麻見和史『殺意の輪郭 猟奇殺人捜査ファイル』第2回
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自分の進路について、尾崎は母親とは何も相談してこなかった。
だから尾崎が大学二年のとき、将来は警察官になるつもりだと話すと、母親はひどく驚いたようだった。
「あんた、そんなことを考えていたの」母親はまばたきをしながら尋ねてきた。「やっぱり、うちの家計のせい?」
尾崎が大学一年のときに父が他界し、母はパートの仕事でだいぶ苦労をしていた。大学の学費は奨学金でまかなえたが、尾崎も積極的にアルバイトをして家計を助けていたのだった。
「それもある。でも、それだけじゃないよ」尾崎は言った。「なんていうか……世の中全体への憤りみたいなものがあって」
「もしかして、けいちゃんのことを気にしているの?」
けいちゃんというのは母の姉の長女、つまり尾崎のいとこに当たる女性で、山城啓子というのが本名だ。尾崎よりふたつ年下で、子供のころから法事などで会うことがあった。ひとりっ子だった自分にとって、啓子は仲のいい妹のような存在だった。
その啓子が高校二年生のとき、傷害事件に巻き込まれたのだ。
学校の帰り、商店街を歩いているとき見知らぬ男に刃物で切りつけられた。幸い命に別状はなかったが、啓子の左腕には傷痕が残ってしまった。
警察はすぐに捜査を開始してくれた。防犯カメラの映像から、およその身長や衣服の特徴はわかったものの、男の正体を突き止めるには至らなかった、結局、事件は未解決のままとなってしまった。
のちにまた法事で再会したとき、啓子は明るく振る舞っていたようだが、何かの弾みに親戚の高齢者たちから事件の話が出た。大変だったねえ、と啓子に話しかける者もいた。彼女はトイレに行くと言って部屋を出ていったが、実は廊下でしゃがみ込んでいたのだ。痛むわけではないだろう。だが彼女は衣服の下の傷を、右手でさすっていた。何年経っても、通り魔に襲われた恐怖は癒えることがなかったらしい。
「もしかしてあんた、警察官になって犯人を捜すつもり?」
母親はそう尋ねてきた。まさか、と言って尾崎は首を左右に振った。
「もう時間が経っているし、無理だと思うよ。……でも、そうだね。チャンスはあるかもな。それに、けいちゃんを傷つけた犯人は見つからないとしても、ほかの犯罪者を捕まえることはできる」
「正義感に目覚めたってこと?」
「まあ、そう思ってもらってかまわないよ」
母との間に、そんなやりとりがあったのを覚えている。
決心したとおり、尾崎は大学を卒業したあと警視庁に入庁した。そして今では深川署の刑事課で働いている。当初は啓子を傷つけた犯人を見つけられるかも、とわずかな期待を持っていたが、それは現在も実現できていない。尾崎はずっと仕事に忙殺されていた。
そして今、これまでに経験したことのない凄惨な殺人事件が発生したのだった。
深川警察署に捜査本部が設置された。
所轄署は捜査一課のメンバーを迎え入れるため、さまざまな準備をしなければならない。まずは場所の確保だ。講堂に長机やホワイトボード、パソコンなどが運び込まれ、セミナールームのような体裁が整えられた。こういう作業は担当部署に任せておけばいいようなものだが、同じ署員なのだから放っておくわけにもいかない。尾崎や広瀬も、机のセッティングなどを手伝った。
ばたばたと準備を済ませ、捜査会議が始まったのは午前十時のことだった。
セミナーでいえば講師が座る場所、前方にある長机に、深川署の署長や刑事課長が着席している。その横にいるのは、桜田門の警視庁本部からやってきた捜査一課の係長だ。以前、ある事件で尾崎は彼と同じ捜査本部に所属したことがあった。
捜査一課五係の片岡史郎係長は、椅子から腰を上げた。
「時間だな? では、捜査会議を始めよう」
片岡は几帳面にネクタイの結び目を直しながら言った。以前から水玉模様を好む人で、今日も臙脂色の生地に白い水玉が散らばったネクタイだ。片岡はたしか現在四十八歳。長年強行犯事件を担当し、今では殺人事件の捜査本部を指揮する立場にある。
「捜査一課五係の片岡だ。本件捜査の指揮を執る。以後よろしく」咳払いをしたあと、彼は手元の資料をめくった。「本捜査本部では、深川警察署管内にて発生した廃アパートにおける男性の殺害・死体遺棄事件を担当する。すでに聞いている者もいるだろうが、現場の状況がかなり異様だ。難しい捜査になるかもしれん」
