
手の焼ける生徒なのだ――李琴峰「日本語からの祝福、日本語への祝福」第11回
台湾出身の芥川賞作家・李琴峰さんによる日本語との出会い、その魅力、習得の過程などが綴られるエッセイです。
第11回 手の焼ける生徒なのだ
「先生! 『日本に行きたいんだ』の『んだ』って、どういう意味ですか?」
もし日本語学習者からそう質問されたら、読者諸氏はどう答えるだろうか?
日本語学校に通っていた時期、私はよく授業の進捗を先回りし、まだ教わっていない課のテキストを勝手に読み進めたり、教科書以外でも漫画や歌詞、ネットなど、様々なところで生の日本語に接したりしていた。なので、授業では(まだ)扱っていないことについて質問し、先生を困らせることも日常茶飯事だった。
ある日、私は『ポケットモンスター』の主題歌「アドバンス・アドベンチャー~Advance Adventure~」の歌詞を読んで、首を傾げた。日本語のレベルが上がるにつれ、一編の歌詞の中で読解できる部分もかなり増えたが、まだまだ謎に見える表現が多い。
例えば「新しい街で ト・キ・メ・ク仲間 探していくんだよ」という文。「新しい」「街」「仲間」「探す」など主要な単語は全部分かる。「ト・キ・メ・ク」にはなぜ点(中黒という名称を当時は知らなかった)が入っているかは謎だけどあまり重要ではなさそうだ。「よ」については、文末につけて口調や感情を表現する助詞が中国語にもあるからその類だと容易に推測できる。しかし、この「んだ」って一体何なんだ? ちゃんとした単語ではなさそうだし、なくても意味は変わらなそうだが、なぜ入っているのだろう? どういう意味だろう? しかもここだけでなく、「んだ」は色々なところで登場してくる。これはぜひ解き明かしたい謎だ。
ということで、先生のところに歌詞を持っていって質問してみた。ずばりと「こういう意味だよ」と答えが返ってくるのかと思いきや、先生は困った表情を浮かべながら、
「これは……意味はたくさんあります」と口ごもってしまった。
「じゃ、ここではどういう意味ですか?」と私は食い下がった。同じ単語や表現でも文脈が違えば意味やニュアンスが変わることはしょっちゅうある、それは理解できるが、せめて目の前のこの歌詞という限定された文脈での意味を知りたいと思った。
「うーん……難しいですね」
先生の苦しげな顔を見て、私は少しいらつきを覚えた。日本人だろう? 教師だろう? なんで分からないんだ? これは(一応)子供向けアニメの歌詞にも出てくる表現なのだから、そんなに難しいはずがなかろうに! と、先生の教師としての素質を疑い始める次第。
結局、ここの「んだ」は「強調」のニュアンスだという説明を受け、なんだか釈然としないまま引き下がることにした。強調? 「んだ」は「探していく」を強調しているのか? なんで強調するんだ? 強調するなら「探していく!(感嘆符)」「探していくよ!」でいいのではないか?
話は一旦逸れるが、ここの「んだ」について「強調」と説明するのは、もちろん間違いではない。ただし、そういう説明は学習者にとってほとんど意味を成さないというのもまた事実である。なぜなら、「強調」で説明できる文法項目は初級から上級まで、実に無数にあるからだ。「無数にあるからだ」は「無数にあるから」と比べて口調が強いという意味で、ここの「だ」もまた「強調」として説明できる。ほかにも、
・私は野菜は食べたくない。(「野菜」を強調、「他のものなら食べる」と含意)
・京都へは彼が行く。(他の人ではなく「彼」であることを強調)
・そのことは誰もが知っている。
・子供は一人も/一人として死なせない。
・家から大学まで三時間もかかる。
・今年こそ医学部に入るぞ。
・何人たりともここに入ってはいけない。
・この日を何年待っていたことか。
・金など/なんて/なんぞ/なんかくれてやる。
・生きる希望さえ失った。
・先生ですら解けない難問。
・こんな事件が起きるなんて想像だにしなかった。
・あの人、横領までして、よっぽど切羽詰まったのだろう。
・初対面の人からいきなりタメ口で話しかけられるなど、不愉快極まる。
・こんな立派な賞をいただくとは光栄の至りだ。
・これは私と彼女の問題だ、口を挟むんじゃない。(そう、傍点も強調だ)
右に挙げた例はほんの一部に過ぎないが、これだけ多彩な「強調」表現があるのだから「強調」とだけ説明しても、実質的に何も説明していないのに近い。この表現とあの表現はどう違うのか、どのように使い分けるのかまでフォローしないと、学習者は使えるようにならない。とはいえ、これらを説明するのはもちろん、至難の業だ。
