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北尾トロ『佐伯泰英山脈登頂記』第7回


第3峰『夏目影二郎始末旅』


血と汗と涙が炸裂する、ハードボイルド股旅ロマン

ダークヒーロー夏目影二郎が関八州の悪を討つ

続編もスピンオフもない全15巻完全燃焼の傑作
 
 遅咲き時代小説家の佐伯泰英が、デビュー作の『密命』に続いて放った長編シリーズが本作『夏目影二郎始末旅』だ。刊行時期は2000年から2014年。当初は日文文庫から発行されたが、途中から版元が変わり、光文社文庫として全15巻で完結している。
 
 まず最初に言っておきたいのが、この作品が佐伯時代小説にあって唯一無二の輝きを放つ作品であることだ。『密命』のヒットで大量のシリーズを矢継ぎ早に開始し、ことごとくヒット。大長編シリーズ化し、続編やスピンオフ作品が発表されるケースも後を絶たなかった。その中で本作は、すべてを出し尽くすかのように最終の第15巻で物語が締めくくられている。読者をうならせる大団円で終わるべくして終わったから、続編の必要がないのだ。
 
 インタビューのたびに「結末を決めずに書き始める」と答えている著者にとっても、『夏目影二郎始末旅』ほど結末がビシッと決まった作品はないのではないだろうか。分量も多すぎず少なすぎずちょうどいい。いや、15巻は十分な読みごたえなのだが、テンポが良くてメリハリが効いているために、緊張感を失うことなく各巻を読み終えてしまうのである。
 
 うまくいった要素として挙げたいのが、タイトルにもあるように旅ものである点。主人公の夏目影二郎は、使命を果たすために関東各地へ旅に出て、終わると江戸にもどってくる。このサイクルの中で巻ごとの使命を果たし、同時に大きな物語を動かしていくのだ。その効果もあって、本作は1巻読み終えた瞬間に次なるミッションを読みたくなる連作シリーズの魅力を放つ。
 
 じゃあ読みやすさ重視で書かれているのか。違う。巻を追うごとに複雑に絡み深まっていく人間関係、地域性を活かした旅の描写、吐く息の白さまで伝わってくる迫力ある剣術シーンなど、読み飛ばすわけにはいかない場面ばかりでダレ場がない。
 
 旅と並ぶキーワードは、『八州狩り』『代官狩り』など巻ごとのタイトルに使われる〝狩り”である。
 
 シリーズタイトルの〝始末”と意味を重ねることで、非情さを強調。このタイトルに似合う主人公は、どこか影のある男でなければならない。人情路線やユーモアあふれる展開は禁じ手だ。そう考えると、著者によるハードボイルド宣言と受け止めてもいいだろう。「やってやるぜ」と佐伯泰英は言っているのである。
 
罪人から一転、父の頼みで関東取締出役の懐刀に

 物語は、初めての始末旅に出た影二郎が、目的地の上州を目前に控え、河原でひげをそるシーンで幕を開ける。端整な顔立ちの若い男がなぜここにいるのか。すかさず差し込まれる回想シーンで、過不足のない説明がなされ、読者がすんなりと物語に入っていける仕掛けだ。
 
 影二郎は罪人だった。わけあって浅草の香具師の元締めを斬り殺したのだ。被害者も悪党だったことから極刑はまぬがれたが、遠島刑を受け、島流しされる日を牢屋で待つ身。その影二郎に同心から声がかかり、牢屋奉行の元へと連行される。しかも、そこには影二郎の父、勘定奉行を務める常磐豊後守秀信がいた。
 
 影二郎は、秀信の妾の子で、父の旧姓である夏目の姓を名乗り侍の子として育てられてきた。8歳から始めた武芸の才能にあふれ、酒・女・博打などの遊びも覚えたが、剣術だけはやめずに続け、18歳で師範と肩を並べる腕前に成長。23歳で道場の跡継ぎにならないかと打診までされたが、そこに秀信の介入を感じた影二郎は誘いを断り、独自の道を歩もうとする。その矢先に賭場でのトラブルから人を殺めてしまったのだ。
 
