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【試し読み】櫻木みわさんの最新作『カサンドラのティータイム』/「この物語を必要としていた」「心底励まされた」雑誌掲載時から共感の声が広がる話題作

 作家・櫻木みわさんの単行本第3作目『カサンドラのティータイム』が、2022年11月7日(月)に発売されました。
 夢を叶えるために上京したスタイリスト見習いの友梨奈と、夫との歪な関係に苦しむ現在は専業主婦の未知。
 二人が直面する、この社会の理不尽さ、巧妙な支配構造。「暴力」にさらされ、周りに言葉が届かず、ままならない状況に追い込まれて、孤独に苛まれる……。現代女性が感じる息苦しさ、生きづらさを描きながらも、しなやかで力強い、希望を感じさせるラストシーンに、「小説トリッパー」2022年夏号に一挙掲載された直後より、「この物語を必要としていた」「心底励まされた」という、確かな共感の声が集まっています。
 櫻木みわさんという書き手の魅力を知っていただきたい、この作品を必ず必要とする方たちがいるはず、その方たちに大切に届けたいという思いから、11月4日(金)から11月11日(金)までの期間限定で作品の全文を公開いたしました。
 全文公開の期間は終了しましたが、引き続き、第1章を「試し読み」として公開を続けます。
 感想の声を聴かせていただければ幸いです。

カサンドラのティータイム

1 友梨奈

 照明がまぶしかった。アナベルの花が雪のようにかがやいていた。北アメリカ原産の、アジサイ科の花だった。大きな霧吹きを持った美術係のスタッフが、花と葉に、水をたっぷり吹きかけている。照明の熱から守るための処置だった。花のあまい香りが濃くなった気がしたが、気のせいだったかもしれない。
 戸部友梨奈は、カメラ機材の邪魔にならないよう後方のうすぐらい壁際に立ち、照明とカメラが向けられた先を一心にみつめていた。テレビ局の第一報道スタジオ。ニュースは普段ネットでチェックすることが多く、報道番組はそれほどみない。そんな自分でも知っている、この局の看板番組だった。生花装飾にもセットにも金がかけられているのがひとめでわかる。進行を取りしきるのは、品のある所作とするどいコメントに定評がある、人気の女性アナウンサーだった。
 照明の輪がいくつも重なりあった、もっともあかるい場所。そのまぶしい光の中心に、長身の男が入って来る。雑に切りそろえられた黒髪に、表情の読みとれない切れ長の目。去年の春に二十七歳で刊行した著書が一部で話題になり、しょっちゅうメディアに出るようになった深瀬奏だった。肩書きは社会学者だったが、著書よりも、本人の容姿やふるまい、ファッションなんかのほうに注目が集まっている。
 友梨奈も、知り合うまで深瀬の本は読んだことがなかったが、SNSでの発言がよくシェアされているのは以前から知っていた。ネットでみたインタビュー記事も覚えていた。そこには、深瀬が東京生まれで、高校生のときに初めてもらったバイト代で買ったのが、コムデギャルソンのシャツだったというエピソードが語られていた。田舎育ちの自分とはまるでちがうと、それを読んだときに思った。友梨奈は四国の離島出身で大人になって就職するまで、デザイナーズショップに足を踏み入れたことは一度もなかった。
 だが、
「今度テレビ収録あるから、見学に来ます?」
 と、友梨奈をこのスタジオに呼び入れてくれたのは深瀬だった。
「いいんですか?」
 驚いて尋ねたら、
「戸部さんも同じ業界の人間なんだから、ぜんぜんいいでしょ」
 と、こともなげにいった。人気スタイリストの菱田チカにあこがれて、ようやく彼女のアシスタントとして雇ってもらった自分が「業界の人間」だとは、友梨奈にはとうてい思えない。菱田さんのもとで働かせてもらっていることも、一年近くが経ったいまでも信じられない気がするくらいだ。
 菱田さんのことは、離島を出て広島の専門学校に進み市内のサロンで美容師として働いていたころに知った。すきな俳優のインスタグラムのストーリーズに、「リスペクトしてるスタイリストさん!」というコメントと共に菱田さんのアカウントのリンクが貼られていたのがきっかけだった。本、映画、音楽、ハイブランドの新作に、外国でみつけた布やボタン、アクセサリーのコレクション。菱田さんの投稿は、写真がきれいで、文章も素敵だった。スタイリングについてのヒントや考え方も、わかりやすい言葉で書かれている。
 気がついたら友梨奈は、最初にフォローしていた俳優よりも、菱田さんのファンになっていた。フォトエッセイや監修したスタイリングブックを買い、告知されている仕事は欠かさずチェックするようになった。菱田さんがすきだといっている映画や写真集は全部みたし、もともと本がすきではあったが、読書家の菱田さんを追いかけるように、自分もさらに本を読むようになった。
 観察が基本、というのが菱田さんのスタイリングのモットーだった。自分の服装を決めるときにも、そのモットーは適用される。自身の体型や肌質、心情をよく観察し、映画のなかのルックも、街を歩いているひとたちのことも観察する。そうやって、いま自分がどんな装いをし、どのようにありたいかを把握すること。友梨奈は、その教えをもとに、洋服やアクセサリーを選ぶようになった。
 あるとき、よく髪のトリートメントに来ていた三十代のお客さまが、かがみ越しにじっと友梨奈をみつめ、
「いつもコーデが素敵じゃな?」
 といった。
「わたし、あしたちょっと大事な会食があるんよ。戸部さん、アドバイスくれんじゃろか」
 客はスマートフォンを取り出し、
「このなかのどれかで考えてるんやけど」
 と、ワードローブを記録しているらしい、アプリ内フォルダの写真をみせてくれた。リボンのしるしがつけられた候補の洋服のすべてが、モノトーンかベージュ系だった。友梨奈は思いきって、あの、といった。
「こういうベーシックな感じもいいですけど、華やかな色もお似合いになると思います」
「華やかな色?」
「はい。あの、例えば濃いピンクとかブラッドオレンジとか」
「ブラッド?」
 女性は怪訝な顔をした。スマートフォンで色みを検索し、派手じゃな、ともつぶやいた。仕上げのカットは店長が受け持っていたので、友梨奈はいったんその場を離れたが、頭のなかに洋服のイメージがあふれて止まらなくなった。ぱっとみた感じ骨格ナチュラルの体型の方だから、アプリのワードローブに並んでいたかっちりしたものより、ラフなシルエットのほうが、垢抜けるし似合うはず。店のラックに置いてあるファッション誌の最新号をめくり、会計を待っている女性に、お客さま、と近づいた。
「さっきのお洋服のお話ですけれど、トップスを華やかな色にしても、ボトムをワイドパンツにしたら、シックにみえると思います」
