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麻見和史『殺意の輪郭 猟奇殺人捜査ファイル』第6回



 安川がパチンコ店に戻っていくのを見送ってから、尾崎は広瀬を見つめた。

「どういうつもりだ。さっきのは明らかにやりすぎだぞ」

 責める調子で尾崎が言うと、彼女は不思議そうな顔をした。

「そうでしょうか? 私は捜査上の秘密を明かしたりしていませんし、問題はなかったと思っていますが」

「昨日今日入った新米じゃないんだから、君にもわかるはずだ。助けを求めた人間を警察が守れないなんて、そんな話をするのはまずいだろう」

「具体的に考えれば誰でもわかるはずです。でも実際にはそこまで気がついていない市民が多い。ですから私は、安川さんに現実を見つめてほしかったんです」

「現実を見つめさせて、怯えさせるのが目的か」

「とんでもない。さっきは自分の立場を理解した結果、安川さんが不安を感じて、警察に情報提供してくれたわけですよ。私たちは彼の協力に感謝すべきだと思います」

 悪びれる様子もなく広瀬は淡々と説明する。それを聞いているうち、尾崎は苛立ちを感じてきた。言葉は通じているが、まるで意思の疎通ができない機械を相手にしているような気分だ。

「君はいつもあんなやり方をするのか」

「時と場合によりますね」

「ああいう方法はいつかトラブルに繋がるぞ。安川だからうまくいったが、気の荒い人間だったらどうなっていたかわからない」

「それは公務執行妨害ですよね。その場で逮捕できるんじゃありませんか?」

 ああ言えばこう言う、といった具合で広瀬は反論を重ねてくる。

 まいったな、と尾崎は思った。モデルのようにスマートで、しかも知的な女性だと感じていたのだがまったく違う。世間知らずの、どこかずれた人間というふうに見える。

「前は赤羽署にいたんだったな。そこでは、ああいうのが許されていたのか?」

「最初は尾崎さんのように気にする人もいたようですが、そのうち何も言われなくなりました。まあ、私は成果も挙げていましたし」

「急に異動になったんだよな?」

「そうですね」

「何か思い当たることはなかったのか」

「警察官に異動はつきものでしょう。私は深川署でも全力を尽くすつもりです」

 上司に厄介払いされたのではないか、と思えてならなかった。

 だがここでそれを指摘するのは、さすがに厳しすぎるという気がする。こちらは上の立場ではあるが、今後ずっとコンビで活動するのなら、人間関係には気をつかう必要があるだろう。そういうわけで、もう少し様子を見るべきだと尾崎は考えた。

 日暮里駅へ戻る途中、ファミレスを見つけた。そういえば昼食がまだだったのを思い出した。ここでいいかと尋ねると、広瀬はこくりとうなずいた。

 昼休みの時間はとうに終わっているが、まだランチを頼むことができた。窓際のテーブル席で、尾崎たちは遅い昼食をとった。

 せっかく奢ってやるというのに、先ほどのことが心に引っかかっている。食事をする間、ふたりとも黙り込んだままだった。どうにも気まずい雰囲気だ。

 思うところはあるが、この先の捜査に影響が出ては困る。深川署の先輩として、ふたりの間の空気を変えなければならないと思った。周りのテーブルに客がいないのは幸いだ。

「広瀬はどうしてこの仕事に就いたんだ?」尾崎は尋ねた。

 コーヒーカップを手にしたまま、広瀬はこちらを見てまばたきをした。そのまま何か考え込む様子だ。

「ああ、すまない。話したくなければいいよ」

「いえ、そういうわけではありません」広瀬はカップをテーブルに置いた。

「でも、お話しするには時間がかかりそうなので」

「そうか。じゃあ、別の機会にしよう。飲みに行ったときにでも」

「飲みに行くんですか?」

 真面目な顔で広瀬は訊いてきた。ひどく驚いた様子だったので、尾崎は少し面食らった。

「同僚なんだし、飲みに行くぐらいは普通だろう」

「私と尾崎係長で、ですか?」

「いや、違う違う」尾崎は首を横に振った。「誤解させて悪かった。班のみんなで飲みに行くことがあるんだ。四月に入ってからは、ずっとばたばたしていたけど」

 なるほど、と広瀬は胸を撫で下ろしている。

 その反応がオーバーだったから、尾崎は複雑な気分になった。別に彼女とふたりきりで飲みたかったわけではないが、どうも釈然としない。

「尾崎係長はどうして警察官になったんですか」

 急に彼女は尋ねてきた。自分のことは話さないが、他人の事情には興味があるのだろうか。よくわからない人物だ。

「いとこの女性が高校生のとき、通り魔に襲われてね」

「……それは大変でしたね。もしかして、かなりひどい怪我を?」

「左腕にけっこう大きな傷痕が残ってしまった。まあ傷も問題なんだが、それ以上に大きな問題があった。事件のせいで、彼女は外に出るのを怖がるようになってしまったんだよ。その後、大学に入ったけど休みがちでね。就職してからもラッシュ時の電車通勤がきつくて、じきに退職することになった」

