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日本語からの祝福、日本語への祝福――李琴峰「日本語からの祝福、日本語への祝福」最終回

第26回 日本語からの祝福、日本語への祝福

 

 先日、仕事で訪れたバンクーバーの空港でたまたま隣にいた日本人女性と少し立ち話をした。私と同世代に見える彼女はパートナーと一緒にバンクーバーに住んでいて、先住民をサポートする仕事をしているという。なんでカナダへ移住しようと思ったの? と訊くと、彼女は少し考えてから、

「日本でも就職活動をしていたけど、なんか、馬鹿馬鹿しくなって」

 と、はにかみながら答えた。

 女性の気持ちはよく分かる。日本の就職活動(新卒採用)ほど、不毛でいびつなシステムはなかなかない。ある時期になるとみんなで一斉に動き出し、同じような格好をし、同じような表情と声で喋り、同じようなことをする。就活シーズンになると突如出現する就活生の大群はさながら渡り鳥のように、集団で現れ、集団で飛び回り、集団で通り過ぎ、そして集団でどこかへ消えていく。

 私も渡り鳥の一羽で、毎日毎日、「活動」にいそしんでいた。たいして興味のない企業でも情報を調べまくっては、「面白そう」と催眠術をかけるように自分に言い聞かせた。企業説明会に出ては好印象を持ってもらうために媚(こび)を売り、知りたいことがあまりないのに無理やり質問を絞り出した。エントリーシートに履歴書、自己分析に業界研究、SPIに玉手箱、グループワークに集団面接。道化のようにへらへら笑い、陽キャのようにはきはき喋り、マナー講師に言われるがままにぺこぺこ頭を下げるたびに、内なる自己嫌悪が溜まっていく一方だった。

 心底、滑稽だった。まだ学生なのにいっちょ前にスーツを着て背伸びしようとするのが滑稽だった。それが無理な背伸びだと分かっているのにみんなやっているから自分もやるしかないのが滑稽だった。まだ学生だからと無知だと決めつけられ馬鹿にされ見下されるのが滑稽だった。規格化されたシステムの中で、無個性な集団の一員であることを強要されながら、「個性を見せろ」と言われるのが滑稽だった。表向きでは経団連の指針に従って採用活動の日程を遵守しているふりをしながら、裏では他社を出し抜くことばかり考えている企業の、そんな誰でも知っているのに誰も決して口には出さない、あまりにも見え透いた嘘が滑稽だった。

 書くほうにとっても読むほうにとっても苦痛にしかならないのに「そのほうが気持ちが伝わるから」と謎の精神論を繰り出し、手書きを要求してくるエントリーシートと履歴書。たいして勉強も学力も重視されていないのに学力を試してくるウェブテスト。誰もが相手を蹴り落とすことしか考えていないのに仲よく課題に取り組むふりをするグループワーク。ただ賃金と生活の糧を得たいがための職探しなのに「○○を活かして御社に貢献したいですッ!」と志望動機をアピールすることの空しさと噓くささ。本当は滑り止めのつもりで受けているのに「御社が第一志望ですッ!」と胸を張って宣言することの白々しさ。

 自分のことは自分が一番よく知っているのになんで「自己分析」なんかをやらされるんだろう。会社内部の事情は内部の人間にしか分からないのに「企業研究」なんかをやる意味がどこにあるんだろう。ただ当面の生活の糧が欲しいだけなのになぜ自分の生い立ちや過去の経歴まですべてさらけ出さなければいけないのだろう。終身雇用制はぐらぐらと揺らぎ始めているのにいまだに定年まで働くことを前提に話が進むのはなぜだろう。ましてや「これまでの人生で一番辛かったことは?」と臆面もなく訊いてくる面接官やエントリーシートなど、心底意味が分からなかった。他人の生における一番の深淵を、あなたなんかに受け止めきれるのだろうか? そんな設問で、真実が得られると本気で考えているのだろうか?

 これは一種の儀式だろう、と私は思った。洗礼、通過儀礼、いわばみそぎのようなものだ。同じような服を着て、同じような表情と声で喋り、同じような行動をすることで、私たちは実質的に「社会」に対して、こういう宣誓をしているのだ。

「私たちは、独自の思考と好悪を持つ独立した個体であることを放棄し、これからは社会の歯車として大人しく組織に取り込まれることを誓います。そのためには本音よりも建前を、多様性よりも同質性を、自己の信念よりも上司の指示を、真理の追求よりも調和の維持を重んじます。私たちは、組織の利益と成長のために、組織が許す枠内で自らの知性と能力を最大限発揮し、しかし必要に応じて適宜に思考停止もすることを誓います」

 滑稽さと馬鹿馬鹿しさ、空しさと白々しさ、そういった感情をことごとく押し殺し、私は渡り鳥の群れに加わった。システムに打ち勝つためにはシステムを知らなければならない、なんて格好いいものではなく、私にはそもそも現実的な選択肢がさほど与えられていなかった。みんなと同じことをやって何とか職と生活の糧を確保する、それが生きていくために私が選び取るべき最適解だった。みんなできるのだから私にできない道理はない、というささやかなプライドが心の支えだった。

 そして、実際にできた。私は昔から、権威やシステムを呪いながらも必要な時には順応したり利用したりもする、そういう反抗心と小賢こざかしさを併せ持つ人間だった。何はともあれ、禊を経た私は、日本を代表する大企業の一つに就職した。

 

