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サチコとポケモン――李琴峰「日本語からの祝福、日本語への祝福」第2回
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サチコとポケモン――李琴峰「日本語からの祝福、日本語への祝福」第2回

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台湾出身の芥川賞作家・ことさんによる日本語との出会い、その魅力、習得の過程などが綴られるエッセイです。

第2回 サチコとポケモン


 私は平成元年生まれである。一九八九年、それは世界史的に転換点となる年だった。その年にベルリンの壁が崩壊し、鉄のカーテンが破られ、中国では天安門事件が起き、民主化運動が頓挫した。日本でも昭和天皇が崩御し、バブル経済の絶頂期の真っ只中で平成を迎え、日経平均株価が史上最高値を更新した。しかし当然ながら、自分が大変な年に生まれてきたということを知ったのは随分後のことだし、平成元年生まれにもかかわらず「平成」という言葉を知ったのも、平成が半分以上過ぎた後のことだった。子供の時代の私にとって、ベルリンの壁崩壊よりもゲームボーイの発売(こちらも一九八九年だ)の方がよほど重要な出来事だったと言える。

 私は台湾の農村地帯で生まれた。鉄道が通っておらず、バスも二時間に一本あるかないかくらいの田舎だ。家から少し歩くと田んぼが広がり、夜になると真っ暗で静かだった。祖父母は貧乏な農家だったが、親はうまく時代の流れに乗って商売を始め、小さな成功を収めた。おかげで私は人並みの教育を受けることができた。

 台湾には五十年間(一八九五~一九四五年)、日本によって植民統治された歴史がある。一八九四年の日清戦争で中国(清国)が負け、下関条約で台湾を日本に割譲したのだ。日本統治時代、特に太平洋戦争が始まって以降、台湾では国語教育という名の日本語教育が進められていた。そのため、台湾では一定年齢以上の世代であれば日本語が話せる人が多く、彼らは「日本語世代」とも呼ばれる。

 しかし、それは私の家系とは関係のないことだ。確かに祖父母の年齢で考えると、彼らの子供時代は日本統治時代と重なってはいる。学校に行っていれば、日本語教育は受けていたはずだ――学校に行っていれば、だけれど。

 その地域が田舎過ぎて国語教育が行き届かなかったのか、それとも祖父母が貧乏過ぎて教育を受ける余裕がなかったのか、ともかく祖父母は二人とも日本語ができなかった。それどころか、彼らは中国語もできないし、字も読めないのだ。

 あの時代の台湾人はみな当たり前のように日本語ができると思い込んでいる人がいるが、残念ながらそれは事実ではない。少なくとも私の祖父母はそうではない。また、台湾には「犬去りて豚来たり」という言葉がある。「犬」とは台湾を統治していた日本人のことで、「豚」とは日本人が去った後、新たな統治者として台湾にやってきた外省人(*1)のことだ。犬は家の見張りくらいはできるが、豚は食べるだけで働こうとせず、犬よりも劣る、だからあの時代の台湾人はみな日本統治時代を懐かしんでいる、故に親日的だ――そう思い込んでいる人もいる。しかしそれは恐らく一部の知識人や中産階級以上の人たちに限った話であり、政治的なことを何も知らず、教育も受けておらず、(その内実が日本語だろうと中国語だろうと)も話せないし字も読めない、地方の農村でただ田んぼを耕していただけの私の祖父母みたいな人たちにとって、誰が統治者だろうと生活は大して変わらなかったのではないかと思う。

 日本語も中国語もできない祖父母が日常的に使う言語は台湾語と呼ばれる、中国の福建省南部に起源を持つ中国語の方言だ(方言といっても中国語=マンダリンとは全く意思疎通ができないため、もはや別言語とも言える)。それは清代の中国から移ってきた福建省移民が持ってきた言語で、台湾で独自の変化を遂げ、更には日本統治時代に日本語の語彙を外来語として取り入れてできた言葉だ。

