見出し画像

音を科学する魔法(前編)――李琴峰「日本語からの祝福、日本語への祝福」第21回

台湾出身の芥川賞作家・ことさんによる日本語との出会い、その魅力、習得の過程などが綴られるエッセイです。

第21回 音を科学する魔法(前編)

 伝統的な中国文学科というのはただ文学をやっていればいいというわけではない。修めなければならない学問分野は大きく分けて三つある。文学、哲学、そして言語学である。

 そもそも「文学」という言葉は本来、西洋で言うliteratureを指しているわけではない。『論語』には「四科十哲」とあり、「四科」とは「徳行、言語、政事、文学」という四つの科目のことだが、ここの「文学」とは「文章による学問全般」のことである。伝統的な漢籍図書分類法の「経」「史」「子」「集」は全部「文学」と言えるので、その指し示す範囲はliteratureとしての「文学」よりずっと広い。

 台湾大学の中文科は台湾最古の中文科だけのことはあって、その伝統をきちんと踏襲している。詩詞歌賦や小説といった狭い意味での「文学」のみならず、哲学と言語学も必修である。哲学の分野では、孔子、孟子、荀子、易経えききょうといった儒家思想や、インドから輸入された仏教思想、そうみんがくなどについて学ぶ。

 一方の言語学では、現代的な一般言語学を修めた後、中国の伝統的な言語学である「文字学」「声韻学」「訓詁くんこ学」について学ぶ。大雑把に言えば、「文字学」は漢字の字形、「声韻学」は字音、「訓詁学」は字義を研究対象としている。中でもとりわけ「声韻学」が抽象的で難しく、「中文科の理系科目」として文学好きの少年少女たちに敬遠されていた。

 言語学は、それまで見たことのない新しい世界を私に見せてくれた。魔法のような科目だと、私は感動した。色も形もないし触れられもしない、発したそばから消えていく「音」としての言語を、なんと目に見える形にとどめ、科学的に分析できるというのだから驚きだ。言語学との出合いは、知的好奇心を満たしてくれたのみならず、自分自身が使う日本語を客観的に観察し、修正する視点を与えてくれた。それが日本語力の向上に大きく寄与した。

 

 現代の言語学で、言葉の「音」を研究対象とする分野は「音声学」と「音韻学」である(中国の伝統的な「韻学」とは違う)。前者は音声の物理的な特徴に着目するのに対し、後者は言語としての機能に重きを置き、抽象化を試みる。

 例を挙げよう。例えば日本語(*1)の「箸」と「橋」は、音節構造はまったく同じだが、アクセントだけが違う。言い換えれば、この二語を弁別する要素はアクセントのみ、、である(このような単語のペアを、言語学では「ミニマル・ペア」という)。「箸」は「ハ」が高くて「シ」が低い。逆に、「橋」は「ハ」が低くて「シ」が高い。このような音程の高低関係が、この二語を区別している。

 しかし当然ながら、私たちが喋る時に、一人ひとり声の高さが違う。声帯の構造や発声の方法により、平均的に言えば女性の声は男性より高い。換言すれば、女性の声の周波数は男性より高い(ヘルツの値が大きい)。とはいえ、喋っているのが男性だろうと女性だろうと、周波数がどれくらいだろうと関係なく、正しく発音されていれば、私たちは「箸」と「橋」を聞き取り、区別することが可能だ。つまり、私たちが「箸」「橋」を聞き取る時に鍵となるのは周波数の具体的な値(=物理的な特徴)ではなく、あくまで抽象化された音程の高低関係(=言語としての機能)である。前者は音声学の領域で、後者は音韻学の領域である。

 もう一例を挙げよう。日本語の「ン」という音は、実は環境によって発音が様々に異なっている。「連歌」では「-ng」と発音し、「連鎖」では「-n」、「連覇」では「-m」となる。しかし大抵の日本語母語話者はこの三つの音を区別せず(違っていることすら意識せず)、環境によって自然に使い分けている。言い換えれば、この三つの音の違いは、日本語では語義を区別する要素として機能していない(=意味弁別機能がない)。つまり、この三つの音は音声学的には異なる音だが、音韻学的には、日本語では同じ音素、、、、となり、互いに区別されない。ちなみに、英語の「r」と「l」は日本語母語話者にとって区別が難しいのも、日本語では「r」と「l」は同じ音素として認識されるからだ。