 そんな息子に、関東取締出役の責任者に任命された父は泣き言をいう。関八州(上野、下野、常陸、上総、下総、安房、武蔵、相模一円)の無宿者や渡世人を取り締まるはずの関東取締出役(通称・八州廻り)の役人たちが権力を乱用、腐敗しきっているが、事務方一筋でやってきた自分にはどうしてよいかわからない。どうか力を貸してくれ、と。
 
 迷った挙句、引き受けることにした影二郎に父はきっぱり宣言する。
 
「そなたの役目は腐敗した八州廻りの大掃除じゃ。役もなければ報酬もない。殺されたとて殺され損じゃ。あるのはこの父との契りだけ」
 
 ちなみに、影二郎の本名は瑛二郎。説明は一切ないけれど、影二郎というのは主人公が自ら使っている名だと推察できる。重大な使命を帯びた影の存在であることを示すとともに、ひそかに罪を免れて堅気の世界に紛れ込んだ〝陰”の意味を併せ持つのだろう。
 
 とはいえ、もともとは善人で父を思う心情もある影二郎の行動は、島送りを逃れたいがためではなく、父である秀信の窮状を救うためであるのがミソ。荒れた生活のせいで気持はすさんでいるものの、自分にしかできない役割にやりがいを感じる影二郎は、裏仕事を請け負う、殺人犯だが根っからの悪党ではないヒーローとして読者の前に姿を現すのだ。
 
幕府や藩の存在感がきわめて薄い理由

 特殊な任務を帯びた男が江戸の町でひっそりと暮らすといえば『密命』もそれに近かった。しかし、両者には決定的な違いがある。『密命』の主人公は藩主との深い関係を持ち、中盤以降は将軍とも懇意になって頼られていく。型破りの行動を取るため忘れがちになるが、あくまでも武士的な生き方にこだわり、剣術を極める気持ちもそこから。ギリギリの綱渡りをしながら、物語が破綻しないのもそのためだったりする。
 
 ところが『夏目影二郎始末旅』の主人公は完全なアウトロー。もともと藩に属さないので、使命を果たすために脱藩し、陰から藩主のために働く人間ではない。将軍への忠誠心も強くない(ほとんど描かれない)。
 
 あるのは父との関係のみ。関八州の不良役人たちを一掃する使命を知るのは父と、サポート役として父がつけてくれる男女の隠密で、裏稼業もいいところだ。父からはときどき小判が届くが、必要経費に消えてしまい金も残らない。
 
 じゃあ、最初のうちは弱そうだった親子の絆が、だんだん強くなっていくのだろうか。
 
 ネタバレになってしまうけれど書いてしまおう。絆、たいして強くはならないのだ。いかんせん、父の秀信の影が薄いのである。息子をどこまで愛しているかもはっきりしない。そして、それがいい。親子関係を際立たせないことで余分な湿気が排除され、影二郎はより自由に動けるようになったのだ。おかげでときどき、影二郎が何のためにがんばっているのかわからなくなったりもするのだが……。
 
 命を懸けても守りたいものはない。なにがなんでも遠島の罪を逃れたかったわけでもない。正義感のかたまりでもない。もちろん血に飢えた殺人鬼でもない。積極的な動機はないのだけれど、困っている父を助けたい気持ちはある。不良役人に苦しめられている民衆を救いたい気持ちもある。命を惜しいとも思わないし、剣の腕も立つ。
 
 影二郎を始末旅に駆り立てたのは、人生の目的がなかったからではないだろうか。偶然与えられた裏稼業をひとつひとつこなしながら、人から求められる喜び、人の役に立つやりがいで、空っぽだった影二郎が満たされてゆく……。
 
