北尾トロ『佐伯泰英山脈登頂記』第11回
第5峰『新・酔いどれ小籐次』
家庭を持った江戸随一の人気者。老いも受け入れ全力で生きる
欲望から自由になると人生はもっと豊かになる
期間を空けての続編で駿太郎の年齢をリセット
心なしか尻切れトンボで終わった感のある『酔いどれ小籐次』、待ってましたの続編だ。
第1巻は、『酔いどれ小籐次』の最終巻で亡くなった三河蔦屋の12代目染左衛門の3回忌法要から幕を開ける。初めて読んでもつつがなくページを進めることができるが、前シリーズを読んでいるほうがスムーズに話に入っていけるし、読者の多くがそうであることを見越して、作者は状況説明を必要最小限にとどめているように思える。
時の流れについても、2年間の時間の経過を3回忌という設定のみで伝えているため、『酔いどれ小籐次』の最終巻を読了後、すぐに新シリーズの1巻を読んでも違和感を持つ人は少ないと思えるほど自然な形で収まっている。
つまり『新・酔いどれ小籐次』は、厳密にいうなら『酔いどれ小籐次』の続編で、シリーズ全44巻(酔いどれ19巻+新・酔いどれ25巻)の後半として考えられるべき作品なのだ。
シリーズを2分割しなければ成立しない内容的な事情があったというより、これは作者側の都合によるものらしい。新シリーズ第1巻のあとがきで、佐伯泰英自身が事情を説明している。
〈『酔いどれ小籐次留書』を作者の都合によって中断させてしまった。シリーズの進行を途絶させることは、作者がいちばんやってはならないことだろう。(中略)ともかくこのお叱りに作者が応える術は一つしかない。酔いどれ小籐次を江戸の市井に放り出したままにすることなく、新たな物語を書き継ぐしかない〉
その上で、これまでとは異なる時代設定で始まること、小籐次の息子である駿太郎と、長屋の差配一家の娘・お夕の年齢をいくつか上にすることを告知。これは、シリーズ再開にあたって作者が設定を微調整し、最終巻という頂への〝登攀ルート”を練り直したことを意味する。
気になるのは、わざわざ駿太郎たちの年齢を引き上げた理由だ。血がつながっていないとはいえ駿太郎は小籐次とおりょうの幼い息子。自然に出番が増えるであろう家族の一員である。なのに急いで成長させたのは、小籐次がもう50代後半だからだ。ゆっくり若武者になるのを待っていたら、小籐次はアラ還に差し掛かり、これまでと同じ強さを発揮するのはさすがに不自然になってくる。
いまはギリギリ、爺侍じゃと自嘲気味に言う小籐次に対して、周囲が「天下一の剣の遣い手が何を言うか」とリアクションする図が成立するけれど、いつまでもそうではない。そこで一計を案じ、小籐次と駿太郎が一緒に行動してもおかしくない年齢にしたのだろう。
また、お夕は駿太郎より少し年長の女の子なので、関係性を保つためには同時に引き上げるしかないが、わざわざ告知するということは、お夕の出番が増えるのだと推測できる。佐伯泰英が駿太郎とお夕という子どもたちをどのように動かし、物語の後半を膨らませていくかに注目だ……と、自分なりのプランを立てながらページを開いた。
おや?