 音声学では、人間の自然言語に存在するすべての音を、「国際音声字母(IPA)」で記述することができる。詳しい説明は省くが、子音は「声帯振動の有無」「調音部位」「調音方法」で分類され、母音は「唇の形」と「舌の位置(前後と上下)」で特徴づけられる。例えば日本語の「バ」の子音「b」は「声帯振動あり・調音部位は両唇・調音方法は破裂」なので「有声りょうしん破裂音」で、母音「a」は「唇は丸めない・舌の位置は前の下のほう」なので「非円唇前舌広まえじたひろ母音」である。

 一方で音韻学では、個々の言語に着目し、意味弁別機能に焦点を当てて分析する。音声学的には異なる音であっても、個別の言語において語義を区別しないのであれば、その言語では同じ音素として見なす。このようにして、個々の言語における音素の数を数えることができる。日本語の子音音素は約十五個、母音音素は五個である。これは中国語や韓国語よりかなり少ない。

 

 人間の言語をこんなふうに分析できるのを知った時、私は新大陸を発見したような気持ちになった。何しろ、この広い世界では未知の言語が多すぎる。しかし、たとえ見知らぬ遠くの土地の聞いたこともない言語であっても、その音を言語学的な方法で分析し、記述することができる――これは魔法でなくて何であろう。

 それに、私自身が操っている中国語、日本語、英語という三つの言語に言語学的な知識を応用すると、発見も多かった。

 例えば、日本語の破裂音には有声音と無声音の対立がある。「有声音=声帯の振動を伴う音」と「無声音=声帯の振動を伴わない音」はひとまず「濁音」と「清音」だと考えてもらって差し支えない(厳密には少し違うが)。清濁が異なれば意味も異なる言葉は、日本語には無数に存在する。言い換えれば、清音と濁音の区別は意味弁別機能を有する。こんな時に、言語学的には「有声音と無声音の対立がある、、、、、」という。例を挙げよう。

近郊[キンコウ]⇔銀行[ギンコウ]

大体[ダイイ]⇔橙[ダイイ]

 一方、中国語の破裂音には有声音と無声音の対立がない。というか、有声破裂音自体がない。代わりに、中国語の破裂音には有気音と無気音の対立がある。有気音も無気音も無声音である。有気音とはその名の通り、発音する時に強い気流を伴う音のことで、無気音は気流を伴わない(もしくは気流が弱い)音である。国際音声字母では、有気音は「p(h)」「t(h)」「k(h)」というふうに、小さい「h」で表現する。例を挙げよう(数字は声調を表す)。

低[ti55](低い)⇔踢[t(h)i55](蹴る)

讀[tu35](読む)⇔塗[t(h)u35](塗る)

奔[pən55](走る)⇔噴[p(h)ən55](吹きかける)

 私は言語学を学ぶまで、中国語の無気音は日本語の有声音(濁音)と同じで、中国語の有気音は日本語の無声音(清音)と同じだと思っていた。しかし実際は違っていた。中国語の有気音も無気音も無声音であり、日本語の有声音は中国語にはないのだ。

 ちなみに、日本語にも有気音と無気音の違いがあるが、意味弁別機能がないため、同じ音素に属する。

①特別[クベツ]、他者[シャ]、会社[イシャ]

②意図[イ]、遺体[イイ]、他界[タイ]

 これらの例の①の「ト」「タ」「カ」は語頭にあるため気流が強く(有気音)、②は語中にあるため気流がない、もしくは弱い(無気音)のである。

 日本語を学びたての中国語母語話者が喋る日本語を聞いたことがある人ならば、彼らは日本語の濁音をなかなかうまく発音できないことに気づくはずだ。また、彼らが「意図」「遺体」「他界」のような語を発音する時に、往々にして語中の「ト」「タ」「カ」に必要以上に強い気流を伴わせ、それゆえにこなれていない、たどたどしい、耳になじまないといった不自然な響きになる。一般的に「なまり」と呼ばれるこれらの発音の特徴は、言語学の知識を持っていればその原因を解析し、説明できるのが面白い。

 録音データが残っていないので今となっては確認もできないが、恐らく私の日本語も似たような訛りがあったと思われる。しかし言語学の知識を身につけることによって、私は自分自身の発音を客観的に観察し、分析できるようになった。そして練習を繰り返すうちに、発音も次第にこなれていった。私はよく「日本語が上手になるコツは?」と学習者に訊かれるが、言語学がそのコツの一つかもしれない。

 

 日本語の発音の諸要素で一番意識的に練習したのは、アクセントである。

 私の経験では、声優やアナウンサーなど声の仕事をしている人を別にすれば、大抵の日本語母語話者は「アクセント」の意味を知らず、それを「イントネーション」と混同している。例えば「古事記」を「乞食」と発音するのを聞いた時に「イントネーションが違う」と指摘したりする。しかしこの場合、違っているのはイントネーションではなく、アクセントである。

