北尾トロ『佐伯泰英山脈登頂記』第12回
第5峰『新・酔いどれ小籐次』其の弐
終盤の大盛り上がりと誰も予想できないラスト以降
小籐次はなぜ飽きないのか。高値安定の構造を考える
すっかり軌道に乗っている物語は10巻を超えても激変することなく継続されていく。事件が起きても、旅に出ても、ほころびを見せない。藩を出て自由の身となった小籐次が作り上げた強固な人間関係とライフスタイルは、がっちりと江戸の町に根を下ろし、作者である佐伯泰英でさえ、ちょっとやそっとじゃ崩せないほど強固なものになっている。
家に例えるなら基礎の構造が強い。土台を固める人間関係は以下の3要素だ。
(1) 藩を抜けて以降も忠誠を誓う豊後森藩の藩主・久留島通嘉
下級藩士の子として生まれ、40代後半までそれをあたり前のこととして貧しい生活をしてきた小籐次。藩を離れたこと自体、通嘉が受けた屈辱を晴らすためだった。森藩は財政のゆとりもない小大名。小籐次は頼まれごとを引き受けることはあっても藩に何かしてもらうことはなく、損得勘定をすればマイナスだらけ。だからこそ、何の迷いもなく通嘉のために活動する小籐次が、元藩主との絆を大切にしていることがわかる。
(2) 前シリーズ第1巻で危機を救ったことから小籐次のパトロン的存在となる紙問屋の久慈屋と、久慈屋が大家である長屋の住人
「われらは家族同然の付き合い」というセリフが、小籐次や久慈屋の主の口から何度も出てくる。そういう関係を望み、事実そうなっているのだ。人と人の結びつきの強さは佐伯時代小説がいつも打ち出すポイントでもある。また、老舗である久慈屋の信用と経済力、誠実さも小籐次の活躍を支えている。
(3) 小籐次が思いを寄せ、途中からは相思相愛となって結ばれる妻のおりょう
おりょうは小籐次の夢の象徴として現れ、人柄にほれ込んだおりょうのほうから積極的に迫ってくるというありえない展開で物語にしっかりと座を占める。妻であり、駿太郎を引き取ってからは母となるおりょうは、夜空に浮かぶ月のように家族を見守り、支える。小柄な爺侍なのにめっぽう強いだけでなく、美貌のおりょうが全幅の信頼を寄せているところに、小籐次の人間的な価値が保証されているとも言える。
このように、久留島通嘉が過去、久慈屋と長屋の住人が現在、おりょうが家庭をそれぞれ象徴している。彼らはガチッと固定されたキャラクターだ。
久留島通嘉は小藩とはいえ藩主。全編を通してかなり情けない藩主で切れ者とは言えない。何を考えているのかもいま1つ判然としない。でも、そこがいい。立派過ぎては小籐次の出る幕がないではないか。頼りなくても藩主は藩主。失脚したり、かなり年下の通嘉が非業の最期を迎えることは読者も望んでいない。
久慈屋は老舗で経営が安定しているだけでなく、物語にとって貴重な脇役を多く抱える長屋のオーナー。小籐次は結婚後も部屋を借りっぱなしで、研ぎ仕事の場所に久慈屋の軒先を借りてもいる重要な拠点。作者自身、先手を打つように先代を隠居させて代替わりさせ、久慈屋を不幸が襲わないよう配慮しているように思える。
おりょうも鉄壁だ。歌人として自立し、妻として、養子である駿太郎の母として、ケチのつけようのない人物。おりょうの身に何か起きたら小籐次の夢が根底から破壊されてしまう。
この強力なトライアングルのおかげで、物語をそうそう動かすことができないのだ。
その代わりに活躍する脇役陣も、がんばればがんばるほどトライアングルに吸い込まれる。久慈屋は常に大人のふるまいで面倒見がよく、おりょうは関わる人を片っ端から幸福にさせる女神みたいな人なのだ。読売のホラ蔵も密偵の新吉とおしんのコンビも、崩れない土台の上でのびのびと本領を発揮するので、変化をもたらす人材とはなり得ない。
