「とびきり甘い人生」(『チャーリーとチョコレート工場』)――川添愛「パンチラインの言語学」第2回
今回は『チャーリーとチョコレート工場』を取り上げる。これは私が「バレンタインシーズンだから」と気を利かせたがゆえのチョイスではなく、この連載2回目にして早くもどの作品を取り上げたらいいか分からなくなり、担当Uさんのおすすめに唯々諾々と従った結果だ。飲食店で「店長のおすすめ」ばかり注文する主体性のなさが露呈した。
この映画、実は未見だった。2005年の公開当時は、『おそ松くん』のイヤミを彷彿とさせるおかっぱ頭のジョニー・デップが不気味すぎて、見る気になれなかった。実際に見てみるとホラー要素はなく、大人も子どもも楽しめる良い映画だった。しかしブラック要素はかなりある。
まず、主人公の少年チャーリーの家の貧乏ぶりが凄い。そもそも家自体が分かりやすくナナメってるし、家族構成はパパとママの他にジジババが4人いて、子どもはチャーリーのみという超高齢化世帯である(しかしそのジジババが実に良いキャラをしている)。ただでさえボンビーに取り憑かれているかのような暮らしぶりの中、パパの「歯磨き粉工場で歯磨き粉にキャップをかぶせる仕事」が新型機械に奪われ、キングボンビー憑依状態となってしまう。
そんなチャーリーが、天才ショコラティエ、ウィリー・ウォンカ(=イヤミ頭のジョニデ)の営むチョコレート工場の見学ツアーチケットを引き当てる。そのツアーにはチャーリーの他に4人の子どもが同行するのだが、その子たちがそれぞれに人間の悪しき部分を体現しており、4人合わせれば7つの大罪のほとんどをカバーできると言ってもいいほどのク○ガキ、いや、お子様たちなのだ。映画『セブン』の世界観だったら順番にアレされる役柄だが、この映画でもかなりひどい目に遭う。
当のウォンカはどうかというと、髪型がイヤミである上に、顔色もデスラー総統の一割程度に青白く、どう見ても普通の人間ではない。また彼は明らかに魔法を使っているが、作中ではそのあたりについての説明がほとんどない。私はとりあえず、まあジョニデだし、つまりエドワード・シザーハンズでありジャック・スパロウでもあるわけだから、魔法ぐらい使えても不思議はないか……と、物語世界とまったく関係ないところで勝手に納得した。ついでに言えば、ウォンカの父さんもクリストファー・リー、つまり『ロード・オブ・ザ・リング』シリーズの魔法使いサルマンだ。そういえばずっと前にも似たようなことを考えたことがあったなと思ったら、『インデペンデンス・デイ』でジェフ・ゴールドブラムが宇宙人を壊滅させたときにも「まあ、蠅男(『ザ・フライ』)だし」と納得したのだった。
この映画には他にもウンパ・ルンパとか触れたい要素はたくさんあるのだが、この文章は一応タイトルに「言語学」が入ったエッセイなので、面目を保つために作中の言葉について見ていくことにする。実際、本作には言葉を使ったギャグがかなりある。たとえば、工場の中にはホイップクリームを作る部屋があり、そこでは作業員たちが生きた牛をピシピシと鞭打っている。このギャグは、whip cream(ホイップクリーム)のwhipに「鞭」や「鞭打つ」という意味があることに由来する。また、ウォンカが自分の髪の毛を見て「I must find a heir.(後継者を探さねば)」と思うシーンも、heir(後継者)とhair(髪の毛)の発音が似ていることを利用した言葉遊びだ。
作中の言葉遊びの中で私がとくに注目したいのは、重要フレーズ「とびきり甘い人生」だ。チョコレートに関する映画だからこそ「甘い」という形容詞が使われているわけだが、厳密に言えばここでの「甘い」は味覚のことを言っているわけではなく、人生に対する満足感や幸福感を表している。つまりこれは、味覚表現を他の感覚に転用した比喩だ。
五感を表す表現を転用して別の感覚や感情を形容する例は多い。たとえば「甘い香り」は味覚表現を使って匂い(嗅覚)を形容し、「黄色い声」は視覚表現を使って音(聴覚)を形容し、「暖かい色」は温度感覚の表現を使って色(視覚)を形容している。こういった比喩は「共感覚的比喩」と呼ばれ、盛んに研究されている。普段の生活でもこういう例を探すとけっこう楽しい。たとえばファッション雑誌では「甘めのブラウス」「辛口コーデ」のように、味覚表現を使って服の見た目を表す例がかなりある。つい最近は「ほろ苦スカート」という表現も目撃した。
ちなみに日本語の「甘い」は、そういった表現の中でも特殊であるらしく、研究者からの注目度も高いようだ。皆さんもご存じのように、「甘い」は良い意味だけでなく、「甘い考え」や「甘い親」、「ねじが甘い」などといったマイナスの意味にも使われる。面白いことに、英語のsweetやタイ語のwǎan(ワーン)などには、こういった否定的な意味は存在しないらしい[1]。
ここで「とびきり甘い人生」に話を戻そう。英語の原文は「life had never been sweeter」。直訳では「人生がこんなに甘かったことはなかった」のようになるが、これだと「人生に厳しさが足りない」という、あまり良くないニュアンスも入り込む余地がある。これに対し、「とびきり甘い人生」というフレーズには否定的な意味がほとんど感じられない。これはひとえに「とびきり」という言葉のなせる業だろう。プラス方向に振り切った「とびきり」を加えることで、「甘い」のマイナス面を消し去っているわけだ。字幕翻訳者の手腕に感心せざるを得ない。
ここで改めて作品全体を振り返ってみると、親子関係が一つの大きなテーマだということに気づく。「甘すぎる親」はダメだし、「甘さのまったくない親」も問題ありだ。チャーリーの家庭のように、大人たちが「程よい甘さ」で子どもに接することの重要性が説かれている気がするが、考えすぎだろうか。
[1] 参考:
Jantra, Jantima (1999)「日本語形容詞「あまい」の意味拡張と広告における多義的使用の分析:英語 <sweet> 及びタイ語 <wăan> と対照しながら」、『DYNAMIS : ことばと文化』第3号、pp.142-193。
木原美樹子 (2010) 「味覚形容詞「甘い」とsweet:「甘い」の対義的転用」、『中村学園大学・中村学園大学短期大学部研究紀要』第42 号、pp.55-61。