 例えばこんな感じとか、と雑誌をさしだした。サテン地のワインレッドのブラウスに濃いグレーのワイドパンツのくみあわせだった。女性は写真のモデルをながめ、
「ふうん。こんなん着たことないな」
 とだけいった。クレジットカードとレシートを手にして戻って来た店長が、訝しそうにこちらをみていた。友梨奈は会釈して、あわててその場を去った。出過ぎたことをしたかもしれないという、反省めいた気持ちが残った。
 だが、女性は次に店に来たとき、友梨奈を指名して、
「前に戸部さんにもらったアドバイス、よかったわ」
 といった。それだけのことだったが、友梨奈はうれしかった。
 その日の終わり、バックヤードでカットクロスの洗濯をしていると、店長から、
「調子に乗るなよ」
 といわれた。強い口調ではなかった。日頃からそういうものいいで、スタッフに疎まれているひとでもあった。お店の子たちと飲むとかならず店長の悪口になったし、あいつがいやすぎるから辞める、と公言して、ほかのサロンに移った先輩も知っている。だからこのときも、友梨奈はたいして気にしなかった。ただ、美容師を辞めてファッション・スタイリストになりたいと考えるようになったのは、このころからだった。髪のカットやカラーリングよりも、同じひとの洋服や着こなしのことを考えているときのほうが、自分が熱中できることに気がついたのだ。
 菱田チカ事務所の電話番号は、インターネットで調べるとすぐに出てきた。店が休みの火曜日、一時間近くも逡巡したあげく菱田さんの事務所に電話をかけ、アシスタントとして働かせてもらえないかと頼んだ。小さい事務所のため、スタッフはひとりだけしか雇っていないのだと断られたが、あきらめきれず、手紙を書いて熱意を伝えた。美容師をしていること、菱田さんの仕事や著作に強く惹かれていること、いますぐは無理でも、いつか働かせてもらえたらと願っていること。そのときまで、菱田さんの著書やスタイリングを研究したり、美容師免許があれば受験ができる着付け技能士の資格を取ったりして、自分なりにアシスタントとして役に立てるよう努力をするつもりであること。
 手紙を出して五ヶ月ほど経ったころに連絡があり、履歴書を送るよういわれた。それまで働いていたアシスタントの女性が、海外移住をすることになったということだった。手紙に書いたとおり、美容師の仕事をしながら勉強をしていたから、履歴書の資格欄には、着付け技能士一級のことも書くことができた。採用の連絡を受けたときのうれしさは、いまでもはっきりと覚えている。社員としてではなく、業務委託という形態だったけれど、どんなかたちでも菱田さんのもとで働けることが重要だった。
 四国にいる両親は、東京行きに反対した。心配だ、と彼らはいった。せっかく美容師の資格を取って二十五まで働いたのに、ゼロからほかの仕事を始めるなんて心配だ。いま働いている街だったら島の実家とすぐに行き来ができるけれど、東京では何かあってもたったひとりだから心配だ。
 友梨奈が提示されたアシスタント見習いの報酬を知ったら、もっと心配したにちがいない。金額自体は美容師のときの給与とそれほど変わらないけれど、そこから年金や国民健康保険、東京の高い家賃を払うことを考えると、友梨奈自身も不安はあった。東京にはそれまで一度も行ったことがなく、友人や親戚もいなかった。両親の懸念は当然だった。だが、気持ちは揺るがなかった。親を説得して上京し、菱田さんの事務所で働き始めた。
 働きだしてわかったのは、スタイリストのアシスタントというのは、大量の衣装を運んだり返却したり、ほとんどが力仕事だということだ。それでも、菱田さんのもとで働いていると、その経験自体が自分の糧になっていると実感することができた。菱田さんの仕事を間近でみられることも、ブランドの広報やファッション雑誌の関係者に知人が増えていくことも、深瀬と知りあい、こうして誰もが知っている報道番組の収録を見学させてもらっていることだって、菱田チカ事務所にいるからこそできていることだった。
 収録が始まると、スタジオの空気が変わった。生放送の緊張感が、水槽を満たすつめたい水のようにあたりに満ちる。国内トップニュースは早朝に高速道路で起きた玉突き事故、その次は、大物政治家がある地方での囲み取材でした失言についてだった。自治体が取り組んでいるユニークな移住者支援策を称賛したところまではよかったが、そのあと、
「本当はここで生まれた若いひとたちが都会に行かないで、残ってくれたらいいんですけどね。男はしょうがないとしても、女のひとはできるだけ残ってほしいね」
 と続けたのだ。とりわけ、
「若い女性は電気みたいなものだから、いなくなると地域が暗くなっちゃう。都会になんか行かないで地域を照らしてほしいね」
 という発言が非難を集め、SNSでも炎上していた。
「深瀬さんはこの発言について、どのようにお考えですか」
 アナウンサーの問いかけに、
「あり得ないと思いましたね」
 深瀬は間髪を容れずに答えた。気負っていない、だが自信に満ちた話し方だった。
「憲法二十二条を持ち出すまでもなく、どこに居住するかは各自の自由です。地方から東京でも、その逆でも、ひとは住みたいところに住むべきですよね。ひとを電気にたとえたいなら、政治は、その電力のためのエネルギーをちゃんと供給すべきでしょう。エネルギーっていうのは、職や医療福祉の充実、コミュニティとしての魅力や住みやすさですよね。それもなしにただ照らせというのは自家発電を要求しているようなもので、しかもそれを若い女性のみに期待するのは、端的に女性蔑視ですよ」
 女性蔑視というところで、アナウンサーがうなずいた。深瀬はよどみなく、
「まずいないとは思いますが、もし彼の発言で地方に留まったほうがいいんだろうかと感じた若いひとがいたら、もちろんそんなことはないので、東京でもどこでも、すきなところに行って、そこを照らしてください。あとそもそも論ですが、別に照らす必要もないです。ひとは電気じゃないんで」
 そこでスパッと話を終えた。的確なタイミングだった。短すぎもせず、長すぎもしない。聞き手の好奇心が満たされ、倦怠へとかたむく前のぎりぎりのまぎわ。いつも冷静な表情のアナウンサーも笑顔になっている。視聴者は、深瀬の話をまた聞きたいと感じているだろう。ふるまいの上手なひとだと思った。
 出会いはつい先週だった。菱田さんと親しいカメラマンが六本木のギャラリーで写真展を開き、そのオープニング・セレモニーがあった。事務所のメールアドレスあてに招待状が届いたけれど、菱田さんが別件で出席できないので、友梨奈が代わりに行くことになったのだった。
 会場で、そのカメラマンである村尾さんをみつけ、友梨奈は菱田さんから預かった菓子折を差し出した。山陰でしか手に入らないという生菓子で、村尾さんは、
