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修業時代の洗礼――李琴峰「日本語からの祝福、日本語への祝福」第20回

台湾出身の芥川賞作家・ことさんによる日本語との出会い、その魅力、習得の過程などが綴られるエッセイです。

第20回 修業時代の洗礼


 私の留学先は別科日本語専修課程というところだった。

 文学部や法学部といった一般的に知られる学部・学科とは違い、別科は日本語や日本文化、日本事情の講義を開講する、もっぱら留学生を対象にした教育プログラムである。正規の教育課程であることに変わりはないが、ほとんどの日本人学生はその存在すら知らないので、「李さんは何学部ですか?」と訊かれたら、説明はかなり面倒だった。こうこうこういうことですとなるべく正しい説明を心がけても、結局「それってつまり文学部?」と首を傾げられたり、「よく分かんないけどそういうところもあるんだね」と中途半端な雰囲気になったりすることが多い。

 早稲田大学の別科日本語専修課程では入学時にプレイスメントテストが行われ、留学生たちは日本語力によってレベル1から8に振り分けられる。開講される科目名には「コミュニケーションのための敬語表現2-3」「絵本を読む3-4」というふうに、レベルを示す数字がついている。初級にあたるレベル1と2では「総合日本語」で聞く・話す・読む・書く力を総合的に磨くことが多く、中級のレベル3~5に上がると「オノマトペを学んで、話そう4-5」「季節で学ぶ日本と日本語3-4」のように、より多彩な科目が受けられる。上級・超級のレベル6~8となると、「日本語の論文を読む8」「新聞を読む8」など専門性が高い授業が多くなる。

 震災で延期になったものの、五月に入ると学期が始まった。プレイスメントテストの結果、私は一番上のレベル8に振り分けられた。当時履修していた科目名の一部を書き出してみよう。

大学院受験のための日本語7-8
ディベートの技術7-8
研究レポート・研究論文の基礎8
現代日本語で読む日本の古典7-8
日本語で学ぶ国際関係論7-8
近現代文学を分析する7-8
日本語辞書にない日本語7-8
俳句を作る・短歌を詠む7-8

 並べるだけで胸が躍る、楽しそうな科目名ではなかろうか。

 留学生向けの日本語科目だから日本語が上手うまければ楽ちんと思われるかもしれないが、そうとも言い切れない。レベル8にもなると「日本語を学ぶ」というより「日本語を使って何かを学ぶ」という側面が強くなるので、どの授業もかなり骨があり、専門性の高さは一般の日本人学部生対象科目と大して変わらない。

 例えば「日本語で学ぶ国際関係論」という科目では、毎回異なるテーマを取り上げる。各テーマには担当者が振り分けられており、担当者による発表のあと、受講生全員でそのテーマについて討議をする。授業のあとで毎回、千文字程度のコメントの提出が求められる。取り上げられたテーマは、国際化、外交問題、戦争責任、憲法九条、ODA(政府開発援助)、尖閣諸島、日系人、二重国籍問題、予防外交、エネルギー資源などと、なかなかに硬派だ。

「俳句を作る・短歌を詠む」という科目では毎回俳句や短歌を数首作り、提出することを求められた。授業では実際の句会や歌会にならって他者の作品を講評したり、投票で優秀作を選出したりする(私には俳句と短歌の才能がないことをこの授業で思い知らされた)。

「日本語辞書にない日本語」は著名な辞書編纂者・飯間浩明先生が講師だった。国語辞書に載っていない言葉をファッション誌などで探し、用例を集めて発表するという趣旨の授業である。そう、言うなれば三浦しをん『舟を編む』に描かれる辞書編纂作業の体験のような講義だ。

「ディベートの技術」では、コンビニにおける成人向け雑誌の販売や、自動販売機の規制の是非など、様々な論題について下調べをしたうえで、チーム戦形式でディベートに臨む。受講者はディベートの実戦のみならず、審判も行う。

「研究レポート・研究論文の基礎」では、受講生は各自の研究テーマを決め、短い研究論文を一本仕上げるつもりで授業に臨む。構想の立て方から研究計画の作り方、調査のやり方、論文の書き方まで一通り習ったうえで、調査をやりながら大学院のゼミのように毎週進捗を報告し、学期末には論文を提出する。