小籐次は妻のおりょうとともに招待された三河蔦屋の12代目染左衛門の3回忌法要でお約束の大酒を飲み、その帰りに敵に襲われる。が、これで一気に読者を活劇の世界に引き込むのかと思いきや、すぐに落ち着きを取り戻し、駿太郎に剣の指導を始めたりするのだ。
その後、かつて小籐次が厩番を務めていた豊後森藩との関わりが復活し、駿太郎とお夕の誘拐事件が起きる。物語の連続性を示しつつ、身内の誘拐事件で活劇的な楽しさを伝える鮮やかな手腕なのだが、前シリーズの始まりのような疾走感や爽快感があるかといえばそうではない。
どうしてだろうと考えて、小籐次が自分の意志で動き回っていないからだと気がついた。
変わらぬ日常をベースにユーモア家族小説へと変貌
考えてみれば、小籐次がヤル気をみなぎらせ、明確な目的のために動いたのは前シリーズの初っ端で御鑓奪取を果たしたときだけなのである。それ以降はほとんどすべて、巻き込まれ型の展開ばかりだ。
長編シリーズにはよくあることで、『密命』や『夏目影次郎始末旅』『鎌倉河岸捕物控』でもそのパターンは多い。しかし、それらには主人公が大きなミッションを背負っている前提があったり、そもそも起こった事件を解決する捕物帳だったり、巻き込まれることに説得力がある。
ところが、小籐次にはそれがない。元藩主の汚名をそそぐ目的を早々に果たしてしまったからで、それ以降は一躍有名人となった爺侍のところへやっかい事が持ち込まれるという受け身のパターン。人助けのために一肌脱ぐ、降りかかる火の粉を払うために敵と戦うなど、趣向を凝らした内容で読者を楽しませている。
この手法は、新シリーズでも継承されるどころか、ますます徹底されていく。小籐次を戦闘的にさせる大きなミッションは現れない。それでも読者を飽きさせず、ときにハラハラ、ときに爽快な読後感を与えてくれるのはさすがなのだが……。
なぜそうなるかの答えは1つしか考えられない。小籐次は、大きな目標を掲げ、それを達成することに生きがいを感じる男ではないのだ。堅苦しい武家社会から逃れ、包丁研ぎ職人として生計を立て、愛するおりょうや息子の駿太郎とつつがなく暮らしていければ満足だと考えている。また、藩を出てから知り合った様々な市井の人たちとの交流に喜びを感じてもいる。
おそらく作者は、ひょんなことで江戸の有名人になってしまったのに、地に足のついた生活を切望する素朴な爺侍のことが好きなのだ。
小籐次は腕が立つ上に協力者もいて、多くの事件は解決に向かう。もちろんそれは各巻の読ませどころ。だが、読み進むうちに私は、解決後に訪れる束の間の平穏にこそ、このシリーズの真髄があるように思えてきた。
というのも、巻によっては事件らしい事件が起きないことがあるのだ。小籐次は徹底的に受け身なので、作者にその気があれば老体に鞭打って活躍させるのはたやすい。事件発生→謎の解明→敵をやっつけて解決の手順を踏めばドラマも作りやすい。なのに、あえてそれをしないのは、読者をじらすためではなく、他に書きたいことがあるからだろう。
それは何か。やっかい事がない状態、つまり日常である。
剣の達人にして包丁研ぎ師の小籐次を中心に、家族や長屋の住人、差配人一家、得意先の職人、長屋の1室のみならず研ぎ場として店先まで貸してくれる大店の人たちなど強力な布陣が敷かれている。日常を描くことを意識して長編シリーズを積み上げ、完成の域に達した分厚い人間関係は義理も人情もたっぷり。打てば響くように交わされるテンポのいい会話だけで場が持ってしまう。
そのつど盛り込まれる季節感やうんちく話もいいのだが、根底を支えているのはユーモアあふれる会話だ。登場人物たちは、前シリーズから登場してきたおなじみの面々。読者は彼らの発言やふるまいの意味が説明されなくてもわかる。お笑い部門を引っ張るのは、読売の空蔵と版木職人の勝五郎。小籐次ネタでひと稼ぎしたい2人と、それを避けない小籐次のやりとりに笑ってしまう。
シリーズ中屈指のヘンな巻に「らくだ」(第6巻)がある。見世物として人気を博す2頭のらくだが誰かにさらわれて行方不明になり、小籐次が駿太郎とともに捜索に乗り出すエピソードだ。
誘拐にはそれなりの背景があるものの、生死をかけた闘いにはなりようがない。なにしろ消えたのはらくだなのだから、捜索が真剣であればあるほどおかしみが増す。「らくだが消える事件」を思いついたとき、作者の顔には間違いなく笑顔が浮かんだと思う。
世間を揺るがすような大事件にはなりようのない素材にもかかわらず、佐伯泰英の筆は止まらない。飼い犬のクロスケや、住居裏の寺の息子まで動員して話を引っ張る。事件と直接関係のない会話もポンポン放り込まれ、躍るように話が転がっていく。やっと見つけたらくだを掴まえようとして、小籐次が振り落とされるくだりなど、いかにも筆致が楽しそうだ。
