北尾トロ『佐伯泰英山脈登頂記』第3回
第1峰『密命』其の弐
大筋、中筋、個別事件の3本柱で巻を重ねる
ここで佐伯作品の読みやすさについて考えてみたい。私は困ってしまったのだ。1冊読み終えるとすぐに次の巻を手にして読み始めてしまうのである。冗談のつもりで、「寝ても覚めても佐伯漬け」と言っていたのに、その通りになってしまった。佐伯本、予想以上に中毒性がある。
第3巻を読み終えたところで、どうやらそういうことかと気がついたので報告しよう。〝やめられない止まらない”の秘密は各巻の巧みな構成にあると思うのだ。
『密命』シリーズの多くは、1冊の中に大・中・小と3つの流れを含んでいる。
大は藩主に関わることや藩の将来など、惣三郎にとって最優先の課題。具体的な事件が起きない巻もあるのだが、そんなときも地下水のように物語の底を支え、いつ動き出すかわからないので目が離せない。
中はその巻のメインとなるところで、家族の話のこともあれば、剣術道場のこと、藩のもめごと、強敵となる刺客だったりする。多いのはやはりアクションシーンを伴う敵との対決だ。これらのひとつひとつに一筋縄ではいかないヒネリが仕掛けられていて、作者のサービス精神が発揮される。
そして小は新登場となる人物の背景を巡る話や、金杉家を中心とするコミュニティで起きるやっかいごと、祝いごとなどだ。大や中では書きにくい季節感や人間関係の機微が、こういう場面でよく出てくる。
ここで書いておきたいのは、佐伯泰英の描写力についてだ。カメラマン経験があるせいかもしれないが、読んでいて絵が浮かぶのだ。たとえば夜道を歩く惣三郎が刺客に襲われるシーンがあるとする。こちらは活字だけ読んでいるのに、自分が惣三郎だとしたら、どの方角からどんな速さで敵がやってくるのか、想像がつくのである。ちなみに、巻頭には地図がついているので、地理を把握することもたやすい。
このころになると、読者は登場人物の役割や性格をおおよそ把握できている。惣三郎以外にお気に入りのキャラクターが現れたりもして、脇役陣もいい味を出し始めた。ただでさえ読みどころが多いのに加え、3つの流れがバランスよく配置されると、小にひとつケリがついても中が盛り上がり、中が解決したあたりで大に動きが出て「おいおい」となったりして、ついつい巻末まで読んでしまう。
とくに曲者は中である。解決したらしたで「次はどうなる?」が待っている。見通しがつくまで、もう少し読もうとなってしまうのだ。
この時期の金杉家は幸福感に満ちている。強さとやさしさにあふれる惣三郎。亭主を敬いつつ一家のかなめとして気丈にふるまう妻しの。順調に成長し剣術の稽古に目覚める息子。おしゃまでしっかり者の娘。全員が健康で、犬まで飼っている。経済的に豊かではないが、そこは読者に余計な気を使わせない佐伯泰英。いつもなんとかなる。
将軍が主催する江戸剣士グランプリ開催
安定期に入ったかに思えた物語に明るい活気が戻るのは第7巻。なんと、八代将軍の徳川吉宗の号令で、天下一の剣者を決める試合が催されるのだ。〝E-1(江戸剣士)グランプリ”とはやってくれるね。歴史上の人物にあり得ないことをさせる大胆さに拍手喝采である。
この試合に所属する道場代表として選ばれるのが、息子の清之助。将軍からも一目置かれる惣三郎はなんと審判に抜擢される。
出場を目指して集まってくる剣豪たち。その中には怪しい人物も含まれるが、それも含めてお祭りムードが盛り上がっていく。思う存分に剣術シーンを書けるとあって、このあたりの筆致は生き生きしている。そして本番の大会では清之助の快進撃が繰り広げられるが……。
当然ながら、このアイデアは楽しい読み物にするためだけではなく、その後の物語に影響を及ぼす因縁を作る狙いがある。むしろ、そのための仕掛けと言っていいだろう。試合が終わるやいなや、事件は起こる。読んでいて虚をつかれた感じがしたが、それで終わらせないのが佐伯流。清之助が修行の旅に出ていき、堰を切ったように物語が新局面に突入していくのである。
私が驚いてしまったのは、第7巻にして、物語を引っ張る存在が、惣三郎から清之助にバトンタッチされたことだった。試合で選手ではなく審判を務めたように、ここへきて惣三郎のオヤジ度が一気にアップ。まるで代替わりのように、清之助の若武者ぶりが強調されてきた。
しかし、考えても見てほしい。シリーズはまだまだ前半なのである。せっかく金杉家にしては平穏な日常が訪れていたのに、佐伯泰英にはそこに安住する気がないようだ。
旅に出た清之助が何に出会っていくのか、江戸にいる惣三郎と藩の関係に進展はあるのか、先が読めなくなってきた。
どうなる、第8巻⁉
絶好調の中で気づいた〝青春〟の不在。
じゃあ、息子でそれやっちゃおう!
若き日の惣三郎を書き忘れた!?