 それらの日本語科目で、印象に残ったエピソードがいくつかあった。

「近現代文学を分析する」という授業では毎回、受講生が読みたい短編小説を選び、みんなで読んだうえで討議をする。これはレベル7~8の授業である。一般的にこのレベルの授業になると、受講生はほとんど旧漢字文化圏(中国、韓国、台湾など)の人ばかりになるが、なぜかあの授業では欧米出身の受講生が多かった。

 私は中島敦の「山月記」を課題に選んだ。高校の国語教科書の常連になるような名作だし、あの古風で美しい漢文調の文体に私は大いに魅了されていたからだ。ほかの受講生に、「ほら、こんな日本語もあるんだぞ、日本語でこんなこともできるんだぞ」と見せてあげたい気持ちもあったのだろう。いや、意地悪したいという気持ちが少しもなかったと言えば嘘になる。ともあれ「山月記」を読む回になると、案の定、非漢字文化圏出身の受講生はことごとく音を上げた。

「読めない漢字が多すぎるよ」と、一人の受講生が嘆いた。

「頑張りましょう! これはレベル8の授業でしょ?」と私が言った。

「この小説、レベル10くらいあるよ!」もう一人の受講生が不服そうにぼやいた。

 それもそうだ。「博学才穎さいえい」とか「性、狷介けんかい」とか「自らたのむところすこぶる厚く」「容貌も峭刻しょうこくとなり」「肉落ち骨ひいで」とかの表現が普通に出てくるのだから、私が中国語母語話者でなければやはり音を上げていたのだろう。今にして思えば少し申し訳ない気持ちになる。しかしよく考えれば、こちらだって英語を学ぶのに四苦八苦しているのだから、日本文学の授業くらい、彼らに言葉の壁というものを実感してみてもらってもいいのではないだろうか(ちなみに、この科目には期末レポートも課されていて、私は山田詠美「風葬の教室」について書いた)。

 また、「ディベートの技術」の授業で、論題は受講生が提案することになっているが、私は「同性婚法制化の是非」を提案した。私の案を聞いた先生は少し躊躇ためらいの色を見せ、「ほかの受講生の意見も訊いてから決めたい」と言った。最初は、同性愛者に反感を抱く受講生もいるかもしれないから彼らに配慮しているのかなと思ったが、とんだ勘違いだった。あとで先生は私に、「受講生の中に同性愛者の方もいるかもしれず、無闇に同性婚を論題にすると傷つく人がいるかもしれない」から、躊躇ちゅうちょしたのだと説明した。このことで、先生に対する好感度が一気に上がった。

 先生が知らなかったのは、この論題を提案した当の私がまさしく同性愛者だったということである。身近な論題だからこそ、授業で提案したのだ。

 後になって、やはりそんな議題を提案すべきではなかったと反省した。私以外の同性愛者がいる可能性があるし、私が平気でも、反同性婚の意見が教室活動の一環として堂々と述べられることに傷つく人がいないとも限らない。そもそも、当時は二〇一一年だった。世界で初めて同性婚が実現する国(二〇〇一年、オランダ)が現れてから、もう十年経っている。同性婚が法制化した国からの留学生にとって、婚姻の平等はそもそも議論に値しないことで、いわば基本的な人権なのだろう。反対意見を述べること自体、人権感覚を疑われる。そんな議題で否定側に割り当てられたら、心理的負担はかなり高いと思われる。

 しかし、二十一歳の私はそこまで考えが及ばなかった。二〇一一年当時、日本であれ台湾であれ、同性婚は実現するどころか、社会的議論の議題にすら滅多に上がらなかった。あの頃の私にとって日本と台湾こそが世界のすべてなので、同性婚が法制化している国が世界にあることすら(知っていたことは知っていたと思うが、あまりにも遠い世界なので)意識にはなかったのかもしれない。なんて愚かで無知だったのだろう。ディベートの授業で同性婚法制化の是非というセンシティブな議題を提案することで、私はヘテロ中心主義の社会にささやかな挑戦状を突きつけた気になったが、結果的に自らの視野狭窄きょうさくっぷりをさらしてしまった。

 

