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北尾トロ『佐伯泰英山脈登頂記』第22回


第10峰『古着屋総兵衛影始末』『新・古着屋総兵衛』其の弐


抑え気味だった感情が、第3巻でついに爆発


 家康の命が総兵衛個人ではなく鳶沢一族に与えられたものであることから、脇役陣が活躍する場面が多いのも本作の特徴。いい仕事をする彼らがおぜん立てをし、総兵衛が最後を締めるのが通常の流れだ。

 個人技を生かして大黒屋に有利な状況を作り出す組織プレーは『鎌倉河岸捕物控』を思い出させるところもあるが、本作ではより職人的に任務が遂行され、プロ集団らしいストイックさが描かれる。

 物語の性質上、尾行、追跡、潜入は日常茶飯で、古着屋の業務をこなしながら入れ替わり立ち替わり〝本職”に精を出す脇役陣。暗闇の中を動き回る彼らは地味な扱いだが、本書が途切れずまとっている緊張感の維持に一役買っていて頼もしい。

 その象徴が〝影警護”。総兵衛が外出するとき、大切な客、狙われていると思しき人物と会った後など、一族の誰かがひっそりと尾行し、敵方の動きを封じたり、警護している人物が襲われればすかさず戦闘態勢に入ったり、鉄壁のガードをするのだ。彼らにとっては、そこまでが任務であり、未然にピンチを防ぐ方法。江戸時代の話なのに不思議なことだが、こういう場面になると時代小説であることを忘れてしまい、スパイ小説や警察小説を読んでいる気分になる。

 しかし、鳶沢一族にも防ぎきれないことがあった。第3巻で総兵衛の幼なじみで相思相愛の仲だった千鶴が何者かの手によって惨殺されてしまうのだ。しかも、千鶴は総兵衛の子を宿していた。

 これによって第3巻は、総兵衛の復讐心が家康の命より上位にくる序盤の山場となった。第2巻までは鳶沢一族の結束力や世間一般とは異なる掟を明快にするため、個を主張するより和を重んじる彼ら流の生き方や徳川家への忠誠心を強調してきただけに、第3巻で復讐心をあらわにした総兵衛の怒りに触れた読者は、徳川家の影の家臣である前にひとりの男であった主人公をますます好きになるだろう。優等生タイプの主人公より全体のチームプレーが機能する気持ちよさを楽しんでいた私も、総兵衛の人間臭さに触れて考えが変わり、この男あっての物語なのだと考え直した。

 この巻は、鳶沢一族に行動指令を出し、ともに徳川家を守る立場の〝影”との関係も危うくなるなどスリル満点で、読み終えるとすぐ第4巻を開いてしまった。すると、小休止どころかさらに激しい展開に。大黒屋が営業停止の沙汰を受けたかと思えば、総兵衛は囚われの身になり大ピンチ。主が不在の鳶沢一族の面々が、どのように力を合わせて奪還に向かうか、見せ場の連続となる。

 その調子で第6巻まで、息をもつかせぬ展開が繰り返されるからたまらない。しっかり読まないと勢いに負けそうだ。

 いや、特別な内容というわけではない。第5巻は伊勢参りの話がメインで、第6巻の舞台は甲府。佐伯作品ではなじみ深すぎて、「また伊勢か。忙しくて、一から資料を当たらなくてもいい場所にしたのかな」と思うような場所。それなのに、やたらとおもしろいから困ってしまう。

 理由としては、序盤から中盤に入って登場人物たちのキャラクターを作者がつかみ、自在に動かせるようになったことがあるだろうが、このあたりから作者は、それぞれの人間を描く方向に少しずつシフトしているように思えた。物語はすっかり軌道に乗り、総兵衛の出番を減らして脇役陣に大暴れさせる章も現れるなど余裕たっぷりの展開になる。

 いかにも佐伯作品らしいのは、巻を重ねても鳶沢一族の一致団結ぶりに乱れがないことである。信頼していた部下が敵方に情報を漏らすとか、スパイを大黒屋に潜り込ませて組織をかく乱するエピソードを使えば、スリリングな場面を増やすことはできるだろう。しかし、他の作品でもそうだったように、ここでも組織が内部崩壊する話にはならない。

 おそらくそれは、作者にとって自身が目指すエンタメ小説のスタイルではないのだと思う。余暇に自著を手に取ってくれる人を楽しませ、元気を与えるような小説を書きたいのが佐伯泰英。どんなに人が斬られても佐伯作品が明るさを失わないのは、身内同士が憎み合い傷つけ合うドロドロした話を書かないからではないだろうか。

思いがけない新展開! 総兵衛、大黒丸で大海原へ


 ヒット作となり、続編まで生まれたこのシリーズ。魅力たっぷりに動き始めた登場人物をもってすれば、中盤の勢いそのままに後半に突入し、一族の奮闘が描かれるものだと思っていた。長編シリーズとはそういうもので、マンネリは悪いことではない。

