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愛憎入り交じる外来語――李琴峰「日本語からの祝福、日本語への祝福」第6回

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台湾出身の芥川賞作家・李琴峰さんによる日本語との出会い、その魅力、習得の過程などが綴られるエッセイです。

第6回 愛憎入り交じる外来語


 ガールフレンドとベイサイドのイタリアン・レストランでディナーをともにしたのは、トワイライトがグラマラスでスペクタキュラーなマジックアワーだった。そのレストランはスマートフォンでQRコードをスキャンするとグランドメニューにアクセスできるハイ・テクノロジーのスタイルだった。ドリンクにスパークリングワインを、アペタイザーにプロシュットとカルパッチョを、メインディッシュにチーズフォンデュとカルネミストをオーダーした。ドルチェはティラミスとパンナコッタで、どれもデリシャスだった。

 そのチャーミングなレストランはエコ・クッキングをコンセプトにするポジティブなスタンスで、エネルギーとフードのロスをベスト・エフォートでリデュースすることでCSRにコミットしていた。ダイバーシティもハイ・プライオリティで、とりわけバリアフリーのユニバーサルデザインはかなりスタイリッシュだった。それはインターナショナル・アワード・ホルダーのセレブのデザイナーとコラボレーションしてクリエイトしたもので、ギャランティにビッグマネーがかかったからコストがペイするまでかなりロングスパンだったらしい。

 ソーリー、さすがにトゥーマッチだったかもしれない。このようにジャパニーズではフォリナーなボキャブラリーのプレゼンスがとても高く、とりわけビジネスシーンではほぼエブリデイ・エクスペリエンスなのではないだろうか。

「外来語」とコールされるこれらのワードにはコンテンポラリーでモダンなセンスがビルドインされているからスペシフィックなコミュニケーション・スタイルではウェルカムされる。ドリーム・ワールドとしてフェイマスなディズニーランドのホームページにアクセスすると、メニューバーのアイコンのテキストにはこうある。「パークチケット」「グッズ/ショップ」「メニュー/レストラン」「アトラクション」「パレード/ショー」「キャラクター/グリーティング」「サービス施設」「マップ」「便利なサービス」「交通アクセス」……。このカタカナの多さたるや、私がインテンショナルにライトした、あまりナチュラルでないかもしれないパラグラフの中にセットしてもフィットする感じすらある。

 日本語の中に外来語がたくさん入っていることに気付いたのは、五十音を覚えて間もない頃だった。仮名文字を覚えると、それまでは暗号にしか見えなかった文字列が次々と意味をまとい出し、見たことがない文字の配列でも発音してみると意味が分かってしまうなど、不思議な体験の連続だった。

 中国語や韓国語、タイ語を習ったことがなく、文字が読めない人でも、「ニーハオ」「アンニョンハセヨ」「サワディーカー」といった日常的な挨拶ならどこかで聞いたことがあり、意味も分かるのではないだろうか。それと同じで、仮名文字がまだ読めなかった頃から、「ありがとう」「おはよう」「こんにちは」「おやすみ」といった日常的な挨拶は音として頭に入っていて、意味も分かっていた。ただ、それらは文字によって固定化されていない、宙に浮遊している音に過ぎないので、「アリガド」「オハイヨー」みたいに多くの変種を有していて、頭の中で常にぐらぐら揺れていた。仮名文字を習得すると、曖昧な形で記憶されていたそれらの音がようやく文字に結びついた。それはふわふわと空に浮いている風船に重りをつけ、地上にしっかり繋ぎ止めるような作業だった。地面に繋いではじめて、それは自分の知識、自分の語彙として具体的な形を得ることになる。なるほど、ああいうふうに発音すると思っていたあの表現は本当はこんな音で、こんなふうに記述されるのだ、というふうに。

 日常的な挨拶と並んで、発音してみると「ああ、あれか!」と気付くような言葉に、外来語があった。特に英語由来の外来語は、日本語の言葉として学習していなくても発音すると意味が分かるものが多いので、日本から輸入されたお菓子などをスーパーで見かけては、その食品表示欄を細かく読み込み、まるで秘境の暗号を解読しようとする探検家みたいに、意味不明な文字列の中から何とか解読できるパーツを見出そうとしていた。「チョコレート」「ポテトチップス」「ハンバーガー」「ミルク」「アイスクリーム」など、解読可能な言葉を見つけては喜んだ。ああ、英語のあの言葉は日本語ではこんな形になっているんだ、こんな発音になっているんだ、おもしろーっ! というふうに。別に解読できたからといって報酬も賞金もないが、当時の私が感じていたのは純粋な知的喜びだった。

