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アイス・クイーンの異名を持つ、警視庁監察官・小田垣観月。その知られざる大学時代の素顔が明らかに! 鈴峯紅也「警視庁監察官Q ZERO」第1回※試し読み

 平成十六年(二〇〇四年)は、アテネ・オリンピックが開催された年だった。水泳金メダリストの「チョー気持ちいい」は後日、ユーキャンの流行語大賞の年間大賞にもなる。
 
 総じて、世相としてこの平成十六年は、平和裏に過ぎた一年、ということになるだろうか。

 イラク戦争初期の頃でもあり、ワールドワイドには中東に不穏の種は尽きなかったが、日本国内は悲喜こもごも、幸不幸の泣き笑いが実に平均的な年だった。

 プロ野球では中日が六度目のリーグ優勝を果たし、対するパ・リーグでは西武がプレーオフを制し、体育の日に二年振りのリーグ優勝を決めた。

 そんな年の十月半ば、十二日のことだった。


 この日は朝から秋風がそよ吹く、気持ちのいい一日だった。

 それでも紅葉にはまだ早いようで、本郷通りに並ぶ植栽も、通り向こうの東京大学構内に聳え立つような樹木も、そのすべてが鮮やかな緑だ。

 時刻は、もうすぐ午後三時半になろうとする頃だった。

 そのとき、陽が傾き始めた本郷郵便局前の歩道を、一人の男が歩いていた。

 男は数分前に近くのコインパーキングに車を停め、何かの紙片を片手に歩き始めたところだった。

 黒の濃い上等なスーツに身を包み、少し浅黒い顔は日焼けサロンの賜物か。一見するとマル暴にも見えなくはないが、クールグリースを付けたアイビーカットにはそこはかとない清潔感があった。

 二十九歳の年齢は、まだ青年と言っていいだろうか。

 一八〇センチちょうどの筋肉質な身体を丸め、紙片に目を落としつつ歩く姿は傍から見れば間が抜けても見えるが、本人の表情はいたって真剣だった。

 郵便局を過ぎて、青年は紙片から顔を上げた。

「まったく、わかりづらいな」

 嫌味のない声でそう言い、青年は本郷五丁目〈赤門前町会〉の掲示板の前に立った。

 紙片は、この日の午後イチに立ち寄った東大の駒場キャンパスで、とある部室にいた現役生から貰った手書きの地図だった。正確には、そのカラーコピーだ。

〈私の居場所・本郷・2〉

 表題にはそう書いてあった。

 文字はなかなか達筆だった。ただし、えらく簡素な地図は恐らく、縮尺は適当で要らない道は割愛で、目印と矢印ばかりが目立つものだった。

〈赤門前町会〉の掲示板は、地図に示された目印の一つだ。重要、という添え書きがあった。

「ふむ」

 青年は地図の矢印に従い、掲示板の手前を右に折れた。

 入り込んだ一方通行の道は、平成の世のこの都心に、いきなり昭和の原風景が出現したかのような小路だった。本郷通りからひと角曲がっただけで、すでに路地裏の趣が有り有りとしていた。

 入って五十メートルも行かない左手に、〈パーマ〉と朱色で書かれた突き出し看板があり、板面の一番下には黒文字で小さく、〈赤門〉と書かれていた。

「へえ」

 本郷通りを挟んで、大きな赤門と小さな赤門が存在することになる。

 そう考えると声になった。少し笑えた。

〈パーマ 赤門〉の前を真っ直ぐ進み、青年はさらに五十メートルほど行った三叉路を、地図を確認しながら左に曲がった。

 そこからはまず、十メートルと真っ直ぐに道を歩くことはなかった。

 地図を見ては道を折れ、隘路に分け入り、それを繰り返し、眩暈を感じるほどに曲がりに曲がった後で、青年はようやく目的地に辿り着いた。

 目前には西陽を浴びる、瀟洒な建物があった。二階建ての割りに見上げるようなのは、一メートルほどの嵩上げされた高台に立っているからだろう。

 全体に焼けたような木骨レンガ造りの、アーチ状に張り出したキャノピーを持った、洋館と言って差し支えない建物だった。

 敷地をめぐる囲いも腰高までが同様のレンガで積まれ、その上に唐草を模したロートアイアンの柵が並んでいた。唐草に浮かんだ錆色が、建築物としてこの地に根付いた、永い歳月を物語るように思えた。

 洋館はキャノピーの上に、金メッキも剝がれ加減になった中華風の扁額を掲げていた。

 建物は、少なくとも一階が店舗のようだった。扁額の文字は飾りが多すぎてまったく読めなかったが、〈四海舗〉であることは最初からわかっていた。

 手書きの地図にそう書き込まれ、花丸で囲いルビまで振ってあったからだ。

 青年はゆっくりと周囲を見渡し、目を細めた。

 周囲と言っても狭い一帯だが、なぜかその辺りは何軒もの古びた洋館だらけだった。

 昭和の原風景を飛び越え、この一帯だけにはそう、はるかに遠い、明治のよき風情があった。

「へえ。意外や意外。大学の近場はだいたい知ってるつもりだったけど、こんなところがあったとはね」

 青年の声には、素直な感嘆が聞こえた。

 柵と同仕様の門扉を押し開け、スロープから玄関に至る三段の階段を上がる。

 玄関にはそこだけ近代的なアルミ製のドアが嵌め込まれ、両サイドに室内が垣間見える広めのスリットがあった。

 ちょうど西陽が差し込んで、中が良く見えた。やはり一階は店舗で間違いないようだった。

 内部は右手には冷蔵ショーケースが、左手には常温の陳列棚があった。

 ショーケースや棚に、押印された油紙に包まれた大振りの月餅、トレイに載った芝麻球、麻花巻、カップに入った杏仁豆腐を見れば、ここが中華菓子の店であることはわかったし、屋号も納得だった。

