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日本語って難しいでしょ?――李琴峰「日本語からの祝福、日本語への祝福」第5回

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台湾出身の芥川賞作家・ことさんによる日本語との出会い、その魅力、習得の過程などが綴られるエッセイです。

第5回 日本語って難しいでしょ?


「日本語って難しいでしょ?」


 日本語母語話者から幾度となくかれた質問である。何回訊かれても返答に困る質問でもある。

 私は性格が悪いから、この手の質問にはどうしても「難しい日本語をよく習得したね、褒めてやる」という上から目線の賞賛と、「難しい言語を母語として使いこなしている自分スゴイ」という根拠のない誇りを感じ取ってしまう。というのもあるが、そもそも日本語という言語は客観的に見て難しいと言えるかどうか分からないから、返答のしようがないのだ。

 日本語は難しい言語だろうか? そもそも言語の難しさを測る基準は何だろうか?

「難しい言語」といえば、こんなネタがある。「皆目見当がつかない、さっぱり分からない、ちんぷんかんぷんだ」と言いたい時に、英語では「Itʼs all Greek to me.(これは私にとってギリシャ語だ)」という言い回しをするのだが、つまり英語にとってギリシャ語は「理解不能な難しい言語」ということになる。似た表現は他の言語にもあって、例えばノルウェー語、スペイン語、ポルトガル語にとってやはりギリシャ語が難解である。ルーマニア語にとってトルコ語が、トルコ語にとってフランス語が、フランス語にとって中国語が難解である。中国語を難解だと思っている言語は他にたくさんある――ギリシャ語、アラビア語、ヘブライ語、ハンガリー語、ロシア語、ポーランド語、ウクライナ語、オランダ語、などなど。では、多くの言語にとって難解なものの代表格とされている中国語にとって何が難解なのかというと、「天書(天から授かった書物)」しかないのだ(中国語には「これは天書みたいだ」という言い回しがある)。したがって、人間界で一番難しい言語は中国語である。

 もちろん、これはネタに過ぎない。言語の難しさについて考える時に、もっと客観的な基準があってもいいはずだ。例えば発音面では、子音と母音の数、音節構造の複雑度、音節の種類の数などが挙げられるだろう。語彙ごい面では、単語の数とカバー率、名詞の性差の有無は参考になる。文法面では、活用の有無とその複雑さ、時制やそうの表現の仕方などがすぐ思い浮かぶ。表記面では、覚えなければならない文字の数が大事だ。
 しかし、これらの指標について考えると、結局どの言語にも易しい側面があり、難しい側面がある、という結論になるだろう。例えば日本語は発音が比較的単純で、(数え方にもよるが)子音は約十五種類、母音は五種類、音節構造はほとんど「子音+母音」の開音節で、音節(厳密には「モーラ」だが)の種類は約一一〇くらいしかない。それに比べて中国語は複雑だ。中国語では子音は約二〇種類、母音は約十種類、音節構造は「頭子音+介音かいおん+主母音+韻尾いんび」で、これに声調が加わる。声調があるので音節の種類は千を超え、日本語を遥かに上回る。
 一方、日本語は単語の数が多く、『広辞苑 第七版』では約二十五万項目が収録されている。対して中国語の場合、台湾の教育部(文科省相当)が編集した国語辞典の収録語数は約十六万である。カバー率も日本語の方が低く、頻出度上位五千語でのカバー率は約八〇%である。これは日本語の文章に頻出する上位五千語を習得しても、約八割の語彙しか理解できないということを意味している。それに対し、中国語は上位五千語を習得したら約九割理解できるらしい。単語のカバー率が低い言語はその分、覚えなければならない単語の数が多いというわけだ。
 表記面、つまり文字にも目を向けてみよう。日本語を使いこなすために覚えなければならない文字はいくつだろうか。平仮名約五十個、片仮名約五十個、これらに加えてたくさんの漢字――常用漢字は二一三六個――があるから、とりあえず二二〇〇個くらいで手を打とう。これは決して少なくない。何しろ、英語のアルファベットは僅か二十六個、大文字と小文字を合わせて五十二個しかないのだから。しかし言わずもがな、中国語の方が遥かに多い。台湾の場合、小学校を卒業した段階でも既に漢字を四千字は覚えている。前出の教育部国語辞典では約一万一千字が収録されており、有名な『康煕こうき字典』に至っては約五万だ。冒頭で紹介したネタで、難解なもののたとえとして中国語が色々な言語で使われているのは、やはり漢字があるからだと思われる。