 そこは世間知らずの院卒生にとって申し分のない職場だった。家賃の安い社員寮があり、福利厚生が充実し、服装についても厳しい規定はなく、そこそこ自由だった。過去の年功序列制に対する反省がなされ、若手社員をそれなりに優遇していた。ちょうど会社の業績が右肩上がりの時期に当たり、入社二年目にして年収が日本平均を上回った。ちまたに聞く低賃金とか賃金不払いとかサービス残業とかいったブラック企業のエピソードとはひとまず無縁の、それなりにホワイトな職場だった。

 週五日で満員の通勤電車に乗る。品川駅の「サラリーマン大名行列」に交じって出社する。打刻、挨拶、着席、個人作業、打ち合わせ、課の定例会議、部の定例会議、部門全体の集会、研修、出張、社員食堂での昼食と夕食、時々行われる飲み会――そんな新しい日常にはすぐ慣れたと言えば慣れたし、なかなか慣れないと言えば最後まで慣れていなかったような気もする。慣れるって何だろう。自我と感受性を「社会性」という名の麻酔薬で鈍らせ、なけなしの精力と情熱を絞り切って、求められる時間に求められる仕事をそつなくこなす日々を繰り返すことが「慣れる」ことだとしたら、私は間違いなく会社員生活に慣れていたと言える。一方で「社会人」とされることへの違和感や、「社畜」と自嘲する皮肉さが、まだ自我を保てているというささやかな証左となっていた。

 ブラック企業とハラスメントが蔓延はびこる世の中にあってこんな職にありつけたのだから、これ以上不満を言えば罰が当たりそうだ。企業や国が破綻しない限り、自我を押し殺して定年まで勤め上げさえすれば、ひとまず裕福な老後生活が保証される。いくらこれを望もうと手に入らなかった人たちが、世の中にはごまんといる。これ以上何を求めるというのだろう。

 ――このように、客観的な目線と思考が私の行動を制御していた。実際、仕事を通してそれまで知らなかった世の中の仕組みを知ることができたし、勉強になることも多々あった。しかし一方、主観はことあるごとに意識の片隅から姿を現し、イブを誘惑する蛇のようにささやきかける。「あなたはこんなところに収まる人間ではない」、という言い方が尊大すぎるとしたら、少なくとも、「これはあなたの望んでいたことではないはずだ」、と。

 蛇に囁かれるたびに心がうずいた。本当は私自身が一番よく分かっている。就職活動で、あれほど自己分析を行い、自己PRを考え、志望動機を練り、「やりたいこと」をひねり出したけれども、すべては空しく、端(はな)から嘘っぱちだった。私のやりたいことは自己分析をしなくても、就活セミナーに通わなくても、そんな回りくどいプロセスを辿たどらなくても、最初からはっきり決まっていた。

 私は文章が書きたい。小説が書きたいのだ。それが私の夢であり、それ以外のところでは夢も希望も見られやしない。どんなに条件のいい職場であっても、私にとってせいぜい「次善」にしかなりえないのだ。

 

 青臭いアンビバレンスだった。そんなアンビバレンスを乗り越えて、理想と現実の狭間はざまでなんとかして折り合いをつけてこそ、人間は成長するのかもしれない。それが大人になるということなのかもしれない。しかし、仮に成長が夢の墓場だとしたら、青春の死骸を踏み台にした人生にどんな意味があるというのだろう。人生や存在に端から意味などないのだと、そう言われてしまえばそれまでだが、意味を問い続けずにいられないというのがどうやら私の避けがたい性分だったようだ。

 気づいたら、私はまた小説を書き始めていた。乗り始めた通勤電車の中で、ある日、雷に打たれたように死の想念にとらわれ、取りつかれたみたいに書き続けた。それが何になるのかは分からないし、発表の当てもなかった。そんなことはどうでもよかった。私はただ自分の中に巣くっていた得体の知れないものを言葉にして吐き出したかったし、ただ、出来上がったものを見てみたかった。言葉を紡いでいる時だけ、本当の自分を見つけたと思えた。生国を離れ、母語の外側に出てしまった私にとって、生活する言語である日本語で書くのはごく自然なことだった。

 必然とは何で、偶然とは何か。あるいは世の中の出来事は押しなべて偶然の連鎖に過ぎないが、そんな事象の鎖を俯瞰ふかんした時に見えてきた因果の物語を、人は「必然」と呼ぶのかもしれない。結果的に、通勤電車の中で書き始めたその小説は、李琴峰という作家を生み出した。偶然と言えば偶然だし、必然と言えば必然だ。そんなことは、今となってはもうどうでもいいのだ。

 私はこれまで、日本語から数々の祝福を受けた。日本語を習得することで、人生は間違いなく豊かになった。世界が何倍も広くなり、何倍も彩度を増した。日本語ができなければ決して出会わなかった人とたくさん出会ったし、見えなかった風景もたくさん見てきた。日本語を学び始めて十数年、いつの間にか日本語は私の最愛の言語となった。最終的に、作家という肩書まで授かった。これは生涯を捧げて返さなければならない贈り物だ。

 だからこそ、私はこれからも日本語に祝福を捧げよう。言葉を紡ぐことで、精一杯の返礼をしよう。喜んだり、悲しんだり、かげったり、輝いたり、晴れ渡ったり、たそがれたり、愛する女の千の顔を愛でるように、日本語の変幻自在の表情を探索し発見し続けることで、その豊かさに更なる華を飾ろう。

 私は書く。自分を見つけた日本語で。自分が手にした日本語で。
                               (了)

 *本連載は朝日新聞出版より来年2月に単行本が刊行予定です。


李琴峰さんの朝日新聞出版の本

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