「そうですか……」

 広瀬は目を伏せ、空になった料理の皿をじっと見ている。こういう顔をすることもあるんだな、と尾崎は意外に思った。

「心の傷っていうのは厄介だよ。治るのが遅いし、治ったように見えてもぶり返すことがある」

「わかります。とてもよくわかります」

「俺が警察官になれば、いつかその犯人を見つけられるかもしれないと思った。……いや、時間も経ってしまっているし、難しいというのはわかっていたよ。でも可能性はある。犯人を逮捕できれば、いとこの気持ちも少しは変わるだろう。もう、怯えながら生きていかなくても済むようにしてやりたい……。そんなふうに考えていたんだよ。あのころはね」

 なるほど、と広瀬はうなずいた。

「尾崎係長は正義感の強い方なんですね」

「そうでもないさ。何だろうな……。自分の抱えている苛立ちや何かを、捜査にぶつけたかったのかもしれない」

「すばらしいですね。その考えには賛同します」

 珍しく意見が合ったようだ。だが、注意しておかなければならないことがあった。

「あらためて言うが、さっき安川を追い込んだようなやり方は感心しないな」

「ええ……はい、そのようですね」

「ああいう威圧的な聞き込みはやめてくれないか」

「わかりました。今後、係長の前ではやらないようにします」

 含みのある言い方だが、まあ今はそれでいいだろう、と尾崎は思った。
 
 電車でJR錦糸町駅に移動した。

 ここは総武線各駅停車と快速電車が停車する駅だ。東京メトロ半蔵門線との乗り継ぎもできる。駅前には大きな商業ビルがあるし、周辺には飲み屋も多い。平日の夜は酔客で賑わい、週末には家族連れがやってくる町だ。

 この駅を管轄するのは本所署だった。尾崎たちの深川署に隣接する警察署だ。

 ざっくり言うと錦糸町駅の北側、東京スカイツリーの向こうぐらいまでが本所署の担当エリアになる。一方、深川署の管轄は錦糸町駅の南側、豊洲の辺りまでだった。

 錦糸町駅からタクシーに乗って、尾崎たちは本所署に移動した。

 隣接署なので、いろいろな捜査で協力し合うことが多い。人の行き来があるから、顔見知りはけっこういる。

 一階で用件を説明したあと、交通課の部屋に向かった。

 ちょうど席にいた知り合いの課長に挨拶し、過去の事案の情報がほしいと申し出る。

「何の件だ? あまり古い話だと、資料を取りに行かなくちゃならない」
「五年前の交通事故です。今、ある事件の捜査本部がうちの署に設置されているんですがね」

「ああ、聞いている。ホトケさんはひどい有様だったそうだな」

「そのマル害と親しい男性がいたんですが、五年前に交通事故死したというんですよ」

「ん? 五年前に死んでるんだろう? 今回の事件と関係あるのか」

「それを明らかにするために、事故のことを調べたいんです」

 わかった、と言って課長は席を立った。スチールラックの資料をしばらく調べていたが、やがて一冊のファイルを持って戻ってきた。

「そこのテーブルを使っていいよ。終わったら声をかけてくれ」

「助かります」

 会釈をして尾崎はファイルを受け取った。作業用のテーブルを借りて、広瀬とともに椅子に腰掛ける。

 ふたりで捜査資料を確認していった。

 坂本高之という人物の供述記録があった。

 事故が起こったのは五年前の三月六日、二十三時三分ごろのことだ。錦糸町駅から二百メートルほど離れた繁華街の路地で郷田裕治、三十七歳と、坂本高之、二十七歳がトラブルになった。どちらにも連れはいなかった。それぞれ別の店で酒を飲んだあと路地を歩いていて、体がぶつかったなどの理由で言い争いになったのだ。

 そのうち郷田がナイフを取り出し、坂本の左脚のふとももを刺したという。かなり深い傷だった。

 坂本の悲鳴を聞いて、通行人たちが集まってきた。

 たまたま別件の処理を終えた制服警官二名が近くにいたそうで、騒ぎになっている現場に駆けつけた。警察官の姿を見た郷田は驚いて逃走。警察官のうち、ひとりは被害者の様子を見るため現場に残り、もうひとりは全力で郷田を追跡した。郷田は何か叫びながら走っていったが、その言葉を聞き取れた者はいなかった。

