北尾トロ『佐伯泰英山脈登頂記』第21回
第10峰『古着屋総兵衛影始末』『新・古着屋総兵衛』其の壱
家康の命を受けた一族が江戸を守り、海を攻める
巧みな設定で全11巻を駆け抜ける『古着屋総兵衛影始末』
表の貌は老舗の主、裏の貌は江戸の諜者
『古着屋総兵衛』シリーズは、全11巻の『古着屋総兵衛影始末』、全18巻の『新・古着屋総兵衛』からなるアクション連山。佐伯作品の中では物語の設定が強固で登山もしやすいが、こぢんまりとまとまるのではなく、その枠にとどまらない自由奔放さを併せ持つ個性派時代小説でもある。『新・古着屋総兵衛』との関係も単なる正編、続編ではなく工夫が凝らされている。
まずは『古着屋総兵衛影始末』から取り上げていこう。ここで佐伯御大は、時代小説の定番のひとつである〝表向きは普通の人だが、じつは裏の貌を持つ主人公”を使ってきた。
これまでにも書いてきたように、作者は主人公を武士や江戸の庶民に固定せず、その中間にさりげなく位置づけるのを好むが、本作では冒頭で、主人公とその一党が表と裏の貌を使い分けることになった経緯が明かされる。なんと、役割を命じたのは死の床にある徳川家康だったのだ。
家康は見舞いの客を遠ざけると、日本橋鳶沢町に古着問屋を商う大黒屋総兵衛を呼び、新たな役目を言い渡す。総兵衛こと鳶沢成元は、西国の荒くれ浪人として一族とともに暴れまわっていた男。囚われの身となって家康に説得され、古着屋として江戸城からほど近い一角に店を構え、商人の貌をした影の諜者として幕府に尽くしていた。
家康は総兵衛に、自分が日光で永遠の眠りにつく前に、亡骸が安置される久能山を鳶沢一族の所有地とし、江戸では大黒屋を維持し、これまで同様に闇の動きに目を凝らして警護を固める任務を続けよと命じる。
〈「久能山裏手の隠れ里に隠棲させる分家一族には余の墓所の裏門衛士を命じる。じゃが、それは表の仕事。この隠れ里において武芸を磨き、徳川存亡のときに江戸にはせ参じる隠れ旗本が真の役目、江戸備えの影の軍勢じゃ」〉
徳川家の危機を阻止せよ、という厳命である。家康は家臣たちを信じるどころか、自分がいなくなったら必ず権力争いが起き、徳川家の危機が訪れることを見越して保険を掛けたのだ。シビアな家康は総兵衛さえも100パーセント信用していない。鳶沢一族の任務を知るのは大御所様(家康)だけかと問う総兵衛に、策士らしい答えが返ってくる。どちらかが裏切れば他方の知るところとなり、無傷では済まないというプレッシャーを与えるために。
〈「今一通の書付けは本多正純に預けおく。二つの書付けにはわしの花押が割印となっておる。総兵衛、そなたが死ぬとき、総兵衛を世襲する者のみに渡せ。正純に預けたもう一通も正純が信頼する譜代の臣へ受け渡される。そうやって、秘密を継承していくことになる。時いたらば相協力して働け。そなたらは、この家康の直属の臣下じゃ。わしの命ずること、分かったな」〉
このようにして、総兵衛が率いる鳶沢一族は徳川家を秘かに守る影の軍勢を形成し、商人と武士の貌を持つ、特別な存在となった。もちろん、このような史実はなく本作中でのみ通用する設定。「こんなアイデアを思いついたので書こうと思いますがいかがでしょう」と、物語の土台となる仕組みを伝えるような感じだ。
家康は、自分の死後も鳶沢一族が徳川家の力になれるように生活の場を保証しただけでなく、幕府内で総兵衛と協力関係になる人間を用意した。そちらは世襲ではないため、本多正純の死後はその役割を誰が担うかわからないという手の込んだ仕組み。幕府内のキーマンを巡っての攻防など、謎の存在としてそれは生かされることになる。とはいえ読者ファーストの佐伯泰英、読者を混乱させる目的ではないので安心してほしい。
