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麻見和史『殺意の輪郭 猟奇殺人捜査ファイル』最終回


 午後八時から捜査会議が開かれた。

 捜査一課の片岡係長が、ホワイトボードの前に立ってみなを見回した。

「夜の会議を始める。まず、私のほうからだな。現在、北野康則──本名・永井誠次、四十四歳の取調べが進んでいる。永井の自供に従って過去の事件を調べたところ、たしかに五年前、平井で中学一年生男子・永井裕介くんが行方不明になる事件が起こっていた。母親が当時小松川署にいた菊池警部補を訪ねたが、冷たくあしらわれたと、永井は主張している。それがのちに殺害の動機になったということだ。

 そして二年半後、平井にあった風間冷機の空き店舗の冷蔵庫で、裕介くんの遺体が発見された。このとき小松川署の人間が、永井に息子さんの発見を知らせている。永井はショックを受けた。あらためて小松川署を訪ねて、当時の捜査の不備を追及したようだ。菊池警部補は深川署に異動していたため、別の人間が話を聞いた。このときは永井に寄り添った対応ができたようで、彼は諦めて帰宅したらしい。だが永井の中で、菊池警部補への恨みは深かったんだろう。本当に残念なことだ」

 捜査員たちはみな真剣な表情で資料を見つめている。胸中にはさまざまな思いがあるだろう。特に尾崎たちのように菊池と面識のあった者は、辛い気分を味わっているはずだ。

「一方、裕介くん誘拐犯である郷田とトラブルを起こした坂本高之は、事情聴取でいくつかのことを認めた。まず、ナイフを持っていたのは自分だったこと。そして、トラブルのもとを作ったのも自分だったこと。……坂本は酒に酔うと気が大きくなるタイプで、事件の夜もそうだった。郷田と体がぶつかったあと、相手を挑発したのは坂本だった。さんざん煽られて郷田は我慢できなくなり、手を出した。それを受けて坂本はナイフを取り出したんだ。しかし結果はみんなも知っているとおり、坂本は郷田に刺された。ナイフを取り上げられて返り討ちに遭ったわけだ」

 尾崎にとっては意外なことだった。午前中、坂本の事情聴取を少し見たが、あのあとさらに調べが進んだのだ。まさか坂本が郷田を挑発していたとは知らなかった。

「五年前の事件では不幸な偶然が重なった」片岡は硬い表情で言った。「郷田と坂本高之がトラブルになったこと。郷田が交通事故で死亡したこと。白根が風間冷機の物音を通報しなかったこと。家族の訴えがあったのに菊池警部補が取り合わなかったこと……。どこかの段階でストップがかかっていれば、少年は死亡せずに済んだかもしれない。まったく残念だとしか言いようがない」

 尾崎は腕組みをして、手元の捜査資料に目を落とした。

 永井を逮捕したときの言葉が頭に甦ってくる。

「あなたたちは鈍感なんだ」と永井は言っていた。「被害者の家族の立場なら、警察の対応には不満だらけですよ」とも言った。それは五年間の苦しみを凝縮した言葉だったのだろう。

 警察官として、これまで尾崎はどう行動してきたのか。被害者やその家族を軽んじることはなかったか。遡ってみれば、対応がまずかった場面があったかもしれない。

 これは捜査員全員が、真剣に考え直さなければならないことだと思えた。


 捜査会議のあと、尾崎がコーヒーを飲んでいると同僚たちが集まってきた。

 佐藤はもじゃもじゃした天然パーマの髪をいじりながら、しみじみした口調で言う。

「冷蔵庫に閉じ込められた子供のことを考えると、俺は胸が痛むよ」

 彼は紙コップを見つめて、ため息をつく。尾崎は佐藤に話しかけた。

「そういえば、佐藤さんには息子さんがいましたよね」

「……もし自分が永井の立場だったらと思うと、本当に辛い。警察官がこんなことじゃいけないんだろうが、父親として、俺は永井に同情するよ」

 その言葉を聞いて、佐藤の相棒・塩谷は眉をひそめた。

「佐藤さん、それはまずいですよ。我々は被疑者にあまり感情移入すべきではなく……」

「ああ、わかってるって」佐藤は舌打ちをした。「だから言っただろう。警察官がこんなことじゃいけないって。それは自分でもわかっているけど、割り切れないんだよ」

「警察官として、初歩の初歩だと思いますがね」

「おまえは冷たいなあ。人間の情ってものがわからないのか?」

 佐藤が渋い顔をして尋ねると、塩谷は眼鏡のフレームを指で押し上げた。

「俺にも情はわかります。だからよけいに永井を責めたくなるんですよ」

「どういうことだ」

「息子の調査にのめり込んで奥さんとも別れ、裏社会に入って……。犯罪の経験を積んだって何の得にもなりません。永井は後戻りできない選択をしてしまった。彼は最終的に破滅する道を進んでいったんです。やがて、捕まるべくして捕まった。そんなことで裕介くんが喜びますか? 絶対に喜びませんよ」

