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北尾トロ『佐伯泰英山脈登頂記』第17回

第8峰『居眠り磐音 江戸双紙』其の壱

ページをめくる手が止まらない!
佐伯泰英山脈の最高峰、堂々の全51巻

息もつかせぬ展開で読者を巻き込み、唸らせ、泣かせても、
まだシリーズ序盤ってどういうこと?

読者の期待に作者が燃え、驚異的ペースで描かれた会心作


 いよいよ発行部数が優に2000万部を超す代表作の登場だ。すでにお読みの方も多いだろう。あるいは映画などでご存じかもしれない。佐伯ビギナーがまず手に取りそうなシリーズでもあるので、安易なストーリー紹介にならないよう気をつけて話を進めよう。

 でも、これだけは言わせてほしい。この作品は本当におもしろいです。読み始める前は全51巻のボリュームにたじろいでしまうのだが、そのうち気にならなくなり、終盤になるにつれて読み終えるのが惜しくなる、エンタメ時代小説の教科書みたいな作品なのだ。

 タイトルに使われている「双紙」とは、紙を綴じ合わせた書物を指す。では「居眠り」とは? 読んでいただければわかるが、これは主人公の剣風を表している。

『居眠り磐音 江戸双紙』の刊行が始まったのは2002年4月。第1巻『陽炎ノ辻』は佐伯時代小説の23冊目にあたり、シリーズ物としては、先行する『密命』『長崎絵師通吏辰次郎』『夏目影二郎始末旅』『古着屋総兵衛影始末』『鎌倉河岸捕物控』『吉原裏同心』に続く7作目となる。デビューから3年、時代小説家としての人気も高まり、出せば売れるの無双状態といって良かった。

 このとき、もっとも長く続いていた『密命』は第6巻、『古着屋総兵衛影始末』は第5巻。ひとつのシリーズを長く書くだけでなく、たくさんのシリーズを同時進行させていく量産型のスタイルにも慣れてきたころだったと思われる。

 その中でも『居眠り磐音』の刊行ペースは異様に速い。第1巻から3カ月後に第2巻、また3カ月後に第3巻というように、季刊ペースで新作を発表。03年11月に『鎌倉河岸捕物控』を、04年11月に『古着屋総兵衛影始末』、05年3月に『密命』をかわして巻数でトップに立つと独走態勢に入ってしまうのだ。巻数がすべてではないとはいえ、作者の熱度と読者の反応(売れ行き)がよほどうまく嚙み合わなければこんなことにはならない。多忙を理由に刊行ペースを落とすこともできたわけで、佐伯泰英にとっても頑張りがいのある、書いていて楽しい作品だったことがうかがえる。

 ヒットメーカーの新作はどこも欲しい。だから、基本的に作者は各シリーズを順繰りに読者に届けるものだ。ところが佐伯泰英は06年に、常識破りの第16巻、第17巻の2作同時刊行をしてのけるのだ。執筆速度がどうかしている。たまたま? そんなわけはない。07年にも第20巻、第21巻を同時刊行するのだから筆が止まらなかった、発表したくてたまらなかったと考えるのが自然だ。

 読者の熱気も背中を押しただろう。リアルタイムで読んでいた人は、次作を待ち焦がれ、刊行を知ると書店に予約したり、発売直後に買い求めたのだと思う。このシリーズが、文庫のベストセラーランキングで1位となっているのを何度見たことだろう。他シリーズと合わせて佐伯作品が上位を独占することも珍しくなかったと記憶する。

 そんなドル箱作家が『居眠り磐音』に力を注ぐのだから、他のシリーズの担当者は「『居眠り磐音』を優先しすぎじゃないですか」と天を仰いだに違いない。新刊発表のペースはやがて落ち着いていったものの、平均すると年に3冊以上繰り出され、一日も早く続きを読みたい読者の期待を裏切ることはなかった。

 私にとっても、『居眠り磐音』は佐伯時代小説初体験のシリーズ。仕事がらみの読書だったので、軽く目を通すだけでも良かったのに、睡眠不足も何のその、約1カ月で読み終えてしまった思い出がある。佐伯本は読み終えてしばらくたつと「おもしろかった」しか残らなくなるので、今回改めて目を通してみたら、再読なのに手に汗握り、胸を打たれるとともに、構成の巧みさに気づいて唸る結果となった。

クライマックス並の迫力でいきなり読者に斬りつける


 もしも未読の方に「『居眠り磐音』は読むに値しますか?」と訊かれたら、私はこう答えたい。

「何も考えず、壮大な物語の発端となる第1巻の第1章を読んでください。ここで期待感が膨らまないなら、磐音山への登山はやめたほうがいいでしょう。わくわくするようなら迷わず先へ進むべし。確実に止まらない状態になるので、必ずひとつ先の巻まで用意して読んでください」