 後になって大学で日本語を専攻することになり、保守的なカリキュラムのせいで日本語を五十音からもう一度やらされる羽目になったが、初級日本語の授業でこれらの外来語の単語が出てくると、周りの同級生がしきりに日本語での発音を馬鹿にしていたように感じられた。

「『アイスクリーム』ってwwww何故『ム』をそんなに強調するのwwwwwウケるwwwww」

「『バーガーキング』ってwwバガwwバカwww」

 という具合に。

 英語の音節構造では母音が中心であり、母音の数がそのまま音節数になる。一つの母音の前後に子音がいくつくっついていても一つの音節にしかならないので、子音の発音はそこまで目立たない。「ice cream」という単語では、「cream」の「m」は音節を成さない語尾の子音なので、そこまではっきり発音しない。しかし日本語の音節構造は基本的に「子音+母音」の開音節なので、「m」のような語尾の子音というものは許容されていない。そこで「ウ」という母音を挿入して「ム」とすることで、「ice cream」という言葉をいわば「日本語化」したのである。

「burger king」という単語は、「ice cream」とは別の「日本語化」の過程を辿(たど)っている。日本語では「r」の音がないので、英語の「-ur」「-er」の音(どちらも/ər/と発音する)は「アー」で対応する。だから「burger」は「バーガー」になる。また、「king」という単語の発音をそのまま日本語で表記すると「キン」でもいい気がするが、英語の「-n」と「-ng」の違いを反映して、日本語ではそれぞれ「‐ン」「‐ング」になる。どれもその法則を言語学的にはっきり記述できる、立派な日本語化のプロセスである。

 これらの外来語の発音を馬鹿にする同級生たちの態度は、単に出合ったばかりの新しい言語を面白がっていたというより、そこには「道理で日本人は英語が下手なわけだ」「道理で日本人の喋る英語が聞き取りづらいわけだ」といった軽蔑の意図が含まれていたように、私には感じられた。

 同級生たちの態度に、私は無性に腹が立った。彼らのそうした態度は、ある前提に基づいている――「英語こそが規範なのだ」という命題である。つまりは英語本位主義的な考えである。英語ではice creamだからアイスクリー「ム」と発音するのは滑稽だ、burgerが「バーガー」になるなんておかしい、というふうに。

 そうした見解はそれ自体批判されるべき狭隘きょうあいな価値観だが、私が感じていた腹立ちはより感情的なものだったかもしれない。日本語を勉強したての頃の私にとって、それらの「日本語化された英語」の発音は「滑稽」「おかしい」どころか、寧(むし)ろとても新鮮で、美しく感じられていた。「日本語化」されているからこそ、「チョコレート」「ミルク」「ポテトチップス」は単なる小学生レベルの英単語ではなく、れっきとした日本語の言葉になっている。日本語ができる人が周りに誰もいなかった中学時代、そんな言葉を知っているのは私だけだった。つまりは私だけが持っていた、世にも珍しい真珠なのだ。

 ところで、日本語には片仮名という武器があるから外来語を素早く受け入れる力を持っている。では、漢字しか持たない中国語はどのように外来語を取り入れるのだろうか。

 主な手段は二つ、音写と意訳である。中国語でも、漢字の意味を無視し、音だけを活かした音写語がそれなりに存在する。「チャウカーリー(チョコレート)」はたくみつ力ではないし、「シャーファー(ソファ)」にすなが入っているわけではないし、「ブーディン(プリン)」も布ではない。三つどもえになって争っている兵士かと思えば単なる「バーシー(バス)」で、沙でできた龍と言えばなるほど「シャーロン(サロン)」だ。しかし意味に重きを置きがちな漢字にとって、このような訳し方には自ずと限界がある。原語の発音をなぞる力(「音写力」とでも呼ぼうか)に関して、漢字は片仮名よりだいぶ劣っているし、何よりこんな言葉が大量に生まれると、記憶しなければならない言葉が増えてとても大変だ。同音異字の漢字がたくさんあるから表記ゆれも激しい。二十世紀初頭、五四運動の時代に、民主主義と科学の重要性を説こうとしていた知識人たちは「democracy」と「science」を「ダーモーカーラー西シー」と「サイインスー」に訳したが、こんな表記が浸透するわけがない。外来語を受け入れる手段として、中国語ではやはり意訳が主流である。