 どれほど負担の重い授業であっても、留学生を対象にした日本語科目は一コマ(九十分)につき一単位しか与えられない。別科生に取れる単位数を目一杯取得するために、私は日本人学生も対象になるオープン科目(一コマにつき二単位)をいくつも履修した。留学生しかいない授業と比べ、こちらのほうがずっとチャレンジングである。本連載の第十一回で触れた石黒圭先生の授業もこの時期に取ったものだ。ほかには国語学者の笹原宏之先生の授業や、『源氏物語』の宇治十帖を原文で読む授業も取った。

 源氏物語の授業は文学部が開講するオープン科目で、私はサークルで知り合った文学部一年生の友人のKさんといつも一緒に出ていた。Kさんは埼玉県の実家から通っていて、通学時間は片道二時間だった。そんな長い通学時間も台湾では考えられないが、ある日の出来事が特に私の印象に残った。

 私もKさんも比較的勉強熱心な子で、いつも教室の最前列に座っていた。遅刻も欠席も滅多にしない。しかしその日、授業が始まってもKさんはなかなか来ない。講壇の上で、先生は浮舟の宿命について説明していたが、私はKさんのことが気になってしかたなかった。すると、Kさんからメールが来た。「ごめんね、授業は少し遅れる。電車の中で痴漢に遭っちゃって(汗の絵文字)」

 痴漢⁉ 日本の電車では痴漢が頻発するのは聞いていたが、身近な人が被害に遭うのはそれが初めてだった。Kさんのことが心配で、先生の話がほとんど耳に入らなかった。

 Kさんは三十分ほど遅れてやってきて、ごめんごめん、と小声で謝りながら私の隣の席に腰かけた。そして教科書を取り出し、いつも通り授業を聞き始めた。授業中は話しかけにくいので、私は授業が終わるまで待った。

「大丈夫だったの?」

 授業が終わり、私はKさんに訊いた。

 ところがKさんは、

「うん? 何が?」

 と、あっけらかんだった。

「痴漢に遭ったって」

 と私が言うと、

「あぁー」と、Kさんはようやく思い出したような表情になった。「大丈夫大丈夫、全然」

「駅員に突き出したの? 痴漢」

「いや、してない」

「えっ? してない? じゃ痴漢は捕まったの?」

「どうかな、捕まってないと思う」

「そんな……」

 私が一大事だと考えていた痴漢は、どうやらKさんにとっては騒ぐほどのことじゃないらしかった。遭ったらもちろん不愉快だし迷惑だが、相手を捕まえたり駅員に突き出したりやったやってないで揉めたりすることで時間を取られるのはごめんだと、そういう類のことだった。きけば、Kさんは高校時代にもよく痴漢に遭っていたという。特に何々線だと痴漢が出やすくてね、とKさんは平気な顔で説明した。

 そんなの日常茶飯事です、と言わんばかりのKさんの反応が私には衝撃的だった。被害者がそんな反応になるほど、日本では痴漢が頻繁に起こっているという現実が驚きだった。そんなのは慣れるもんじゃないでしょ、私が遭ったら絶対捕まえて駅員に突き出すよ、犯罪なんだから懲らしめてやらないと、と気の強い私は思った。

 しかし、後に自分が痴漢に遭った時(日本に住んでいる女性で痴漢に遭ったことがない人は一体どれくらいいるのだろうか)、言うは易く行うは難しというのを思い知った。触ったのを立証することも難しいし、問題化して注目されるのも嫌だし、何より、急いでいる時にそんなクズ人間に構いたいと、本当に思えなかった。時間を取られること自体が悔しいのだ。執念深い私でさえそう思ったのだから、我慢してやり過ごす人が多いのもうなずける。

 かくして、日本の痴漢問題の深刻さは、Kさんと一緒に取った源氏物語の授業とともに記憶に刻まれた。

 

 私が履修していたオープン科目のうちのいくつかは、「日本語教育学」のものだった。簡単に言えば、日本語を母語としない学生にいかに日本語を教えるかを研究する学問分野である。当たり前だが、日本人であれば誰でも日本語を教えられるわけではないし、日本人でなければ日本語が教えられないわけでもない。日本語を効果的に教えるのには知識と技術が必要で、対象(大人か子供か、日本在住か海外在住か、学習の動機と目的は何か、どんな学習スタイルかなど)によっても方法論が異なる。