 それほどまでにシビレる発端なのである。読んだ後で、本当に1章分なのかと思うくらい密度が濃い。容赦がない。あらすじを追うのは避けたいと書いたばかりだが、全体に関わることなので、ここは少し踏み込んでおこう。

〈明和九年(一七七二)四月下旬、豊後関前城下と関前湾を遠くにのぞむ峠道で三人の若い武士が涼をとっていた〉

 幕を開けるこの一文は幸福感に包まれている。3人の若い武士とは、河出慎之輔、小林琴平、坂崎磐音。彼らは幼い頃から関前藩の剣道場で木刀を交えてきた親友同士であるばかりか、慎之輔の妻は琴平の妹、磐音がこれから結婚しようとする相手は琴平のもうひとりの妹である奈緒という間柄。江戸から地元へ帰る最後の峠道で休憩した彼らは、琴平が磐音の妹と一緒になれば、3人の仲は磐石なものとなる、と笑いあう。彼らはまた、藩政改革の役割を藩主から期待された若手三人衆でもあった。

 どんな話だろうとページを開いた読者はこの部分を読み、磐音を主役に、親戚関係の3人とその妻たちが脇を固めていくのだろうと推測しそうだ。私など、江戸在勤となった磐音がさまざまな事件に巻き込まれ、親友たちの協力を得ながら苦境を乗り切っていくユーモア剣豪小説かと早合点したほどだった。

 しかし、平和なムードは数ページ後、一変する。磐音らが不在の間に起きたお家騒動で地元は大変なことになっていた。その余波は彼らの家族をも直撃。不貞の疑いをかけられた妻の舞を慎之輔が手打ちにし、妹を殺され激怒した琴平が慎之輔を殺し、さらには上司の命令を受けた磐音が琴平と斬り合う事態に発展してしまうのである。

 剣の腕が立つ磐音だが、親友を斬りたくはない。すべては藩内の権力争いに起因する陰謀であることもわかっている。が、関前藩の一員として、琴平を見逃すわけにはいかない。それを重々承知している琴平と磐音が向き合う場面には悲壮感が漂っている。

〈「もはやどうにもならん」

 二人の友は空しく視線を交錯させた。

「磐音、望みがある。おぬしとの尋常の勝負じゃ」

 坂崎磐音は、ただ頷いた。

 琴平には死しか残されていなかった〉

 そして、琴平を殺した自分が奈緒と結ばれるわけにはいかないと絶望する場面で第1章は幕を閉じ、もはや豊後関前では生きていけないと結ばれる。

 3者3様の感情の爆発。迫力がみなぎる斬り合い。権力のために手段を選ばない悪役の憎たらしさ。理不尽としか思えない武家社会のルール。3人で笑い合った数日後には、友を失い、奈緒とも別れなければならなくなった磐音の孤独と哀しみ。それらが凝縮され、この部分だけで短編小説を読んだ気にさせられる。

 だが、それもそのはずなのだ。シリーズの中盤に刊行された『「居眠り磐音 江戸双紙」読本』の中で作者は、この物語が当初は短編として構想されたことを明かしている。悲劇的な結末のまま世に出したくないと思ったかどうかはわからないが、読者にしてみれば、気が変わって良かったというほかない。

境界線上にいる佐伯作品の主人公たち


 第2章から〝本編”がスタート。藩を抜けた磐音の、江戸での浪人暮らしが始まる。住んでいるのは家賃の安い裏長屋で、大家の金兵衛に紹介してもらい、仕事は鰻屋の見習い。まわりの人たちとの軽妙な会話も手伝い、やっと佐伯泰英らしい読み心地になってきて、私もホッと一息ついた。

 慎之輔や琴平と力を合わせて取り組むつもりだった藩政改革の挫折、琴平の妹である奈緒との別れは心の傷として深く残り、物語に影響を及ぼすこと必至だろうが、前を向いて出直さないと話が始まらないのだ。

 会心の出だしで長編シリーズ化に方向転換した佐伯泰英が、読者が求める〝明るさ”を見逃すはずがない。素朴で心根の優しい性格と達人級の剣の腕で、磐音は徐々に新生活になじみ、江戸でも屈指の両替商である今津屋の用心棒を引き受ける。そうこうするうちに幕府がらみの陰謀に巻き込まれ……。

 あれ、この設定はどこかで体験したような気がする。出身が豊後国だったり、冴えない長屋暮らしから居場所を拡大していく主人公の佇まいは、これまで読んできた作品に似た感じがしなくもない(とくに『密命』)。だが、それは私が佐伯時代小説を立て続けに読むという修行のような生活をしているからである。重箱の隅をつついてどうする。日々の楽しみとして読書を位置づけ、フィクションの世界に浸るという〝正しい読み方”をしていれば、少々の類似点は笑って許せるというものだ。