「若草! これ僕の好物なんですよ」
 と、うれしそうに受け取った。
「チカさんありがたいなあ。お花も送ってもらってたんだよね。入り口に飾らせてもらってます」
「きょうは仕事が入ってしまったのですが、会期中に必ず伺うといってました」
 そういう話をしているときに、すぐそばでシャンパンを飲んでいたのが深瀬だった。銀色のトレーを持ったスタッフが、
「あたらしいドリンクをお持ちしましょうか」
 と声をかけ、ありがとうございますと深瀬が答えた。みたことがある顔に思わず視線をやると、村尾さんが、
「あ、紹介するよ!」
 と、引きあわせてくれた。
「深瀬くん、彼女は戸部友梨奈さん。スタイリストで、菱田チカさんの事務所にいるんですよ」
「まだ見習いのアシスタントです」
 友梨奈が訂正すると、
「いやいや、戸部ちゃんはチカさんのところにいるんだからすごいよ」
 と村尾さんはいい、深瀬に向かって説明した。
「菱田チカさんって、超売れっ子のスタイリストで、僕はむかしからの知り合いなんですけど、気遣いも仕事もすごいひとなんですよ。仕事にはひと一倍きびしいから、彼女のもとでアシスタントをしてるっていうのは、それだけでみどころがあるってことなんです」
 深瀬はへえ、と大きくうなずいて友梨奈をみた。気安い感じだった。メディアではクールなイメージだったが、実際には逆の印象なのが意外だった。
「スタイリストさんか。僕も頼んでみようかな」
「深瀬くんは自分でスタイリングしてるじゃないですか」
 村尾さんはそういって、深瀬くんってね、と友梨奈に説明する。
「最近は雑誌で、ファッション談義の連載も始めたんだよ。僕はその撮影で一緒に仕事させてもらってるんです」
 あたらしくやって来たふたり連れの客が、村尾さんと話したそうにこちらをみていた。村尾さんは友梨奈たちにゆっくりみて行ってねと声をかけると、客に向かって両手をひろげるようにして歩いて行く。村尾さんは、仕事の撮影現場でも常に溌剌としている。だがきょうは、仕事のときとはちがう高揚が感じられた。五十代のはずだけど、実年齢より格段に若くみえる。それは四十二歳の菱田さんも同じで、やっぱりすきなことをがんばっているひとは若いんだろうかと友梨奈は思う。もちろんここが東京で、こういう業界だからということも大きいだろう。地元の町に、こんな中高年はいなかった。
 村尾さんの作品はモノクロームで、森や水辺、廃墟などを舞台に、女性を被写体にしたシリーズだった。女性の顔はみえず、ぜんたいに幻想的だ。正直、友梨奈にはぴんと来ない。同じ写真作品でも、『装苑』や海外の雑誌に載っているファッション系のアート写真のほうが胸が躍る。
 展示をみていると、深瀬が、戸部さん、と話しかけてきた。
「スタイリストって、撮影現場にも同行したりするんですか?」
「仕事によりますけど、同行することが多いです。わたしはアシスタントだから、荷物持ちですけど」
「アシスタントだってこと、めっちゃ強調するよね?」
 笑ってそういわれ、友梨奈も笑った。
「事実ですから。わたしの仕事は、雑用と荷物持ちなんです。菱田さんのアシスタントになって、すごい量の荷物を運べるようになりました」
「それかっこいいですね。僕は高校生のときから五年くらい片想いしてた女性がいたんですけど、そのひともタフだったんですよねー。ほっそいのに」
「五年片想いってすごいですね」
「そうなんですよ。高二のときに予備校で出会って、第一印象は最悪だったんですけどね。普通に友だちだから、いまでもたまに飯に行ったりするんですけど、いまだに相手にされてないっていうか、ひたすら彼氏ののろけを聞かされてますね」
 何となくきどったイメージだったから、こんなくだけた話をしてくるのは意外だった。
「戸部さんは、片想いの経験ないですか?」
「うーん、中学生くらいのときにはもちろんありましたけど、大人になってからはそんなにないです。いま付きあっているひととも、自然に付きあいはじめた感じで。一人前になれるよう仕事をがんばらなきゃっていう気持ちが強くて、恋愛は二の次になってるかもしれません」
「ああ、その気持ちは僕もわかります」
「休みの日も、ほかのスタイリストさんがどんなふうに仕事をしてるのか、みに行きたいくらいです」
 そんな話をしていたら、深瀬が、
「今度テレビ収録あるから、見学に来ます?」
 と、提案したのだった。
「テレビ局の衣装さんの話とか聞くのもおもしろいんじゃないですか? 僕、仲いい衣装さんがいるから、紹介しますよ」
「いいんですか?」
 驚いたものの、そのあと雑談をしたり、ほかのひとと挨拶をしたりして、具体的な約束などはしないまま、友梨奈は個展会場を後にした。
 その日の夜、風呂からあがり、悠人にLINEを送ろうとしていたところで、村尾さんからメッセージが届いた。
〈きょうは来てくれてありがとう! 深瀬くんが戸部ちゃんの連絡先聞き忘れた! といってたから教えておきました〉 
 一瞬えっ? と思ったけれど、すぐにsoufukase_というIDからコンタクトがあり、その違和感はどこかに霧散してしまう。
〈おつかれさまです。村尾さんにLINE教えてもらいました。話してたスタジオの収録、よかったら来ます? ディレクターに聞いたらOKとのことだったんで、もしよければぜひぜひ〉
 気軽な雰囲気だった。
〈ありがとうございます。伺いたいです。よろしくお願いします〉
 友梨奈はそう返した。それで今夜、アナベルの花でいっぱいのこのスタジオで、見学をしている。あかるい照明のなかでアナウンサーと堂々と話をしている深瀬は、自分が気安く言葉を交わした人間とは別人みたいだ。
 雑誌でファッションの連載をしているというだけあって、深瀬の服装のセンスは冴えている。白いTシャツに、目ざといファッショニスタたちの間で人気が出始めている国内の若手デザイナーの藍染めジャケット。旬の丈とサイズ感で仕立てられたトラウザーズに、これもおそらく職人の手によるのであろうしゃれた革靴。頭のなかの観察ノートに、深瀬のコーデをメモしていった。

 翌日、菱田さんのお供で、下北沢に出かけた。いつも菱田さんにスタイリングを頼んでいる女性タレントからの依頼で、撮影用の古着をみつけるためだった。私服を披露するというファッション誌の企画に載るらしく、手持ちの服もあるけれど、もしもよさそうなヴィンテージの服があれば買い取るのでみつくろってほしいという話だった。
 いくつかまわったショップで菱田さんが手にとったのは、金糸や銀糸、濃い紫やエメラルド色などでボタニカル柄が織りなされた、ジャガード織のスカートだった。菱田さんは即座にそれを買うとスマホで写真を撮り、その場で依頼主である三谷みことのマネージャーにLINEを送った。