話を「んだ」に戻そう。今なら、あの先生が回答に苦慮したのも理解できる。「~んだ」(およびその類似形「~のだ」「~んです」「~のです」「~んである」「~のである」など)というのは恐らく無数にある日本語の文型の中で、最も複雑で、最も説明しづらく、使いこなすのが最も難しい項目と言えるかもしれない。難しいのにあまりにも頻繁に登場するから(ここまでの原稿で何回使ったか数えてみるといい)、初級段階で導入しなければならない。したがって、学習者から誤用が頻発するのも想像に難くない。
自分の名前を相手に伝える、自己紹介の場面を想像してみよう。ある学習者はあなたに対し、このように自己紹介したとする。
①私の名前は李琴峰です。宜しくお願いします。
②私の名前は李琴峰なんです。宜しくお願いします。
日本語母語話者なら誰でも、②の言い方は不自然だと感じるはずだ。実際にこう言われたら、なんだか押しが強そうなイメージがあるし、人によっては自分が責められている(ひょっとしたら自分は知らぬ間に相手の名前を間違えていたのかな? と思ってしまう)とすら感じるかもしれない。しかし「~んだ」は「強調」のニュアンスだとしたら、学習者からすれば、自分はただ相手に名前を覚えてもらいたくて、それで「強調」の文型を選んだに過ぎないのかもしれない。こう言うと「押しが強いイメージを与える」とか「相手を責めているように聞こえてしまう」といった認識は、学習者にはないはずだ。では、そんな学習者に対して、あなたならどう説明するのだろうか? 「自己紹介でそんなに強調する必要はない」って? いや、でも自分の名前じゃん! 自分の名前は強調したいじゃん!
『教師と学習者のための日本語文型辞典』(グループ・ジャマシイ編著、くろしお出版。ちなみに、この辞典は学部時代に購入してから、十何年にわたってずっと手元に置いて重宝している、極めて参考になる資料である)を開いてみると、「~のだ」の項目に、
①説明
②主張
③疑問詞~のだ:説明の要求
④つまり~のだ:言い換え、結論
⑤だから~のだ:前の文で述べた事柄を根拠に帰結を導き出す
⑥~のだから:ある事柄を事実として認め、それを原因・理由として次の事柄を導き出す
という六つの意味・用法が紹介されている(「強調」という語は用いられていない。なお、コロン以降の説明は筆者による要約である)。同書からそれぞれ例文を一つずつ、左に引いてみよう。
①泰子は私のことが嫌いなのだ。だって、このところ私を避けようとしているもの。
②誰がなんと言おうと私の意見は間違っていないのだ。
③彼は私を避けようとしている。いったい私の何が気に入らないのだ。
④防災設備さえ完備していればこのようなことにならなかった。つまりこの災害は天災ではなく人災だったのだ。
⑤コンセントが抜けている。だからスイッチを入れてもつかなかったのだ。
⑥まだ子供なのだから、わからなくても仕方がないでしょう。
ここまで見たら、自己紹介の場面で「私の名前は李琴峰なんです」がなぜ不自然かは、およそ見当がつきそうだ。「~のだ」が使われる場面は、根拠から導き出された結論や、話し手による主張や詰問など、話者の主観的な判断や感情が入っていることが多い。「私の名前は李琴峰です」というのは単なる事実の陳述なので、「~のだ」という文型はそぐわない。このような場面で「~のだ」を使ってしまうと、聞き手は余計なニュアンスを聞き取ってしまう。
なるほど、「~のだ」には六つも意味があるんだね、道理で難しいわけだ。と、納得するのはまだ早い。「なるほど、『~のだ』には六つも意味があるんだね」という文の「んだ」はこの六つのうちのどれに当てはまるか考えてみよう。明らかに「①説明」でもなければ「②主張」でもない。これまでの説明を受けて帰結を導き出すという意味では⑤に近い気もするが、「帰結を導き出す」というより、ここでは単に言われたことについて一人で「納得」しているようにも感じられる。もしかしたら「⑦納得」という七つ目の意味を確立させることができるかもしれない。
また、
⑧先週京都に行ってきたんだけど、紅葉めっちゃ綺麗だったよ。
のような例文の「んだ」は、これまで挙げた七つの説明のどれにも当てはまらない。『日本語文型辞典』ではなぜか前述の六つの意味・用法とは別の見出しで、このような用法を「話題のきっかけ」と名付け、「新たな話題を提出するときのきっかけを作るために、その話題の背景となることがらを表すのに用いる」と説明している。これで八つの説明が揃った。ドラゴンボールよりすごい。
これで終わりだと思ったら、甘い。「~のだ」から派生した文型はまだまだ無数にあり、その意味・用法も「~のだ」単体の時とは大いに異なる。「~のなら」「~のだった」「~のだったら」「~のだろう」「~のだろうか」「~のではないか」「~のではないだろうか」、挙げ出したらキリがない。思うに、日本語で一番難しいのは単語でも発音でも敬語でも動詞活用でもなく、このように似ている無数の文型をきちんと区別し、使い分けることだ。