 自分はこのように生きたいと決め、目標達成のプランに沿って実績を積み上げていく人など世の中に多くはない。たいていは、行先が定まらなかったり道に迷ったりし、漠然とした不安を抱えて過ごしているものだ。そんなことはどこにも書かれていないけれど、影二郎もそういう人間のひとりだったのではないか。だから、父から与えられた難易度の高いミッションに挑戦する気になったのではないか。自分の仕事が働き次第で関八州の安全を取り戻すきっかけになるならやってみよう、と。
 
 読者にとっても、上司のために骨身を削るより、やりたいからやるという気概で動く主人公のほうが魅力があり、共感しやすい。そうでなければ、いくら強くても、血なまぐさい闘いばかりする影二郎に「負けるな、がんばれ」と声をかけたくはならないだろう。
 
江戸と関八州を行きつ戻りつ、旅とアクションの乱れ撃ち

旅の出会いから脇役が固まっていく

 序盤を軽快なテンポで進めていくのが佐伯作品の特徴だ。ここでものっけから物語の後半でも存在感を発揮する、みよという少女が登場。ピンチを救われた礼に旅の案内役を買って出る。みよはその後も忘れられない程度にちょこちょこ出てきて、後半に重要な働きも。こういう脇役を、じっくり育てていけるのが長編シリーズのいいところだ。
 
 他にも重要人物が第1巻から惜しげもなく出てくる。国定忠治とその手下たちだ。本作には忠治以外にも二宮尊徳や遠山金四郎といった歴史上の人物が登場してくるが、なんといっても江戸後期の侠客として知られる国定忠治の役割が大きい。本名は長岡忠次郎。姓の国定は、上野国国定村が生地だったことに由来する。
 
 忠治は八州廻りのひとりと組み、何かをたくらむ。八州全域ににらみが利き、影二郎の動きにも初期から気づいて偵察。本人ではなく、1の子分である蝮の幸助を監視役としてつける。神出鬼没な幸助は影二郎を攻撃するのではなく、必要な情報を授けてくれたりするので、敵か味方かはっきりしない。
 
 影二郎も、八州の不良役人について詳しく、自身も悪い活動をしているであろう忠治を探すことから旅を始める。そのため、両者が相まみえるところに物語の山場がくるのだろうと読者は勘を働かす。が、そうみせかけて、単純な対決には向かわず、1ひねりした展開に持ち込むことになるのだ。
 
 よく考えると、八州の不良役人を片づけていくだけの話なら15巻は必要ないのである。忠治との対決を勘定に入れても、10巻あれば済むだろう。ということは、忠治との関係が……なのだが、この話は後で詳しく触れることにしよう。
 
 脇を渋く固める仲間に、菱沼喜十郎(秀信の腹心)と、喜十郎の娘おこまがいる。喜十郎とおこまは戦闘のプロというより情報収集のプロなので、敵と戦うのはもっぱら影二郎。役割を考えても少数精鋭になるのは必然で、獅子奮迅の活躍をする武者ぶりをどう描くかが見せ場となる。そんなことは重々承知の佐伯御大、ここぞとばかりの筆の冴え連発だ。
 
 これだけではあまりにも華がない。影二郎にもささやかな幸せがあってほしい。
 
 当然用意されている。かつて影二郎が愛した吉原の遊女・萌の妹である若菜とじわじわ接近し、ついには所帯を持つようになるのだ。家庭人としての影二郎と、始末人の影二郎とのギャップも読みどころのひとつである。
 
 巻ごとの始末の対象や切られ役、ちょい役を除くと、長編シリーズとは思えないほど少ない主要な登場人物。だが心配には及ばない。登場人物たちの〝顔見せ”が1通り終わった3巻あたりからシリーズは加速。不良役人を始末していくだけの物語では終わらせない佐伯泰英のたくらみが、徐々に明らかになってくるのだ。
 
犬好きならグッとくる名犬あかの活躍

 それ以外では、河原で拾った子犬を「あか」と名づけ、旅の相棒にする点が佐伯ファンには見逃せない。何かもう1つ、というところで動物を配さずにはいられない癖があるようで、『密命』でも犬を飼わせ、『鎌倉河岸捕物控』では親分の家に猫が住みついて場を和ませた。
 
