麻見和史『殺意の輪郭 猟奇殺人捜査ファイル』第8回
第二章 奪われた光
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四月十六日、午前七時十五分。
身支度を整えたあと、尾崎は深川署の講堂に入っていった。
捜査本部にはすでに二十名ほどの刑事たちが集まっていた。捜査本部が設置されてから二日目の今日、やるべきことは山ほどある。それらを整理し、段取りを考え、いかに効率よく捜査を進めるか、みな真剣に計画を立てているのだ。
広瀬はまだ出てきていない。それを知って、なぜだか尾崎はほっとした。彼女を嫌っているわけではないが、どうも自分の中に苦手意識があるようだ。相棒にあまり気をつかう必要はないとは思うものの、どうもあの広瀬という女性は扱いが難しい。
昨夜のこともそうだ。
班でのミーティングが終わったあと、深夜零時過ぎに彼女はどこへ行ったのだろう。もちろん、ひとりで行動してはいけないというルールはない。食事の時間がずれることもあるし、捜査の都合で深夜に情報収集が必要な場合もある。
ただ、それにしても広瀬の行動は不思議に思われた。今の時点で彼女が深夜に聞き込みをする理由はないし、仮に何らかの事情があったとしても、尾崎に黙っているというのは変だ。
しばらく考えてみたが、思い当たることはなかった。まあ、尾崎ひとりであれこれ想像しても仕方がない。チャンスがあれば、あとで本人に確認してみよう、と思った。
講堂のうしろに行って、インスタントコーヒーの準備をした。頭をすっきりさせたいときはコーヒーを飲むに限る。
見慣れた顔がこちらに近づいてきた。活動服を着た、目のぎょろりとした男性だ。彼を見ると、尾崎はテレビに出ている九州出身のお笑いタレントを思い出してしまう。
彼は深川署の鑑識係に所属する藪内順平だ。歳はたしか三十四歳。普段から気の置けない間柄だ。
「藪ちゃん、藪ちゃん」尾崎は愛称で呼びかけた。「今、本部鑑識の下でいろいろ調べているよな?」
「ああ、尾崎さん、おはようございます」藪内は大きな目でこちらを見た。
「そうなんですよ。さすがに本部の鑑識さんは手際がいいですね。勉強させてもらってます」
「何か情報があれば聞かせてくれないか。捜査に活かしたい」
尾崎に乞われて、藪内はわずかに首をかしげた。
「大事なことは昨日の会議で全部出ましたよ」彼は紙コップを手に取った。
「まだ捜査の初期段階ですから、いろんな結果が出るのは今日以降でしょう」
「マル害の部屋を調べてみて、何か気になるものはなかったかな」
「そうですねえ」藪内はインスタントコーヒーの粉を、さらさらとコップに入れた。「まあ、今の段階では特に……」
「何でもいいんだ。たとえば、アルバムの写真をよく見たら妙な男が写っていたとか」
「いやいや、そんなオカルトみたいな話はないですよ」
「古いCDやDVDに何か記録されていたとか、そういったことは?」
「ですから、そのへんは分析の結果を見ないと……」
ここで藪内はふと黙り込んだ。記憶をたどっているような表情だ。
ひとつうなずいてから、彼は話しだした。
「最近使っていたスマホは見つからないんですが、古いスマホはあったんですよ」
「本当か。何かデータは?」
「ほとんどなかったですね。もう何年も使われていないものらしくて、電話帳や通話履歴などはすべて削除されていました。写真は大量に残されていましたけど、風景や建物ばかりでね。人を写した写真は一枚もありませんでした」
藪内の答えを聞いて、尾崎は肩を落とした。何かないかと期待したのだが、そううまくはいかないようだ。
「念のため、今度その写真を見せてくれないか。どこかにヒントがあるかもしれない」
「今、本部の鑑識課が調べてますんで、戻ってきたらお知らせしますよ」
「ああ、頼む」
コーヒーを飲み干して、尾崎は自分の席に戻った。
捜査資料を開いて、最初から読み直していく。メモ帳に書き込んだ内容と突き合わせ、そこから何か思いつくことはないかと知恵を絞ってみる。だが、駄目だった。まだ情報が少なすぎるのだ。現段階ではひたすら捜査を続け、情報を積み上げていくしかないだろう。
ふと腕時計を見ると、午前七時五十五分になっていた。隣の席は空いたままだ。講堂の中を見回しても広瀬の姿はない。
──あいつ、何をしてるんだ?
