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美しき数式――私的日本語文法論(後編)――李琴峰「日本語からの祝福、日本語への祝福」第9回

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台湾出身の芥川賞作家・ことさんによる日本語との出会い、その魅力、習得の過程などが綴られるエッセイです。

第9回 美しき数式――私的日本語文法論(後編)


「て形」を習得したのは高校時代だった。中学を卒業した後、私は田舎を離れ、地方都市の高校に入学した。それに伴って、家を借りて一人暮らしを始めた。それは初めての都会暮らしで、四畳半程度の狭い部屋、バスもトイレも共用という快適とはとても言えない環境だったが、それでも、田舎とは全く異なる都会の華やかさと賑やかさに、私はすぐ惹きつけられた。都会は機会と選択肢に満ち溢れている。何かを習おうと思えば大抵それを教える教育施設があり、何かを買いたいと思えば大抵それを売っている店がある。その利便性と資源の多さに眩暈めまいがしそうになり、それと同時に、田舎生まれであることで、自分は一体どれだけの機会と選択肢を奪われていたのか改めて思い知らされた。

 高校の授業の傍らに、私は夜の時間を使って週に一回から二回の頻度で日本語学校に通い、本格的な日本語教育を受け始めた。教師は中国語が少しできる日本人で、教材はかの有名な『みんなの日本語』だった。

 本格的な日本語教育を受けてみて、いくつかの点で戸惑いを覚えた。まずは用語の違いである。それまで私は独学で「五段動詞」や「一段動詞」、「連用形」や「終止形」といった文法用語を覚えていたが、日本語教育の現場ではそれが全く出てこなかった。動詞の種類については「Ⅰグループ」「Ⅱグループ」「Ⅲグループ」と呼んでいた。それぞれ国語学の「五段動詞」「一段動詞」「変格動詞」に相当するが、そうした用語は使われていなかったのだ。また、動詞の活用形についても「ます形(書きます、読みます)」「て形(書いて、読んで)」「ない形(書かない、読まない)」と分かりやすく呼んでいた。

 次に戸惑いを覚えたのは、動詞の導入の仕方だった。独学時代、私は動詞を「終止形」で覚えていた。これは英語で言う「原形」で、単語帳や辞書に載っている形でもあるので、本来ならこちらから入るのが正道だと思われた。活用形を作る時も終止形から出発して考えていた。ところが日本語学校では、動詞は終止形ではなく「ます形」から教えていた。「ある、いる、書く、読む、来る、する」ではなく、「あります、います、書きます、読みます、来ます、します」という形をデフォルトとして覚えさせられ、活用形を作る時もこれらの形から出発していた。逆に「終止形」は、随分後になってから、辞書に載っている形ということで「辞書形」として教えられた。

 日本語母語話者から見れば(そして当時の私から見れば)ややもすれば変てこに映るこの教え方は、実は実用的な目的に基づいている。要するに、日本語を学習する人の多くはすぐにでも日本語を使う必要がある人たちである。そういう人たちの日本語の使用場面はほとんどの場合、小説や学術論文の執筆などではなく、学校や会社、バイト先での会話である。そんな場面で「普通形/常体/タメ口」でしやべるのはまずい。とはいえ、いきなり「召し上がる、申し上げる、ございます」のようないわゆる「敬語」を教えるのも難し過ぎる。だからこそ、日本語教育の現場ではまず失礼のない「ます形/敬体/丁寧語」を教えるのである。

 もちろん、当時の私はそんな実用的な目的を理解していなかった。何度も書いたが、私が日本語を勉強したのは実用的な目的のためではなく、ただ日本語が好きだからだ。辞書にも載っていないし、明らかに原形ではない形をデフォルトとして覚えさせられるのには違和感があり、私はいつも自分なりに終止形に直し、教科書にメモしていた。

 ところで、「て形」にしろ他の活用形にしろ、日本語では動詞を活用するためにはまず動詞の種類を判断しなければならない。「動く」「教える」「変える」「眠る」「来る」――これらの動詞が五段動詞か一段動詞か変格動詞か分からないようでは、どのように活用すればいいか学習者には分からないわけである。動詞の種類はどうやって判断するのか、読者諸氏は考えたことがあるだろうか? 実は、「辞書形」をデフォルトとして考える場合と、「ます形」をデフォルトとして考える場合とで、その手順は全く異なる。

 変格動詞は分かりやすい。「来る/来ます」と「する/します」という二語だけだから、覚えておけばいい。問題は五段動詞と一段動詞の違いだ。

「辞書形」をデフォルトとして考えた場合、どこで聞いたか覚えていないが、「漢字で書くとき送り仮名が一文字なのは五段動詞で、二文字以上なのは一段動詞だ」という説明を聞いたことがある。例えば「動く」「眠る」は五段動詞で、「教える」「変える」は一段動詞だ。この判断の仕方はざるである。確かに当てはまる例も多いが、例外は死ぬほどある(分かる、隔たる、寝る、見る、着る)。それに、一般的に漢字で書かない動詞だってたくさんある。