「まあ、それはそうだが……」佐藤は口ごもる。

「永井は三人殺害しています。情状酌量されても、死刑になる可能性が高い。死んでしまったら、息子さんの墓参りもできないじゃないですか。それでいいのかっていう話ですよ」

 ふたりのやりとりを聞いて、尾崎は意外に思った。

 いつも冷静で思慮深い印象の塩谷が、珍しく感情的になっている。彼にもまた、過去に忘れられない事件があったのかもしれない。

「お疲れさまです」頭をスポーツ刈りにした矢部が近づいてきた。「ようやく一段落ですね。これで俺たち、ぱーっと飲みに行けますよね」

 矢部は高校、大学で陸上競技をやっていた体育会系の人物だ。学生時代は何かにつけて、部員全員で飲みに出かけていたのだろう。

「周りをよく見ろって」佐藤が彼をたしなめた。「自供を始めているとはいえ、まだ被疑者の取調べは続いているんだ。そんな中でぱーっと飲みになんか行けないだろ」

「じゃあ、ぱーっとはやめて、こっそり行きますか」

「こっそりでも駄目だ。いつか捜査一課が飲みに行ったら、そのあと俺たちも行けるようになるんだよ。気をつかえよな」

「……そういうもんですか?」

「そういうもんだ」佐藤はうなずいた。「それよりおまえ、加治山さんから何か指示されていたんじゃないのか」

 矢部はゆっくりと首を左右に振る。

「今度、高田馬場の新陽エージェンシーに行くから、会社関係の資料を揃えておけってことでした。でも最後に『明日頼むぞ』って言われましたから、今日は大丈夫です」

「おい、明日頼むってことは、明日一緒に行くってことじゃないのか? だとしたら、今日中に資料を揃えておかなくちゃまずいだろう」

「えっ、そういう意味なんですか? 明日やればいいのかと……」

「それは希望的観測ってやつだよな」

 まばたきをしてから矢部はうしろを振り返った。幹部席の近くで加治山班長が片岡係長と何か話しているのが見える。かなり込み入った内容らしく、ふたりとも難しい顔をしていた。

「まずいまずい。俺、仕事に戻ります。資料を用意しないと」

 挨拶もそこそこに、矢部は急ぎ足で自分の席へと向かった。

 それを機に、尾崎もコーヒーのワゴンを離れた。席に戻ろうとしていると、広瀬がひとりで廊下に出ていくのが見えた。急いであとを追う。

 広瀬、とうしろから声をかけた。彼女は足を止めて、こちらを振り返った。

「今日は早めに上がってくれ。俺も適当なところで切り上げる」

 尾崎は彼女に言った。捜査は一段落している。もちろん気を抜いてはいけないだろうが、すでに被疑者は逮捕され、取調べも進んでいるのだ。

「ありがとう」広瀬は答えた。「そういうことなら、少し自分の仕事をやらせてもらおうかな」

「自分の仕事って……例の、組織内での調査のことか」声を低めて尾崎は尋ねた。

 ええ、と広瀬はうなずく。

 この捜査本部が設置された当初、彼女は命じられた捜査のほかに、独自の調査を行っていた。子供のころ世話になった知人・豊村義郎の死に疑わしい部分があるということだった。部内の記録に、一部改竄した跡が見つかったのだという。

 尾崎は辺りを見回したあと、彼女を連れて休憩室へ移動した。幸い、室内には誰もいない。

 テーブルのそばの椅子に腰掛け、彼女と向かい合った。

「俺が口を出すことじゃないかもしれないけどさ」小声になって尾崎は言った。「無茶をしないほうがいいぞ。どうしたって広瀬の行動は目立つからな」

「なぜ?」

「数少ない女性の刑事だし、それに……」

 容姿がいいから男性の目を引くのだ、と言いたかったが、本人にはっきり伝えるのはさすがに抵抗がある。

 広瀬は少し考える素振りを見せたあと、こう切り出した。

「今回の事件で、私にとって、本当に残念な出来事があったの」

「……それは?」

「菊池班長が殺害されてしまったことよ。あの人は二十一年前、下高井戸事件の捜査本部に参加していた。豊村さんの死に関わった可能性がある人間だったのよ」

 えっ、と言って尾崎はまばたきをした。今まで考えてもみなかったことだった。

「君がマークしていたのは菊池さんだったのか」

「そう。協力者にも調べさせていたし、自分からも菊池班長に接近して情報を引き出そうとしていた。不審に思われてはまずいから、自然な形で親しくなろうとしていたのよ。ところが、何も聞き出せないまま彼は殺害されてしまった」

