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北尾トロ『佐伯泰英山脈登頂記』第2回


第1峰『密命』
 
すべてはここから始まった!
崖っぷちから放たれた、衝撃の時代小説デビュー作
 
 1999年1月、書店の文庫本コーナーに1冊の時代小説が姿を現した。『密命 見参! 寒月霞斬り』という勇ましい題名がつけられていたが、覚えのある読者はいなかった。なぜなら、雑誌掲載もされず、単行本として出版されることもない〝文庫書き下ろし作品”だったからである。
 
 だが、売れた。大宣伝をされたわけでもないこの作品を、おもしろい時代小説が読みたいと書店へやってくる読者たちは見逃さなかった。佐伯泰英という、当時56歳の遅れてきた新人時代小説家は、偉い先生の後押しでも、出版社の大プッシュでもなく、余暇を読書で楽しむ本好きたちがレジで払う文庫代の膨大な積み重ねで、平成を代表するベストセラー作家へと成長していくのだ。
 
 このように、『密命』シリーズは佐伯泰英が時代小説界に足を踏み出した記念碑的作品。この時代小説デビュー作で評判をとり、人気作家となったのだから、佐伯時代小説を登山とみなして登ろうとする私がまず征服すべき頂はこれだと、迷うことなく全巻入手した。
 
 佐伯泰英山脈全踏破を目指す長い旅の始まりだ。毎日1巻、週休1日で乗り切っても丸1カ月かかる計算だが、自分から「やりたい」と手を挙げたこと。最高の娯楽を与えられたワクワク感しかない。さあ、一気呵成に読むぞ!
 
 つい肩に力の入った文章になってしまうのは、全26巻、威風堂々とした『密命』シリーズの佇まいに、たじろぐ気持ちがあるからだ。全巻積んで計ってみたら、約42センチも厚みがあった。
 
 その中でも、第1巻が群を抜いて分厚い。ページ数は優に500ページ超。文章量も多くてずっしりしている。2巻になると450ページ程度とやや薄くなり、10巻まではそのペース。以降、350ページ前後で落ち着くようになる。いろいろ試してみた結果、著者にとって書きやすく、読者も気軽に手に取れる厚みは、1巻につき350ページ程度という結論に達したのかもしれない。
 
 同じシリーズなのに、序盤と中盤以降でページ数が大きく異なるのはなぜなのか。とくに第1巻の『密命 見参! 寒月霞斬り』はどうしてこれほど分厚いのか。
 
 それは、シリーズ化を前提として書かれた本ではなかったからだ。有名な話だが、佐伯泰英は当時、作家としてやっていけるかどうかの瀬戸際に追い込まれていた。本編に入る前に、『密命』シリーズ誕生までの経緯を整理しておこう。
 
 1942年、福岡県北九州市に生まれた氏は、日大芸術学部卒業後、CM制作の仕事を経て、夫婦でスペインへ移住し、闘牛写真家として活動。1974年に帰国してからはカメラマンとして雑誌などで仕事をするようになった。初の出版は闘牛の写真集。以後、活字の世界に軸足を移しながらノンフィクションを書くようになった。小説家デビューは1987年の『殺戮の夏コンドルは翔ぶ』。おもに世界を舞台とする国際犯罪小説を手がけていた。ところが、本が売れない。書いても書いても初版止まりで、仕事は先細っていくばかり。どん詰まりの状態を打破したいと出向いた出版社で、編集者からはっきり言われた。
 
「書くとしたらあとは時代小説か官能小説しかないね」
 
 受け取り方によっては、絶筆のすすめに聞こえたかもしれないが、佐伯泰英は素直にそのアドバイスに従うことにした。その2択なら、読書経験が豊富な時代小説だ。やるだけやってみようと執筆に取り掛かり、編集者に渡した原稿が、私がこれから読もうとする『密命』シリーズの第1巻になったわけだ。
 