 より厳密な判断の仕方はこうだ。


動詞の一番最後の音が「る」でないものは、例外なく五段動詞である。例:読む、死ぬ、志す。


一番最後の音が「る」であり、その前の音が「イ段・エ段」でないものは、例外なく五段動詞である。例:分かる、取る、奉る。


一番最後の音が「る」であり、その前の音が「イ段・エ段」であれば、大抵一段動詞である(イ段の場合は上一段動詞で、エ段の場合は下一段動詞)。例:食べる、着る、信じる、試みる。


例外的に、③に当てはまるが五段動詞であるものもある。これは一つひとつ覚えるしかない。例:切る、帰る、走る。

 一方、「ます形」から判断する場合、プロセスはこうだ。


「ます」の前の音が「エ段」のものは、例外なく一段動詞である。例:食べます、忘れます、鏤(ちりば)めます。


「ます」の前の音が「イ段」であり、かつ、「ます」を除くと一音節しかないものは、例外なく一段動詞である。例:見ます、着ます。


「ます」の前の音が「イ段」であり、かつ、「ます」を除いて二音節以上あるものは、大抵五段動詞である。例:切ります、分かちます、承ります。


例外的に、③に当てはまるが一段動詞であるものもある。これは一つひとつ覚えるしかない。例:起きます、ります、借ります。

 このように、両者は全く異なるプロセスだから、「辞書形」で動詞を覚えていた人がいきなり「ます形」をデフォルトとして教えられれば、混乱するのも無理はない。そして、どちらから判断しても覚えなければならないプロセスが複雑で、しかも一定数の例外が発生する。日本語学習者にとって動詞の活用が難関なのはそのためであり、多くの学習者はここで挫折し、やめていくことになる。しかし、日本語学習において、動詞の種類の判断はまだほんの入り口であり、いわば基本のキである。未然形、連用形、命令形、意向形、可能形、使役形、受身形など、ありとあらゆる活用形は、動詞の種類を判断しなければ始まらない。

 ここで「未然形、連用形、命令形、意向形、可能形、使役形、受身形」とさらっと書いたが、本当は「未然形、連用形、命令形、意向形」と「可能形、使役形、受身形」とで、レイヤーがやや異なる。

 例えば「変える」の未然形「変え」には「ない」や「ず」を接続させ、「変えない」「変えず」にすることはできるが、動詞の活用はそこで終わっている。「変えない」を更に「変えなけれ・ば」というふうに活用させることもできるが、「なけれ(ば)」は「変える」の活用形ではなく「ない」の活用形(仮定形)である。「変える」の未然形「変え」を、更に連用形にすることはできない。

 一方、「変える」の可能形は「変えられる」であると、日本語教育の現場では教えられている。この「変えられる」は、いわば別の新しい動詞(下一段動詞)になり、更に活用させることができる。「変えられる」の未然形は「変えられ・ない」で、連用形は「変えられ・ます」である。

 要するに、「未然形の連用形」を作ることはできないが、「可能形の連用形」を作ることができるのだ。

 それもそのはず、何故なら未然形や連用形は国語学の用語であり、可能形や使役形は日本語教育の用語だからだ。未然形といった国語学の用語は、動詞(厳密には「用言」)そのもの(語幹+語尾)の形につけられた名前であるのに対し、可能形といった用語は最初から「動詞+助動詞」というセットで定義されている。例えば「変えられる」は、国語学的には「変え(連用形)+られる(可能を表す助動詞)」でできている。同じように、「読む」の受身形「読まれる」は、本当は「読ま(未然形)+れる(受け身を表す助動詞)」である。つまり、「可能形」「受身形」は本来、一つの「活用形」ではなく、更に分解できるものなのだ。活用表や国語辞典の見出し語に「連用形」があるのに「可能形」などがないのは、そのためである。しかし日本語学習者に国語学的な分析を教えるのは難しいため、教科書などでは「可能形」「受身形」「使役形」という形として教えている。

 この教え方は、可能形について特にメリットがある。何故なら、現代日本語には「可能動詞」という厄介なものが存在しているからだ。「書ける、読める、走れる、話せる、運べる、死ねる」などがそれである。

 本来、「何かをすることができる/何かをする能力を持つ」という意味を表す「可能表現」は、「行か・れる」「変え・られる」のように「動詞未然形+可能を表す助動詞(れる・られる)」という形を取る。しかし現代日本語では五段動詞に限って、「行く→行ける」のような表現が存在する。「行ける」は国語学的にはこれ以上分解できないものなので一つの動詞として見なされ、旧来の「可能表現」と区別し「可能動詞」と呼ばれている。原因は分からないが、「可能動詞」が存在するのは「行く」「書く」「読む」のような五段動詞のみで、一段動詞や変格動詞には対応する可能動詞が存在しない。