尾崎も片岡も同じ「係長」なのだが、所轄と本部では階級が違う。所轄の係長は警部補で、担当者として捜査をする立場だ。一方、本部の係長は警部で、ひとつの係を指揮する立場にある。この捜査本部では、尾崎たちは片岡からの命令で動くことになるのだ。
署長や刑事課の課長、その他の幹部たちを紹介したあと、片岡は捜査員たちをゆっくりと見回した。
「では事件の概要からだな。機捜はいるか?」
はい、と答えて機動捜査隊の隊長が立ち上がった。彼はメモ帳を見ながら捜査の報告を行った。
「本日午前六時五十分ごろ、一一〇番通報がありました。江東区三好二丁目の空き家になったアパートで、誰かが死んでいるというもの。庭に埋められている、ということでした。これを受けて警察官が駆けつけたところ、裏庭に土を掘って埋め戻した形跡があり、地面からシュノーケルの先端が出ていました。また、近くに長さ三メートルほどの鎖が落ちていました」
「シュノーケルというのは、水に潜るとき使うものだな?」
片岡が尋ねた。そうです、と機捜の隊長は答える。
「配付された資料に写真が載っていますが、こういう、一般によく使われているタイプのシュノーケルです。地面を少し掘ってみたところ顔が見えて、男性が埋められているのがわかりました。それで警察官は応援を求めたという次第です」
「では、遺体の状態について説明を」
本部の鑑識課員や所轄の鑑識係員たちに向かって、片岡は言った。本部鑑識の主任が立ち上がる。
「現在わかっていることをお伝えします。被害者の頭部には打撲痕がありました。両手、両脚がそれぞれワイヤーで縛られており、被害者は溺死していました。推測されるのは以下のことです。犯人は被害者を鈍器などで殴打して昏倒させた。その間に両手、両脚をワイヤーで縛り、被害者を地面に埋めた。このときシュノーケルを口にくわえさせたんでしょう」
「被害者に意識はあったのか、なかったのか」
片岡に問われて、鑑識の主任は少し考える表情になった。やがて何かに気づいたようだ。
「……ああ、そうですね。途中で、被害者は意識を取り戻した可能性が高いと思われます。昏倒したままでは、シュノーケルをくわえさせることができなかったはずですから」
「そういうことだな」
片岡はうなずいたあと、鑑識から説明を引き継いだ。
「そこから先はこう推測される。……被害者は意識を取り戻したが、すでに身動きできない状態になっていて、そのまま埋められてしまった。シュノーケルでしばらくは呼吸ができていただろう。しかしあるタイミングで犯人は水を使った。現場の水道は止められていたから、おそらく自分で持ってきたものだ。犯人はシュノーケルの先端から水を流し入れた。そして地面の下にいる被害者を溺死させた……」
隣で広瀬が身じろぎするのがわかった。殺害の様子を思い浮かべたのだろう。
尾崎は資料に目を落としたまま、口を引き結んだ。頭に浮かんできたのは、拷問という言葉だ。
被害者にとって、地面に埋められるというだけでも大変な恐怖だったに違いない。体には土の重みがかかり、ただでさえ苦しい状態だ。辺りは真っ暗で、耳に届いてくる音もない。いや、自分の心臓の鼓動だけは聞こえていただろうか。外界と繋がっているのは唯一、口にくわえた細い筒だけだ。かろうじて彼は息をすることができていた。
だがそこへ突然、水が注ぎ込まれたのだ。呼吸ができなくなり、彼は咳き込んだはずだ。進入してくる液体。それを吐き出そうとする被害者。だがそんな抵抗も虚しく、水は気管から肺へと流れ込んでいく。
ごぼ。ごぼり。
近づいてくる死。どうにかして逃れたい。だが彼は手も脚も、首さえも動かすことができなかったことだろう。
土の下で溺れ死ぬ理不尽さ、苦しさを尾崎は想像した。体が震えるような不快感があった。殺人犯への憤りで、気分が悪くなってくる。
「ところでこの被害者だが……」片岡が言った。「ポケットにメモがあり、つい先ほど身元が特定できた。手島恭介、四十歳、運送業者。詳しくはこれから調べるが、全員、この名前を頭に入れておいてもらいたい」
片岡は被害者の名前をホワイトボードに書いた。捜査員たちはみな自分のメモ帳にそれを書き写す。
「現場の周辺について聞こうか」片岡は資料のページをめくった。「このアパートの裏……東側はどこかの会社の倉庫なのか?」
「そうです」機捜から返事があった。「また、北側は工事中の民家で、夜間は誰もいません。西側には庭木があり、外から見えにくくなっています」
「とはいえ、殺害してから長時間穴を掘るのはリスクが高い。犯人は事前に穴を掘っておいたんだろう。シャベルなどの道具類は車で運んできて、作業後に持ち帰ったと考えるのが自然だな。……現場付近で目撃情報は?」
