北尾トロ『佐伯泰英山脈登頂記』第26回
第11峰『交代寄合伊那衆異聞』其の弐
変化を恐れず突き進む、藤之助の前のめり人生
全読者が期待した坂本龍馬が登場するが……
フィクションといえども史実から逸脱しすぎると興を削ぐということなのか、幕末前夜の時代を藤之助が疾走する本作には、実際に起きた出来事や、将軍をはじめ勝海舟やシーボルトなど実在した人物がしばしば登場する。
その場合、ある程度は史実を再現しつつ、そこに架空の登場人物たちを紛れ込ませるような手法を選ぶ作家もいるだろうが、佐伯泰英は物語優先派。藤之助という傑物の活躍をよりおもしろく描くために、史実や実在した人物がフィクションの世界に入り込んでくる書き方をしている。
そうなると、開国を迫る列強諸国との実力の差を痛感し、現実から目を背けようとする幕府に失望している藤之助があの男に出会うのは時間の問題だと、多くの読者が思うはずだ。
そう、土佐藩を脱藩して志士となり、薩長同盟の成立に協力して倒幕や明治維新に関わった坂本龍馬である。サービス精神旺盛な佐伯泰英だけに、人気者の龍馬を無視することは考えにくい。私は藤之助と龍馬の出会いを通じてフィクションと史実が交錯する瞬間を楽しみにしていた。
そのときが訪れたのは第13巻。藤之助が北辰一刀流玄武館千葉道場に足を運んだタイミングだった。龍馬は実際に安政3年(1856年)、二度目の江戸剣術修行で千葉道場に通っていたので、でたらめな設定ではない。
他の人間と稽古を終えた龍馬は、紹介された藤之助を質問攻めにする。
〈「土佐藩郷士坂本龍馬」
と吐き出すように名乗った龍馬が、
「座光寺どのはすでに異国を知っちゅうとか」
と畳みかけた。剣風と一緒でぐいぐいと踏み込んでくる気迫があった。
「そのような噂が飛んでおるようです」
「上海に行かれたことはございやあせんか」
(中略)
「坂本どの、ヘダ号は列強の帆船に比べて小さな船体にござる。それでも一人の力では動かすことができませぬ。主船頭滝口冶平どの以下20人余りが乗り組んでようやく外海を航海できるのです」
「乗せてくれんろうか」〉(第13巻の第1章より)
藤之助と龍馬はその後に一手交え、楽勝した藤之助は拳銃の腕前も披露。これを契機に付き合いが始まり、ヘダ号へも案内することになる。好奇心あふれる龍馬の描かれ方にはユーモラスなところがあって、この男が現れると文章が活性化し、読んでいても楽しい。笑いの要素が少ない本シリーズ中、もっとも会話のテンポが弾むのもこの巻だろう。
しかし、早々に龍馬を登場させたのには別の意味もある。全体に関わることではないので書いてしまうが、龍馬、チョイ役なのだ。
もったいない? 私もそう思ったが仕方がない。強力なキャラクターである龍馬を放置すると、ぐいぐい本筋に絡んできそうで危険なのである。藤之助と玲奈が目指すのは倒幕ではなく、交易によって未来を切り開くこと。彼らには狭い日本を飛び出して世界を相手にさせたいし、これまでの物語で足がかりはつかんでいる。
龍馬が深く関わるとなれば、史実を無視するわけにもいかず、フィクションとしての勢いを削ぎかねない。龍馬の活動が活発になるのは文久2年(1862年)の土佐藩脱藩以降であり、藤之助と出会ってから6年後の話。いかにも深追いしづらいのである。
じゃあ史実を無視して龍馬を仲間に引き入れ、藤之助らと行動を共にすることにして、後の神戸海軍操練所創設や亀山社中結成の布石を打つ設定はどうか。それも中途半端である。龍馬をチームに加えるなら、活躍の場を与えなければ意味がないが、途中から出てきた龍馬が目立ちすぎると、主役である藤之助や玲奈が霞みかねない。
そこで、まだ何者でもない青年として登場させることにしたのではないだろうか。藤之助の射撃の腕に驚くエピソードを盛り込み、後年、龍馬が銃を所持していた事実と読者が結びつけられるようにする遊び心を加えて。
フィクションをおもしろくするために史実を〝借りる”ことはしても、あくまでもエンタメ作品の範疇に収める。それが、佐伯泰英が自作に課したルールなのではないかと私は思う。
お家断絶の沙汰が下り、武士から自由人へ