 日本語のを取り入れた台湾語の文は、例えばこんな感じだ。

「リナ・べキ、ディオ・キャ・オドバイ・キ」
「リ・シッザイ・ウガウ・アサリ・ネ」

 これは「もし行くならオートバイに乗って行って」「あなたって随分さっぱりした性格をしているね」の意味だが、「オドバイ」は「オートバイ」に、「アサリ」は「あっさり」に由来している。「あっさり」は日本語では副詞だが、台湾語では性格を表現する形容詞として使われており、意味合いも少し変わっている。ちなみに「オドバイ」「アサリ」以外の部分は漢字で表記することもできるが、私の祖父母は字が読めないので、ここでは敢えて片仮名表記にした。

 台湾語は福建省南部(=びんなん)に起源を持つから「台湾閩南語」とも呼ばれ、中国の閩南語とは今でもある程度意思疎通ができる。しかし何と言っても、私の祖父母は農民だ。彼らは日常生活の意思疎通に必要な語彙量しか持っておらず、抽象的な概念を表す言葉はほとんど何も知らない。天気や農作物について話したり、電話番号を伝えたり、簡単な取引をしたりすることはできるが、李白の詩を音読したり、マルクス主義について議論したり、言語の深奥について語ったりするために必要な語彙は持っていないのだ。

 私の親世代と言えば、台湾語も中国語もできる。台湾語は彼らの親世代から受け継いだし、中国語は学校で習った。もちろん、字も読める。ちょうど多くの台湾人がそうであるように、二人はいつも中国語と台湾語が入り交じった言語で喋る。二人の会話を聞いていると、こんな感じの文がたくさん出てくる。

「リ・シュンベ・ジャシャ? ジャ・マイダンラウ・ガム・ホー?」

 これは「何が食べたい? マクドナルドでいい?」という意味だが、「マクドナルド=麥當勞」のところだけが中国語で、他は台湾語だ。

 そんな両親は、台湾語しかできない祖父母と話す時は台湾語のみ使うが、子供世代の私とは専ら中国語で(時には台湾語も交えて)話した。とはいえ、二人の台湾語は祖父母の世代から自然習得したものなので、やはり抽象的な概念を表す語彙がそれほど豊富ではなかった。

 つまり、私の家では親子三代、それぞれ違う言葉を話していた。祖父母は台湾語しか話せない。両親は台湾語も中国語も比較的りゅうちょうに話せる。私も両方話せるが、中国語の方がずっと得意で、台湾語はそれほど流暢ではなく、そのため祖父母との会話はいつも難儀していた。だからこそ日本語を習得し、日本に来てから、祖父母よりも年上の日本人とは普通に意思疎通ができるという事実がとても不思議だった。祖父母と難なく会話ができるというのは日本では当たり前のことだろうが、私の家では、世代間に言語的断裂があるという状況こそが当たり前だったのだ。そしてそれは台湾の多くの家庭の当たり前でもあった。

 ここにもう一つ重要な事実がある。私の祖父母も両親も日本語ができない。それどころか、一族や親戚の中には日本人や日本在住者はおろか、日本語ができる人は一人もいなかった。子供時代の私にとって、日本語に触れる機会は皆無に近かった。それが私と他の台湾籍日本語作家との決定的な違いである。

 日本語という言語を選び、学習したのは家庭環境の影響ではなく、一〇〇パーセント自分の意思なのだ。

 平成元年生まれの私が「平成」という言葉を知ったのは、日本語がある程度上達した十代後半のことだった。「昭和」という言葉はもっと早くから知っていた。小学校低学年の時、スタジオジブリのアニメ映画『火垂ほたるの墓』で知ったのだ。あれはVHSの時代で、日本のアニメも台湾では中国語の吹き替えが施されていた。だから私がそこで覚えたのは厳密には「しょう」という日本語ではなく、中国語読みの「ジャウハー」だった。当然、どういう意味か全く見当がつかなかったけれど。

 では、人生で最初に耳にした日本語の言葉は何だったのだろうか。記憶の糸を手繰ってみると、ある歌が幼児期健忘の薄闇から浮かび上がってきた。男の声が切々と、「サチコ」と連呼している。