 ネットで検索すると、「習得が難しい言語ランキング」みたいな俗説がたくさんヒットする。そしてほとんどのランキングにおいて、日本語と中国語は上位に食い込んでくる。多くの日本語母語話者が「日本語は難しい言語だ」と思っているのはこのせいなのだろう。しかし注意しなければならないのは、この手のランキングはほとんど欧米人、もっと言うと英語話者目線で作成された主観的なもので、客観的な基準にはなり得ないということだ。英語母語話者にとってフランス語の習得は簡単かもしれないが、日本語母語話者にとって必ずしもそうではないだろう。


 つまり、言語の難しさを測る絶対的な基準などなく、あるのは相対的な難しさだけだ。母語と学習したい目標言語が似ていれば似ているほど、当然アドバンテージが大きくなる。

 したがって、こんなこともよく訊かれる。

「中国語は日本語と結構違うでしょ? だって中国語は語順がSVO(主語-動詞-目的語)で、日本語はSOV(主語-目的語-動詞)だから、中国語は寧(むし)ろ英語に近いんじゃない?」

 確かに中国語は日本語とかなり違う言語である。そして中国語と英語の基本語順がSVOで、日本語がSOVなのもその通りだ。しかしそれだけをもつて「中国語は日本語より英語に近い」と言うのは短絡的だ。言語同士の文法的近似度を測る基準は何も語順だけではないし、語順に限って言っても、SVOかSOVかが全てではないのだ。


 例えば名詞と、その名詞を修飾する関係節との語順も言語によって異なるが、この場合、中国語は寧ろ日本語に近い。手前味噌で恐縮だが、自著『独り舞』の文章を例に挙げよう。中国語は私自身による訳で、英語はアーサー・レイジ・モリス氏による訳だ。

(日本語)
(①) 道端に咲いている(②) 白い(③)花を目にした時にさえ、ダンチェンの甘い香りがする。


(中国語)
就連偶然入眼的(①)綻放於路旁的(②) 白色(③)小花,都使她彷彿聞到丹辰的甜美幽香。

(英語)
Even when she was awake and outside, the (②) white (③)flowers(①) that bloomed at the end of the road had the same sweet scent as Danchen.

 日本語も中国語も英語も、形容詞は名詞の前に来るから、どれも「②白い」は「③花」の前に来る。しかし動詞を含む関係節「①道端に咲いている」は日本語と中国語では前置修飾だが、英語では後置修飾になることが分かる。また、「道端=道の端っこ」という言葉は中国語(路旁)でも同じ語順だが、英語だと「the end of the road」というふうに、順番を逆にしなければならないのだ。
 疑問文の作り方についても、中国語は日本語に近い。疑問文には「はい/いいえ」で答えられる疑問文と答えられない疑問文があるが、次の例文は前者である(内容的には簡単に答えられるものではないが、少なくとも形式的には)。

(日本語)
どんな深刻な傷跡でも、既に十年も経っているのに、そんな古傷を知られるのは、それほど耐え難い恐怖なの(④)か?

(中国語)
不管那傷痕曾經刻得多深,畢竟都過了十年了,那麼古老的舊傷被人知道,難道真的那麼值得恐懼(④)嗎 ?

(英語)
No matter how deep the wound might have been, it’s been ten years now. (④) Are you really so scared to let such old scars be known?

 日本語も中国語も、文末に「か」「嗎」といった疑問を表す助詞をつければ疑問文にできるが、英語の場合、ご存知の通りbe動詞を文頭に持ってきたり、be動詞がない場合は文頭にdo/doesをつけたりしなければならない。

 前述の二つの例は日本語と中国語の類似点だが、逆に日本語と英語が似ていて、中国語だけが違う文法項目もある。例えば日本語も英語も過去形を明確に示す文法的標識があるが、中国語にはそもそも過去形が存在しないのだ。
 

 ところで、WALS(世界言語構造地図)というウェブサイトがある。これは多くの先行研究に基づいて、世界中の言語の音韻や文法といった特徴を様々な観点で記述するデータベースである。このサイトで調べれば、日本語と中国語、英語の類似点と相違点が分かる。


 また、比較言語学という学術分野がある。これは言語同士を比較することによって、その親縁関係を見出したり、元となる共通の言語(祖語)を再構したりする学問だ。親縁関係がある言語同士は当然、類似性が高い。例えば同じインド・ヨーロッパ語族ゲルマン語派に所属するデンマーク語とスウェーデン語はかなり近い。中国語はシナ・チベット語族シナ語派で、台湾語や広東語に近い。


