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麻見和史『殺意の輪郭 猟奇殺人捜査ファイル』第1回


第一章 土中の溺死

 つい先日、桜の開花をニュースで見たような気がする。

 しかし気がつくと、近所にある並木道はもうすっかり葉桜だ。結局、今年もゆっくり花見をする機会はなかった。考えてみれば、足を止めて桜の花を見上げることさえなかったのではないか。

 最後に花見をしたのはいつだっただろう。記憶をたどっていくと、大学のころまで遡ってしまった。学生時代は余裕があったから、レジャーシートを敷いて友達と何時間でも酒を飲むことができた。だが、就職してからは誰も彼も忙しくなった。

 いや、一番忙しいのは自分かもしれない、と尾崎隆文は思う。

 いざ呼び出されたら、そのまま一カ月ほど泊まり込みになることもある。仕事に集中している間は食事も不規則だし、睡眠時間にも制約が生じる。常に緊張感を保たなくてはならず、気を抜く暇がない。正直きついと思ったこともあったが、数年で平気になった。心も体も、そういう生活に慣れてしまったのだろう。

 南千住駅前の交差点で信号待ちになった。なんとはなしに、辺りに目をやる。眠そうな会社員や中学生、高校生の姿が目に入った。

 右手のほうから自転車がやってきた。高校生らしい少年がペダルを漕いでいる。それはいいのだが、うしろに同じぐらいの歳の少女を乗せていた。

「こらあ、危ない。二人乗りしないよ」

 おどかさない程度に声をかけた。少年は慌ててブレーキをかける。少女はスカートの裾を翻して自転車から飛び降り、「すみませーん」と尾崎に詫びた。それから少女は少年の背中を手のひらで強く叩き、恥ずかしそうに小走りで去っていった。少年は呆気にとられたようだったが、自転車を引いて少女のあとを追いかけた。

 彼らにとって二人乗りはいつものことかもしれないが、尾崎としては立場上、放っておけなかった。自転車だからといって甘く見ていると、大怪我をすることがある。そういう事案が増えていると、交通課の同僚からも聞いている。

 腕時計に目をやった。四月十五日、午前七時五分。

 スーツのポケットから定期券を取り出す。自宅に近いこの駅から職場まで、電車で約三十分というところだ。よし、今日も予定どおりだなと思いながら、尾崎は改札を通ろうとした。

 そのとき、ポケットの中でスマートフォンが振動した。

 尾崎は鉄道利用客たちの列を外れ、改札機から離れて液晶画面を確認する。表示されているのは《加治山秀雄》という名前だ。通話ボタンを押して応答した。

「はい、尾崎です」

「今、話せるか」聞き慣れた班長の声だった。

「大丈夫です。……何かありましたか?」

 この時間に班長から電話がかかってきたのだ。ただの連絡事項ではないだろう。

「三好二丁目で殺しだ。男性の遺体が見つかった。現場は異様な状態らしい」

 それを聞いて尾崎は眉をひそめた。

「異様、というと?」

「殺害方法がまともではないそうだ」加治山は少し考える様子だったが、じきに言葉を継いだ。「詳しい場所はすぐメールで送る。現場で落ち合おう」

「わかりました。急ぎます」

 電話を切ってから、尾崎は深呼吸をした。

 管内で殺人事件が起こったという。忌むべきこと、悲しむべきことだが、残念ながら毎日どこかで事件は発生している。そして、そういうときのために自分たち警察官がいる。今まで見てきた数多くの遺体を思い出して、尾崎は表情を引き締めた。

 事件現場の状況を想像しながら、尾崎は駅の改札を通り抜けた。
 
 木場駅からタクシーに乗った。

 運転手はのんびりした性格のようだったが、目的地付近に数台停まっているパトカーを見て、さすがに驚いていた。

「何かあったんですかね」怪訝そうな顔をして尾崎に尋ねてくる。

「ここでけっこうです」尾崎は札を差し出した。「レシートをもらえますか」

 車を降りて、尾崎はパトカーのほうに近づいていった。

 小ぎれいな民家やマンションの並ぶ住宅街の一画だ。近所の住人や通行人が大勢集まっている。彼らが見つめているのは、古びた二階建てのアパートだった。当初は白かったであろう壁は、長年の風雨であちこち汚れてしまっている。前庭には雑草が生えていた。