 例えばパスタやスパゲッティは「義大利麵(イタリアの麺)」になり、ラザニアは「千層麵(千層重なっている麺)」になる。ホットドッグは「熱狗(熱い犬)」で、グリーンカードは「綠卡(緑のカード)」、ホワイトハウスは「白宮(白い宮殿)」、スーパーマンは「超人」、フェイスブックは「臉書(顔の本)」。これらは意訳外来語の分かりやすい例だが、次の例は新しい事物が外から入ってきた時に、その性質や機能に着眼して訳された/作られた言葉であり、そもそも外来語と言えるかどうかが微妙だ。テレビは「電視(観る電子機械)」で、コンピューターは「計算機(計算する機械)」か「電腦(電子の脳)」、プリンターは「印表機(表を印刷する機械)」、ドライヤーは「吹風機(風を吹かせる機械)」。フェミニズムは「女性主義」で、ポスト・モダニズムは「後現代主義」で、ジェットコースターは「雲霄飛車(雲にまで飛ぶ車)」だ。テトリスもルービックキューブも「魔術方塊(魔術のブロック)」で、綿菓子もマシュマロも「棉花糖(綿のお菓子)」だから、どれを指しているのかは文脈で判断するしかない。日本語では外来語は基本的に片仮名で表記されているが、中国語は全部漢字なので、ある言葉が外来語に当たるかどうかは表記だけでは判断しづらく、そもそも外来語の定義自体も曖昧である。

 また、原語の発音を音写した外来語であっても、漢字の字義を踏まえて作られたものが多い。つまり発音と意味を両方考慮した訳し方だ。例えばコカ・コーラは「カーコウカーラー」で、漢字の字面から「美味しくて楽しい」という意味が読み取れる。UFOは「ヨウフー=空に浮かぶかすかに見えるもの」で、ポラロイドは「パイリーダー=撮ったらすぐ手に入る」、レーザーは「レイシャー=雷みたいに射す」。パルクールは「パウクー=走るクールなやつ」でなければならず、発音が全く同じだとしても「パウクー=走るズボン」ではまずい。エイズは性行為が主な感染経路だからか「アイズー=愛の味」と訳されているが、これにはブラックユーモアすら感じる。

 このように漢字は意味を完全に脱ぎ捨てることはなかなか難しく、たとえ最初に翻訳した人が意図しなくても、漢字というものが呼び起こすイメージが常に付き纏う。エジプトは「アイジー」と訳されている。これは恐らく純粋な音写語だろうが、「ほこりが及ぶ」という字面からは、黄土、砂漠、ピラミッドといったイメージが喚起される。シドニー「シュエリー」を見ると雪みたいに真っ白な景色が思い浮かぶが、実際オペラハウスは真っ白だ。ポーランド、オランダ、フィンランド、アイルランドはそれぞれ「ブォーラン」「ハーラン」「フェンラン」「アイアーラン」だが、蘭の花が咲き乱れるイメージが強く、ポルトガル、スペイン、ハンガリーは「プータウヤー」「西シーバンヤー」「ションヤーリー」なので歯(中国語では「牙」は「歯」の意味)が出っ張っている印象がある。「ウェンガーフア」という地名を見ると暖かくて華やかなイメージがあるが、実際はかなり寒い。その場所を日本語で言うと「バンクーバー」になるのだが、暖かくて華やかなイメージがあった場所は、「バン!」「クー!」「バー!」という強そうな響きとはどうも釣り合わない。「フェンダンバイルー=赤きかえでと白き露」という何とも美しい言葉には思わず心酔しそうだが、大人になってそれは単なる地名(フォンテーヌブロー)に過ぎないと知り、失望したことを覚えている。

 漢字が持っている「字義」は、良くも悪くも記憶の手助けになる。例えば英米の小説を中国語訳で読む時、登場人物の名前には全て漢字が宛てられているので、その漢字が纏うイメージとセットにすると記憶しやすい。ジェーン・エアは「ジェンアイ」なので愛情深い女性を思わせ、ハーマイオニーは「ミャウリー」なので絶妙に賢くて麗しい女性として印象に残る。

 中国語話者にとって、漢字はいわば世界を認識するための基盤であり、道みたいなものだ。道がなければ、人々は行き詰まって二進にっち三進さっちも行かない。伝説によれば漢字はそうけつによって創られたものだが、彼が漢字を創った時、「天雨粟、鬼夜哭」――天はあわを降らせ、は夜に泣いたという。それだけ、中国語話者にとって漢字の誕生は、天地を揺るがすほどの大事件である。

