格」といった目標に追われて四苦八苦している学習者を見ると、いつも可哀想だと思う。そんなやり方では、語学は単なるコースの決まった、時間制限付きの短距離走に過ぎない。スタートラインからゴールまでが一直線で、実に味気ない。言葉の美しさを味わう余裕もなければ、語学の楽しさを堪能する気持ちにもなれないだろう。私の場合、効率性を度外視していたからこそ、日本語という壮大な野原を物見遊山気分で散策することができた。

「好きこそものの上手なれ」ということわざがあるが、まさしく至言である。

 中学二年生の時に、私は二つのことを始めた。日本語を勉強し始めたのと、小説(の習作のようなもの)を書き始めたのだ。どちらも私のその後の人生に大きな影響を与えた。「日本語やってみよう」「小説書いてみよう」というあの時の気紛れがなければ、今の私は全く別の人生を歩んでいたのかもしれない。

 中学二年生の頃、思春期に入るのに伴って自意識が覚醒し、表現欲を持て余し、現実世界への不満が溜まって「ここではないどこか」へ逃げることを夢想する一連の症候を「中二病」と呼ぶらしいが、思えばあの時の私はまさしく中二病の真っ只中だった。日本語も小説も私だけのオアシスで、乾き切った現実から私を「ここではないどこか」へ導いてくれるみちしるべだった。

 そして振り返ってみると、あの道標に従って歩み出した私は、本当に遠く遠くへ来てしまったのだ。

※毎月1日に最新回を公開予定です。


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