〈このスカートに、このあいだみことちゃんがエストネーションで買ってた、白いパーカーをあわせるのはどうでしょう? 靴はミュウミュウの新作があうと思うので、借りてきます。そのほかの候補や小物もこちらで用意しておきます〉
 友梨奈も入っている仕事用のグループLINEに、すぐに返信があった。
〈本人もとても気に入っています! また当日よろしくお願いいたします〉
〈あ、ミュウミュウの新作も喜んでます! いつもありがとうございます〉
 スタイリストの力量は、スタイリングの工夫やセンスはもちろんだが、衣装をどれだけリースして来られるかにあらわれる。特にハイブランドのプレスからの借り出しは、信頼と実績がなくてはできない。菱田さんはとにかくきっちりと仕事をするし、ブランドの衣装が最も映えるモデルや媒体を考慮してコーディネートする。モデルと衣装の組みあわせにもスタイリングにもいつも必ず意外性があって、それがすごいと、友梨奈は常々思っている。三谷みことのように、菱田さんを指名するひとが多いのも当然だと思う。「服もひとも、相乗効果で魅力を引き出して行くことが、自分の仕事だと思っています」。エッセイにもそんなふうに書いていた。
 菱田さんは、尋ねられたり、話題をふられたりしないかぎり、自分からプライベートのことを話すことはほとんどない。それでも、共働きで息子がふたりいることは、友梨奈も知っている。子どもは中学生くらいにはなっているはずだ。おそらくはそのために、菱田さんは仕事が終わるとそのまま帰宅してしまうことが多いのだけれど、稀にそのときの現場のメンバーと、食事をすることもある。この日もそうだった。
「戸部ちゃん、ちょっと食べて帰らない?」
 誘われて、二つ返事で承諾した。店構えにつられて入った下北沢の路地の居酒屋は、ハイボールと焼き鳥が充実していた。ハイボールは檸檬と生姜の利いた手製で、焼き鳥はモモ、ムネ、手羽、ぼんじりとあらゆる部位がある。海藻がたっぷりのったサラダに、数種類の焼き鳥を食べ、二杯目のハイボールを半分まで飲んだところで、菱田さん、と友梨奈は切り出した。
「菱田さんみたいに活躍するスタイリストになるために、しておいたほうがいいことってあるでしょうか」
「しておいたほうがいいことか……」
 菱田さんは、かたちのよいショートカットの頭をかたむけた。考えるように顔に添えた手のゆびに、金色のピンキーリングがひかっている。うすむらさきの石がついていて、さりげないけれど目を惹く指輪だった。
「したほうがいいことっていうのはたぶんいろいろあって、ひとによっても時期によってもちがうから、正解はひとつじゃないよね。ただ、しないようにすべきことは、ひとつ確実にあるとわたしは思ってるの」
「何ですか?」
 思わず身を乗り出した。
「業界のひとや仕事の関係者と、深い仲にならないこと。先輩としてわたしから忠告できるとしたらそれかな。ちょっかい出したり、口説いてきたりするひとがいても、そういうのに乗らないこと」
 悠人がいるからそこは大丈夫だ、と内心安堵した。浮気をする気はないし、したいとも思わない。それに友梨奈は、仕事で知り合ったひとからいい寄られたことは、いまのところ一度もなかった。ハラスメントに対する意識が高くなった時代の変化も関与しているのだろうが、それを差し引いても、わかいひとも華やかなひとも山ほどいる業界で、自分がそういう対象になることはない気がする。菱田さんはきっと、うんざりするくらい誘われてきたのだろうと、菱田さんのきれいな顔立ちをみながら想像する。
「せまい業界だし、フリーランスって、守ってくれるものがないってことだからね。相手は、こっちがフリーランスだと思って寄って来るのね。こちらに後ろ盾もしがらみもないから、いってみれば軽んじてるのよね。そのひとたちは、事務所にがっつり守られてる、みことちゃんみたいな子には、声なんてかけないわけだから」
「そうですね」
「下手に関係を持ったら、そのときはよくても、あとから面倒なことになったり、業界内で行き詰まったりする。そういうときに消えてしまうのは、力の弱いほうなの。だから注意深く、かしこくいないとだめ」
「覚えておきます」
 姿勢をただした友梨奈に、菱田さんは、
「わたしは戸部ちゃんには期待してるの」
 といった。
「気骨があるし、勉強熱心で、センスも奉仕の精神もある。いいスタイリストになれると思う。それに、戸部ちゃんには意地のわるいところがすこしもない。それって品があるってことよ」
 そんなふうにみてくれていたのかと驚いた。
「独立はもう少し先だと思うけど、戸部ちゃんにも、すこしずつスタイリングを任せたいと思ってる。まずは来年のみことちゃんのカレンダーに向けて、九月くらいをめどに候補案出してみて」
「本当ですか」
 思いがけない言葉だった。
「やくそく」
 菱田さんは笑って、小指を出した。冗談めかした仕草だとわかっているのに、友梨奈は真剣な表情で自分の小指をからめる。ゆびきりをして、
「菱田さんのそのピンキーリング、素敵ですね」
 さっきも思ったことを口にすると、菱田さんは、これ? と小指に嵌めた指輪に視線をやった。
「ポルトガルで蚤の市に行ったとき買ったんだったかな。海のそばのきれいな街でね。サイズが大きかったから、日本に帰ってから直してもらったの」
 リングをはずすと、友梨奈の前に置いた。
「これ戸部ちゃんにあげる」
「えっ」
 友梨奈は目を瞠った。
「アシスタント一周年のお祝い」
「いいんですか?」
「もらってくれる?」
 と菱田さんはいった。
「わたしはほかにもいくつか持ってるから。ピンキーリングって、チャンスを引き寄せるっていわれてて、タレントさんも結構つけてたりするでしょう? わたしがこれを買ったのは十五年くらい前で、いまの戸部ちゃんと、同じくらいの年だったの。きょうはすごく久しぶりにつけたんだけれど、これを買ったころは、お守りみたいにまいにちつけてたのね。そのころから大きな仕事をいただくようになって、たしかにわたしのラッキーリングだったかもしれないと思うのよ。だからこれは戸部ちゃんが引き継いで、これからいい仕事をたくさんして」
「ありがとうございます」
 胸がいっぱいだった。
「大事にします」
「サイズ大丈夫?」
 尋ねられ、小指に嵌めてみると、ちょうどよく嵌まった。菱田さんにもらったリングをつけた指は、華奢できれいにみえる。きょうのことは忘れず、この指輪を、自分もお守りにしようと思う。
 ラストオーダーの時間が近づいていた。
「デザート頼もうか」