サチコ サチコ お前の黒髪
オレはいつまでも お前の名前を
呼んだぜ 呼んだぜ 冷たい風に

 日本のバンド、ニック・ニューサの演歌「サチコ」だ。一九八一年に発表され、大ヒットした曲らしい。八〇年代と言えば昭和演歌の全盛期で、酒、故郷、港町、悲恋、耐える女などをモチーフにした歌が大量に作られ人気を博した。そしてその影響が台湾にも波及し、台湾語歌詞のカバー曲が数多く作られ、台湾歌謡界の一大ジャンルとなった。「サチコ」が日本で発表されて十数年経った後、台湾のカラオケで誰かがそれを日本語で歌い、その場に居合わせた幼い私が耳にしたのだろう。
 
 もっとも、当時の私は日本語が全くできず、五十音すら読めなかったから、歌詞の意味も何も分からない。ただ、哀切な旋律に乗って連呼された「サチコ」という意味不明の響きが面白いと思った。それは台湾語の「サッコー=一円を捨てる」と発音が似ているからだ。なんでお金を捨てんねん? と内心ツッコミを入れていたかもしれない。

 流石さすがに八九年生まれの私にとって、演歌は渋過ぎた。全く心を惹かれなかった。日本文化の中で私の心を惹いたのは別のもの――アニメ、漫画、ゲームなのだ。
 
 幼稚園時代から、テレビで流れる日本のアニメを何となく見ていた。当時流れていたアニメのタイトルはほとんど忘れており、唯一覚えているのは『美少女戦士セーラームーン』(中国語のタイトルは『美少女戰士』)だけ。とはいえ親が厳しく、ほとんどテレビを観させてくれなかったので、ごくたまにしか観られず、物語もよく分かっていなかった。
 
 小学校に上がってから触れる作品が増えた。低学年の時は『名探偵コナン』『ドラえもん』が大好きだった。当時の教室の本棚は日本で言う学級文庫みたいな感じで、生徒がおのおの本を持ち寄り、誰でも自由に読むことができる仕組みになっていた。その中に『名探偵コナン』の漫画(最初の数巻分だったと思う)が入っていて、一読してすぐにハマった。あの頃、私の親はゲームセンターを経営していて、店には日本製のアーケードゲーム機がたくさん置いてあり、漫画も売っていた。私が学校でいい成績を取ると、親はご褒美として商品の漫画のフィルムを剥がして読ませてくれて、読み終わってからまたフィルムに包んで本棚に戻した。
 
 当時はまだ著作権が緩かった時代で、世界的に大流行した『ドラえもん』は台湾では無数の海賊版が存在した。五~十個くらいのエピソードを適当に集めた薄い合本が文具店の店先で売られていて、紙の質もよくないし印刷も劣悪なので値段が安く、一冊十~二十元(一元≒三円)くらい。おかげでなけなしのお小遣いでも買えた。下校の途中で文具店を訪れるのはいつも楽しみだった。ちなみに、海賊版が乱立していた時代の『ドラえもん』の中国語タイトルは『小叮噹シャウディンダン』で、後に音訳重視で『哆啦A夢ドゥオラーエーモン』と改められた。
 
 小二のある日、コンビニで売られる新聞の一面の、とある記事の見出しに私は目を惹かれた。その記事の見出しには「口袋怪獣」という四文字が含まれていた。当時私は既にある程度字が読めていたので、「怪獣」というファンタジックな言葉に注意が向いたのだ。「口袋怪獣のパワーは実にスゴイ! 日本中の子供に襲撃!」みたいなノリの見出しだったと記憶している(台湾の新聞記事の見出しは何かと扇情的だ)。何だろうと思って本文を読むと、どうやらアニメのせいで日本ではたくさんの子供が病院送りになったらしい。

「口袋」とは「ポケット」のことで、「怪獣」は当然「モンスター」だ。この記事はつまり、一九九七年十二月十六日に起きた「ポケモンショック」を報じるものだったのだ。当時日本で放送された『ポケットモンスター』第三十八話「でんのうせんしポリゴン」では激しい光の点滅が多用されたため、子供たちは光過敏性発作を起こし、身体に不調を来たした。あの時『ポケットモンスター』は台湾ではまだ放送されていなかったので、記事を読んだ私は「へー、すごいアニメだなー。怖いから見ないでおこう」くらいの感想しか抱かなかったと思う。