中盤、物語は大きな節目を迎える。藤之助らを重用した老中の堀田正睦に代わって実権を握った井伊直弼にうとまれた座光寺家はお家断絶の憂き目に遭い、当主の藤之助には切腹の沙汰が下されてしまうのだ。
やむなく伊那へ里帰りせざるを得なくなる江戸屋敷の面々。当主から山猿へ逆戻りした藤之助は武士ですらなくなる。
痛快なのはここから。藤之助には、もはや〝死に体”となっている幕府の命を守る気などさらさらなく、幕府と縁が切れることを前向きにとらえてしまう。忠誠心を失った以上、切腹するなどあり得ない。どうするか。徹底して無視だ。近いうちに幕府が倒れることを確信している藤之助は、自分が旗本であるかどうかなど眼中にない。
では、元当主となった藤之助はリーダーとしての責任をいかに果たしていくか。列強諸国から最新の文明がなだれ込んできたら、武士が威張っていた時代は終わる。世の中がどうなるかもわからないが、自分たちが生き残るためには、交易に活路を見出すしかない。
そのために、一日も早く外国と渡り合う実力をつけるべきだと藤之助は考え、具体的な策を練っていた。そのアイデアを藤之助に剣の奥義を授けた片桐朝和に説明するところを一部引用する。
〈「と申されますと、藤之助様は刀をお捨てになるのですか」
「いや、そうではない。この国を立て直すためには鎖国の間に遅れた医学、科学、軍事力もろもろを向上させ、異国の侵略を阻止せねばならぬ。そのためにはなににも優先して交易に重きを置き、国力を増強させねばならぬ、そのためにはこれまで以上に武術が要る、信濃一傳流が生きる道はある。わが座光寺一族は交代寄合伊那衆の身分を失ったのがもっけの幸いかもしれぬ。朝和、われら一族の力をこの国が立ち上がるために使おうと思うが、どうだ」〉(第16巻『断絶』第3章より)
その後、藤之助は朝和に今後の生き方を熱く語る。時代の先端を見てきたリーダーのブレない決心が、お家断絶にションボリしている伊那衆の気持ちを前向きに変化させる、本シリーズでも出色の名シーンだ。
〈「われら、座光寺一族、この伊那谷から異国に羽ばたかねばならぬ。それがしがこの山吹にいる間、武術、射撃、大型帆船の仕組み、砲術、異国との交易、知るかぎりのことを一族の者に伝えて、次なる機会にわが東方交易の商船隊に乗り込ませる」
(中略)
「座光寺一族はこの国の先頭に立ち、国の命運を切り開くか、最後までこの山吹を死守して朽ち果てるか、二つに一つの道を選ばねばならない」
「片桐朝和、いささか長生きしすぎたように思います」
「いや、時代が大きく変わるのはこれからぞ。朝和、生きてそなたの眼でわれらが行く末を確かめよ。主の命ぞ」
再び長い沈黙があった。そして、
「それが天命なれば」
と呟く声で答えた。〉(同第3章より)
交代寄合伊那衆という古い看板を捨て、〝東方交易集団伊那衆”として打って出ようという大胆不敵な構想。ここへきて、物語は突出した能力を持つ藤之助や玲奈の個人戦から、座光寺一族の生き残りをかけた団体戦へとパワーアップするのである。
「がんばれニュー伊那衆!」と応援したくなるが、気になることがある。一族のアイデンティティともいえる首斬安堵はどうなってしまうのだ。
世界が認めた自由人、サムライ・トウノスケと玲奈が海を往く
結論から述べると、首斬安堵は自然消滅する。武士でなくなった交代寄合伊那衆は自動的にその資格を失ったのである。それはそうだろうと納得しつつも、まんまと佐伯泰英にはめられた感じがしないでもない。
読者は交代寄合伊那衆だけに任された首斬安堵の役割を序盤に教えられ、将軍の介錯役が必要だった史実がないのは知っていても、それに近い状態がやってきて、藤之助が苦悩したり、ぎりぎりのところで回避するクライマックスシーンがいつ来るかと期待しながら読んでいる。それが急になくなってしまったので、いささか拍子抜けの感はあった。
ただ、私はこんなふうにも想像するのだ。佐伯泰英自身、この物語を書き始めた当初は首斬安堵をめぐって、武士であり続けるのか刀を捨てるのかで藤之助が思い悩み、新時代を生きる決意とともに3代将軍家光の命を断るような展開を考えていた。ところが、巻を重ねるごとに藤之助の型破りな言動が際立ち、自分たちのアイデンティティにこだわって思い悩む人物像ではなくなってしまったのではないか。