 よく、動物と子どもには勝てないと言われるように、犬や猫は読者を感動に導く要素として使われることが多いのだが、佐伯作品ではそういう安っぽい使われ方はされず、あたり前のようにするっと拾われてきて居つくのがパターン。動物好きだから出したくなり、主人公に寄り添わせることが執筆の楽しみになっているのかもしれない。
 
 それでも、佐伯作品に登場する動物の人気投票をしたら、1位は旅の同行者にもなるあかが本命だ。なぜなら、あかは単なる旅の道連れではなく、あるときは影二郎の理解者、あるときは有能な戦士として、いい仕事をしてのける。諸般の事情で江戸に残して旅立つときなど、読者が物足りなく感じてしまうくらいに。
 
 拾われたとき、あかはよちよち歩きの子犬だったから、影二郎を親のように慕って育ってゆく。長い付き合いになる予兆は、子犬のあかが、敵と戦う影二郎に走り寄ってくる場面ですでに表出している。殺気みなぎるこの場面に、木陰で怯えているほうがふさわしい子犬を出してくるのは本来おかしいのだけれど、あえて走り寄ることで、影二郎との絆が一気に結ばれるのだ。
 
 おもしろいのは、あかを準レギュラーにした結果、ハードボイルド路線に優しさがブレンドされたことだ。ニヒルで無口な始末人が愛犬とだけ心を通わせる設定なら、旅の最初から犬連れであるほうが自然。わざわざ子犬を拾って育ててしまう影二郎は、やさぐれていた時期もあるけれど、本来は心根の優しい青年であり、正義感の強い男として描かれていくことになる。初めての旅の前半では、行きずりの女と肌を合わせたりとワイルドな1面を見せるが、あかという相棒が定まってからは、もっぱら「弱きを助け強きを挫く」ナイスガイになっていく。このあたり、計画的にそうしたというより、書いているうちにそういう男にしたくなったと思えてならない。
 
 これが良かった。不良役人たちも必死で応戦するので、影二郎の行くところ、死体の山が築かれる。いくら父から受けた使命を果たすためでも、血なまぐさいシーンばかりでは読者も疲れてしまう。敵を前にすれば無敵の剣豪となる影二郎を本来の好青年に引き戻してくれたのが、あかという犬なのだ。
 
 あかは猟犬の血筋でもあるのか、賢いばかりか戦闘能力が高く、実戦でも活躍していく。機敏性や耐久性、主人の命令に従う従順さ、発達した嗅覚や聴覚など、犬は人間にはない能力を持つ。それを活かし、あかは第1巻でのお荷物的存在から準レギュラー的な仲間へと成長するのだ。さらに、あかは老犬になってもコンスタントに登場。老化のそぶりを見せない影二郎に代わって、時間の経過を読者に感じさせる貴重な存在でもある。
 
名刀「法城寺佐常」と無敵の南蛮外衣

 ここで影二郎の戦闘能力に触れておきたい。
 
 強いのはわかっている。8歳から重ねた剣の修行で才能が花開き、酒や博打、吉原通いに明け暮れたときも剣術だけはやめず、道場では〝鬼”と怖れられた逸材だったのだ。18歳で師匠と相対しても3本に1本はとるほどに上達。23歳のときには師匠から、道場の跡継ぎにならないかと打診されている。その話は縁談とセットだったため断ったのだが、道場を開けるほどの腕前なのは間違いない。
 
 ただ、実戦となると、人を殺めたことはあっても経験不足は否めず、いきなり無敵になるのはリアリティに欠ける。といって、影二郎が敗れてしまったら話がそこで終わってしまう。万が一、そんなことがあるとすれば最終巻のことだろうが、大迷走した『密命』でさえ、主人公となった親子を生き延びさせて悲劇的結末を避けたのだからそうはなりそうにない。読者ファーストに徹する佐伯泰英は、読者を楽しませることを第一に考えているはずだ。
 
