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言語というフィルター――李琴峰「日本語からの祝福、日本語への祝福」第25回

第25回 言語というフィルター

 

 言語学習にある程度の深さでコミットした経験を持つ人は大抵、とある問題に遭遇したことがあるのではないだろうか。すなわち、「その言語に内在する偏見を、どこまで受け入れて内面化し、どこを意識的に拒否して修正するか」という問題である。

 言語を使うのは人間であり、特定の言語は、特定の人間集団によって使われながら形作られてきた。人間が自分たちの身の回りの世界をどのように見、どのように認識するか/してきたかによって、「世界観」が築き上げられる。特定の世界観を持つ人間が情報伝達をする際に用いるのは言語なので、彼らの持つ世界観はもちろん、言語にも組み込まれる。「言語は道具に過ぎない」という人たちがいるが、これには賛同できない。言語は道具みたいなニュートラルなものではなく、いわば世界を見るフィルターのようなものだ。特定のフィルターを通して世界を見た時、ある部分は解像度が高くなるが、別の部分は解像度が低くなったり、捨象されたりする。それだけでなく、言語は時には曲面鏡のように、映し出す像を歪ませる。

 ところで、私はここで「曲面鏡」と書いたが、実際に頭に浮かんだのは中国語の「ハーハージン」という言葉である。「哈」は笑い声を表す中国語の漢字なので、直訳するとさしずめ「ハハハの鏡」になるだろうが、要は凹面鏡と凸面鏡を組み合わせた鏡のことだ。そういう鏡に映る像は歪んで滑稽に見えて笑いを誘うので、中国語では「哈哈鏡」と名付けられた。私は「哈哈鏡」が書きたくて、日本語で何と言うんだろうと思って調べたところ、どうやら一番しっくり来る訳が「曲面鏡」なのでそのように書いたのだが、それにしても「哈哈鏡」と「曲面鏡」はまったく質感の異なる言葉ではないだろうか。同じものを指しているはずなのに、見方と発想は完全に異なっているのだ。

 新しい言語に出会い、習得すると、その言語に内在する独特の世界観に目を開かされる思いをすることがある。アラビア語で「こんにちは」に相当する挨拶「アッサラーム・アライクム」は直訳すると「あなたの上に平安がありますように」で、未来の事柄を述べる時に使うフレーズ「インシャアッラー」は「神の思し召しのままに」だ。ウイグル語の別れの挨拶「フダーイムガ・アマーネット」は「あなたを神に託したよ」の意味である。いずれもこれらの言語が使われてきた文化圏における神の身近さを実感させる言葉だ。中国語では儒教の二元論的な宇宙観が対句や四字熟語の多用に反映されているということは第十三回で述べた通りである。これらの言語を母語とする人にとっては何の変哲もない日常的な表現に過ぎないが、初めて出合った人は、まったく違うフィルターを通して世界を見ているような新鮮味を感じるだろう。

 日本語との出合いも発見の連続だった。日本語というフィルターを新たに手に入れることで、私は世界を違う角度から見ることができた。それまでは同じだと思っていたものや感覚が、実はまったく違うものだと気づいた。

 例えば「人参」と「大根」。中国語では前者は「ホンルオブオ」で、後者は「バイルオブオ」だから、同じものの色違いだろうと思っていた(ちなみに、人参は「フールオブオ」とも言い、「胡」は異民族の呼称なので中国語圏の人たちにとっては外来の食物であることが名称で強調されている)。「さじ」も「スプーン」も「レンゲ」も「おたま」も、中国語ではことごとく「タンチー」として区別されていない。レンゲを所望したつもりなのにスプーンが出てくることが普通にあるし、医者が諦める時に投げるのはどれでも構わないわけだ。「マシュマロ」も「綿菓子」も、中国語では「ミェンホアタン=綿のようなふわふわしたお菓子」なのでやはり区別されない。