第9巻では、世話になっている久慈屋の主、昌右衛門と伊勢参りに出かける小籐次。小さな事件は起こるが主眼はそこになく、昌右衛門の秘めたる過去と、旅先で出会う少年たちとの触れ合いがメインとなる。描かれるのは人のやさしさ、信じる気持ち、生きることへの懸命さだったりする。アクション時代小説から大きく舵を切り、江戸1番の人気者をセンターに置く小籐次一家のユーモア家族小説仕立てになっているのだ。
金・出世・権力に興味のない小籐次親子、とうとう将軍に会う
前シリーズではマドンナ役のような扱いだった妻のおりょうも、不細工な爺侍になぜか惚れ込んだ美貌の妻ではなく、江戸1番の有名人を、外見ではなく中身で伴侶に選んだ慧眼の持ち主として出番が増える。おりょうが小籐次のことを「おまえ様」と呼ぶたび、なぜかクラッとしてしまうのは私だけではないだろう。
この夫婦に、駿太郎を加えた一家の仲睦まじさは、出来すぎなほど完ぺきだ。尋常の勝負だったとはいえ、駿太郎は実の父を小籐次に斬られている。そんな事情があるのに、この息子は複雑な大人の事情を理解し小籐次を尊敬している。
しかも、物心ついたときから剣術の稽古に明け暮れて少年なのにめっぽう強く、12歳になる頃には小籐次が素質を認めるばかりか、トラブルの解決に同行させるまでになるのである。そればかりか、駿太郎は包丁研ぎでも頭角を現して小籐次の仕事を手伝い、性格もやさしい。
出来すぎの妻であり、出来すぎの息子であることは作者も重々承知のはず。それでも、佐伯泰英は照れることなく幸せな家庭を描く。歳の差婚に夫婦が悩んだり、実の父親を殺した相手として息子に恨まれるエピソードから不和が起こり、それを乗り越えて家族が結束を固めるといったストーリーは使わず、家族はこうありたいよね、という理想をストレートに形にする。
小籐次をめぐる事件は外から持ち込まれるべきもの。内部からは1つのほころびも生じさせないというマイルールを作っているみたいだ。
この頃になると、いつまでたっても周囲の高い評価に戸惑い、自分はただの包丁研ぎ師だと言い張る小籐次の心境が読者にもわかってくる。この爺侍は、ただの人でありたいと願い、そういう暮らしをしようとがんばっているのだ。
困っている人がいたら助け、貧しい人から金を取らず、家族と友人をこよなく愛する。武勇伝を引っ提げて江戸の有名人になり、権力者からも信頼されているけれど、金にも出世にも権力にも興味がない。なさすぎて、周囲の人を呆れさせ、それがまた小籐次の評判を高めるという不思議な循環を生んでしまう。
象徴的な場面が第12巻にある。小籐次と駿太郎の父子が、江戸城白書院で11代将軍家斉に会うことになり、家斉が駿太郎に声をかけるが返事に力がない。
〈「城中への招き、迷惑であったか」
「この刻限、研ぎ仕事をしております。ゆえにいささか」
「迷惑であったか」
「はい」〉
周囲が驚く中、家斉は小籐次に尋ねる。
〈「赤目小籐次、駿太郎にどのような躾をなしたな」
家斉が小籐次に質した。
「ただ正直に生きよと、身をもって教えただけにございます」
「正直にのう。さようか、わが招きが迷惑であったか」
「上様に申し上げます。われら親子、研ぎ仕事が本業にございますれば、駿太郎の申すとおり突然のお目見えにはいささか当惑しておりまする」
「父子して迷惑か」
家斉は笑いながらつぶやいた〉
山場でもない巻の冒頭シーンにこの会話。多くを語らなくても、小籐次の生き方、考え方がにじみ出る名場面だ。相手が誰であろうとも、あるがままでいられる胆力。しかもこの後、金杯で酒を飲み、父子で来島水軍流十手を披露し、家斉の信頼を得ることになるのである。
ところがこの父子、武士にとっては夢のような出来事であるだろう〝将軍との面会”を誇らしいとも思わず、淡々としている。作者がこのエピソードを加えたのは、小籐次にとっての夢がそんなものではないことを端的に表すためだろう。
この男の夢はすでに叶っているのだ。
愛する人と結ばれたい。家族が仲良く暮らしていきたい。地域社会に溶け込み、人と分け隔てなくつきあいたい。好きな仕事を極めたい。自分に噓をつかずに生きていきたい。
これらは、ごく普通の、誰でも考えそうなことだ。実現が困難だとも思えない。でも、いったいどれだけの人がこういう生き方を実践するのが夢の実現だと思っているだろう。一見平凡な小籐次の夢は、ともすれば金や名誉、権力欲に縛られがちな我々への、作者からの警句に思えて仕方がなかった。
※ 次回は、7/27(土)更新予定です。
見出し画像デザイン 高原真吾(TAAP)