 しかし果たして、『ポケットモンスター』が『神奇寶貝』というタイトルで台湾でも放送が始まると、私はすぐにハマってしまった。これが日本の子供たちを病院送りにしたあのアニメだとも気付かずに。

 それもそのはず、「神奇寶貝」と「口袋怪獣」では、語感がまるで違う。恐らく「ポケモンショック」の時、台湾ではまだ正式な訳名が存在していなかったので、新聞記者は「ポケットモンスター」を「口袋怪獣」と直訳したのだろう。ところが台湾での放送開始にあたり、より子供にとって親しみやすいタイトルが必要ということで、「神奇寶貝」というタイトルがつけられた。「神奇」とは「不思議な」の意味で、「寶貝」とは「宝物、ベイビー、可愛い子」という意味なので、なるほど確かに子供向けアニメに相応ふさわしいタイトルと言える(*2)。『神奇寶貝』が台湾でも大流行したためだろう、『デジタルモンスター』が台湾に輸入された時もその訳し方を踏襲し、『數碼寶貝』というタイトルになった。

 ところで、私が最初に観た『ポケットモンスター』のアニメは第三十一話「ディグダがいっぱい」だった。「ポケモンショック」の第三十八話まで数週間しかない。日本であれだけの社会問題になったのだから、第三十八話「でんのうせんしポリゴン」は当然台湾では放送されなかった。しかし、台湾のテレビ局は実に仕事が雑で、第三十七話の「次回予告」コーナーでは、映像は第三十八話のままなのに音声だけが第三十九話「ピカチュウのもり」のものになっていた。次週にまみえるのはポリゴンなのか大量発生したピカチュウなのか、観ているこちらがちんぷんかんぷんで、何が起こったか分からなかった。

「サチコ」は私が人生で最初に耳にした日本語で、『ポケモン』は子供時代に一番ハマった日本のアニメだ。中学の時、日本語を独学し始めた私はようやく「サチコ」が人名であること、そして「神奇寶貝=口袋怪獣=ポケットモンスター」ということに気付いた。小二の時に何気なく目にした「ポケモンショック」の記事と、第三十七話のめちゃくちゃな次回予告との関連性もそこで分かった。子供時代の謎が一つ解け、目から鱗の気分だった。これもまた日本語を勉強したおかげだ。

*1 台湾の根深い問題の一つとして、「省籍矛盾」がある。とりわけ「本省人」と「外省人」との間のあつれきが深刻だ。本省人とは日本統治時代以前に既に中国から(主に福建省から)台湾に移住してきていた人たちとその子孫のことで、外省人とは日本統治時代終了後に移住してきた人たちとその子孫のことである。内戦で中国共産党に負け、一九四九年に台湾に逃れた国民党政権とともに流入した人たちもまた「外省人」と呼ばれる。外省人は台湾ではマイノリティだが、政府の要職を占めるなど利権を独占していたため、多くの問題が生じた。私は本省人の家系の生まれである。ちなみに、一部の日本人の間では「本省人は日本統治時代に日本から恩恵を受けたため親日的であり、外省人はほんとは中国人だから反日的だ」みたいな俗説が流れているが、当然ながらそれは極めて浅薄かつ乱暴な愚論である。

*2 ちなみに、同じ中国語圏でも台湾以外の地域では違う訳名が使われていた。例えば香港では「寵物小精靈(ペットの小さな精霊)」と訳されていて、シンガポールでは「袋魔(袋の魔)」と呼ばれていた。任天堂のポリシーによって中国語圏での訳名が「精靈寶可夢」に統一されたのは二〇一六年のことで、更に一九年には音訳重視の「バウカーモン」と変更された。「神奇寶貝」という名前に慣れている私にとっては今昔の感だ。

                   JASRAC 出 2203807-201

※毎月1日に最新回を公開予定です。


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