 菱田さんはメニューを手に取った。八朔シャーベットおいしそう。お店のいち推しはあつあつフォンダンショコラだって、両方頼んでシェアしようか? いいですね! メニューをみて話しあいながら、友梨奈は、胸のなかに静かな充実感が広がるのを感じていた。一年半前、勇気を出して菱田さんに電話をかけてよかった。スタイリストになるために東京に来てよかった。菱田さんと出会って、こうして一緒に働けていることは、まちがいなく、自分の人生に起こった最も素晴らしいことのひとつだった。いま自分は幸運の道を歩いている。この出会いを大切にして、がんばろうと思った。強く思った。

「かわいい!」
「いまのベストショット」
 スタッフたちの声があがるなか、三谷みことがカメラに向かって顔の角度を変える。下北沢でみつけたジャガード織のスカートは、菱田さんの見立てどおり、撮影の趣旨にみごとにはまるものだった。
 三谷みことの私服も含めた衣装にアイロンをかけ、高価な小物を管理し、菱田さんから飛んで来るこまかな指示をその都度こなす。友梨奈にとっても気の張る撮影だったけれど、カメラマンのパソコン画面にずらりとならんだショットをみると、満足感が疲労を押しのけてゆくのを感じる。
 そしてリング。菱田さんにもらったピンキーリングを、友梨奈はあれから、まいにちつけている。みるたびにうれしさと、こころが引き締まる感覚を同時に覚えた。
「オッケーです、おつかれさまでした!」
 カメラマンの声を合図に、拍手が起きた。
「ありがとうございましたー」
「おつかれさまです」
 口々に挨拶が交わされ、撮影が終わる。菱田さんからは、プレスへの返却を済ませたら、直帰していいといわれていた。手早く荷物をまとめ、靴やアクセサリーの入った大きな袋をいくつもかかえてスタジオを出た。プレスをまわり、借りていた品物の返却を済ませてしまうと、街はすっかり夕暮れどきになっていた。
 このところずっと撮影が続いて、あすは久しぶりの休日だった。めずらしく世間のカレンダーとも一致して、街の高揚感がダイレクトに自分に響く。事前の約束はしていなかったけれど、悠人に〈いまから会えませんか?〉とLINEを送ってみる。
 悠人とは、東京に来て四ヶ月くらいが経ったころに、近所のカフェで知り合った。悠人はそのカフェの女性店主が定期的に開いている料理教室の常連で、店主が「何となく、おふたりは気が合うんじゃないかなあと思って」と、引きあわせてくれたのだった。東京ではこういうことがよくあるのかと思ったが、仕事で時々会う女性編集者にその話をしたら、「えっ何その縁結びカフェ。行きたいんだけど」といっていたから、めずらしいことなんだとわかった。
 悠人は友梨奈より七歳年上の三十三歳で、おおらかな性格をしている。そのおかげで、つきあいだして半年が経ついまも、ケンカやトラブルもなく、良好な関係が続いていた。
 医療器具メーカーで商品開発の仕事をしている悠人は、仕事がおわると、だいたいまっすぐ家に帰る。家で映画を観たり料理をしたりするのが好きという完全なインドア派で、友梨奈の急な誘いにも、ほぼ百パーセント対応してくれる。だからきょうもきっと会えるだろうという気持ちでいたのだったが、LINEを送信したあと、すぐに電話がかかってきて、
「友梨ちゃんごめん、いま横浜なんだ」
 といわれた。
「大学時代の後輩が、出張で名古屋からこっちに来ててさ。横浜でごはん食べようってことになったんだ。後輩は、友梨ちゃんも合流してくれるんだったら大歓迎だって」
「そっか、ありがとう。でも、いまから横浜はちょっと遠いかな……」
「そうかあ、そうだよね」
「次の機会にご一緒させてもらえる?」
 悠人は残念そうだったけれど、
「うん、わかった」
 といった。また連絡するね、と電話を切る。このままひとり暮らしの自宅に帰ることが、何となくものさびしい。その瞬間だった。スマートフォンが振動し、LINEのポップが浮き上がった。
〈おつかれさまですー。家で引きこもってやってた締め切りが終わって、めちゃくちゃ外食したいんですけど、戸部さんきょうって空いてたりしないですよね?〉
 深瀬奏だった。わたりに船の誘いだった。
〈空いてます!〉
 と即座に返す。
 既読がつき、すぐに電話がかかってきた。
「メキシコ料理って食べられます? 渋谷に気に入ってるメキシコ料理屋があって、そこに行きたいんですけど、ひとりで行くと、鬼のようにせまいカウンターに通されるんですよ。だから、できたらひとと行きたくて」
 深瀬はそう説明した。
「急ですみません。戸部さん大丈夫ですか?」
「わたしも仕事終わりで、外で食べて帰りたいなと思ってたんです。いま表参道なので、渋谷だったらすぐ行けます」
 いいながら山手線の駅のほうへと歩き出していた。

 パリッと焼きあがったタコス。牛挽肉の上で溶ける橙色のチーズ。細長いトマト、わかいアボカド、刻んだ青唐辛子に、くし切りにしたライム。メキシコ料理は色も味もはっきりとして、それを食べる人間を、元気に陽気にするようだ。深瀬の行きつけだというその店は、たしかにどの料理も絶品だった。スペイン語の音楽が流れる店内で、友梨奈は自分が普段より饒舌になっている気がする。それは初めて飲んだメキシコの酒や、深瀬のざっくばらんな態度も影響しているにちがいない。
「ほんと戸部さんが来てくれてよかった!」
 と、深瀬はいった。
「きょうは絶対ここのタコスを食べたかったんですよ。いきなり誘ったのにつきあってくれて、感謝しかないわ」
「わたしのほうこそ、彼に連絡したらいま横浜にいるっていわれて、今夜はひとりでごはんかな、ってがっかりしてたんです。普段は平気なんですけど、きょうみたいに休みの前だと、ひとと一緒にごはんを食べたくなるときがあって」
「わかります。ひとり暮らしあるあるですよね」
 深瀬はそういい、
「そういえば、戸部さんはなんでスタイリストになろうと思ったんですか?」
 と尋ねた。
「もともと美容師をしてたんですけど、菱田さんにあこがれて、アシスタントにしてくださいって、自分から電話をかけたんです」
「それで採用されたの?」
「いえ、最初はことわられたんですけど、手紙を書いて送ったら、空きが出たときに連絡をもらえて」
「マジか、すごいな。戸部さんは、行動力と粘り強さがあるんですね。それ超重要ですよ」
 熱っぽくそういわれて、気恥ずかしかった。
「手紙まで書いてきたひとはいなかったっていわれたから、めずらしい枠で採用してもらったんでしょうね」
「手紙のインパクトが大きいっていうのはそうですよね。僕もファンレターみたいなのをもらうことあるけど、やっぱり印象に残りますよね。こないだ戸部さんが来てくれた収録あったでしょ? あの放送のあとももらったんですよ。手紙っていうかマンガの手紙? みたいな」
「マンガですか?」
「家に現物があるんですけど、スマホに写真入ってるからみせます」