いい加減といえばそうなのだけれど、これが正解。長編シリーズを飽きさせずに読ませることを考えて藤之助らしい行動を優先させ、自ら工夫を凝らした設定をあっさり変更する英断だった。
路線変更に踏み切る上で、玲奈の存在も大きかっただろう。著者は女性の就業率がアップするとともにその問題点が浮き彫りになった平成の現実を踏まえ、個性的なこのヒロインを生み出したのだと私は思う。玲奈は美貌と家柄に恵まれてヒロインになったのではなく、優れた能力と先見性、行動力で頭角を現す。男勝りでも女の武器を使うでもなく、人として魅力があるのだ。こんな女性は列強諸国にもそうそういない。
藤之助は一人の女性として玲奈を愛するだけではなく、ビジネスパートナーとしても玲奈を尊敬している。江戸中期の話であれば無理のありそうな、対等な男女の関係を描く舞台として幕末はふさわしかった。
こうして物語は、藤之助と玲奈、そして伊那衆の精鋭たちが活躍する海洋冒険活劇の色を濃くしていく。自然、活躍の場は広がる一方で、前半に出てきた上海への再訪をはじめ、同じ清国の揚州、ジャワ島のバタビア、マレーシアのペナンなど、東~東南アジア一帯が行動範囲。藤之助は交易の相手のみならず、上海などの社交界でサムライ・トウノスケと呼ばれる有名人となる。
サムライ・トウノスケ……なんだかプロレスラーのリングネームみたいだが、からかわれているのではない。「ニホンノスゴイヤツ」を意味する尊称なのだ。
「なんて調子のいい話なんだ」と思うかもしれない。私も、説明しながら少し恥ずかしい気分になっているし、とくに前半では、読みながらふっと我に返り、「そんな馬鹿な」と笑ってしまったことが何度もある。
でも、心配しないでほしい。現実離れもここまでくると清々しく、いったん作品に没入してしまえば快感につながる。私の言葉が信用できないなら、本作が全23巻の大作であることを思い出せばいい。文庫書き下ろし小説という激戦区でこれほど長く続くのは、読者に受けて売れたからに他ならないのだ。
前半ではしょっちゅう使われた得意技の〝天竜暴れ水”も、この頃になると実戦より剣の実力を見せるパフォーマンスとして使われることが多くなる。日本にいても藤之助は常に拳銃を携帯し、しつこくつけ狙う敵方に出会うと「やめておけ」と威嚇射撃。武士=剣術の時代が終わったことを身をもって示すのだった。
終盤になっても作者は安易なまとめ方をしない。敵方としての迫力をなくした井伊直弼が暗殺される桜田門外の変を淡々とした筆さばきで処理。残されたトラブルに片をつけるとさっさと日本を離れ、意気揚々とインドから戻る交易船団を活写する。
いろんな形のハッピーエンドが考えられるなか、長大なシリーズの終わり方に注目していたのだが、作者が選んだのは事件の解決や江戸時代の終焉ではなく未来へ進む力だった。藤之助、玲奈、伊那衆の面々、そして愛犬ドン・フアン。文章にはなっていないが、彼らの瞳は希望に満ち、やってやるぜと輝いているだろう。
佐伯泰英は最終第23巻の「あとがき」で、幕末動乱期と現在の世界情勢を重ね合わせて物語を展開したと記し、当時は進歩した異国の科学技術に望みが得られたように思うが、現在はどうなのだろうと疑問を呈している。
〈だが、私たちの現在を取り巻く環境は、激動した幕末の十年を一日で経験するようで、かつ次々生まれてくるテクノロジーに信が置けないのは私だけか。
不可解な事件や事故が頻発し、その報道を新聞、テレビで見るたびに閉塞感、無力感に苛まれるのは私だけか。
科学技術の進歩は人類に救いを与えるとは思えず、反対に苦しめているように思えるのは私だけか。〉
当時と比べて足りないものは何なのか。物語を読み終えるとき、読者にどんな気持ちになってほしいか。ラストシーンに作者の思いが集約されているようで、明るい終わり方なのになぜか切なくもなるのである。
※ 次回は、11/9(土)更新予定です。
見出し画像デザイン 高原真吾(TAAP)