
鈴峯紅也「警視庁監察官Q ZERO」第16回
十六
「で、今夜は何があったの? まあ、言いたくなけりゃ、言わなくていいけど」
美加絵は、自分のコーヒーカップを両手で包むようにしながら言った。
「何がってほどではないんですけど。ちょっとした行き違いって言うか」
「ちょっとって、あんな大立ち回りで?」
「はあ」
「へえ。ああ。でも、現実に見せられたんだものね。観月ちゃんなら有りか。――あなた、ビックリするくらい強いのね」
「そうでもないですよ」
「謙遜? 過ぎると嫌味よ」
「いえ」
観月は髪を左右に揺らした。
「私は、私より強い人を知ってますから。私より、技も心も強い人たちを、たくさん」
「それはあれ? 若宮八幡神社の爺ちゃんとか、おっちゃんとか」
言葉にせず、観月は頷いた。
真下に抱えたカップの表面に、関口の爺ちゃんたちが映った。
煤けたランニングシャツ、真っ黒に日焼けした顔、笑顔、煤けた真っ黒な笑顔。
観月の中で、思い出というものは色褪せない。いつまでも鮮やかだ。忘れることが出来ない。
色褪せない思い出の中で、セピアのような鉄鋼マンたち。
それはそれで、辛くもある。
「ふうん」
簡単な相槌が有り難かった。
踏み込ませない代わりに、踏み込まない境界線を心得ているのは、さすがに銀座のママということか。
銀座では何を、と聞かれた。
「バイトです」
「用心棒?」
これは笑うところだろうか。
わからないから頭を下げた。
「すいません。キャストです」
「あら意外。どこのお店? 私が行こうかしら」
隠すことではない。〈蝶天〉と答えた。
「〈蝶天〉って。――ああ」
美加絵の目が細められた。
「宝生グループのお店だったわね。うちにはないけど、カウンターバーのある」
そうだと答えた。
ノックの音が聞こえた。
「ちょっと待ってて」
そう言って美加絵は廊下に出た。
暫くして、私服に着替えた美加絵が戻ってきた。
「観月ちゃん。この後、ちょっと付き合ってくれる? いいかしら?」
小さなショルダーバッグを手に取りながら美加絵は言った。
つまり、外に出るということか。
「いいですけど」
「下は大丈夫だって言ってるわ。もうみんな散ったって。ふふっ。バイクの連中、警官にはさ、自分らで揉めただけだって答えたらしいわよ。それはそうよね。女の子にやられたなんて、恥ずかしいだけだもの」
一杯付き合ってよ。
美加絵はそう言って、先に店長室から出て行った。
観月は黙ってついて行った。
エレベータを降りると、ドアマンたちも全員が上がったようで、エントランスホールは静かなものだった。
美加絵が言ったように、花椿通りにバイクは一台もなく、いつも観月が乗るタクシーももういない。
「こっちよ」
エントランスから出て左手に回り込むように歩くと、白線で区切られた喫煙エリアがあり、JTの広告が入ったスモーキングスタンドが二台置かれていた。
隣のビルの壁面から、降るような蛍光灯の明かりがあった。
帰り際か仕事終わりか、そこで何人かが煙草を吸っていた。一人だけパイプ椅子に座る男もいた。
――いえぇい。
誰かが手を叩いた。
「お嬢ちゃん、凄ぇなあ。久し振りにスカッとしたぜ」
先程の一連を見ていた人がいたようだ。そうだそうだ有り難うよ、と誰かが続いた。
「近所迷惑だよ。あんたたち、この後も余計なことは言わないことね」
――はいよ、ママ。
――へいへぇい。
「口だけじゃなくて、頼んだよ」
美加絵は念を押し、喫煙スペースのさらに奥に向かった。
隘路があり、裏通りに抜けるようだった。
表通りに比べれば街灯はいきなり数を減らし、銀座にしては薄暗かった。
「どこへ行くんですか」
「すぐそこ。わかりづらいけどさ」
それから大通りに出て道を二度ほど曲がり、また隘路のような道の入り口に至って、美加絵は足を止めた。
「いつも一人でしか行かないところなの。うちのホステスリーダーも無し。ほら、わかる? あそこのオーセンティック・バー」
美加絵は目で行く先を教えた。
オーセンティックとは〈本格〉あるいは〈正統〉、そんな意味だ。
なるほど、隘路の中ほどに、いくつもの鉢植えに守られるかのように、小さなスタンド看板が置かれていた。
オリーブ、ユーカリ、トネリコ、レンギョウ、後は薔薇に紫陽花か。
スタンド看板は逆に、仄明かりで鉢植えを優しく撫でも愛でもするようだ。
配置の妙、陰影の絶妙。
看板の店名は黒一色の文字で、〈Bar グレイト・リヴァー〉と読めた。
「自分の店の誰も連れてかないでさ、他のお店のキャストを連れていくのも変でしょ。後でなんか揉めるのも嫌だし。だから観月ちゃんは、そうね。私のテニスの先生」
「え」
「ふふっ。これ冗談じゃなく、ちょうど習い始めたところなの。あのお店でも、先々週だったかな。話をしたばっかりで。いい?」
「あ、はい。――わかりました」
「じゃ、いきましょ。ああ、〈蝶天〉でもこのことは内緒よ。誰にも。業界も銀座も、広いようで狭いから」
言いながら、美加絵は隘路に足を踏み入れた。
〈Bar グレイト・リヴァー〉は、三階建ての古い建物の地下一階だった。外から直接降りる階段があった。
壁の時代掛かったランプも、曇りガラスの嵌まった木製の扉も、それを引いたときの丁番の軋みも、すべてが〈味わい〉だったかもしれない。迷い家の風情か。