八時には捜査本部に来るよう言っておいたのだ。まさか遅刻はしないだろうな、と尾崎は不安になってきた。
腕組みをしながら待っていると、七時五十九分になってようやく広瀬が講堂に入ってきた。
「おはようございます、係長」
そう言って彼女は自分の席に着く。捜査資料を机の上に広げ、スマホを操作し始めた。
「何かあったのか」尾崎は彼女に問いかけた。
「はい?」広瀬は不思議そうな顔をしている。「いえ、何も。……どうしてですか?」
「八時ぎりぎりだったからさ」
「ええ、八時に来るよう言われましたので」
「それはそうだが、普通、八時と言われたら、せめて五分前には来ないか? 俺が君の立場だったらそうするが」
広瀬はじっと考えていたが、やがて怪訝そうな表情になった。
「私は五分前に来るべきだったんでしょうか。だとしたら、七時五十五分に来るよう命じてくださらないと……」
今度は尾崎が口を閉ざした。しばらく相手の顔を見つめてから尋ねる。
「ええと……君は今までずっとそういうスタイルなのか? 何か言われたことはないのか」
「言われましたね。ですが、正確に命令してくださいとお願いしたら、みなさんそうしてくださいました。今の例なら『七時五十五分に来い』と命じていただければ、私は七時五十五分に間に合わせます」
言っていることは間違っていないのだが、どうも調子がくるってしまう。あまりにも彼女が落ち着いているものだから、こちらが悪いのではないかと思えてきた。
「五分前集合というような習慣はないってことか」
「ないですね」
素っ気ない調子で彼女は答える。機嫌が悪いのかと思ったが、そういう表情でもない。あくまで彼女は平常運転という雰囲気だ。
尾崎などは先輩から、五分前には集合しろとずっと言われてきた。それが当たり前だと思っていたのだが、違うのだろうか。そっと様子を窺ってみたが、彼女に悪意があるという気配は感じられない。だとすると、彼女にとってはこれが普通なのか。
あれこれ考えながら、尾崎は捜査資料に目を落とした。
朝の会議では、二日目の捜査について簡単なスケジュール確認が行われた。
時間が惜しいという思いはみな同じだ。短時間で会議が終わると、捜査員たちは表情を引き締めて活動を開始した。
尾崎の組は昨日と同じく、鑑取り捜査が担当だ。広瀬とともに深川署を出て、三ツ目通りを木場駅のほうに歩きだした。今日も電車での移動が中心となる。
「係長、どこから始めましょうか」
広瀬が尋ねてきた。少し考えてから尾崎は答える。
「錦糸町の事件を調べたい」
「郷田裕治が交通事故死した件ですか? だったら、もう資料も見ましたし……」
「それに関連することがいろいろある。まずは、郷田とトラブルになって脚を刺された坂本高之さんだ。彼に当日の状況を尋ねよう」
尾崎がそう言うと、広瀬は胸の前で小さく右手を挙げた。
「ひとつ質問があります。私たちは手島恭介が殺害された事件を追っていますよね。五年前の郷田裕治の死亡事故は、今回の事件とは直接関係ないと思うのですが……」
いかがですか、というふうに彼女は首を斜めに傾ける。
咳払いをしてから尾崎は言った。
「しかし郷田は手島の兄貴分だった。手島に少なからぬ影響を与えた人物だろう」
「そこまでは納得するとして、その先はどうでしょうか。手島恭介のことを調べるのは有効でしょう。郷田裕治を調べるのも、まあ反対はしません。ですが、郷田と揉めた坂本さんは、本件捜査とはまったく関係ないと私は思います」
広瀬は真剣な顔で主張した。どうも話が面倒なことになってきたようだ。尾崎は相手を宥めるように、何度かうなずいてみせた。
「君の言っていることはわかる。だが、俺は坂本さんに会ってみたい」
「刑事の勘ですか?」
「まあ、言ってしまえばそういうことだ。……広瀬、この件について君は不満があるのか?」
普段より口調を強めて、尾崎は彼女に問いかけた。捜査の主導権はあくまで自分にある。それを暗に示したつもりだった。
広瀬は思案する様子を見せたが、じきに首を横に振った。
「いいえ。不満はありません。尾崎係長が命令してくだされば、私はそれに従います」
真面目な顔で彼女は言う。だがそれをすぐに信じるほど、尾崎も単純ではない。
「本当なのか? あとであれこれ言われても困るんだが」
「そんなことはしません」
「心の中で、俺を批判されるのも気分が悪い。コンビを組んでいるんだから、捜査について方向性は一致させておきたい」
「一致も何も、ただ係長が命じてくださればいいんです。私は従うだけです」
彼女は、当然でしょうと言いたげな顔をしている。
尾崎は広瀬をじっと見つめた。ふてくされているという感じではないし、腹に一物あるという気配もない。だが、それにしては言い方がストレートすぎる。
「とにかく、これから坂本さんに会って話を聞く。いいな?」
そう尾崎が言うと、広瀬はすぐにうなずいた。
「承知しました。坂本さんの連絡先を調べます」
「いや、それはいい。今日行くことは本人にも伝えてある。会議の前に電話したんだ」
「え……」広瀬は驚いたという顔で、大きくまばたきをした。「なぜ係長がそんなことを……。私に命じてくださればいいのに」
今度は尾崎のほうが驚いてしまった。
捜査方針に疑問を差し挟んだかと思えば、急に素直な態度をとったりする。どうにも行動が読みづらい。
「よし、行くぞ」
彼女を促して、尾崎は交差点へと向かった。
※ 次回は、4/2(火)更新予定です。
見出し画像デザイン 高原真吾(TAAP)