 青年はドアを押し、甘い匂いに包まれた店内に入った。

 カウベルの響きが外観に相応しく、逆に店内の装飾に少し不似合いな気がした。

 店内は隅がキャッシャー台になっていて、内側には中華風の、人型の像が鎮座していた。漢服を着た老女のようだが、全体に色褪せていた。木彫りだろうか。

 売り場スペースは客が横並びに五人も立てば一杯になるほどだったが、左側の壁際には細い通路があり、鉤の手に曲がって店の奥に入ることが出来るようだった。

 そちらに行くと中庭があり、イートインスペースが設けてあるらしい。

 壁にそんな説明と太く赤い矢印と、ドリンク類の案内が貼られていた。

「それにしても、誰もいないのかな」

 青年はもう一度、陳列棚の向こう側に目をやった。

「いらっしゃいな」

 いきなり背後から声がした。

「うわ!」

 誰もいないのかと呟いたばかりだ。思わず声になった。

 いつの間にか青年の背後に、木漏れ日を浴びた眠り猫のような老婆が立っていた。袖と袴がゆったりしたこげ茶の漢服を着た、痩せて小柄な老婆だった。

 眠り猫のように見えるのは、目が細いからだと理解するのに数秒掛かった。

 このタイムラグは、それくらい動揺していた証拠ではある。

「い、いつから」

「たった今さ。レジの下からだよ。開いてるからね」

 青年は、言われてキャッシャー台の方を見た。たしかに台の下が開いていた。

 その内側に、置物がなかった。

「あ、あの木彫りの置物」

「失礼な。誰が木彫りだね。こうして生きてるさ。置物どころか、店主だよ」

「へっ? ああ。これは失礼。私は――」

 青年は名刺を差し出した。

「ほう。これはこれは」

 一瞥し、木彫りの置物のような店主は目を細めた。

「我が社のこと、ご存じですか」

 聞けば、老女の皺だらけの顎が上下に動いた。

「そうさね。これで、生まれてすぐから、七十年近くも東京に生きてるもんでね。繁華街にも知り合いはそれなりにいるさね。そもそも、あたしゃあんたの妹を知ってるしね。二年前まで、よくここに顔を出したもんさ」

 今度は青年が頷く番だった。

 老女が七十歳前だったのかという驚きは、この際省くとする。

「そうでしたか。あいつはけっこう、甘い物もいける口でしたからね。私は、とんと不調法なもので」

「だからここを知らないとか、あたしを木彫りとか置物とかって?」

「ははっ」

「古臭い言い訳さね。それで、何?」

「ああ。これは失礼。実は東大のアイス・クイーンが、こちらでくだを巻いていると聞いたものですから」

「くだを巻いてるかどうかは知らないけど、思い当たるのは奥にいるね」

「有り難うございます。お邪魔します」

「何か頼んでおくれ」

「では、温かいジャスミン茶を」

「持っていくさね」

 そう聞いたと思ったときにはもう、老女はキャッシャー台の向こうにいた。鮮やかなものだ。

 感心しつつ、青年は陳列棚の向こう側を右手に曲がった。

 通路は真っ直ぐ奥に向かい、十メートル以上も続いた。窓は一枚もなかったが、そのせいで廊下が暗いかというとそうでもなかった。適度な照明が効いていた。

 恐らくその長く続く右手の壁内が厨房なのだろう。売り場に比べて、恐らく相当に広いようだ。

 奥に進むと、真正面が古い木製の扉になっていた。

 青年は、その扉を押し開いた。

 秋の風が、頰を撫でた。

「へえ」

 扉の外はイートインスペース、建物に囲まれたささやかな円形の中庭になっていて、実に興味深い風情を醸していた。

 西に傾いた陽を受けて真半分が朱く、残りが影に染まって暗かった。上る朝陽の頃には今まさに暗い半分が輝き、朱い半分が眠るように沈むのだろう。

 光と影、午前と午後でその反転。陰と陽、生と死、男と女、善と悪、青と赤。

 そのど真ん中に、四脚の椅子と一台の円卓が置かれ、こちら向きに一人の女性が座っていた。

 手足の長い、若い女性だった。

 上背は、見る限り一七〇センチにも近いだろう。目が大きい瓜実の顔に、艶やかなマッシュボブの髪。袖を捲った白シャツと黒のジーパン。

 全体の印象はボーイッシュにして高校生にも見えるが、現役で東京大学文Ⅰに合格した二年生、つまり今年で二十歳、成人になる女性だということを青年は知っていた。

 青年はかつて自分の、五歳年下の妹に説明されたことがあった。

――マッシュボブって、要はさ、〈蛍ちゃんカット〉。兄貴、わかる。お笑いのさ。それが、今度の私らの会長でね。

 一目でわかった。

 言い得て妙というやつだ。

 青年は一歩、円卓に近づいた。

 怪訝そうな顔がこちらを向く、なら反応として普通だが、この女性は違った。

 動かない表情に、真っ直ぐこちらを見詰める黒い瞳の輝きが、相反するようで青年には印象的だった。

「君が東大のアイス・クイーン。小田垣観月君だね」

 表情を変えることなく、ボーイッシュな女性の顔が、ただゆっくりと上下に動いた。

――で、兄貴。私らの会長はさ。

 子供の頃のアクシデントが原因で、喜怒哀楽のうち喜と哀の感情にバイアスが掛かり、感情が上手く表情に出なくなったと、そのことも青年は、妹から聞いて知っていた。

※連載時の原稿をそのまま掲載しているため、文庫本と若干の違いがあります。
※『警視庁監察官Q ZERO』は、7月7日(金)朝日文庫より刊行予定です。

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