 やがて赤信号を無視して、郷田は道路を横断しようとした。ところが、そこで乗用車に撥ねられ、路面に激しく叩きつけられたのだ。

 救急車で病院に運ばれたものの、郷田は数時間後に死亡したということだった。

「刺された坂本さんも、すぐ病院に搬送されているな」尾崎は資料を見ながら言った。「入院、手術となったが、後遺症が残ったようだ。たぶん歩くのに支障が出たんだろう」

 資料を読み進めると、郷田裕治の経歴が出てきた。

 指先で文字をなぞっていた広瀬が、何かに気づいたらしい。彼女は眉をひそめた。

「郷田裕治には前歴がありますね。窃盗、傷害、詐欺……。殺し以外はだいたい経験していたようです」

「こんなに逮捕歴があったのはなぜだと思う?」

 尾崎が問いかけると、広瀬は即座にこう答えた。

「犯罪グループなどに所属していたか、あるいは暴力団の下働きをしていた。そういうことだと思いますが」

「だよな。……今回の事件の被害者、手島恭介は郷田の弟分だった。ふたりで組んで、いろいろな仕事を請け負っていたんじゃないだろうか。依頼主はおもに暴力団、野見川組だと思う。まあ、組員だったわけではないから、ほかの組織からの仕事も引き受けていたかもしれないけどな」

「理念も信念もなく、命じられるままに犯罪を行う……。最低ですね」冷たい口調で広瀬は言った。「私はそういう人間が大嫌いです」

「君もなかなか正義感が強そうじゃないか」

「警察官ですから当然ですよ。ただ、尾崎係長の正義感とは少し違うかと思います」

「どういうことだ?」

 首をかしげて尾崎は尋ねる。広瀬は尾崎を正面から見つめた。

「郷田裕治は罪もない一般市民を刺して逃げた。そして車に撥ねられて死亡した。自業自得でしょう。私は、こんな犯罪者は死んでも仕方ないと思っています」

「シビアな意見だな。刑務所で罪を償わせるという話にはならないのか」

「なりませんね」

「なぜ?」

「こんな男は更生できません。刑務所で食べさせるのは税金の無駄づかいです」

 尾崎は言葉に詰まった。彼女がそこまで言うとは思っていなかったのだ。

 警察官の中には、あまりに正義感が強すぎる人間がいる。罪を犯した者を全力で憎み、逮捕のとき相手に暴力を振るってしまうような人間だ。尾崎はこれまでそういう刑事を何人か見てきた。

 もちろん尾崎の中にも、犯罪者が許せないという気持ちはある。だが、自分の役目は被疑者を捕らえて取調べを行い、送検するところまでだ。警察官が独断で犯罪者を裁くことなど、あってはならないことだった。

 少し釘を刺しておく必要がありそうだ。咳払いをしてから、尾崎は彼女にゆっくりと話しかけた。

「気持ちはわからないでもない。だがな、一般市民の前で今みたいなことは口にするなよ。絶対に言うな」

 すると、広瀬は驚いたという表情になった。

「当然ですよ。そんなことを言うはずがありません」

「見ていて心配になったんだよ」

「私、そんなに信用がありませんか?」

 信用できないから注意したわけだが、やはり本人は意識していないようだ。

「まあ、俺はまだ君のことをよく知らないからな」

 とりあえず、そう説明するに留めた。

 どうもこの広瀬という女性刑事は、マイペースで行動してしまう傾向があるようだ。本人は正しいと思っているのだろうが、組織には馴染みにくいタイプだろう。

 ──いや、待てよ。むしろ、こういう性格のほうが好まれるのか?

 容赦なく犯罪者に対峙する人間のほうが、警察の幹部たちにとっては都合がいいはずだ。広瀬のような人間は重宝されるのではないか、という気がする。

 一方、尾崎などは捜査をしていても途中で立ち止まり、ふと考え込んでしまうことがある。決して上司に逆らったりはしないが、ときどき捜査方針に疑問を感じる場面があった。

「とにかくだ」尾崎は言った。「君がどんな信念を持っているかは知らないが、俺と一緒にいる間は、俺の言うことに従ってもらいたい」

「もちろんです。捜査方針を決めるのは尾崎係長です、私は係長の命令に従います」

 広瀬が背筋を伸ばすのを見て、尾崎はまた考え込んでしまった。本気で言っているのか、あるいはその場しのぎの言葉なのか。この広瀬という女性の真意がわからない。

 腕時計を見たあと、尾崎は資料ファイルのページをめくった。

※ 次回は3/26(火)更新予定です。

見出し画像デザイン 高原真吾(TAAP)