 あるいは、「かゆい」も「くすぐったい」も、中国語ではどちらも「ヤン」である。実際にはかなり異なる感覚なのに、中国語では同じ感覚としてまとめられているなんて、今思えば不思議だが、日本語を習得していなければその不思議さにも気づかなかったのだろう。「サウヤン(『かっそうよう』の『搔痒』と同じ字だ)」という言葉は「かゆいところを引っ掻く」という意味もあるが、「くすぐる」という意味もある。一応、曖昧性をなくして前者を「ジュァウヤン」、後者を「ハーヤン」と言う表現も存在するが、それにしても紛らわしい。

 英語では「肩凝り」という概念がないとよく言われる。しかし当然、英語話者は肩が凝らないというわけではない。では英語で肩凝りは何と言うかというと、端的に「pain(痛み)」である。中国語では「肩凝り」は「ジェンバンスァン」と言うが、この「スァン」はかなりトリッキーな表現だ。味を表す「スァン(酸っぱい)」とは同源だろうが、肩が「酸っぱいような痛みを覚える」すなわち「肩凝り」なのだ。「痠」という表現は肩凝りだけに使われるわけではない。腰が痛いことを「ヤウスァン」と言い、歩きすぎて足が痛いことを「トゥエスァン」と言う。およそ筋肉痛のような痛みは、中国語では「酸っぱい痛み」として捉えられる。どの言語を話そうと人間の身体は同じはずなのに、「かゆい」「くすぐったい」「肩凝り」「腰痛」といった身体感覚の捉え方が言語によって違うのは面白い。

 身体感覚と同じで、感情の捉え方もまた異なる。日本語の「切ない」「やるせない」「やりきれない」「もどかしい」「歯がゆい」「面はゆい」「こそばゆい」「微笑ましい」といった心的動きを表す形容詞は、中国語ではなかなか完璧な対訳が見つからない。日中辞典を引くとそれなりに翻訳が出てくるが、どちらの言語も分かる人からすれば、どの訳語もしっくり来ない。同じ人間なので中国語話者にはこれらの感情がないというわけではないが、日本語とは異なる仕方で感情を切り分けているのだ。もちろん、中国語にしかない感情の表現もある。「ウェイチュー」という言葉は日本語ではなかなか言い表せない。強いて説明するならば「不当な待遇を受けて不平不満に思ったり、悔しい思いをしたりする」といったところだろう。

 言語に組み込まれている世界観は、その言語の使い手たちが太古の時代にどのように世界を捉えてきたかを反映していることが多い。「あめつち」という語から分かるように「天」は「あめ/あま」と読めるが、「天からの水=雨」ということで、「雨」と「天」は同源であるという説がある。太古の人間は雷光が稲を実らせると信じていたから、雷光は「稲妻(いな ずま)=稲のつま(古い日本語では夫婦や恋人の仲にある相手は男女関係なく「つま」と言う)」と呼ばれるようになった。「黄昏たそがれ」の語源は「かれ=彼は誰だ」であり、日が暮れて空が暗くなり、相手の顔が見えない時に発されたこの疑問文は、転じてその時間帯(夕方)を指す語になった。「黄昏時」の対義語「かわたれ時」は「明け方」の意味で、語源は「たれ」である。新海誠監督のアニメ映画『君の名は。』は「かわたれ時」の音を入れ替えて「片割れ時」という語を作り出し、「黄昏時」と同じ意味で使った。「かわたれ時」の語源「彼は誰≒彼の名は?」を考えると、「君の名は。」は実によくつけたタイトルである。

「黄昏時」と同じくらいの時間帯を指す言葉に、「逢魔おうまが時」がある。字面から「魔物に遭遇する時」と解釈できるが、語源は「おおまがとき=大きな災禍が起こりやすい時」である。古代の人たちにとって、日が暮れた宵闇はもうりようが出始めるまがまがしい時間帯であることが、この言葉から分かる。「禍」と言えば、この言葉は「曲がる」と同源で、本来は「なお」の対義語で「まっすぐではない」の意味だが、転じて「よくないこと」「邪悪なこと」「災い」の意味になった。現代の英語で「まっすぐストレートではない」ことが「同性愛者」の意味になるが、「まっすぐではない」という性質を何かよくないとされる事象に結びつける発想は同じだ。それにしても、英語と日本語を合わせて考えると、「異性愛者=ストレート=まっすぐ」「同性愛者=曲がっている=禍」という構図になるが、まるで同性愛者は何か大きな災禍をもたらす恐ろしい力を持つ存在かのようで、なかなか愉快な発想ではある。邪神か何かだろうか。