自然、変化を担うのは駿太郎の役割となる。この息子がよくできた子で、見た目も性格も非の打ち所がなく、剣術のみならず立ち振る舞いから話し方まで隙がないまま急成長する。反抗期くらい経験させてやってくれとリクエストしたくなるほどだ。
ちょっと出来すぎじゃないかと思うのだけれど、親が小籐次とおりょうなのだからやむを得ないのか。実の父を尋常の勝負で斬った小籐次に対する複雑な思いも、佐伯泰英は早々に「なし」としている。すくすくと育つ駿太郎は、読者にとって理想の息子か孫かもしれない。
そんなわけで、中盤までの展開は転覆する恐れのない大船に乗っているような読書の喜びをもたらしてくれるのだ。時の流れもゆったりで、たどりつくのはいつでも愛と友情に満ちた平和。
時計を速く回せば、駿太郎は10歳かそこらで赤子をひねるように悪党たちを撃退する天才少年にならなくても良かったのに、と思うのだが、それはそれで困ることがある。駿太郎の成長は小籐次の老化と同時進行するのだ。どっちを獲るかと言われたら、それは主人公の小籐次になるだろう。
そこで、小籐次の老いについては駿太郎を見つめる目を通じてさりげなく読者に知らせ、周囲の人間が老いを否定するパターンが繰り返される。時間の経過については、長屋の差配である新兵衛のボケが進行する様子を、笑いの要素をふんだんに入れてたびたび描くことで読者に伝わるようになっている。
主役級から脇役まで幅広い登場人物。持ち味や役割もそれぞれで、この人はこうするだろうというのが読者にも予測できる。子どもも年寄りも、男も女も、金持ちも庶民もわんさか出てきて、敵役をのぞけばみんな善人。そんなところが小籐次人気を不動のものにしたのだと思う。
だが、高値安定のおもしろさであっても、同じような日常の繰り返しにはマンネリ感もある。スイスイ読めるのはいいが、引っかかりがなくて退屈になってくる。
長編シリーズもいつかは終わる運命。気の短い私は、いささか不安になってきた。永遠に続けられそうな夢舞台の幕を、佐伯泰英はどうやって閉じようと考えているのだ?
後半を引っ張る新キャラクター。
子次郎こと鼠小僧次郎吉と薫子姫が物語を動かす
きたきた、とうとうきた!
第17巻の巻頭で、私の心は期待でいっぱいになった。この巻のタイトルは『鼠異聞』。しかも、第18巻までの上下2冊を充てている。内容が上下巻に耐えうるものであり、全25巻の終盤に向けて物語を大きく動かす気になったと考えていいだろう。
と、少し読み進めたところで、また私は唸った。
そうか、その手があったか。御大、伝家の宝刀を抜いてきた――。
がっちり固まった物語を動かすには、これまでにない大ピンチか、強固なトライアングルに影響されていない新鮮なキャラクターが必要になる。ここまでの流れから、大ピンチは考えにくいので後者が有力だが、それとて小籐次の夢に沿う形でないと読者に対する訴求力に欠ける。そこで作者は『夏目影二郎始末旅』シリーズで準主役級の働きをした国定忠治のパターンをここで使ってきた。
なんと、鼠小僧次郎吉の投入だ。
リアリティを持たせるため、将軍や大名など歴史上の人物を使うのは時代小説によくあることで、本作では剣術道場の主として千葉周作も姿を見せる。が、佐伯泰英はここ1番で大胆な起用をしてくるのだ。
では、鼠小僧次郎吉とは何者なのか。『日本架空伝承人名事典』(平凡社)によれば、江戸の著名な盗賊で、10年間に99箇所の武家屋敷に忍び込み、やがて捕まって獄門刑に処せられるまでに金3000両余を盗んだと紹介されている。
〈盗金は酒食や遊興、ばくちなどに費やした。(中略)のちに小説、講談、戯曲に義賊として仕立てられ、ますます著名となった〉(同書より)