さて、いつもながらの手際の良さで事の起こりが示され、抵抗なく物語の世界へ。時代は家康の死から85年後の元禄14年(1701年)。将軍は5代綱吉、大黒屋の主である総兵衛は6代目になっている。この間、家康が初代総兵衛に与えた使命はしっかりと継承され、鳶沢町は富沢町と名を変え江戸随一の古着問屋の町として定着した。大黒屋は創業の場所にデンと構えて動かず、富沢町の老舗としてその名を知られる存在になっている。
主人公の本拠地が、店舗と住居兼用の広大な建物であるのは、これまで読んだ作品にはなかったところ。他の作品では主人公をサポートする役割を担いがちな大店の主人がここでは主役なのだ。ちなみに、大黒屋は鳶沢一族が仕切っているので、浪人に用心棒を依頼するようなことは起きない。
私がうれしくなったのは、与えられた役割を果たすべく、代々の蓄財を注ぎ込んで完成された商・武一体型の建造物である。大黒屋は表から見れば格式ある古着問屋なのだが、秘密の通路で地下へ降りると武器庫や道場まで備わり、外部からはわからない船着き場まであるのだ。
オヤジ読者なら、子ども時代に夢想した〝秘密基地”を思い出すのではないだろうか。私もその1人だから、地上が商人、地下が武家という大黒屋の造りには、金沢の忍者屋敷を訪れたときのようなときめきを覚えた。100年近く商売しながら、こっそり改築を重ねて完成された地下空間であることは、代々の総兵衛が家康の命を守ってきた証となっている。
このように、徳川家を裏から支えるべく商人の貌を持つようになった武家集団が鳶沢一族となるのだが、心にとどめておきたいのが古着屋としても江戸を代表する老舗に成長していることである。総兵衛は武家集団のトップでありつつ大店の主でもあるのだ。
この設定に意味がないはずがない。コワモテの武家と穏やかな商人の間にあるギャップを作者がどのように使いこなしてくるかにも注目してページをめくり始めた。
序盤の印象を一言でまとめるなら〝安定感抜群”になるだろうか。表の貌と裏の貌で総兵衛たちの雰囲気ががらりと変わっても、行動の起点が常に大黒屋であるせいか、早い段階からこのギャップに慣れていけるのだ。主人公の本領が剣術の冴えで発揮されるのではなく、リーダーとしての統率力に重きが置かれていることも関係があるだろう。
総兵衛の手足となる鳶沢一族で構成された大黒屋の面々も、大番頭の笠蔵をはじめ腕も立てば知恵も働く面々が勢ぞろい。剣術を駆使するのは総兵衛など数名だけで、あとは情報収集や忍び込みの名人、縄の遣い手など、役割分担して敵の攻撃を防ぎ、追いつめていく、一族ならではのチームプレーが基本となる。
誰が徳川家を守る大黒屋と対立するのか。シリーズを盛り上げるには強い敵役が欠かせないが、特定の敵を作るだけでは単調になってしまう。そこをどうするのかと思っていると、古着屋のはずなのに事件が起きると暗躍する大黒屋の役割に、幕府内の有力者が疑念を抱いて迫ってくるエピソードを取り入れてきた。この時代になると、大黒屋がただの古着問屋ではないことは周囲の暗黙の了解事項になっているのだ。
商人のふりをしているが、本当は武士ではないのか。本性を隠す理由があるとしたら何なのか。徳川家を影で護る存在なのではないか。だとしたら、権力者側に大黒屋とつながる人物がいるはずだ……。
幕府内での出世をたくらんだり、悪事に手を染めている有力者たちにとって、大黒屋は目の上のたんこぶ。あの手この手でつぶしにかかり、秘密を知られてはならない総兵衛たちとの暗闘が、つぎつぎに発生。まんまと乗せられたと知りつつ読むのをやめられなくなってしまう必勝パターンを、早い段階で確立したことが本シリーズを成功に導いたと思われる。
※ 次回は、10/5(土)更新予定です。
見出し画像デザイン 高原真吾(TAAP)