 英語の「強弱アクセント」とは違い、日本語のアクセントは「高低アクセント」である。「強弱アクセント」は発音の強さで意味を弁別するのに対し、「高低アクセント」は音の高さで意味を弁別する。「箸/橋」「雨/飴」「古事記/乞食」「女子/助詞」の対を観察すれば、音の高低が分かるはずだ。

 日本語のアクセントのパターンにはいくつかの法則がある。

①アクセントの高低は「高」と「低」しかなく、「真ん中」はない。

②一拍目と二拍目の高さは必ず異なる。

③語中で一度下がったピッチは二度と上がらない。ピッチが下がる直前の音を「アクセント核」という。

 要するに「高低低(古事記、男女)」「低高高(乞食、桜)」のようなパターンはありうるが、「高中低」「高高低」「高低高」のようなパターンはないということである。これらの法則を踏まえれば、日本語のアクセントのパターンを以下の四種類に分類できる。太字はアクセント核を示す。

①平板型:アクセント核がない(=ピッチが下がらない)。
 例:桜(低高高)

②頭高型:アクセント核が一拍目に来る。
 例:命( 低低)

③尾高型:アクセント核が最後の拍に来る。
 例:女(低高

④中高型:アクセント核がそれ以外の拍に来る。
 例:卵(低低)

 これらのうち、①の「平板型」と③「尾高型」は一見同じ「低高高」に見えるが、後続の助詞がある場合に違いが現れる。例えば「橋」は「尾高型」なので「橋を渡る」の「を」は低く発音する。一方で「端」は平板型なので「端を渡る」の「を」は高く発音する。アクセントの知識があれば一休さんの頓智もきかなくなるわけだ。

 日本語の正書法ではアクセント表記がないので、普段はほとんど意識されないが、アクセントが正しいのと間違っているのとで、発音のイメージは大きく変わるし、聞き取りやすさも違ってくる。のみならず、例えば古事記の専門家が「私の専門分野は乞食です」と言ったり、助詞の使い方を難しく感じる人が「私は女子が苦手です」と言ったりすると、爆笑の対象になりかねない。

 しかし困ったことに、どんな言葉がどんなアクセントのパターンに当てはまるのかは法則性がない。ほとんど恣意しい的である。つまり、一個一個覚えていくしかないのだ。実際、声優やアナウンサーなどの職業の人は、アクセントを間違えるとまずいので、しょっちゅう『NHK日本語発音アクセント新辞典』のようなアクセント辞典を調べる。私は一時期、アクセントを覚えることにかなり力を入れていたし、今も分からない時にアクセント辞典で確認する。

 日本語のアクセントにはもう一つ、面白い現象がある。複合語になると、アクセントのパターンが変わるのだ。例外ももちろんあるが、大抵の複合語の「アクセント核」は、後部要素の一拍目に来る(*2)。

①早稲田(低低)+大学(低高高高)
 =早稲田大学(低高高低低低)

②修士(低低)+論文(低高高高)
 =修士論文(低高高低低低)

③恋愛(低高高高)+感情(低高高高)
 =恋愛感情(低高高高低低低)

 この法則を覚えれば、かなり応用がきく。

 

 有声音・無声音・有気音・無気音の区別にしろ、アクセントにしろ、日本語を母語とする人ならほぼ無意識のうちに習得し、内面化し、使いこなしている法則だが、私は言語学を学ぶことによってそれらを言語化し、自らの発話の修正にも応用してきた。日本語を喋る時に私は往々にして、喋っている自分とは別に、もう一人の、発音を観察している自分がいるような感覚になる。自分の口が発している音を、脳内にある音声と音韻の知識と常に照合していて、間違ったら修正するという感じだ。

 文法や語彙とは違い、目に見えない音を研究対象とする音声学と音韻学は、言語学の中でも比較的敬遠されやすい分野だが、私にとっては日本語上達の秘訣の一つなのだ。

*1 本エッセイでは特段に断りがなければ、「日本語」とは「日本語の共通語/標準語」を指す。
*2 本当は複合語のアクセントにもいくつものパターンがあるが、これは言語学の専門書ではないのでここでは割愛する。

※毎月1日に最新回を公開予定です。

李琴峰さんの朝日新聞出版の本

【好評3刷】生を祝う


みんなにも読んでほしいですか?

オススメした記事はフォロワーのタイムラインに表示されます!