 このシリーズの解説本である『「密命」読本』に収録されたインタビューでは、本が売れ出したときの驚きを、つぎのように振り返っている。
 
〈……本がかたちになって、一週間から十日したときに、「佐伯さん、『密命』が重版になったよ』という電話をいただいたの。僕の物書き人生で初めての重版。僕、絶対嘘だと思ったから、『どなたかとお間違いではございませんか』って〉
 
 予期せぬ連絡を受けた喜びが伝わってくる、いいエピソードだと思う。
 
 出だしからいきなりおもしろいではないか……。『密命』シリーズを読んだ方なら、私が抱いた平凡な感想を笑って許してくれるだろう。ややこしい前置きもなく、1行目から、目的地に向かって最短距離を走る無駄のない文章で、物語のきっかけとなる出来事が語られるのだ。
 
 まだ全貌ははっきりわからないが、話はもう動き始めている。しっかり読んでおかないと取り残されかねない。そんな緊張感を持ってしまうほどテンポがいい。映画の冒頭シーンにも似て、具体的に何がわかるわけでもないのに胸が高鳴る。ろくに知りもしない江戸時代の情景まで思い浮かべながら、まんまとフィクションの世界に引き込まれてしまった。
 
 しかも、この山は出し惜しみをしない。早々に『密命』の内容まで明かし、読者は主人公の金杉惣三郎が、豊後相良藩主の斎木高玖に依頼された、藩の存続にかかわる難題を解決しようとする話であることを知らされるのだ。
 
 惣三郎は若い頃、わけあって幼少期の高玖を救ったことがあり、そのトラブルで役職を解かれて郷里に戻ってから、冴えない日々を送っていた。妻が早世し、二児を育てるのに四苦八苦するシングルファザーでもある。しかし、それは演技で、実際は修業を重ねて剣の技を追求し、ここ一番に備えていたのである。
 
 使命を果たさんと江戸に潜入し、長屋に暮らして藩とは無関係であると装う惣三郎。しかし、その手は通じないとばかりに刺客が現れ、かと思えばかつての上司の娘との恋愛関係も始まって、幹から枝が伸びるようにエピソードが育まれては複雑に絡み合っていく。このあたり、いくつかの設定は変えているものの、藤沢周平の『用心棒日月抄』とよく似ていることを、著者自身も認めている。
 
〈ともかく最初は藤沢周平さんの『用心棒日月抄』のパクリ、状況設定がまるで同じです。藤沢作品が好きで作家を敬愛していましたからね、模倣から『密命』は始まりました〉(『佐伯泰英!』より)
 
 惣三郎をサポートすべく派遣された熟達の忍び(男女それぞれいる)。江戸暮らしで知り合っていく気のいい仲間や、やけに面倒見のいい大店の店主も、気がつけばずっと前からそこにいるように存在感を発揮し始めて、惣三郎の周辺はにぎやかになる一方だ。
 
 見知らぬ同士の気が通い合うさりげない会話。新たな人物が登場する際の職業や商売の説明。その間にも虎視眈々と敵方は惣三郎の命を狙い、そろそろかなと思うあたりで見せ場となるチャンバラが繰り広げられる。惣三郎が「密命」を与えられたのは、藩主との絆もさることながら、ずば抜けた剣の腕前を見込まれてのことでもある。相手もやくざ者から一流の剣士まで多士済々。命のやり取りとなる緊迫の場面だけに、描写はこってり。決着はどちらかの死によってつく。
 
 読者としては手に汗を握って読んでしまう場面なのだが、剣豪である惣三郎にとっては使命を果たすために避けて通れない道。しょっちゅう刺客に狙われていて、いちいち引きずることもない。
 
 読者も、凄惨な決闘シーンを読まされているうちに慣れてくるのか、人を斬った後で飯を食べたり、大店に頼まれた案件を片付けに行く惣三郎をなんとも思わなくなる。時代小説をさほど読み込んだ経験のない私も、たちまちそうなった。決闘シーンは、著者の表現力や描写力を味わうのが正しい読み方だとさえ思う。
 