「いらっしゃい」
〈味わい〉に相応しい、深みのある声が迎えた。
背後に無数の酒瓶を従えるようなカウンターの中に一人、背筋の伸びた男性がいた。スツールに人はいない。
簡単明瞭だ。
それがマスターなのだろう。
白いカッターシャツに深みのある黒いベスト、同色のボウタイ。京香と同じようなスタイルだが、こちらの方が板についている感じだ。やはり師匠、と思えば大いに納得だ。
年齢はどうだろう。五十に届くか。ヘア・ワックスでオールバックに固めた髪、細い顔、切れ長の目、尖った鼻に薄い唇。
どこからどこまで、観月が思う〈ザ・バーテンダー〉がそこにいた。
「珍しいですね。お客様、いえ、お友達」
マスターがカウンターの中央に木製のコースターを置いた。席への誘い、ということだろう。洒落た所作だった。
美加絵は中央のスツールに腰掛けた。
「どっちも違うわ。私のテニスの先生。銀座でパーティがあったんですって。それで、後合流で」
「ああ。なるほど。そういえば、今はテニスに夢中だと仰ってましたね」
柔らかく微笑みつつ、マスターは観月の方を向いた。
「美加絵ママの通うスクールは名門だとお聞きしました。そこの先生ということは、お若いようですが、あなたも相当の腕前とか」
「いえ。それほどでも」
「ご謙遜を。戦績は、どういった感じで」
慇懃な口調だが、探るようでもあった。
それが銀座の流儀だろうか。
「ちょっと、マスター。私の先生よ。あんまりさ――」
観月に代わって美加絵が口を開くが、隠すことではない。
観月は美加絵の隣に座った。
「少し前に、インターハイで三連覇しました。国体も。ソフトテニスでですけど」
「えっ」
先にあからさまな驚きを口にしたのは美加絵だったが、
「――ほう。それは」
マスターも一瞬、驚いた顔を見せた。
「あ、そこまでは私も聞いてなかったけど。――へえ」
美加絵はなお興味深げに観月を見て、カウンターで頬杖を突いた。
何を吞まれますか、とマスターが聞いてきた。
取り敢えず、客としての第一関門は突破したということか。
「お酒には詳しくありません。あの、お薦めで。出来れば甘めで」
「知らないことを知らないと言うのは、むしろいいことです。では」
腰を折り、振り返ったマスターの手が棚の中に吸い込まれるように見えた。
リズミカルに抜き取られる瓶がカウンターの奥に並び、ライトの下で呼吸を始めるようだった。
よくはわからないが見る限り、ココナッツリキュール、カシャーサ51、それにミルクとシュガーシロップの鮮やかなシェイク。
クラッシュドアイスのグラスに注がれる乳白色のそれを、
「どうぞ。ココナッツドリームです」
と、マスターは静かに言った。
グラスに口をつけ、口触りの冷たさと舌触りの滑らかさに、観月は一気に傾けた。
「うわ。甘、って言うか、美味っ」
思わず声に出し、観月は空のグラスを見た。
「へえ。お酒も強いのね」
美加絵が頬杖のまま目を輝かせた。
まあ、少し行儀は悪い気がしますがと、これはマスターだ。
「あ、そうなんですか?」
美加絵は笑った。
「気にしないでいいわよ。そういうのはこれから覚えること。若いんだから。これからいくらでも覚えられること」
どうぞ、とマスターが美加絵の前にもカクテルを出す。
深紅のカクテル、ジャックローズというらしい。
二杯目からは、観月も美加絵と同じ物を頼んだ。
カウンターに向かい、カクテルグラスを眺めた。
静かに時を刻む、そんな時間だったろうか。
やがて、美加絵が話を始めた。
カウンターに向ける囁きは、そのまま染み込むかのようだった。
二年前に離婚したらしいこと、異母弟の身の上が気に掛かること。
次いで、溜息をつくように、横暴な父と兄のこと、横暴なその稼業のこと。
「沖田組っていうヤクザよ。普通の人は知らなくていい名前。でも知っておいても損はなくて、関わると怖い名前。うちの店は、だからヤクザがバックにいる店。フロント企業って言うのかな」
そんなに頭もよくないし、儲かってもいないけどね、と美加絵は三杯目のカクテルに口をつけてから言った。
「気にする? 怖い?」
聞かれて、観月は首を横に振った。
任侠の世界の広さ、深さはよくわからないが、和歌山にも同じような輩はいた。
いたが、観月の知る鉄鋼マンたちは彼らを前にしても泰然とし、毅然と接し、決して無下に排除することはしなかった。
「ふうん。強いのね。鉄鋼マンって」
美加絵はかえって面白がってくれた。
それから観月も、〈ラグジュアリー・ローズ〉の店長室の続きのような話をした。
ソフトテニスのこと。アイス・クイーン。憧れの先輩。その先輩に重なる、幼い日の淡い恋心のこと。
棚に並ぶ酒瓶の群れは、そんな客たちの話を聞いて、店々で独自に熟してゆくのかもしれない。
「マスター。この先も来ることあったら、この先生の分は私の付けで」
最後に、美加絵はそんなことを言ってくれた。
「おや。入れ込んだものですね」
「だって、インターハイ三連覇よ。真っ直ぐな日々。――ヒロインよね。眩しすぎるほどの」
「左様で。――いえ、左様ですな」
ご贔屓に、と言ってマスターはカウンターに名刺を出した。
高木明良。
最初に聞くのを失念していたが、それがマスターの名前だった。
※毎週木曜日に最新回を掲載予定です。