義賊とは金持ちから奪った金品を困っている人に分け与える盗賊。盗っ人には違いないが、次郎吉は昔から何度も小説のモデルにされ、ただ私腹を肥やすために犯罪をおかした男ではないと美化されて描かれてきた。そんな次郎吉を小籐次に絡ませたら、おもしろい話が作れそうだと作者は考えたのではないだろうか。
このアイデア、ずばり的中したと私は思う。久慈屋の店先で包丁研ぎをしているところへふらりと現れ、懐刀の研ぎを頼む子次郎なる男。本当は世間を騒がせている次郎吉なのだとあっさりと正体が明かされるこの男を警戒しつつ、仕事なのだからと割り切って引き受ける小籐次。ふたりが出会った瞬間からストーリー展開が速度を増し、なだらかな尾根を延々歩いてきた散歩のような山登りが、山頂を目指す険しい崖のぼりコースに変貌していく。
ここで佐伯泰英はもう1ひねり効かせてきた。義賊である次郎吉を活躍させたいが、そうすればするほど、小籐次が鼠小僧を掴まえたところで読者がスカッとしないという問題を、両者が手を結んで別の悪人と闘わせることで解決してしまったのだ。
しかも、鼠小僧次郎吉の名を騙る〝なりすまし犯”を出すことで、元祖・鼠小僧次郎吉(作品内では子次郎の名が使われる)がじつはいいヤツだったという印象を読者に抱かせるのだから巧妙だ。
子次郎は盗っ人なのに正直者。偽物の出現で、いい気になっていた自分を反省し、盗っ人から足を洗うことを決める。といって、おとなしく消え去るのではなく、有能ぶりを発揮して小籐次をサポートする。よくよく考えると子次郎の動機ははっきりしないのだが、そんなことを気にせず読んでいけるのが〝佐伯マジック”だ。
天才少年の駿太郎も一目置くスマートさで、子次郎はみるみる頭角を現す。読者の多くは第18巻『鼠異聞』下巻の半分も読まないうちに、この新キャラクターに魅せられてしまうに違いない。
小籐次ファミリーが総力を結集して救おうとする新たなヒロインも現れる。盲目の姫・薫子だ。汚れなき15歳の少女を手籠めにせんとたくらむ悪党と、阻止に動く小籐次たち。スリリングな場面が次々に訪れ、息もつかせない。
これだよ、このスピード感に飢えていたのだ……。そんな読者の胸の内などお見通しで、第19巻以降もアクセル全開で畳みかける佐伯泰英。駿太郎も14歳になりめでたく元服。新技を編み出して小籐次を驚かせ、代替わりのとき近しと思わせる。このままいなくならないでくれという読者の願いに応え、『鼠異聞』下巻が終わっても子次郎は小籐次や薫子のそばから離れない。
準備万端整い、最後の仕上げは豊後森藩内のいざこざを、九州まで行って片づける大仕事。前シリーズから、物語の通奏低音としてときおり顔を出してきたから、大詰めに山場を持ってくることは想像がついていた。駿太郎と一緒に九州まで行くとは思わなかったけれど、そのこと自体に読者をワクワクさせる要素は少ない。
大丈夫、そこは織り込み済みだ。そうなることを見越し、小籐次には気がかりなことが別に用意されている。わけあって三河に住むようになった薫子姫の今後だ。森藩が抱える難題が解決すればハッピーエンドというわけにはいかないのである。
詳細は読んでもらうしかないのだが、ちょこっと〝宿題”が残されていたのが良かった。敬愛する藩主に忠誠を尽くして終わるのではなく、大仕事をやり遂げ、江戸に戻った小籐次が、気分も新たにいつもの日々に帰還するところで物語は終わるのだ。
袖振り合うも他生の縁。家族とは何か。人と人を結びつけるものは何なのか。思わずそんなことを考えさせられ、わかっていても泣かされるラストシーンだった。前シリーズと合わせて全44巻、酔いどれ小籐次、ここに完結である。
驚愕の続刊発表。完結したシリーズが、突如の復活!