 どうやら、廃アパートのようだ。閉鎖されてから、少なくとも数年は経っているだろう。

 最近、都内にはこの手の廃屋が確実に増えてきている。高度経済成長期だのバブルだの、景気のよかった時代はずいぶん昔のことだ。儲かっているところは儲かっているのだろうが、一方で生活苦に悩む者もいる。所轄にいると、そういう人たちの声がよく聞こえてくる。

 廃アパートの門には黄色い立入禁止テープが張ってあった。尾崎は知り合いの制服警官に近づき、声をかけた。

「お疲れさま。もう誰か来ているかな」

「ああ、尾崎係長」制服警官は姿勢を正した。「機動捜査隊は近隣で情報収集をしています。建物の裏には刑事課の方が何名か」

「ありがとう。見せてもらうよ」

「どうぞ」

 尾崎は両手に白手袋を嵌める。いつ何があるかわからないから、常に鞄の中に一組入れてあるのだ。

 テープをくぐって、アパートの敷地に入った。ペットボトルやレジ袋が落ちている前庭を通って、建物に近づいていく。

 雑草ばかりになった花壇の横を通り、建物の裏に回り込んだ。前方にブルーシートで囲まれたスペースがあった。外から見た感じ、広さは四畳半の部屋ぐらいだろうか。

 シートのそばで、スーツ姿の男女が何か話し込んでいる。ふたりは尾崎に気づいて、話を中断したようだ。

「遅くなりました」尾崎は会釈をして、男性に話しかけた。「ここですね」
「ああ。二年ほど前から誰も住んでいないそうだ。こういう建物は犯罪者に目をつけられやすい」

 ストライプ柄のネクタイに灰色のスーツ。若者のようにシャープなデザインを好むその男性は、尾崎の直属の上司だった。

 深川警察署刑事課の加治山班長だ。歳は四十五で、強行犯関連の捜査を長く担当している。尾崎は今三十七だから、かなり年上の先輩ということになる。

 加治山班長はいつもの癖で、眉間に皺を寄せていた。機嫌がよくても悪くても、彼はこういう顔をすることが多い。事件の現場では特にそうだ。

「お疲れさまです」そばにいた女性捜査員が言った。「ほかのメンバーはまだ到着していません」

 ショートカットにした髪に、少し吊り上がり気味の目。くっきりした眉が知的な印象を強めている。スーツは紺色だ。警察官なので化粧は薄めだが、それでも服装を変えればモデルかタレントのように見えるだろう。身長百八十センチの尾崎が少し見下ろすぐらいだから、女性としてはかなり背が高いほうだと思われる。

 同じ加治山班の広瀬佳純巡査部長だ。四月初めに、赤羽署から異動してきた捜査員だった。

「広瀬、早いな」

 尾崎がそう言うと、彼女はこちらに向かって一礼した。

「ありがとうございます、尾崎係長。私は比較的、家が近くでしたから」

「……そんな喋り方をしなくてもいいよ。歳は同じなんだろう?」

「そういうわけにはいきません。尾崎係長のほうが、階級は上です」

「でも実際には君のほうが一年先輩だよな」

 広瀬は尾崎と同じ三十七歳だった。尾崎は一年浪人して大学生になったから、彼女は一年早く警視庁に入ったのだ。だがその後、尾崎のほうが先に警部補に昇任したので、現在では立場が逆転している。