意味・用法もさることながら、使う場所と頻度も難しい。学部時代、私は早稲田大学に一年間交換留学していた(ちょうど東日本大震災の直後だった)。留学中、日本語学者の石黒圭先生(二〇二三年現在は国立国語研究所教授)の「文章をみがく」という授業を受講した。受講生はほとんど日本語母語話者だった。何か高度な文章技術や文学的表現を教える授業かと思えばそうではなく、日本語学の観点から日本語の文章の様々な要素――句読点、語順、仮名と漢字の書き分け、主語の省略、接続詞、段落など――を分析する講義だった。授業では様々な作家が書いた文章を一部だけ抜き出し、その回のテーマに沿ってアレンジして選択肢を作り、自分ならどうするかを受講生(ざっと百人から二百人くらい)に答えさせ、そこから得られた量的データを基に日本語の文章の特徴を分析していくという進め方である。例えば「句読点」がテーマだったら、先生のほうであらかじめ原文から句読点を全部抜いて、どこで句読点を打つかを受講生に記入させた。「仮名と漢字の書き分け」だったら、全部仮名文字にし、漢字で書く箇所を受講生に選ばせた。そのうちの一回のテーマが、「~のだ」だったのだ。
「『のだ』のさじ加減」と題されたその回の授業は、一連の文章のどこに「のだ」を使うかを受講生に選ばせ、統計データを取った。結果、母語話者でも「のだ」を使う箇所にそれなりにばらつきがあることが分かった一方、ある程度の傾向も見られた(*1)。当時の私は日本語がすでにかなり上達していて、「上級」より上の「超級」レベルに当たり、日本語能力試験のN1もほぼ満点の成績で合格していた。にもかかわらず「のだ」に関しては、母語話者に見られた傾向からやはり何か所かずれていたと記憶している。それくらい、「のだ」は難しいのだ。「のだ」という文型だけを扱う日本語学や日本語教育学の論文は数知れずあり、専門的な研究書も何冊もある。
そんな難しい文法項目についていきなり質問されたのだから、日本語学校の先生が困ったのも無理はない(日本語教師は必ずしも日本語学の専門家ではない。日本語教師の資格についてはまた別の機会に書くこととしよう)。とはいえまだ初級段階のいち学習者だった私にはそんな事情を知る由もなく、先生の解説が腑に落ちず、なんとなくごまかされたような気持ちになった。
「のだ」だけでなく、思い返せば、私が先生にぶつけていた質問の数々は実に多彩で、時に挑戦的ですらあった。
「『新しいビルができる』と『新しくビルができる』はどう違いますか?」
「この間、『する』がつくⅢグループの動詞はみな漢字二文字だとおっしゃいましたが、『律する』『核分裂する』『乱反射する』はどう説明しますか?」
「(形容詞の活用表を手にしながら)表によれば形容詞『面白い』の意向形は『面白かろう』になりますが、合っていますか? これは『面白いでしょう』の意味ですよね? どう違いますか?」
「(『厚顔無恥』『支離滅裂』『羊頭狗肉』『臥薪嘗胆』『後顧之憂』『画竜点睛』などが書いてある単語カードを手にしながら)これらの四字熟語の品詞を教えてください」
「『大きい』『大きな』『大いなる』『大なる』はどう違いますか?」
「この文章に『悠然として』と書いてありますが、形容動詞なら『綺麗に』のように『悠然に』になるはずですよね。なぜ『として』ですか?」
「漢文の書き下しのやり方を教えてください」
「藤村操の『巌頭の感』という文章に『この大をはからむとす』とありますが、『はからむとす』ってどういう意味ですか? 辞書を調べても出てきません!」
色々な意味で手の焼ける生徒だった。今となってはそれくらい自分で調べるのは造作もないことだが、当時はまだ初級段階なので自力で調べるのは難しく、お金がないのでちゃんとした辞書も持っていなかった。これらの質問をしたのは主に授業の合間の十分間休憩や、授業の後の時間なので、先生からすれば、私の質問は時間外労働の源と映っていたのだろう。付き合いきれず内心嫌がっていた先生も相当いたはずだ。
しかし、自分の経験からしても、ゆくゆく大器になる人物は往々にして質問が多く、手の焼ける生徒である。振り返れば、自分が出会ってきた教師や教授の中で、今でも恩師として尊敬しているのは、学識や知識があるのはもちろんのこと、私みたいに手の焼ける生徒からの質問をはぐらかさず、嫌がりもせず、真正面から真摯に向き合うような方々ばかりである。
※1 その授業で使った教科書は石黒圭著『よくわかる文章表現の技術 Ⅰ 表現・表記編[新版]』(明治書院)であり、この本の中にも統計データが載っている。
※毎月1日に最新回を公開予定です。
李琴峰さんの朝日新聞出版の本
【好評3刷】生を祝う