 なぜ余裕のある意見になるのか。答えは簡単。惣三郎、ものすごく強いのだ。奇襲にたじろがず、多勢に臆せず、たまに傷を負うことはあっても、最終的に必ず勝つ。直心影流の達人で地方の小藩ではナンバーワンでも世間は広い、上には上がいるだろうなどという常識的発想はどうかしないでもらいたい。腰に差すのは藩主から拝領した名剣・高田酔心子兵庫。負けるはずがないのである。
 
 そんな調子で一難去ってまた一難のアクションシーン連発。歳こそ30代半ばのオヤジだが、2児を抱えつつ相思相愛の相手にも恵まれ純愛小説のムードも漂う。その合間を縫うように、江戸の人々との交流や信頼関係、人情噺もひっきりなしだ。
 
 とにかく濃厚なのである。小説を書くことには慣れているとしても、時代小説は初挑戦。しかも、これでダメなら官能小説しか売れる可能性がないとまで言われているのだ。20代の若者なら話は別だが、このとき佐伯泰英56歳。すでに潰しのきかない年代になっていた。それに、これは私の想像だが、氏は小説を書くことが大好き。だとすれば、ここで勝負を賭けるしかないと考えるのは自然だろう。重版経験すらないのだから、この時点では長期シリーズのことなど念頭になかったはずだ。一球入魂ならぬ一冊全集中である。
 
 それが第1巻にもろに出た。ラーメンに例えるなら、自らの時代小説体験と、培ってきた小説家としての技術をミックスさせて作り上げた、全部盛りの特製佐伯ラーメンだ。
 
 デビュー作には、その作家のすべてが詰まっている、と言われる。いくつもの小説を書いてきた佐伯泰英なら、シリーズ化を意識せずに書かれた『密命 見参! 寒月霞斬り』にこそ、佐伯時代小説のすべてが詰まっている、となるだろうか。ここには過剰なほど、時代小説の要素が注ぎ込まれているからだ。
 
 もしも、この作品が増刷を果たさずに終わっていたらどうだろう。1巻で完結する話なら、惣三郎が苦難を乗り越えて藩主の命を果たすまでを、剣豪小説としてじっくりと描いても良さそうだ。あるいは裏切りや陰謀の渦巻く藩主争いの話でもいい。いまの設定を活かすにしても、惣三郎に子どもがいりますか、恋愛まで持ち込んだらややこしくなりませんかと言いたくなる。
 
 が、全体をすっきりまとめる方向であったなら、売れたかどうかは怪しいものだ。全部盛りのごった煮感や筆の勢いに任せたかのような急展開の連続こそが、既存の時代小説に物足りなさを感じていた読者に響いたのである。
 
 特徴的だと思う点もいくつかあった。まず、書こうとすれば書けたエロティックなシーンが皆無に近く、意識的に避けたように思われる。残酷な場面も実は少ない。たくさんの死者は出るのだけれど、映画の斬られ役のようなもので、いきなり現れて消えていくので、感情移入しようにもできないのだ。同じく貧困が招く悲劇、弱者同士の裏切り合いなども排除され、いやな気分になりにくい。さらに、主人公など少数以外には、深く掘り下げた人物を増やさないのもポイント。おかげで、要素が多くてごちゃつきそうな話をすいすい読み進めることができる。
 
 時代小説を書くにあたって、佐伯泰英が胸に誓ったのは、徹底したエンタテインメント作品を作り上げることではないだろうか。誰もが気分を害することなく楽しめて、わくわくドキドキを味わい、読み終えた途端に詳細はどうでもよくなって、ただただ「おもしろかった」が残る。そんなサービス精神満点の小説を目指したとしたら、売れずに完結となる可能性のあった『密命』シリーズ第1巻は、十分に目的を達している。最後のクライマックスでは、船まで使い、海洋アクション要素を加えてくる暴れっぷりなのだ。
 