 そういうことか、と尾崎は思った。だから菊池の遺体を発見したとき、彼女は拝むこともせず、黙ったままじっと見下ろしていたのだ。

「でも、まだ終わったわけじゃない」広瀬は続けた。「下高井戸事件の捜査をしていた人間はほかにもいる。時間をかけて、情報収集していくわ」

「気持ちはわからなくもない。だが、豊村さんの死の真相を知ったとして、君はどうするつもりなんだ。事実がわかれば満足なのか」

「真相がどうであれ、動揺はしないわ」広瀬は言った。「真実が明らかになったら幹部に話して、世間への公表を求めます」

 尾崎は思わず身じろぎをした。

「できると思っているのか? 一介の警察官が言うことなんて、無視されて終わりだろう。……いや、無視ならまだいい。下手をすれば君は上に目をつけられて、嫌がらせを受けるかもしれない。どこかへ飛ばされるおそれもある」

「そのときは、尾崎くんに助けてもらおうかな」

 急にそんなことを言われて、尾崎は戸惑った。それは本心なのだろうか。こちらが返事をできずにいると、広瀬は口元を緩めた。

「噓よ。将来のある尾崎くんに、リスクのあることはさせられない。これは私ひとりの問題だから」

「しかし改竄のことは、可能性があるというだけで証拠はないんだろう? 豊村さんの死に不審な点があるというのだって、確実ではないはずだ」

 尾崎の顔をしばらく見つめてから、広瀬は再び口を開いた。

「正義を守るのが警察官でしょう。豊村さんの死のことを、私は放っておくわけにはいかない」

「どうしてそこまでしようとするんだ。自分の立場が悪くなるばかりじゃないのか?」

 彼女のためを思って、尾崎は言ったつもりだった。

 広瀬はひとつ呼吸をしたあと、右手の指先を額に押し当てた。彼女は眉間に皺を寄せ、痛みをこらえるような表情になった。

「組織の中でいろいろあったのよ。あなたには言えないけど……」

 その言葉を聞いて、尾崎は黙り込んだ。

 額に指を当てて考えるのは、広瀬が記憶をたどるときの癖だ。彼女には人並み外れた記憶力があり、今回の捜査にも役立ってきた。

 だが今、その力は彼女自身を苦しめているのではないか。

 おそらく、忘れることのできない出来事が過去にあったのだろう。今でこそ広瀬は中堅捜査員として行動しているが、新人のころは上司や先輩の影響下にあったはずだ。そういう時期であれば、不本意なことを経験させられた可能性もある。

 パワハラだったのか、セクハラ──あるいはもっとひどい何かだったのか。もしかしたら、思い出すたび吐き気を催すようなおぞましいことだったのかもしれない。

「まさか……君は仕返しするつもりなのか?」尾崎は尋ねた。「相手は上司か先輩か……。ひょっとしたら警察署の幹部だったりするのか? それは例の豊村さんの問題と関係があるのか?」

 広瀬は目を閉じて、じっと考え込むような素振りを見せた。指先で額をとんとん叩いている。だが、やがて目を開いて尾崎のほうを向いた。

「私はひとりでやっていく。証拠を集めて、相手の弱みを握って、自分の目的を果たすつもり。もし私の計画がばれて圧力を受けたり、不当な扱いをされたりすれば辞職する覚悟よ」

「辞めたらそこで終わりじゃないか。結局、何も解決しないだろう?」

「だから、そうならないように気をつけるの。計画がばれないようにね」

 尾崎は渋い表情を浮かべて口を閉ざす。腕組みをして天井を見上げたあと、視線を戻して彼女に言った。

「何かが起こってしまう前に、誰かに相談したほうがいい」

「誰に?」

「……相談する相手もいないのか?」

「いないわね」

「じゃあ俺が聞いてやる。状況に応じて最善のアドバイスをする。そうすれば君の暴走は回避できるし、上から圧力を受けることもないだろう」

 広瀬は怪訝そうな顔をして、尾崎をじっと見つめた。

「私のために? どうしてそんなことを……」

「コンビを組んでいるんだから仕方がない。君は俺の相棒だ」

 広瀬は何度かまばたきをした。それから「とんでもない」と言った。

「私、あなたのことを相棒だなんて認められないわ。せいぜい、少し仲のいい同僚といったところよ」

「わかった。それでいい」尾崎はうなずいた。「とにかく君の首には、縄を付けておかないと心配だ」

「人を動物みたいに言わないでよ」

 広瀬は尾崎を軽く睨んだ。その顔に、先ほどまでの暗い陰はない。それどころか、わずかに口元が緩んでいるのがわかった。屈託のない、いい表情だ。

 まだ相棒と呼べるような関係ではないのだろう。いや、どれほどコンビを長く続けても、彼女は特定の相棒を作らないのかもしれない。おそらく今、広瀬は自分しか信じていないのだ。それでも今日、少しは歩み寄れたのではないかと尾崎は感じている。

 窓の外に目をやると、街灯の明かりの中に木場公園が見えた。

 春の夜、穏やかな風を受けて、木々の枝がさわさわと揺れていた。

(了)

見出し画像デザイン 高原真吾(TAAP)