〈睦月(1月)も残り少なくなった日の夕暮れ、肥後の球磨川河畔に立つ若い武者修行の武士がいた。
金杉清之助だ〉
第8巻の第4章はこのように始まる。寝転がって読んでいた私は起き上がり、「いよいよだな」と気を引き締めた。武者修行の旅に出た清之助、久しぶりの登場。そして、ここからは父・惣三郎の活躍と、息子・清之助の旅が、二重奏のように物語をリードしていくことになる。
まずは直接的な関わりがないまま、画面がつぎつぎに切り替わるように両者の様子が描かれていく。とくに、いずれは主役の座に昇り詰めなければならない若武者の描写はていねいで、読者にとってもありがたい。私は、しばらくはこの調子で、ときどき清之助の成長過程をリポートするような形になりそうだと思った。
同時にそれは、おもに惣三郎と清之助の関係から家族を描いていくことでもある。妻とふたりの娘は一歩下がって、父と息子のダブル主演となるのだ。道筋がはっきりしたおかげで、今後の方向がわかりやすくなってきた。
密命山を登り始めて1週間。アップダウンが激しく、風景も目まぐるしく変化する第1巻から数巻を経て、この山のことが少しずつわかってきたところだ。まだ高峰の3合目か4合目に達したに過ぎないが、ここへきてやっと輪郭がくっきりしてきたと言えばいいだろうか。
佐伯泰英はなぜ、最強の剣士である父の背中を追うように、清之助を旅立たせたのか。そこには家族の物語を書きたいという目的とは別の事情があったという。
第1巻で、惣三郎は江戸時代なら青年と呼ぶより壮年に近い、30代半ばの大人として読者の前に登場した。結婚歴あり、子どもあり。剣術は達人の域に達し、脂の乗った時期。藩士としてもそれなりのキャリアを積んでいた。そして、すぐに事件に巻き込まれ、休む間もなく押しかける刺客をなぎ倒すかと思えば好きな女性も現れ、仕事に恋に大忙しの活躍をする。テンポよく進むストーリーは切れ味鋭く、読者の快哉を浴びて一躍人気作家の仲間入りを果たす。
もちろん、それで何の問題もなかった。ここまで大長編にならなければ……。
家族小説として考えると、惣三郎はスタート地点で年を取りすぎているのである。2人目の妻しのとの間に次女の結衣が生まれ、1家は5人になった。1度はグレかけた清之助が立ち直り、剣術に目覚める。子どもたちの成長はなんとも微笑ましく、読んでいて楽しい。
だが、彼らが成長すればするほど、読者は冷酷な事実に直面する。主人公の惣三郎が老いていくのだ。
仕方のないこととはいえ、これ、読者としてはあまり望ましくない。時代小説ファンは中高年が多い。スカッとした娯楽小説を読んで夢見心地になりたいのに、主人公が老いていく様を見届けたいとはあまり思わないだろう。還暦を超えた私もその点は同じ。息抜きの読書だからこそ希望が欲しい。
いまさら惣三郎を若返らせるわけにはいかない。といって、若き日々のエピソードを強引に割り込ませるのも据わりが悪い。それをしたところで、惣三郎の老いが止まるわけではないからだ。家族を描くといっても、『密命』シリーズはアクションシーンが最大の見せ場。剣を振り回す惣三郎が、「そんなに動き回って大丈夫か」と読者に心配されるようではおしまいだ。
作品全体を考えたとき、30代の惣三郎を起点としたのは傷といえなくもない。が、結果がどうだったかはシリーズが26巻まで継続した事実が示している。清之助の大抜擢が、まんまと当たったのである。
超優等生キャラ、清之助のまぶしさ
藩主に愛されるばかりか、あれよあれよと江戸でも名を高めて時の将軍にも頼りにされる惣三郎は、誠実な人柄で義理人情に厚く、忠誠心が強い武士の鑑。周囲の人からも愛され、信頼されている。おまけに愛妻家で良き父親。文句のつけようがない好人物だ。
でも、光に包まれた太陽のような男ではない。任務は表沙汰にできないものだし、藩からも距離を置く立場。戻ることはないとあきらめている。先妻は病死して、しのと結ばれるまでは子どもたちとも離れ離れになっていた。
そこがいい。ただのチャンバラ活劇ではおさまらないから読者は惹きつけられる。とはいえ、繰り返しになるが、老いまで加わると読者は少々つらい。
そこで、元気ハツラツな清之助なのである。
惣三郎と違い、幼少時代からゆっくり描くことができた金杉家の長男はどんな人物か。一言でいえば〝理想の息子”だ。明朗活発で親思い、妹思いの優しい性格。ハンサムで、身長は190センチくらいある。運動神経抜群で、剣の才能は親譲り、いや親をも超える天才だ。相思相愛の恋人(親も公認)がいて、純愛を貫いている。人から好かれ、剣術仲間を筆頭に友人は多数。素直で聴く耳を持ち、年長者からも好かれる。
父がまとう影がまったく受け継がれない、まぶしい光に包まれた青年なのである。惣三郎に宮本武蔵をイメージする私が、清之助に思い浮かべるのはずばり、野球の大谷翔平だ。
そんなことはともかく、カンジンなのは清之助の人物像が佐伯泰英によって作られたものだということ。物語を先へと進めながら剣の腕を高めさせ、大事に育て上げてきた。当然、あえてそうしたのだと思う。惣三郎の若き日を描きそこなったことで、悔いを残さないために。
まっさらな、ひとつの汚れもない状態で修行に出た清之助が、世の中の荒波にもまれてどうなっていくのか。これなら読者は乗っていける。間違いなく、数々の試練が与えられるはずだが、不安にはならない。圧倒的な若さが、明るさが、ピンチを潜り抜けさせるだろう。剣の腕も、刺客との駆け引きも上昇の一途。人生経験が浅い分、いくらでものびしろがあるのだ。
※ 次回は、6/1(土)更新予定です。
見出し画像デザイン 高原真吾(TAAP)