 深瀬はスマートフォンを手に取ると画面をスクロールし、番組あてに送られてきたというその手紙の写真をみせてくれる。四コママンガで、ユニークにデフォルメされた、だが一目で深瀬とわかる人物が描かれている。タイトルは「ファースト・コンタクト」、作者名は「micchi」。作者のmicchiが、くつろいだスウェット姿でソファにすわり、顔にはシートパックをしながら報道番組をみている。番組のなかで、深瀬とおぼしき人物が、先日の放送で実際に深瀬がいった、「あとそもそも論ですが、別に照らす必要もないです。ひとは電気じゃないんで」というコメントをし、micchiはカミナリに打たれたように飛び上がる。「ほんとにそうだ!」とmicchiは思い、翌日「深瀬奏ってひと、すごくいいよ!」と友人たちに伝えてまわるのだが、みんなに「え、いまごろ知ったの?」と呆れられる、という筋立てだった。
 ストーリーは他愛もないのだけれど、そこには何か、不思議とこちらを引きこむ力があった。作者のmicchiが、本当にこれを経験し、本当にこれを感じた。そう思わせる、生きいきとしたものが血液みたいに通っているのだ。それが、ユニークな作画から来るものなのか、何かほかの要素によるものなのか、門外漢の友梨奈には説明できない。それでも魅力があることはわかって、その感想をそのまま伝える。
「おもしろい。絵のセンスも絶妙ですね」
「そうなんですよ! このひと、センスありますよね?」
 深瀬は、我が意を得たりというようにこちらに顔をかたむけた。
「一瞬お礼の返事出そうかなと思いましたよ」
「お返事すごくいいと思います。きっとmicchiさん、うれしいですよ。推しからもらうものって、何でも宝ものになるから」
 そう勧めながら、自然と自分の左手に目が行った。菱田さんからもらったピンキーリング。金色のリングに、うすむらさきの小さな貴石。何度みてもとくべつで、きれいにみえた。

 自分がどうして、ここでこうしているのかわからなかった。友梨奈は手を伸ばし、バッグのなかのペットボトルをつかむ。手についていたオイルで、ボトルがすべりそうになる。わずかに残っていた水を飲みほし、記憶がどこからきれぎれになったかを、思い出そうとする。
「戸部さん、二十六だったら、僕の二つ下なんですね。二歳ちがいだったら、中学とか高校の時期もかぶってるわけだし、ほんとに同世代ですよね。よかったらタメ語でしゃべりません? そのほうが話しやすいし」
 深瀬からそう提案されたのは覚えている。そのときにはすでにメキシコ料理店を出て、二軒目のバーにいた。ふたりとも、ずいぶんと飲んでいた。そのアルコールと、敬語なしに切り替わったことの作用とで、かなりいろんなことを話し込んだ。
 深瀬は、数ヶ月前にわかれたという婚約者のことを話した。モデルの卵のようなひとで、周囲からも好かれている女性だったのだが、婚約したあと、嫉妬とヒステリーが激しくなっていったのだという。
「自分でいうのもおかしいけど、僕は女性が寄って来るっていうか、かなりモテるほうなんだよね。こっちにその気がなくてもストーカーみたいになるファンもいるし、そういうのもあって、嫉妬がエスカレートしたんだと思うけど、最後は手がつけられない感じになってたいへんだった。いまだに執着されてて、こわいんだよね。うちは親が弁護士だから法的なことは相談してるし、いちおう共通の知り合いにも、彼女のメンタルがやばいってことは伝えて、ふたりで行ってた店にも事情を話して出禁にしてもらったり、警戒態勢は取ってもらってるんだけど。戸部さんは、いままでそういうことあった?」
「わたしはないです。美容師時代の店長が、じゃっかんパワハラだったくらいかな」
「ああパワハラもきついよね。僕の高校時代の親友は、理不尽な上司に愛想をつかして、自分で起業してたよ。親の仕事で中学までずっとヨーロッパにいたやつだから、高校生のときから、日本のここがおかしいとかよくいってて、もともと思うところがいろいろあったんだろうね」
「深瀬さんは、中学と高校の時期がかぶってるからわたしたちは同世代だっていってたけど、全然ちがう気がする。わたしの高校には、ヨーロッパ帰りのひとなんていなかったから」
「たしかにそういう生徒が多い学校ではあったね。同級生はいま、だいたい医者になってるか、そうじゃなければ大企業に入ってるか起業してるか。僕はそのなかのひとりに唆されて、本を出す羽目になったわけだし」
 本って、誰かに唆されて書けたり出版できたりするものなのか。その飛躍がよくわからないでいるうち、話題はいつのまにか読書のことに移っていて、最近読んでよかった本を訊かれた。仕事が忙しくてまだ読めていないけれど、同世代のスター俳優が出したエッセイ集を知り合いの編集者が褒めていたので気になっていると答えると、深瀬は、
「いや、あれは読まなくていいと思う」
 と即座にいった。
「文章も内容も素人レベル。騒がれてるけど、俳優としてもたいしたことないよね。ラジオか何かで彼が話してるの聴いたんだけど、チェーホフも知らないらしくて、びっくりしたよ。よくそれで俳優できるなって。あれだったら僕のほうが、演技力もスター性もあるよ」
 深瀬は酔うと、饒舌になるタイプらしかった。端正な顔立ちの、別の若手俳優の名まえを出し、よく彼に似ているといわれるのだと話し始めた。友梨奈は連日働きづめだった疲労が徐々に出て、引きずりこまれるような睡魔を感じた。記憶はそのあたりからあやふやだった。覚えているのは、椅子から立ち上がろうとしてよろめき、「大丈夫?」と腕を支えられたこと。そういっている深瀬自身もかなり酔っていそうだったこと。「タクシーですぐだからうち来る?」といわれて、自分がはっきりとうなずいたこと。
 タクシーのなかでの記憶は、聴覚だけ。「松濤まで」という深瀬の声、「いま叔母さん家に住んでるんだ」という説明、眠りこけていたら起こされて、きれいな一軒家に通されたこと。階段をのぼって深瀬の部屋に着き、スマホでみたmicchiさんのマンガの現物をみせてもらったこと、みていると後ろから抱きすくめられ、キスされて、本が散らばったベッドに押し倒されたこと。そこから記憶が途絶して、次にクリアな意識が戻ったときには引き残したカーテンの隙間から、早朝の白っぽいひかりが差していた。友梨奈ははだかで、花の香りがするオイルにまみれ、深瀬の身体にしがみついてセックスしていた。
 友梨奈友梨奈と深瀬が自分の名前を呼んでいた。すごい相性よくない? めちゃくちゃいいんだけど。自分もそう思っていた。友梨奈は性や恋愛に対して慎重な質で、いままで関係を持った相手は多くない。高校生のときにつきあっていた同級生とはキスまでで、セックスをしたのは、専門学校のときから長くつきあっていたひとと、いまつきあっている悠人のふたりだけだった。きょうが三人目で、いまがいちばん、だんとつに最高に気持ちがよかった。胸を撫でまわされ、腰骨をつかまれ、骨と骨を打ちつけられるようにされながら、甘い声と快楽がどこまでも引き出されてゆく。最高、と深瀬も息を切らせて、うわごとのようにいう。最高、友梨奈エロい、ずっとしてたい。終わったときはただ満足感だけだった。眠って起きて、ほとんど残っていないペットボトルの水を喉の奥に送りこむようにして飲み、きれぎれの記憶をくみたて直す程度の正気を取り戻すと、やってしまったという後悔と、恋人にたいする罪悪感が押し寄せた。