「今のところはありません。引き続き情報収集を進めます」
「死後硬直が起こっていたことから、殺害されたのは昨夜だと考えられるな。まあ、これは解剖の結果待ちだ」
そうですね、と答えて機捜の隊長は頭を下げ、元どおり椅子に腰掛けた。
片岡はしばらく手元の資料を確認していたが、やがて顔を上げた。
「ここまでで、何か疑問に感じたことはないか?」
彼は捜査員たちの顔を、左から右へと順番に見ていく。
沈黙を破って、加治山班長が「はい」と手を挙げた。片岡は軽くうなずく。
「深川署の加治山さんか。久しぶりだな。……意見をどうぞ」
加治山は立ち上がり、一礼してから口を開いた。
「警察官が駆けつけたとき、そこに通報者はいなかったんでしょうか」
「いなかった。現場には見当たらなかったそうだ」
「だとすると、ひとつわからないことがあります」加治山は小さく首をかしげた。「通報者はどうやって遺体に気づいたんでしょうか。もともと外からは見えにくい場所だったはずですし、もし覗き込んだとしても、鎖が見えたぐらいでしょう。仮に地面から出ているシュノーケルに気づいたとしても、それだけで事件だとは言えないんじゃないでしょうか」
たしかに、と尾崎は思った。そんな状況で遺体があるとわかったのはなぜなのか。
「いい意見だ。俺もそのことが気になっていた」と片岡。
「可能性はふたつですね」加治山は続けた。「ひとつは、何か理由があって敷地内に入った者が鎖とシュノーケルを見つけ、遺体を発見したという可能性。しかし顔は土の下だったわけですから、そこに遺体があると気づくのは難しいはずです。……となると、もうひとつの可能性です。通報したのは犯人自身だったのでは?」
加治山の意見を聞いて、片岡は深くうなずいた。
「おそらく後者だろうな。犯人自身が通報した可能性が高い」
「理由が気になりますね」
「ああ。今後の捜査で、その点も明らかにする必要がある」
概要説明が終わると、片岡は別の資料を手に取った。
彼は刑事たちの名前を読み上げ、捜査の組分けを発表していった。片岡は捜査員ひとりひとりに声をかけていく。
「それから深川署刑事課、加治山班。……加治山さん、さっきはどうも。よろしく頼みます」
「全力を尽くします」
「捜査一課とコンビを組むのは菊池班のメンバーだ。人数の関係で、加治山さんたちは所轄同士でコンビになってもらう。……加治山さんと組むのは矢部巡査だな。しっかり頼む」
「承知しました!」
スポーツ刈りの刑事が素早く立ち上がった。尾崎の後輩、三十歳の矢部耕太だ。高校、大学と陸上競技をやっていたそうで、深川署刑事課の中では一番足が速いと言われている。
挨拶を終えて椅子に戻るとき、矢部は尾崎のほうに会釈をした。つい先日まで彼は尾崎の相棒だったのだ。だが班長の意向により、今日から組替えとなった。矢部は、今まで単独行動していた加治山班長と組むことになる。
「次に尾崎警部補と広瀬巡査部長」
片岡に呼ばれて、尾崎たちは椅子から立った。
「尾崎、元気だったか。前にも捜査に加わってもらったよな」
そう話しかけられて尾崎は驚いた。たしかに同じ捜査本部にはいたのだが、片岡が自分のような、いち捜査員を覚えているとは思わなかったのだ。
「その節はお世話になりました」尾崎は目礼をする。
「今回もしっかりな。……それから、ああ、広瀬か。おまえ深川署に来ていたのか」
おや、と尾崎は思った。彼女もまた片岡と面識があるらしい。
「昨年五月十八日発生の事件以来ですね。ご指導よろしくお願いします」
硬い口調で広瀬は挨拶し、深く頭を下げた。スタイルのいい彼女が礼をすると、さまになる。百貨店の女性店員か、旅客機のキャビンアテンダントのようだ。
彼女に合わせて尾崎も頭を下げた。よろしくな、と言って片岡はうなずいている。
全員が何かしら、片岡から声をかけられる形になった。その結果、片岡との心理的な距離が縮まったという雰囲気がある。
捜査員の組分けが終わると、片岡は再びみなを見回した。
「地取り班は現場周辺で情報収集を急いでくれ。証拠品捜査班は再度、現場の確認を。鑑取り班は被害者の知人などに聞き込みをするように。夜の会議は二十時からとする。特別な理由がない限り、会議には全員出席してほしい。以上だ」
号令がかかり、捜査員たちは立ち上がった。全員で礼をして、最初の捜査会議は終了となった。
※ 次回は、3/12(火)更新予定です。
見出し画像デザイン 高原真吾(TAAP)