 しかし、それにしてもと思わずにはいられない。第1巻でここまでやりつくしたら、ここから先、どう転がっていくのだろう。
 
 初めて重版した喜びをしみじみ味わっている時間はなく、すぐに編集者から続編の執筆依頼が来る。ヒット作が出たらシリーズ化するのが通常なのかはわからないが、「まだまだ読者が増える」という判断は正解だった。シリーズ物は最初が良くても徐々にマンネリ化して売れ行きが落ちるものだが、『密命』シリーズにこの常識は当てはまらず、逆にどんどん売れまくるのだ。新規読者がつけば第1巻から読んでもらえるので、過去作品も増刷を繰り返すことになる。
 
 それにしても、16年の年月をかけ、26巻まで続いたのはすごい。佐伯作品には長期シリーズがいくつもあるが、それらは当初からシリーズ化を約束されたものだから事情が異なる。
 
 さて、第1巻では派手で目まぐるしい展開と剣術アクションで読者を楽しませたが、シリーズとなるとそれだけではもたない。剛腕を発揮して書くことができたとしても、読者の期待と微妙なズレが生じると思える。私自身がそうなのだ。あのペースでガンガン来られては26巻まで身が持ちそうにない。ここはひとつ、緩急をうまく使った進行でお願いします。
 
 やってくれますよ、佐伯泰英は。第2巻から徐々にゆったりした進行になり、ときにはわき道にそれてみたり、かと思えばお家騒動的な定番アイテムを持ち込んだり、あの手この手で楽しませてくれるようになった。顕著なのは主人公である金杉惣三郎の描き方。第1巻では武骨で純情な性格、まじめな剣の達人ぶりが強調されがちだったのが、恋愛を成就させて再婚を果たすと、夫や父親としての側面が前に出てくるように変化してきた。
 
 笑いの要素も増えてくる。ちょっとしたやり取りや会話の端々に生活感がにじみ、人間味があふれ出してくるのは第1巻ではあまりなかった部分だ。何が大きく変わったのか。『「密命」読本』のインタビューで、シリーズ化に当たって編集者と話し合ったことがヒントになる。
 
〈「これは家族の物語であり、かつ息子の物語にしたいから、父と子の葛藤の物語だから、続けさせてください」ってお願いした〉
 
 この言葉通り、このシリーズは後半になるに従い、金杉家の人たちがクローズアップされ、ときには惣三郎の影が薄くなるほどの活躍を見せるようになる。交友関係においても、金杉家との付き合いになっていくのが読ませどころのひとつとなる。
 
 ただし、アットホームな家族小説になると思ってはならない。敵はいつでも惣三郎を狙っているのだ。藩主との関係は生涯切れるはずもない。シリーズ化を前提として書かれなかった最初の密命が成就しても、つぎの密命がやってくる。
 
 こんなにあからさまに騒動に巻き込まれていたら〝密”とは言えないのではと思うが、そんなのは小さなこと。夫や父親でありつつも最上位にいるのは藩主で、その危機を防ぐためならわが命など惜しくないという考えは、一瞬たりとも変わることがないのである。
 
 というわけで、家族小説という大河ロマンに舵を切る同シリーズ。第1巻で思いつく限りの要素を投入したことが、大長編の太い柱として育ってきた。雰囲気が変化する第2巻以降もおもしろいが、その質が変わっていくと言えばいいだろうか。
 
 そこに戸惑いを感じないためにも、第1巻は『密命』シリーズの魅力が凝縮された特別版で、第2巻から前作を下敷きとする大長編がスタートすると考えるのがいいかもしれない。ぐいぐいページをめくらせる力が落ちることは一切ないので、そこは安心してほしい。

※次回は、5/25(土)更新予定です。

見出し画像デザイン 高原真吾(TAAP)



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