 圧倒的な剣の遣い手だとしても、今回が初の裏稼業。向かうは知らない土地ばかりとあっては、いささか心もとない。読者としても何か秘密兵器が欲しい。あかがいて、探索能力に長けた菱沼喜十郎とおこまの父娘のサポートも受けるが、影二郎を無敵たらしめ、チャンバラを盛り上げる武器はないものか。
 
 佐伯泰英は、3つのアイテムを影二郎に与えることにした。ひとつは特別な剣。残る2つは、いつも身につけている南蛮外衣と、かつての恋人が喉を突いて自害したとき使用した鋭利な唐かんざしだ。
 
 腕のいい料理人が実力を発揮するには切れる包丁が欠かせないように、剣の達人が連戦連勝していくにはハードに斬りまくっても折れたり刃がこぼれたりしない名刀が必須。影二郎が所持するのは、法城寺佐常という鍛冶が鍛え上げた大薙刀を剣として鍛え直した、刃渡り2尺5寸7分(約77センチ)のもの。普通の刀より身幅が広く、ヤワな剣士では使いこなせないとされる。
 
 こういう説明をされても、日本刀の実物を触ったことのない大多数の読者に正しく理解されるとは思えない。でも、それでいい。強者である影二郎が刃渡りの長い名刀まで所持していれば、それが〝負けない理由”になってくれる。
 
 読者は勝手なもので、主人公の勝利を望みながら、負けなかった理由を知りたがる。剛刀を正しく構えて自分の間合いで振り抜けば、死ぬのは相手だという根拠があれば、なんとなく安心なのだ。
 
 一方、エンタメ小説らしい必勝アイテムとなっているのが南蛮外衣と唐かんざし。南蛮外衣は風雨を凌ぎ寒さから身を守る外国製の旅合羽(マント)なのだが、影二郎のそれには裾の両脇に銀が縫い込まれ、いざというときの武器になる。しかも、影二郎はいつどこで身につけたのか、バァっと投げて敵の刀に巻きつかせたり、銀で顔面を打ち砕いたり、自由自在に扱えるのである。
 
 うーん、わかりにくいか。実例をお見せするのが早いようだ。
 
〈影二郎の片手はすでに南蛮外衣の襟にかかり、それが、
 
 すいっ
 
 と引き抜かれた。
 
 その手の動きに合わせるように身に羽織られていた長衣が生き物のように広がり、裾の両端に縫い込まれた銀玉二十匁が竹槍を次々に跳ね飛ばし、さらには男たちの顎や肩を打って、雪道に転がした〉(第9巻174ページより)
 
 唐かんざしは外衣ほどひんぱんには使われないが、ここ1番で相手の虚を突き、ピンチ脱出のきっかけとなるだけでなく、恋人の形見を持ち続けている影二郎の純情さを伝える小道具としても印象的。
 
 名刀、南蛮外衣、唐かんざしは、闘いの場面になるたびに、ていねいに由来や使用法などが説明される。そのしつこさに思わず「もうわかったよ」と言いたくなるのだが、実際にはわかっていない。とくに南蛮外衣は謎だらけ。それほど威力があるものなのか。ふわりと投げているのに相手が避けられないのはなぜなのか。このアイテムは影二郎の代名詞ともなり、「南蛮の旦那」と呼ばれるほど有名なのに、どうして敵は研究してこないのか。
 
 しかし、素朴な疑問で頭がいっぱいになるのも3巻か4巻まで。何度も説明されているうちにそんなことはどうでもよくなってくる。銭形平次が投げた銭が百発百中であることを怒る人はいないように、南蛮外衣の威力を疑うのは野暮。著者が用意したサービス精神に満ちた見せ場を楽しめばいいのだ。

※ 次回は、6/29(土)更新予定です。

見出し画像デザイン 高原真吾(TAAP)