 日本語学習者に可能動詞と可能表現の違いを教えるのは難しく、実益性も低い。そのため、五段動詞(行く)については対応する「可能動詞(行ける)」を、一段動詞(変える)と変格動詞(来る)については「可能表現(変えられる、来られる)」を取り上げて、「可能形」として教えるというのが日本語教育のやり方である。五段動詞の可能表現(行かれる)は今ではあまり使われなくなっているため、教育現場ではほぼ教えられていない。

 日本語学校に一年、二年と通い、習得レベルが上がっていくにつれ、日本語の文法は数式みたいだなとつくづく思った。中心となる語があり、言いたいことに応じてどんどん助詞や助動詞といった要素を足していき、後ろに来る要素が次々と前の要素に影響を及ぼしていくという点が、非常に論理的かつ数学的に感じられた。

 例えば、「Aが薬を飲む」という文は単に、Aが「薬を飲む」という動作をするということを表現している。これに使役を表す「せる」をつけて「Aが薬を飲ませる」と言うと、Aが誰かに「薬を飲む」という動作を強要するというふうに読める。更に受身を表す「られる」をくっつける(「Aが薬を飲ませられる」)と、Aが誰かから「薬を飲む」という動作の強要を受けている、ということが表現できる。このようにどんどん要素を足していくのが日本語の特徴である。

(薬を)飲む

→飲ま・せる(使役)

→飲ま・せ・られる(使役+受身)

→飲ま・せ・られ・かける(使役+受身+始動)

→飲ま・せ・られ・かけ・ている(使役+受身+始動+継続)

→飲ま・せ・られ・かけ・てい・た(使役+受身+始動+継続+過去)

→飲ま・せ・られ・かけ・てい・た・そうだ(使役+受身+始動+継続+過去+伝聞)

 発話したり文章を書いたりする時はこのように要素を足していくが、話を聞いたり文章を読み解いたりする時は、逆に分解していく必要がある。古文の読解で品詞分解をしなければならないのは、まさにそのためである。

 随分後になり、言語学を学んで知ったことだが、日本語がそうした性質を持っているのは、日本語が「こうちやく」の一つだかららしい。言語類型論では、世界中の言語を膠着語、屈折語、孤立語、抱合語の四種類に分類している。膠着語とは、「実質的な意味をもつ独立の単語に文法的な意味を示す形態素が結び付き、文法的機能が果たされる言語(大辞泉)」のことだが、前文の例で言うと、「飲む」は「実質的な意味をもつ独立の単語」であり、「せる」「られる」「かける」「ている」「そうだ」は「文法的な意味を示す形態素」である。

 中国語と英語は違う。中国語は孤立語に、英語は屈折語に分類される。屈折語とは「単語の実質的な意味をもつ部分と文法的な意味を示す部分とが密接に結合して、語そのものが語形変化することにより、文法的機能が果たされる言語」のことで、孤立語とは「単語は実質的な意味だけをもち、それらが孤立的に連続して文を構成し、文法的機能は主として語順によって果たされる言語」のことである(どちらも大辞泉より)。

 例を挙げてみよう。

(日本語)

①彼は文章を書く。

②彼は文章を書いている。(進行形)

③彼は昨日文章を書いていた。(進行形+過去形)

 日本語は助動詞などをどんどんくっつけることで文法的機能を示す膠着語であることは前述した通りだが、この三つの例文を英語と中国語にすると、以下のようになる。

(英語)

①He writes articles.

②He is writing articles.

③He was writing articles yesterday.

(中国語)

①他寫文章。

②他在寫文章。

③他昨天在寫文章。

 英語では進行形と過去形は語形変化によって示されていることが分かる。特に②については、単語の実質的な意味を持つ部分「write」と、文法的な意味を示す部分「-ing」は、まさに密接に結合しており、解析不可能な一語になる。一方で中国語は語形変化もしなければ、文法的接辞もくっつけたりしない。進行形を示す「在」は接辞ではなく独立した語であり、動詞の前に置くことで文法的機能を果たしている。また、中国語には時制がないため、過去形は専ら「昨天(昨日)」という時間副詞で示されている。そのため、中国語の古文(漢文)を読み解く際に古い単語と文型の知識が必要になるが、品詞分解のような作業はしない。

 日本語は私が学んだ最初の膠着語であり、それまで知っていた中国語とも英語とも違っていたからこそ、不思議な発見に満ちていた。数式的な美しさを持つ日本語の文章を書いたり読み解いたりすることは、パズルを組み立てたり解いたりすることにも似て、今でも私はその作業に夢中にならずにいられない。

※毎月1日に最新回を公開予定です。

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