 時計は午後一時を指していた。部屋に深瀬はいなかった。ベッドのサイドテーブルに走り書きのメモが置いてあった。
〈用事があるので先に出ます。家の人間がいるから、玄関の鍵はそのままで大丈夫〉
 きたない文字だった。身体に残るオイルを洗い流したいけれど、知らない家でシャワーを浴びるのは気が進まず、とりあえずここを離れたほうがいいと思う。服を着て、バッグをつかみ、家を出た。玄関の表札は深瀬の名前ではなかった。深瀬がペンネームなのか、叔母さんの家にいるといっていたのでこれがその叔母さんの名字なのか、どちらかなのだろうが、それよりも胸中で増してゆく後悔と罪悪感のほうに気を取られた。
 駅までの道を調べるためにスマートフォンを出すと、悠人から昨夜遅くに何度か着信が入っていて、ますます気が重くなる。未読のメッセージを開くと、悠人は、〈きょうは夕食つきあえなくてごめんね〉と送って来ていた。昨日横浜で会ったという大学時代の後輩だろう、ひとなつっこい顔で笑う大柄な男性と、レストランのテーブルでピース・サインをしているツーショット写真も届いている。
〈明日友梨ちゃん休みなんだよね? 前に話してた市ケ谷のハンバーグ屋さんに、チーズハンバーグ食べに行かない? そのあと九段下とか千鳥ヶ淵を散歩してもいいし〉
 昨夜は早く寝てしまってLINEに気がつかなかった。きょうは用事があるので、ハンバーグ屋さんには、次の休みのときにぜひ行きたい。そういうことを、いまの心境とは真逆のあかるい語調で書き送りながら、後悔と罪悪感に自分に対する嫌悪感が加わって、頭を抱えたくなる。
 だが本当のパニックはそのあと、とにかく何か口に入れようと入った、駅のそばのハンバーガーショップで訪れた。コーヒーを飲み、厚切りのトマトがはさんであるハンバーガーの包み紙をあけようとしたとき、それに気がついた。ぞっとする感覚が走り、「えっ」と声が出た。なかった。小指に嵌めていた、菱田さんからもらったリングがなかった。
 頭のなかがまっしろになる。その慣用句を、実際に体感したのは初めてだった。上着のポケットをさぐり、バッグの中身をすべて出し、化粧ポーチはもちろん、キーケースや、財布のなかまで探す。どこにもなかった。どこかで落とすとしたら、深瀬の部屋以外ありえない。ひとくちも食べていないハンバーガーを包み直してバッグに入れると、来た道を走って戻った。住宅街の道ですこし迷ったけれど、何とか見覚えのある門構えの家にたどりついた。開けっぱなしで出て来た玄関に走り寄って、ドアノブをまわした。だが、扉には既に鍵がかかっていた。
 チャイムを鳴らしてみるけれど、家は静まり返っている。家のひとも出かけてしまったらしかった。あきらめきれずにもう一度チャイムを鳴らすと、一階の窓の向こうでカーテンが動いた気がした。はっとして窓の近くに駆け寄り、
「すみません」
 と声をかける。窓をみあげ、すこし待ってみたけれど、やはり誰も出て来ない。友梨奈はのろのろとその場を離れた。大丈夫、と自分にいい聞かせる。深瀬に連絡して、部屋をみてもらったらきっとある。みあたらないといわれたら、大切なものだからとお願いして、自分で探させてもらえばいい。ぜったいある。ぜったいみつかる。大丈夫。
 帰り道、深瀬にLINE通話をかけてみたが、まだ用事の最中なのか出なかった。メッセージだけでも送っておこうと、電車のなかでテキストを打つ。〈昨日はありがとうございました。すみません、急の連絡があって、電話しました。ご用事が終わったら、お電話いただけないでしょうか〉。すぐに既読のマークがつくけれど、夕方になっても、夜になっても返信はない。
 内容を知らせておいたほうがいいと思い、夜に再びメッセージを書く。〈お部屋に忘れものをしてしまったかもしれなくて、お尋ねできたらと思っています。よろしくお願いします〉。一度だけ読み返して、そのまま送信する。直後に既読のマークがつくが、やはり返信はない。まだ外にいるのかもしれない。具体的な情報を送っておくことにした。
〈落としたのは、小さな金色の指輪です。むらさきの石がついてます。とても大事なものなので、確認していただけないでしょうか。お願いします〉。これだけでは思いが伝わらない気がして、〈何卒……!〉というスタンプも続けて送る。だが、このふたつのメッセージには、翌朝になっても既読はつかない。
 焦りと不安の靄のなかに、閉じ込められた気持ちだった。事務所に着くと、菱田さんが電話を受けているところだった。友梨奈の顔をみると、こちらに向かって軽くうなずいて合図をしながら、
「いま来ましたので代わります」
 と、電話の相手に向かっていった。深瀬だ、と直感的に思った。携帯電話を失くすか何かして、それで、事務所に連絡をくれたのかもしれない。ほっとして、靄が吹き払われる気がする。菱田さんの前だから指輪の話は出せないけれど、忘れものをしたので引き取りに行きたいと、それだけは伝えようと決め、「はい」と電話を代わると、
「戸部友梨奈さんですね?」
 と年配の男性の声がいう。けっして高圧的ではないのに、どこかに圧がかくれているような、かすかに不快感を催させる口調だった。
「渋谷警察署の者ですが、著述業をされているシゲモリダイゴさんをご存知ですね?」
「知らないです」
 反射的に応じたあとに、そういえば深瀬の家の表札に書かれていた字が茂盛だったと思い出す。それでも自分が何の話をされているのかわからないでいるあいだに、今朝シゲモリダイゴから渋谷署に被害届が出されたこと、その内容が、友梨奈から受けているストーカー被害の届であることが伝えられる。
「それでね、一度お話しさせてもらいたいので、署まで来てもらえますか?」
 電話口の警察官は、もはや圧をかくすこともなく告げる。

 仕事があるので、少なくともきょうは行くことはできない。そういって友梨奈は出頭を拒んだ。警察は、どうしても一度来てもらいたい、近日中の来署がむずかしければ電話で話をしたいといった。
「ここは会社なので、十分後にわたしの携帯電話にかけ直していただけますか」
 怒りにふるえる声でそう頼み、自分の電話番号を伝えた。すきでもない男からストーカーの被害届を出されたこと、そのことも信じられなかったが、何より、職場に電話をかけられたことが許せなかった。菱田さんの事務所に入るために、どれだけ努力したか。この職場が、自分にとってどんなに大切な場所なのか。一度話し込んだだけの相手にわかってもらえるとは思わない。それでも、友梨奈がこの仕事に熱意を持っていることや、アシスタントという不安定な立場であることは、深瀬も知っているはずだった。知っていて、警察にこちらの職場を伝え、電話をかけさせたのだ。