それなのに、あぁそれなのに。
2024年1月、私は信じられないものを見た。新刊『恋か隠居か』が出たのだ。
それはいい。80歳を迎えるころから、佐伯泰英は年齢や体力を考えて大長編シリーズを開始せず、全4巻ほどの小シリーズを手がけるようになったものの、コンスタントに新作を発表している。尽きない創造力と執筆意欲に励まされる読者も多い。
だがしかし、『恋か隠居か』はそういう作品ではなくて、「新・酔いどれ小籐次」シリーズの第26巻として発売された。復活しちゃったのである。
帯にはこんなコピーが踊っている。
〈伊勢まいりが流行する江戸に小籐次が(鼠小僧も?)帰ってきた!〉
おいおい、いったいどうなってるんだ。2022年の夏、感動のフィナーレを迎えたんじゃなかったのか。
思わず手に取ると、あとがきがついている。「300冊『恋か隠居か』刊行の弁と言い訳」と題がつけられた文章は、ひたすら時代小説を書き続けて25年で、出した本が300冊に達したことをまず報告。書き始めたきっかけ、『密命』に人生初の重版がかかったときの編集者との会話などを振り返り、照れくさそうに心境の変化についての事情説明を始める。その部分を引用しよう。
〈さてさて読者諸氏には混乱の極みであろう。「新・酔いどれ小籐次」は、25巻『御留山』で完結しているではないかという指摘を、いやお叱りを受けそうだ。筆者にとって赤目駿太郎は孫のような存在だ。この孫を10代半ばで放り出していいのか。やはり、駿太郎の剣術家としての成長と、そして淡い恋を爺様は書きたくなったのだ。もうしばらくお付き合い下さい〉
これには笑ってしまった。そうか、マジメ少年だった駿太郎に恋をさせたいかぁ。わかりました、させてください。爺様が書きたくなったなら仕方がないのだ。
小籐次は一風変わったヒーローとして、長年にわたり多くのファンに愛されてきた。再開されて喜ぶ人はいても叱る人などいないだろう。
やる気も感じる。書き足りないところを追加するなら外伝として出してもいいし、冊数を決めて新シリーズにすることもできるはず。あえて第26巻とし、駿太郎の剣術家としての成長と淡い恋を書くと宣言したからには、小籐次が1歩退き駿太郎がクローズアップされると想像できる。これまでとは相当、趣が変わってもおかしくない。
たまらず読み始めた。
感動の江戸帰還から早4年。駿太郎は18歳の若武者になり、小籐次は60代後半(年齢が書かれていないがおそらくそのくらいになっている)で酒量も落ち、背丈も縮んでいる。でも、相変わらず赤目家は包丁研ぎを生業とし、家に帰ればおりょうや薫子(赤目家の養女になった)、子次郎まで加わって大きな家族を形成している。久慈屋も読売の空蔵も相変わらず。長屋の部屋で寝泊りするのが駿太郎になったけれど、人間関係はそのままになっている。
変わったといえば、ハードなアクションシーンはもっぱら駿太郎が受け持つようになったことだろうか。確実に駿太郎の時代が来ている。もっとも、小籐次もじっとしてはおらず、得意な竹とんぼ攻撃(百発百中!)はやめない。
淡い恋も「あの娘かな、この娘かな」と幾人かの候補が現れる。相手をほのめかす程度にしているので、恋の始まりは第27巻か。恋の先には結婚が待っていそうだから30巻越えは間違いないところだろう。
このシリーズには読者になじみの脇役がわんさかいるので、彼らがどんな形で再登場するのかも楽しみ。長いシリーズならではの、読者が知っていることを利用した読ませ方を、この先も提供してくれそうである。
考えてみれば『新・酔いどれ小籐次』シリーズは、実質的に『酔いどれ小籐次』シリーズの延長で、ブランク明けの再稼働だった点を除けばけっして新しいものではなかった。この26巻以降こそが、本当の意味での『新・酔いどれ小籐次』といってもいいかもしれない。
〝酔いどれ山”を登り切ったつもりになっていた私だが、ふんどしを締め直し、再噴火した山がどこまで標高を積み上げていくか見届けさせてもらうつもりだ。
※ 次回は、8/3(土)更新予定です。
見出し画像デザイン 高原真吾(TAAP)