 それよりも、私がここで語りたいのは、なんでもありのように見えて、佐伯作品が取り扱わないテーマについてである。多くのシリーズを持ち、さまざまなテーマを扱うように思える佐伯泰英なのに、江戸の企業小説・ビジネスマン小説のような、幕府や藩内を主要な舞台とする〝純武家小説”はひとつもない。

 中間管理職の立場にある主人公が権力争いに巻き込まれたり、窮地に追い込まれながら、粘り強く巻き返し、ギリギリのところで陰謀を防いで「めでたしめでたし」となるストーリーは、時代小説の王道のひとつ。時代小説ファンに好まれやすい、手堅い作品になることが見込まれる。それなのに手を出そうとしなかった。

 もちろん幕府や諸藩の話はひんぱんに出てくる。陰謀やもめごとも後を絶たない。しかし、それは物語の舞台として用意されるもので、そこに主人公はいないのだ。

 では、どこにいるのか。武家社会と庶民社会の境界線上である。

 これまで登頂した峰でも、『密命』の金杉惣三郎、『酔いどれ小籐次』の赤目小籐次は脱藩組、ここで取り上げる『居眠り磐音 江戸双紙』の坂崎磐音も藩を抜けてひっそりと暮らそうとする。『夏目影二郎始末旅』の主人公は武家社会の落ちこぼれで戸籍すらない立場となって幕府の闇仕事を請け負う。また、『鎌倉河岸捕物控』では、長屋育ちの庶民が十手持ちや下っぴきとなって武家社会と関わっていく、といった具合。

 彼らは武家社会には居場所がなく、かといって普通の庶民でもない境界線上の人たちなのだ。両者の中間にいるために、どちらからも頼りにされ、巨大な陰謀から道端で起こる諍い事まで関わらざるを得なくなる。書き手にとっては圧倒的に自由度が高い。逆に、ストーリーの幅も人間関係も限定されがちな〝純武家小説”は、気の向くままに書いていきたい佐伯泰英にとって、窮屈で仕方がないのではないだろうか。

 主人公が境界線上にいることでもたらされるのは、ストーリーを紡ぐうえでの都合の良さだけではない。武家社会からはみ出して長屋暮らしを始める主人公は庶民生活の初心者。すべてが新しい体験である。それは我々読者にとっても同じ。我々は主人公の目を通じて、すんなりと小説の舞台や登場人物になじんでいくことができる。

 庶民の生活を描く利点として、現代社会の問題点や読者の関心事を作品中に取り込みやすい点も加えたい。佐伯作品を読んでいると、市井の人々の明朗で誠実な暮らしぶりに心を洗われる瞬間がしばしば訪れる。できすぎじゃないかと思ってしまうこともあるのだが、それを上回る爽快さがあるのは、せちがらい現実から、しばし架空の世界に連れて行ってくれるからだろう。

 しかも、主人公の軸足は庶民の側にあり、悪役が境界線の向こうからやってくる(主人公が庶民を守る)構図が崩れることがない。『居眠り磐音 江戸双紙』もその例にもれず、生活力のない磐音に面倒見のいい大家が仕事を紹介し、長屋の住人たちは明るく元気、大店のダンナに見込まれ援助を受けまくる代わりに、みんなの用心棒として武家社会で身につけた取柄(剣術)を生かしていく。

 またこのパターンか、と思わなくもない。でも、〝お約束”も徹底すれば気持ちがいいことが、読み進むうちにわかってくる。悪いたくらみはバレるべきだし、努力は報われて欲しい。正直さや誠実さが評価される世の中でありたい。佐伯時代小説は、作者と読者の願望が込められた虚構の世界なのだ。

 佐伯泰英は、作家として生き残るために時代小説を選んだ。アクションシーンの華は剣を使った闘いだし、権力争いや陰謀、駆け引きは武家社会の〝あるある”だから、主人公は幕府や出身藩との関係を保っている。でも、作家として描きたいのは庶民の暮らしのほうだと思えてならない。それが、娯楽としての読書を楽しみたい多くの人に歓迎された、と。

『密命』シリーズの大当たり以降、文庫書き下ろし時代小説はトレンドとなり、各版元では〝第二の佐伯泰英”を生み出すべく、同ジャンルの本を市場に送り出してきた。その波に吞まれることなく淡々と新作を書き続け、ヒットを連発することがどれだけすごいか。なにしろ完結まで10年越えがザラなのである。いかに読者を飽きさせずに引っ張る力が強いか想像してみてほしい。

 その最高峰、全51巻(さらに続編やスピンオフ作品まである)の大作が『居眠り磐音 江戸双紙』ときたら、数ある佐伯作品中、この作品だけが持つ魅力を探りたくなってくるではないか。

※ 次回は、9/7(土)更新予定です。

見出し画像デザイン 高原真吾(TAAP)