 では日本語はどの言語と親縁関係にあるかというと、長い間、「親戚を持たない孤立した言語」とされてきた。文法的には韓国語や北アジアのアルタイ諸語と共通点が多いためアルタイ語族に数えられることもあったが、定説には至らなかった。近年になって、日本語を別の語族に入れるのではなく、日本語と琉球語、ならびにその周辺言語と併せて「日琉語族」として確立するのが一般的になっている。

 インド・ヨーロッパ語族の英語、シナ・チベット語族の中国語、そして日琉語族の日本語。当然、この三者は親縁関係のない全く異なる言語ということになる。

 このように、日本語と中国語は似ても似つかない別々の言語だが、それでも日本語を勉強していた時、私が大きなアドバンテージを感じていたのもまた事実である。漢字の存在と、日中両語の千年以上にわたる交流史のおかげである。

 漢字文化圏以外の学習者なら、平仮名と片仮名を習得した後に立ちはだかっている最大の難関は何をおいても漢字なのだろう。少なくとも、それが日本語習得のハードルを大きく押し上げていることは間違いない。日本語を学習する上でのアドバンテージという意味で、私は中国語母語話者でよかったと心から思う。既に漢字を四、五千字は習得していた身からすれば、日本語の常用漢字はごく一部を除いて、知らない字がほとんどないのだから。


 もちろん、同じ漢字といっても、台湾で使われているものと日本で使われているものは違うし、中国のそれとも違う。一般的に台湾で使われている漢字は「繁体字」、中国で使われている漢字は「簡体字」、日本で使われている漢字は「新字体」と呼ぶ。繁体字は二千年以上使われている伝統的な字体であるのに対し、簡体字と新字体はそれを書きやすくするために、戦後の中国と日本でそれぞれ作られた簡易字体である。ただ、元々は同じだから、大本の繁体字を押さえていれば日本語の新字体も難なく読めたのである。当然、のび太みたいに「太」を「犬」と間違えるようなこともなかった。

(繁体字)夫天地者萬物之逆旅光陰者百代之過客而浮生若夢為歡幾何
(簡体字)夫天地者万物之逆旅光阴者百代之过客而浮生若梦为欢几何
(新字体)夫天地者万物之逆旅光陰者百代之過客而浮生若夢為歓幾何

 五十音は日本語の歌を歌いながら覚えたというのは前回書いた通りだが、歌詞に使われている漢字もまた興味深かった。「時代」「未来」「興味」「必要」「不安」「勇気」「心」「夢」「傷」などは中国語でも使う言葉なので、読み方を知らなくても意味は分かる。「君」「僕」「大事」「居(る)」「見(える)」などは何となく意味が推測できる。


 時々、「諦(める)」「戻(る)」「(全てを)懸(ける)」など意味が推測しづらい漢字もある。中国語では「諦」は「真理」や「丁寧に」の意味で、仏教以外の文脈で使うことが少ない。「戻」は「残忍」「凶暴」の意味で、「懸」に至っては「吊るす」という意味だ。どちらも日本語における字義とかけ離れている。また時々、「叶」「払」「儚」「辻」「込」「峠」といったよく分からない漢字と出合うこともあった。「叶」「払」はその字形から元の繁体字がなかなか推測しづらい。「儚」は現代中国語ではほとんど使わない字で、「辻」「込」「峠」に至っては、そもそも日本が創った独自の漢字(国字)なのだ。しかしそんな「字は知っていて中国語で読めるのに、意味は分からない」「漢字なのに見たことがなく、中国語でも読めない」といった感覚こそ、どこかエキゾチックで、当時の私にはとても魅力的に映った。

 日本語の漢字は大袈裟おおげさだな、と思う時もあった。「必死に勉強する」と言うが、必ず死ぬほど勉強無理強いするのは忍びないし、「一生懸命」だって、一生を吊るして命まで吊るすことになったら元も子もない。友達同士や恋人同士でもしっかり「約束(束縛する、制限する、取り締まる)」するし、答えを追い求める時は必ず「捜(捜査する、捜索する)」すくらい真剣でなければならない。「真剣に話し合う」場では本物の剣によって血が流されそうだし、「真面目に生きる」ためには自分の正体(*1)をさらさなければならないし、「完璧」でいようとするのも命懸けだ(*2)。中国語の「支離破碎」みたいに破けたり砕けたりするだけでは物足りず、日本語では「支離滅裂」のように切り裂いたり滅したりしなければならないのか――そういう年頃だったのだろう、そんな微妙な大袈裟さが実にツボにはまった。そもそも大袈裟ってお坊さんの袈裟とどう関係するのだろう。大きめな袈裟を着れば大袈裟なのだろうか。