 だからこそ、日本語に存在するおびただしい外来語に触れると、恐れを成すのも無理はない。漢字が一切使われず、片仮名のみで表記されるそれらの言葉を記憶するのは、言うなれば道のない場所にいきなり放り出され、そこで道を自力で作り、その上を歩くみたいな、とても大変な作業だ。チョッキとチョークとチョキとチョーカー、どれも似ているのに全く異なるもので、マルガリータを頼みたい時にマルゲリータと言ってしまったら隣の客に笑われそうだ。「ジャー」「ナー」「ガイ」「メイ」「リュー」「ガー」、中国語ではこの世界に存在するありとあらゆる元素を漢字一文字で表せるのに、日本語になると急にカリウムにナトリウムにカルシウムにマグネシウムにアルミニウムにクロムと、片仮名がニュムニュムシュムシュムと百鬼夜行の行進を始める。中国語を母語とする日本語学習者に「日本語で一番嫌いな部分はどこ?」と訊いたら、十人中八人は「外来語」と答えるのではないだろうか(残りの二人は「オノマトペ」と答えそう)。

 日本語から中国語への翻訳作業においても、外来語は常に翻訳しづらい項目の上位にランクインする。チョーカーやジョーカーなど可愛いものだ。化粧品会社の商品企画部が現代風でお洒落でイケてそうなネーミングのつもりで「デザイニングブラウンアイズ」とか「ラッシュマキシマイザー」とか「レッドヌードルージュ・エアリーマット」とか「スリムクリエイトチークス」とか名前を付けたはいいが、中国語翻訳者に任される作業は涙なしでは語れない。自分は果たして日本語を翻訳しているのか英語を翻訳しているのか、疑いたくなるほどだ。

 愛憎入り交じるは外来語――学習の初期段階においてそれは普段とは違う顔をしている旧友だが、レベルが進むとその氾濫ぶりには思わず眉をひそめ、煮え湯を飲まされた気分にさせられる。「最近の日本語は乱れている」などとお年寄りみたいな愚痴をこぼすつもりはないが、何とかならないかな、という気持ちはずっとある。

 そう言えば、音写と意訳以外に、中国語における外来語には実はもう一つのパターンがある。漢字語の語形借用、つまり日本語の言葉を漢字表記のまま中国語に輸入し、中国語読みで発音するものである。「物語」「写真」「にん」「宅急便」「暴走」「激安」「女優」「歌姫」が、「ウーユー」「シェイジェン」「レンチー」「ジャイジー便ビェン」「バウゾウ」「ジーアン」「ニューヨウ」「ガージー」になるのだ。中国語にはこれらの単語の意味を表す言葉が存在しないわけではない。「物語」は「グーシー」で、「写真」は「シャウピェン」で、「女優」は「ニューイェンユェン」だ。では何故「ウーユー」「シェイジェン」「ニューヨウ」と言うのかというと、これらの言葉は日本的な、お洒落でエキゾチックな響きを纏っているからだ。「ウーユー」と言えば日本的な侘(わ)び寂びや和敬清寂のイメージが喚起される。「シェイジェン」は一般的な意味の写真よりも、(「真」を「写す」から)専らセクシーな写真集のことを指し、「ニューヨウ」となると端的にAV女優のことを指す(申し訳ないがこれは事実だ)。

 そう考えれば、日本語に外来語が大量に存在する理由もよく分かる。それらの言葉はお洒落に聞こえたり、異国情緒を纏っていたり、あるいは似た意味の和語や漢語とはニュアンスが異なったりするから、現代人に必要とされているのだろう。国立国語研究所は『「外来語」言い換え提案』なるものを発表している。例えば「コアビジネス」「コンセプト」「ライフサイクル」「マルチメディア」「マンパワー」の代わりに、「中核事業」「基本概念」「生涯過程」「複合媒体」「人的資源」を使うよう提案されているが、ニュアンスが微妙に違うのも事実だ。「メディテレーニアンハーバーにて、ミッキー&フレンズのハーバーグリーティング『タイム・トゥ・シャイン!』を開催!」が「地中海の港にて、ミッキーと友達の港のご挨拶『輝く時間だ!』を開催!」になると、「夢の国」感が半減するかもしれない。そもそも日本語に輸入された時期が早かっただけで、漢語もまた日本語にとっては広義的な外来語なのだ。漢語ならよくて、(欧米由来の)外来語は駄目だと断じる論理的な理由は、本来ないのである。

 だから――たとえロー・モチベーションでもハイ・ストレスでも、ラビリンスでゲット・ロストしたようなムードになっても、外来語が多いのはアンコントローラブルでアンチェンジャブルなファクトなので、ベスト・エフォートでインプットしていくしかない。それがランゲージ・ラーニングにコミットするピープルにとってもっともシンプルなプリンシプルであり、スキルをインプルーブしプログレスをゲットするためのリアリスティックなストラテジーと言えよう。

※毎月1日に最新回を公開予定です。

李琴峰さんの朝日新聞出版の本


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