 言語には使い手たちが長い年月を通して培ってきた世界観が組み込まれていることは前述の通りだが、そうした世界観が現代的な道徳観・倫理観・人権観念にそぐわない場合、それは好ましくない偏見として扱われる。同性愛者を「ストレートではない」とする例はまさにそれである。

 日本語では「海外」という言葉は「国外」とほぼ同じ意味で使われるが、これは島国である日本にとって「海の外」がほぼイコール「国の外」だからだろう(東京から沖縄へ行っても海外旅行にはならない)。また、言語を数える時に「一か国語」「二か国語」というふうに「~か国語」という助数詞を違和感なく使う人が多いが、よく考えたら、言語と国の境目はほとんどの場合一致しないのだから、本来かなりおかしな表現のはずだ。私が「李さんは何か国語喋れるの?」と訊かれる時いつも困るのはそのためである。さしずめ私に話せる言語は、中国語、日本語、台湾語、英語の四言語で、話せるわけではないが少し習ったことのある韓国語も入れれば五言語になるが、これらの言語のうち、少なくとも中国語と台湾語、英語はどこか一つの国の国語であるというわけではない。例えば中国語圏は中国だけではないし、中国に住んでいる人はみな中国語が話せるわけでもない。英語だって、世界中の多くの国で共通語になっている。言語の境界線を国の境界線になぞらえた「~か国語」という助数詞はかなり無理のある表現と言わざるを得ないが、それが日本語でかくも一般化しているのは、少なくとも近代以降、「日本国の領土」と「日本語が話される土地」の境界線がおおむね一致しているという、言語自体ではなく人間側の事情によるもので、偏った世界観の反映にほかならない。

 日本語圏においても中国語圏においても、男尊女卑の価値観は古くから支配的だったので、そうした世界観も当然言語に反映されている。夫婦の呼称において、日本語では妻は夫を「主人」と呼び、夫は妻を「家内」と呼ぶのはその例だ(あるいは他者の妻や夫を「奥さん」「旦那さん/ご主人」と呼ぶのも同様である)。中国語でも、妻は夫を「ワイズー(外で働く人)」と呼び、夫は妻を「ネイレン(家の中にいる人)」と呼ぶ表現が存在する。このような伝統的な性役割は近代的な男女平等の価値観にそぐわないということで、中国の中国語では一時期言い換え運動が起こり、妻も夫も男女関係なく「アイレン(愛する人)」と呼ぶようになった(この用法は台湾の中国語にまでは普及していないため、中国特有の表現である)。

 日本語は性差が目立つ言語であると言われ、男性と女性とで、用いる言葉は語彙・文法面においても音韻面においても大きな違いが見られる。人称代名詞から、動詞の活用、終助詞に至るまで、もっぱら男性が用いるマスキュリンとされる表現と、女性が用いるフェミニンとされる表現が存在する。

 すると、日本語学習者は葛藤しなければならないわけである。とりわけ日本語ほど性差が大きくない言語を母語とする人にとって、どこまで日本語の性差に順応するのか。日本語教育の場では、「動詞の命令形(走れ)と禁止形(来るな)は口調の強い男性的な表現なので、女性は使わないほうがいい」と教えられることがある(私もそのように教わった)。コミュニケーションのトラブルを未然に防ぐ観点からそういう教え方は理にかなっているが、別の観点(性差を押しつけているのではないか? 性役割を強化しているのではないか? そういう教え方で学習者は自分らしい表現の仕方を身につけることができるのか? など)からすると、必ずしも理想的とは言いがたい。当たり前のことだが、女性でも命令形や禁止形を使うことがある。軍の中で女性の上官が部下に指示を出す時は命令形を使うこともあるだろう。仲のいい友人同士のざっくばらんな冗談やじゃれ合いで、命令形や禁止形が使われることもあるだろう。あるいはマスキュリンなジェンダー表現をするレズビアン(いわゆる「ボイタチ」)は、「僕」や「俺」といった一人称を使ったり、男性的な言葉遣いをしたりすることもままある。学習者が教科書的な原理原則を学び、実際の言語使用に接しては戸惑い、やがて自分らしく感じられる表現を育て上げるまで、往々にして長い時間を要する。