 意味が分かるものでも分からないものでも、大袈裟に感じたものでも感じなかったものでも、歌詞に出てくる漢字の読み方はとりあえず全部覚えた。すると、一つのことに気付いた。「器用」「自信」「孤独」「情熱」といった、発音が中国語と近くて覚えやすい読みと、「今」「仲間」「涙」「選(ぶ)」といった、中国語と全く異なって覚えづらい読みがあるのだ。要するに訓読みと音読みの違いに気付いたのである。

 それは大きな発見だった。中国語では漢字は音読みしかなく(そもそも音読みの定義は「漢字を字音=中国語音で読むこと」なので当然なのだが)、その音読みも多くの場合、一種類しかない。日本語の漢字の読み方に、中国語の音に似ているものがあるということ自体が驚きだ。何しろ、例えば「時代(shídài)」「未来(wèilái)」は英語だと「time」「future」という全く関係のない音になるのに、日本語だと「じだい」「みらい」という、ちょっとずれているがとても似ている音になる。「ちょっとずれているが似ている」というところが肝心だ。完全に同じ音だと味気ないし、全く関係のない音だと英語と大して変わらない。似ているからこそ親近感を覚えるし、ずれているからこそ異国情緒を感じるのだ。
 それとは別に、日本語の漢字は何通りも読み方があるというのも驚きだ。中国語では、漢字の「字形」と「字音」はとても固く結びついているし、そのような結びつきは義務教育と夥(おびただ)しい数の宿題やテストを通して叩き込まれていた。中国語では「君」は「君不見」でも「君子」でも「jūn」としか読まないし、「日」は「日本」でも「曜日」でも「一日」でも「二日」でも「今日」でも「昨日」でも「日記」でも「rì」としか読みようがない。「翼」は当然「yì」と読むし、「海」は当然「hǎi」と読む。にもかかわらず、日本語では音はごく自由に漢字の字形から遊離しているように見えた。「瞳」は「トウ」とも「ひとみ」とも読めるし、「名」は「メイ」とも「な」とも読める。そこまではまだいい。「疾風かぜを駆け抜けて」「孤独ひとりにしない」「この地球ほ しに生きて」「未来あすへ歩もう」「青眼の白龍ブルーアイズ・ホワイト・ドラゴン」に至っては「漢字になんてことをしてくれたんだ!」みたいな衝撃を覚えた。

 一六〇〇年前、漢籍を中国から受け入れ、訓読を通して日本語にしていった先人たちは、漢籍の権威や格調高さを保つために、全てを和語に翻訳するのではなく、わざわざ漢語のまま、漢字音のまま――例えば「遠方」を「とおかた」ではなく「えんぽう」、「巧言令色」を「うまこといろ」ではなく「こうげんれいしょく」のまま――日本語に取り入れた。その結果、日本語に漢語がたくさん入ってきて、「はつ音」「そく音」といった新しい音も生まれた。思えば、当時の人たちが漢語特有の響きに魅力を覚えていたのと同じように、日本語を学びたての私もまた日本語の漢字音に魅力を感じていた。
『彼岸花が咲く島』の中で、私は「ひのもとことば」という、日本語から全ての漢字と漢語を排除した言語を仮構した。そのような言語が現実世界にあり得るかどうか、私には分からない。ただ、もし日本語が「ひのもとことば」みたいに漢字も漢語もなかったのなら、私はたぶん、日本語に興味を持つことはなかったと思う。


 日本語は難しい言語かどうかという質問について答えはないが、漢字があるおかげで、私は一度も難しいと思ったことがないのだ。

*1 中国語では「真面目」は「正体」の意。
*2 「完璧」の語源は中国の戦国時代の故事による。当時の趙の国には「の|璧《へき)」と呼ばれる宝玉があり、秦の国王はそれを欲しがった。「秦の十五の城と交換したい」と秦王が申し出たので、趙の使者・藺(りん)相(しょう)如(じょ)は璧を持って秦へ向かい、秦王に謁見した。ところが秦王は城を差し出す気が毛頭なく、最初から璧を奪い取るつもりでいたことが判明し、藺相如は命懸けで璧を趙に持ち帰った。ちなみに現代中国語では「完璧」は「処女の身」という比喩的な意味もある。

※毎月1日に最新回を公開予定です。


李琴峰さんの朝日新聞出版の本


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