「すみません、ちょっと外で電話してきます。三十分以内に戻ります」
 菱田さんにそうことわって、事務所の外に出た。菱田さんはパソコンで作業をしていたが、顔をあげると、こちらに向かってうなずいた。
「戸部ちゃん大丈夫? 何かあったらいってね」
 さりげなくそういってくれた。友梨奈は菱田さんの言葉がありがたかった。その言葉に支えられるような気持ちで、近くのせまい公園のベンチにすわり、携帯電話にかけ直して来た警察官の話を聞いた。深瀬は警察に、ファンの女性が自宅に不法侵入をして、ストーキング行為をしていると相談したらしかった。昼に家に来て何度もインターフォンを鳴らし、ガチャガチャとドアノブを回して家に押し入ろうとした。家の敷地を歩きまわり、窓などを調べていた。夜にもまた来て、インターフォンを鳴らされた。どちらのときも、家のなかにいた母親はすっかり脅えきっており、話を聞いた父親は激怒している。
「わたしは深瀬さんのファンではありません。単なる知人です。一昨日、深瀬さんの家に泊めてもらって、昨日の午後、いったん家を出たのですが、忘れ物に気がついて、取りに行きました。大切な物なので、気が動転していて、何度もインターフォンを鳴らしてしまったのは事実です。ドアを開けたまま出て来たので、まだ開いているかもしれないと思い、ドアも開けようとしました。深瀬さんにも、忘れ物をしたことは数回LINEで伝えましたが、返事はありませんでした」
「それで、夜にも家に行ったの?」
「夜は行ってないです。監視カメラでも何でもみて、確認していただけませんか」
「うーん、あの前の道、監視カメラがないんですよね。きょうが無理だったらほかの日でもいいんで、渋谷署まで来られませんかね」
「とにかく夜に伺ったのは、わたしではありません。それに、泊めていただいたときは、叔母さんのお家だと聞いていたんですが、あのお家が深瀬さんのご実家なんですね。どういうつもりでそんなうそをついていらしたのかわからないですが、わたしは深瀬さんに興味はないです。ただ、忘れものを返していただきたくて、それだけ送ってくださるよう、お伝えいただけないでしょうか」
 なおも署に来るようにいいつのる警官を拒んだ。指輪の特徴を伝え、電話を切った。冷静に話すよう気をつけて、それは何とかできたと思う。こんな濡れ衣を着せられて憮然とする気持ちはあったけれど、酔っ払ってよく知りもしない男と寝てしまった自分がいけなかったという自責の気持ちも強かった。
 親が弁護士なのだと、深瀬はいっていた。深瀬はその親と、東京の一等地に住んでいる。友梨奈には深瀬が、堅牢な壁で何重にも護られているようにみえる。深瀬はトラブルがあったとしても親に法的な相談をすることができ、仕事がなくなっても、住むところがなくなるわけではない。だから平気で、警察から会社に電話をかけさせるようなことができるんだろうか。
 LINEを開き、深瀬とのトークルームを見直した。指輪の説明をしたメッセージは未読のままで、たぶんブロックされている。連絡がほしい、忘れ物をしたというこちらのメッセージも、会うための口実だと思われたということか。とにかく指輪が返って来て、二度と深瀬に関わらないでいられるなら、それでよかった。そう思うしかなかった。
 会社の建物に戻ってくると、ちょうど入れ替わりのように村尾さんがエレベーターから出て来た。先日、村尾さんの写真の個展で会ったとき以来だった。
「村尾さん、こんにちは。いらしてたんですね」
 見知らぬ警察官と気を張って話したあとだったから、どこかほっとする思いで、友梨奈は挨拶した。村尾さんは常にフレンドリーで話好きだから、村尾さんと接するときは、友梨奈もこころもちそれにあわせる。相手のテンションにすこし自分を呼応させるのは、美容師時代からの習慣だった。しかし、村尾さんはいつもとちがった。微妙な表情を浮かべ、軽く会釈だけをして、そのまま去って行ったのだ。
 深瀬が、わかれた婚約者について話していたことが、ふいに頭をよぎった。いまだに執着されててこわいんだよね、と深瀬はいっていた。いちおう共通の友人とか知り合いには、彼女のメンタルがやばいってことを伝えて、ふたりで行ってた店にも事情を話して出禁にしてもらって。
 特に何とも思わずに聞いていたが、あれは事実なんだろうか。深瀬は自分の思い込みで、吹聴してまわっているんじゃないのか。一昨夜バーで話していたときの、深瀬の様子を思い出す。自分がモテるために婚約者がおかしくなってしまったという話のときも、端正なルックスの俳優に似ているといわれるのだと話しているときも、深瀬はそれについて、微塵も疑っていないようにみえた。友梨奈にストーキングをされているというのも、こころからそう確信して、警察に行ったのだろう。
 深瀬のツイッターを検索する。今朝、投稿されたばかりのツイートがあった。
〈またストーキング被害を受けました。警察に被害届を出し、対処してもらっています。ご本人のプライバシーに配慮して詳細は書きませんが、かなり困っています〉
〈いい友人になれるかなーと思ったのが、恋愛感情を持たれ、執着されてしまうパターン……〉
 たくさんのリツイートやリプライがついている。女ストーカーこわ。たいへんですね。法的な手段に出たほうがいいと思います! 深瀬さんイケメンだからな。これに似た経験わたしもあったなぁ。ストーカーになるやつの心理なぞ。頭おかしいひとっているからね……。
 リプライを目で追っていると、リンクと共にあたらしいツイートが投稿された。
〈先日の、地方の女性に対するコメントについてウェブインタビューを受けました。地方に残っているひとはもちろん、地方から東京に出て来ている女性たちを、ちゃんと応援して行かなきゃだめでしょ、って話をしてます〉
 ハートマークとリツイートの数があっという間に増えていく。くるくると増えていく数字をみていると、スマートフォンが手のなかで振動した。菱田さんからの着信だった。
「はい」
「戸部ちゃん、戻って来られる? 話したいことがあるんだけれど」
 菱田さんの声は冷静だった。だがそこには、さっきまでたしかにあったはずのものが失われてしまったことを、友梨奈は悟る。どういう言葉であらわすのが最も適切かわからないけれど、たとえば信頼、あたたかみ、全幅の好意、そういったもの。ピンキーリングも、その失われた何かも、再び取り戻すのはむずかしいだろうということを、直感的に理解した。

                           (第1章 了)