 これは私と日本語教育学との出合いであり、この出合いは、後の大学院進学にもつながった大事な転換点となった。日本語教育学と、その基礎となる言語学/日本語学についてはまた改めて取り上げることとしよう。ここでは印象に残ったエピソードを一つ書くこととする。あまり愉快なエピソードではないのだが……。

 それは日中対照言語学の授業だった。対照言語学は、任意の二つの言語を共時的に比較することによって、その異同を明らかにする言語学の一分野である。このような比較は「対照分析」という。対照言語学で得られた知見は、誤用の分析や母語干渉の仕組みの解明など、言語教育に応用できるものが多い。

 本来なら、日中対照言語学は極めて興味深い学問分野のはずだ。日本語と中国語は千年以上の交流の歴史を持っており、語彙面のみならず文法面においても音韻面においても互いに多大な影響を与えてきた。この二つの言語の異同を明らかにすることで、中国語を母語とする日本語学習者、または日本語を母語とする中国語学習者への言語教育に応用できる余地が大きい。

 ところが、あの授業はお世辞にも面白いとは思えなかった。

 日本人学生も留学生も取れるオープン科目だが、三十人の受講生のうち、日本人は七人しかいなかった(普通、オープン科目は日本人学生が多数を占めるはずだ)。その上で、日本人の受講生はほとんど中国語ができず、留学生の日本語力も散々だった。

 前述したように、対照言語学は二つの言語を比較する分野だ。当然、その二つの言語についてある程度の知識と語学力がなければ、対照分析には到底取り組みようがない。そして残念ながら、対照言語学に取り組めるだけの語学力を備えている受講生は、あの授業にはほとんどいなかった。

 先生はどの大学にも何人かはいそうな、歳を取って耳が遠くなり、生徒を厳しく指導するだけの気力はもうないので授業は放任主義だが、とっくにテニュアを取得しているので立場が保障されているおじいさんだった。かつては目覚ましい研究業績を残し、専門分野においてはそこそこ深い知識を備えているかもしれないが、今や歳に負けて、授業をこなすにも「力不從心意余って力足らず」という感じの先生である。

 さて、授業で課された課題は、いくつかのグループに分かれ、それぞれ中国語のテキストを一つ選び、日本語に翻訳しようというものだった。翻訳の過程で対照言語学的な発見が得られると先生は考えていたのだろう。

 テキストを決める段になって、文学好きの私はもちろん小説を提案し、何人かの作家の名前を挙げた。きゅう妙津みょうしんしゅ天文てんぶん朱天心しゅてんしん白先勇はく せんゆう――しかし誰も聞いたことがない。グループでは台湾人は私だけで、あとは中国人と日本人だった。私が挙げた名前はみな台湾文学の作家だから、知らないのも無理はなかった。

 私は邱妙津を推し、彼女は台湾のレズビアン文学の代表的な作家だと紹介した。すると、一人の中国人男性は嫌な顔になり、「もう少し普通、、テーマにできないの?」と言った。普通、、って何? と突っかかりたかったが我慢した。

 結局、張愛玲ちょうあいれいの小説に落ち着いた。翻訳作業自体は楽しかったが、それを授業で発表しようということになると、これはもうグダグダの一言に尽きる。語学力が圧倒的に足りない学生が翻訳ごっこをして「成果」を発表したところで、聞く側にとって得るものはほとんどなかった。どんなにひどい「訳文」を見せられても、歳を取った老先生は厳しく指摘したりせず、ただ半目で頷くばかりだった。勉強にならないのだから当然の成り行きとしてみんなサボり始め、学期の途中には受講生の半分しか出席しなくなった。私のグループに関しては、一人はしょっちゅうサボり、一人は人間蒸発がごとく雲隠れしたので、課題は残りの三人に――主に私に――押しつけられていた。

 仕事ができない人と仕事をする時に必要な忍耐力がたっぷり鍛えられる授業だった。これもまた修業時代の洗礼なのだろう。とはいえ、そんな忍耐力は今もあまり持ち合わせていない自覚があるのだけれど。

※毎月1日に最新回を公開予定です。

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