 テレビ時代劇で定番の見せ場をわざわざ用意するのは、視聴者が「待ってました」と喜ぶからだ。その心理は小説でも同じ。大番頭である笠蔵のとぼけた接客(異変を感じて総兵衛に知らせる)や、綾縄小僧の異名がある手代の駒吉の潜入シーン(戦闘開始のサイン)、地下道場での激しい稽古(総兵衛のヤル気を示す)などの定番がある。読者は駒吉が敵地に侵入したと書かれていれば、周囲に1番番頭の信之助(槍の名手)や2番番頭の国次(小太刀の名手)が潜んでいるとわかり、その通りに事が運ぶと満足感が得られるものだ。

 安定期に入り、読者の評判もいいとなれば、残る課題は終盤にかけてどのように盛り上げていくかである。ご存じの通り、作者は結末を決めずに書いていくのが常。であれば、この調子で行けるところまで行き、徳川家に襲いかかる大ピンチを総力戦で乗り切るところで終えるのが収まりが良い。文句をつける読者はいないだろう。

 しかし、乗りに乗る佐伯泰英の創作欲はそんなものでは収まらなかった。

 まだ十分に使い切っていないものがある。そう、表の貌である商人としての総兵衛だ。家康から「世間の目を欺くため、情報の集まりやすい古着屋をやれ」と言われて戸惑った初代総兵衛だが、古着屋あってこそ裏の貌を発揮できると理解して商売に精を出し、大黒屋を一流の古着屋に育て上げた。文武両道ならぬ〝商武両道”は代々受け継がれ、6代目総兵衛の時代には押しも押されもせぬ一流の問屋に成長。信用と財力(そして武力も)を豊富に持つ富沢町のリーダーになっていたから、商人としての総兵衛を前面に出して、よりスケールの大きな物語に仕上げようとするのはわからないでもない。

 だが、佐伯泰英の着想は私の想像をはるかに超えていた。この作品、終盤は海洋冒険小説になっていくのである。

 雰囲気が変わるのは、2年余の歳月と莫大な費用をかけて建造された大型船・大黒丸の舳先に総兵衛が立つ場面から始まる第7巻。総兵衛たちを狙う一味との闘いを継続しつつ、船の構造や海の描写など、潮の香りがしそうな文章が徐々に増えていく。大黒丸は、古着屋の商売をさらに拡大するには必要とあらば海外へも直接仕入れに赴くべきだとの考えに基づいて建造された船。用意周到な総兵衛のこと、敵に襲われることも考慮して戦闘力も備えている。

 第8巻ではいったん地上戦に戻るが、物語の方向は海へ、海へ。ついに第9巻、江戸の守りを笠蔵以下に任せて総兵衛は琉球に向かうことになる。のんびりした仕入れ旅のはずはなく、追手との攻防は避けられない。いくら鳶沢一族であっても海洋での戦いにはまだ慣れておらず、大黒丸の扱いも勉強中とあってスマートな勝ち戦とはならない。いや、大苦戦だ。

 同巻につけられたタイトルは『難破』。敵はやっつけたが、大黒丸も深手を負い、命からがら異国に流されることに。マンネリを良しとする読者に甘えることなく新局面を切り開く、この展開を予想できる人はまずいないと思われる。

 私はこれを、本シリーズをこぢんまりと終わらせたくなくなった佐伯泰英の〝奇手”ととらえたい。読者をびっくりさせてやろうというサービス精神が、総兵衛を大海原へと向かわせたのだ。

 ここで思い出すのが『長崎絵師通吏辰次郎』である。主人公の辰次郎は南蛮帰りの絵師という設定で、その目は国内ではなく国外に向けられていた。あいにく長期化はならず2巻で終了したが、江戸時代の話でありながら海外に目を向けた作品を書いてみたい気持ちが、そのときからあったのではないだろうか。商人であり武家でもある特殊な主人公を得て、いまがそのときだと英断を下したのだとしたら……。

 難破した大黒丸はどこにたどり着くのか。総兵衛たちは無事に江戸へ戻ることができるのか。物語の結末をここで語るわけにはいかないが、読者の期待を裏切らないことにかけては当代随一の佐伯泰英が、総兵衛への敬意を込めて描く感動的なラストシーンを、ため息とともに味わってほしい。

 特殊な任務を代々受け継ぐ鳶沢一族と、その役割に気づいて排除を図る悪徳権力者の暗闘に始まり、恋愛要素も絡ませて読者を心地よいマンネリで包み込む前半から、大型船を建造して海洋冒険小説風になっていく後半まで、本シリーズには緩みを感じるところがない。

 知名度では『居眠り磐音江戸双紙』や『酔いどれ小籐次』に及ばないかもしれないが、これだけの要素を全11巻にまとめ上げた手腕も含め、傑作の太鼓判を押したくなる。佐伯作品数あれど『古着屋総兵衛』シリーズと似たものはない。ファン必読のシリーズと言ってもいいだろう。

※ 次回は、10/12(土)更新予定です。

見出し画像デザイン 高原真吾(TAAP)