「だからさ、あまり気をつかわないでくれ」

「いえ、やはり階級が大事です。警察はそういう組織ですので」

「君は真面目だな」

 尾崎が言うと、広瀬は黙ったまま再び頭を下げた。

 軽くため息をついてから、尾崎は加治山のほうを向いた。

「まいったよ」加治山は渋い顔をして言った。「こんな厄介な事件は初めてだ」

「ご遺体はその中ですね?」

「驚くぞ」加治山は顎をしゃくった。「こっちだ。見てみろ」

 ブルーシートをめくって、加治山は事件現場に入っていく。尾崎があとに続き、最後に広瀬がついてきた。

 シートの中で鑑識係員がメモをとっていた。彼は尾崎たちに気づいて一礼をした。

 もともと地面は雑草に覆われていたようだが、一部が掘り返された痕があった。ちょうど人間ひとり分、つまり棺桶ひとつ分ぐらいの穴がある。深さは五十センチほどだろうか。

 その穴のそばに、全身土まみれの遺体が横たえられていた。三、四十代の男性ではないだろうか。茶色のズボンにシャツ、その上に薄緑色のジャンパーを着ている。腹の前できちんと両手を揃えているのが奇妙だった。しゃがみ込んで確認すると、彼は左右の手をワイヤーで縛られていた。両脚も縛られ、自由を奪われているのがわかる。

 男性は固く目を閉じていたが、顔の横に奇妙なものが置かれていた。長さ四十センチほどの細長い筒だ。白手袋を付けた手で、尾崎はそれに触れてみた。

「シュノーケル……ですよね?」

 ダイバーが浅瀬などで使用するものだ。これを装着すれば、顔を水面に出さずに呼吸ができる。だが、どう見ても廃アパートの裏庭にあるのは不自然だ。

 なぜこんなものが、と考えるうち、尾崎はあることに思い当たった。両目を見開いて、加治山の顔をじっと見つめる。

「まさか、被害者はこれで息をしていたんですか?」

「そうだったらしい。最初はな」

 加治山は謎めいたことを言った。尾崎はさらに尋ねる。

「最初は、というと?」

「この男性は土の中で溺死していたんだ。そうだな?」

 加治山は鑑識係員のほうを向いた。係員はうなずく。

「おっしゃるとおりです。掘り出されたとき、被害者は口にシュノーケルをくわえていました。おそらく、地面に埋められた被害者はシュノーケルでかろうじて息をしていたんでしょう。ところが、あるタイミングで犯人はシュノーケルに水を流し込んだ。その結果、被害者は呼吸ができなくなり、土の中で溺れ死んだ……」