 言語を形作ってきたのは特定の人間集団の中でもマジョリティの人たちなので、マジョリティの無意識バイアスは往々にしてそのまま言語に反映され、文化の中で温存される(例えば「看護婦」「保母」「婦警」など)。マイノリティへの軽視や強い侮蔑が込められる言葉もある(「女流」「おかま」「ホモ」「レズ」)。

 このような無意識バイアスや偏見、侮蔑、差別などが組み込まれている表現を意識化し、それを言い換えようとするのが「ポリティカル・コレクトネス(ポリコレ)」と呼ばれる運動である。看護の仕事をするのは必ずしも女性ではないので看護婦ではなく「看護師」に、警官や実業家は必ずしも男性とは限らないので「policeman」「businessman」ではなく「police officer」「business person」に言い換えるのがその例だ。「女流文学」ではなく「女性文学」、「レズ」ではなく「ビアン」か「レズビアン」、「両刀使い」ではなく「バイセクシュアル」、「性転換者」ではなく「トランスジェンダー」などの言い換えも同じだ。

 これらのポリコレ的な言い換えは、無意識バイアスを意識の表層に掘り起こし、言語を変革することで社会と文化を変革するという意味で有用である。しかし、そうした言い換え運動にはおのずと限界があることも意識しなければならない。言語には長い年月を通して人間の世界観が組み込まれている以上、何らかの偏見が内在するのは宿命のようなものだ。そのような偏見は言語全体に遍在する根本的なものであり、いくつかの単語を言い換えるだけでは解決しない。

 台湾語には「オーローボッゼイ」と「アサブル」という言葉がある。いずれも「でたらめ」「まともじゃない」といったマイナスな意味の言葉だが、前者の語源は新疆しんきようの都市・烏魯木斉ウルムチで、後者の語源は日本語の「朝風呂」である。新疆は台湾から見たら途方もない辺鄙へんぴな場所にあり、また漢民族から見たら文化の低い「化外けがいの地」とされていたため、「烏魯木斉」という地名は台湾語では「でたらめ」という意味になった。「朝風呂」が台湾語に取り入れられたのは日本統治時代だが、朝にお風呂に入る人は朝帰りの人(夜遊びにふける人)が多いので、遊び人を罵る言葉になった。これらの言葉はいずれも偏見にまみれているが、それでも特定の人間集団がどのように他者を眼差し、他者に影響されてきたかの歴史が刻み込まれている。こんな言葉までことごとく言い換えたり、禁止したりするのは現実的ではない。そもそも漢字を使っている時点で、とんでもない偏見を日々再生産しているのだ。「女」や「母」といった漢字の成り立ちは、第二十二回で述べた通りである。

 ところで、日本語のポリコレ用語には英語や中国語にない、もう一つの問題がある。カタカナ言葉/外来語の多用である。古くから日本語に根差した和語や、一つひとつの漢字がしっかり意味を持つ漢語とは違い、主に西洋語の音だけ、上辺だけを写し取る「外来語」は、どうしたって無色にして無味無臭、ゆえに無害のイメージになる。無味無臭無色無害だから、マイナスなイメージをまとう古い言葉を言い換えるのにぴったりというわけだ。

 第百七十回芥川賞受賞作、九段理江の小説『東京都同情塔』は、ポリコレの時流における外来語の多用の問題を取り上げ、疑問を呈している。小説では「犯罪者」のポリコレ的な言い換えとして「ホモ・ミゼラビリス(同情されるべき人々)」、刑務所の言い換えとして「シンパシータワー」が用いられる世界が登場する。誰も不快な気持ちにさせない生成AI特有の無味乾燥な文体と、無色無害のカタカナ言葉を通じて、著者は言葉について、あるいは日本語の変容について、自分なりの思索を繰り広げている。