 尾崎は言葉を失った。あまりにも異様な状況を前にして、頭が混乱しかけている。

 土の中からタケノコか何かのように、シュノーケルの先端が出ていたということだろうか。

「ひどい話だ……」尾崎はゆっくりと首を左右に振った。「しかし、なぜそんな面倒なことをする必要があったんですかね」

 犯人はこの男性を激しく憎んでいたのかもしれない。だが恨みを晴らすにしても、あまりに手間がかかりすぎだと思える。

「変な話ですが、もし俺が犯人だったとしても、こんな馬鹿なことはしませんよ」

 尾崎がそう言うと、加治山は諭すような口調になった。

「犯人のことは犯人にしかわからない。とにかく奴は実行したんだ。おそらくこの場所を下見し、いろいろなものを準備してきたんだろう。これは計画的な犯行だ」

 尾崎は立ち上がり、辺りを見回した。ブルーシートで区切られたこのスペースには、ほかに目立ったものはない。

「何か遺留品は?」

「こんなものがありました。もう分析に回していますが」

 鑑識係員はデジタルカメラの液晶画面を見せてくれた。そこには鉄製らしい鎖が写っていた。

「何に使う鎖だろう」尾崎は首をかしげる。

「わかりません。これが、遺体を埋めた場所の近くに落ちていたんです」

「もしかして、遺体の場所を知らせるため?」

「そうかもしれません」

「……それ以外には何もなかったのかな。シャベルとかバケツとか」

 尾崎が訊くと、広瀬が一歩前に出た。彼女は事務的な口調で答えた。

「シャベルもバケツも残っていませんでした。建物の近くに立水栓がありますが、水道は止められているので、水は犯人が用意してきたものと思われます」

「全部用意してきて、全部きれいに持ち帰ったということか」

「正確には、シュノーケルと鎖以外、全部です」

 尾崎はもう一度遺体を見下ろしてから、あらためて広瀬に尋ねた。

「何か、この人の身元がわかるようなものはなかったか?」

「ポケットの中にメモがありました。作業指示書のようなものです」

「作業指示書?」

「そうです」広瀬はうなずいた。「運送会社の配送指示ではないかと」

「被害者は運送会社の社員ということか?」

「可能性はありますね。ただ、詳しく調べてみないことにはなんとも……」

「その件、誰かが調べてくれているんだよな?」

「のちほど担当者から報告があるはずです」

 おそらく、このあとの捜査会議で報告されるのだろう。

 遺体のそばにしゃがんでいた加治山は、ひとつ唸ってから立ち上がった。

「まいったな」といつもの口癖が出た。咳払いをしてから、彼は重々しい口調で言った。

「もうじき本庁の捜査一課が到着する。我々、深川署の刑事課はその指揮下に入る」

 殺人事件など大きな犯罪が発生したとき、桜田門の警視庁本部から捜査一課のメンバーがやってくる。所轄署に捜査本部を設置して、本部と所轄が協力しながら捜査を進めていくことになる。

「じゃあ、受け入れの準備が必要ですね」

「ああ、まったく厄介なことになった。……署には連絡が行っている。俺たちはもう少し、ここで情報収集をする。いいな?」

「了解です」

 尾崎は背筋を伸ばして答えた。自分の署に捜査本部が設置されるのは久しぶりだ。これから数週間、いや、場合によっては数カ月の間、いつも以上に忙しくなるだろう。

「しかし、困ったな」加治山が尾崎に渋い顔を見せた。「うちの班で、捜査が山場を迎えている事案があるだろう? このタイミングで捜査本部の設置はきつい」

「とはいえ、殺しですから万全の態勢で取り組まないと」

 わかっているよ、と加治山は言った。

「さっき刑事課長と電話で話したが、菊池さんの班もこの捜査に投入されるそうだ。おまえの言うように万全の態勢になる」

「菊池班が捜査に入ってくれるなら安心です。頼り甲斐がありますね」

「他力本願じゃ困るぞ。おまえたちもしっかり捜査に当たれ」

「それはもちろん」

 尾崎は深くうなずいてみせた。

 加治山は腕時計を見たあと、何か思い出したという表情になった。

「ああ、そうだった。今日から尾崎には、広瀬と組んでもらう」

「彼女とですか?」

 尾崎はまばたきをして、広瀬をちらりと見た。先に加治山から聞いていたのだろう、彼女の表情には特に変化はなかった。

「広瀬は今月うちの署に来たばかりだ。わからないことも多いと思う。尾崎はしっかり指導してやってくれ」

「わかりました。努力します」

 班長に向かって尾崎は一礼する。広瀬はその様子を見ていたが、すぐにこちらへ近づいてきた。

「よろしくお願いします。非常に難しい事件のように感じますが、なんとしても解決しましょう」

「そうだな。こんなふざけた犯行は許せない」

「ふざけているかどうかはわかりませんが、なぜ犯人がこんなことをしたのか気になります。ぜひ理由が知りたいですね」

 遺体を見下ろしながら広瀬は言った。

 尾崎も同じ考えだった。犯人は時間をかけ、手間をかけて被害者を異様な方法で殺害した。普通ここまでするだろうか、という疑問が湧く。犯人と被害者の間にはどのような関係があったのだろう。

「会議の前に、できるだけ情報を集めよう」

 尾崎は広瀬とともに、現場付近で聞き込みを始めた。

※次回は、3/8(金)更新予定です。

見出し画像デザイン 高原真吾(TAAP)