 とはいえ、外来語の多用は別にポリコレだけの問題ではない。いわゆる「ビジネス用語」も外来語を多用するが、その根底にあるのもまた、他者との摩擦を減らすためになるべく無難な言葉を使おうという動機であり、そういう意味ではポリコレ用語に似ている。「証拠」「根拠」と言わずに「エビデンス」と、「仕事」「課題」と言わずに「タスク」と、「しなければならない」「必須」と言わずに「マスト」と、「報酬」「奨励」と言わずに「インセンティブ」と、「柔軟に」と言わずに「アジャイルに」と言うのも、まさしくこれらの言葉が纏う無色無害な(ゆえに客観的・理知的だという錯覚すら与えられる)イメージのためである。ほかにも、アグリー、アジェンダ、アサイン、イニシアチブ、ジャストアイディア……挙げ出したらキリがない。もしビジネス用語には何の疑問も呈さないのにポリコレ用語に対してだけ文句を言いたがる人がいれば、やはり自分自身の言語観の偏りを顧みたほうがいいかもしれない。

 ポリコレ批判のクリシェとして、「それはただの言葉狩りだ」というものがある。しかし、差別用語を忌避するポリコレ運動の時流を毛嫌いするのもまた、言葉の本質を理解していない行為である。様々な理由によって特定の言葉の使用を避けたり、言い換えたりする現象は、何も最近急に始まったものではない。昔からある普遍的な現象である。その一例が、「忌み言葉」というものである。

「するめ」の「する」は「金をする(失う)」を連想させ縁起が悪いので「あたりめ」と言い換えたり、「梨」を「ありの実」と言い換えたりするのが「忌み言葉」の典型例である。結婚披露宴が終わることを「お開き」と言うのも同じだ。

 また、人間は不潔とされる事物を指し示す際に、婉曲えんきよく的な言い回しはないかとあれこれ創意工夫を凝らす傾向がある。女房ことばで「生理」を「さしあい」と言い換えるのはその例である。そうした言い換えの最たる例はむろん、排泄に関するものだ。排泄物を表す言葉に「屎」「尿」があるが、さすがに直接すぎて日常的にこれを使う人はほとんどいないのではないだろうか。より婉曲的な表現に、「大便」「小便」がある。「便」という字は、本来「順調であること、平らであること、障りのないこと」という意味なので、「大便」「小便」「便所」はすでに遠回しな言い方だったが、時代が下るとその「遠回し感」も薄くなり、人々はこの表現をも忌み嫌うようになり、更なる遠回しな表現を求めた。「うんこ」「おしっこ」「お通じ」「大のほう」「用」など。排泄をする場所も、「かわや」「便所」「トイレ」「お手洗い」「化粧室」「パウダールーム」というふうに、どんどん消臭されていく。

 時代の流れや場の雰囲気、あるいは価値観の変化など、何らかの理由で使いづらいと感じる言葉を、よりニュートラルに感じられる別の言葉に言い換えるという意味では、ポリコレ用語もビジネス用語も忌み言葉も根本的には変わらない。どれも日本語の一位相である。そう考えると、ポリコレの風潮を無闇に毛嫌いする必要もないのではないだろうか。結局のところ人間も言葉も生き物なので、人々の意識の変化は言葉にも変化をもたらすのが自然な流れである。

 むしろそれより大事なのは、差別は言葉だけの問題ではないと知ることだ。「屎尿」を「大便/小便」「うんこ/おしっこ」と言い換えたところでその内実が変わるわけではないように、「ホモ/レズ」を「ゲイ/レズビアン」と言い換えたところで、「障害者」を「障がい者」と書き換えたところで、社会に内在する差別的な構造が変わるわけではない。そういう意味で、ポリコレ的な言い換えは言語というフィルターの曲面に少し手を加えただけの、意識喚起の手段にすぎず、目的ではないのだ。

※毎月1日に最新回を公開予定です。

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